あまりに弱い自我、借り物の現実

『自明性の喪失―分裂病の現象学』 W.ブランケンブルク

「だれでも、どうふるまうか知っているはずです。だれもが道筋を、考え方をもっています。動作とか人間らしさとか対人関係とか、そこにはすべてルールがあって、だれもがそれを守っているのです。でも私にはそのルールがまだはっきりとわからないのです。私には基本が欠けていたのです。だからうまくいかなかったのです。ものごとはひとつひとつ積み重ねていくものなのですから。」(P131)

 精神分裂病(現在の呼び名は統合失調症)と聞けば、わが国でのニューアカデミズムブームの時に浅田彰がベイトソンのダブルバインド仮説を大々的に取り上げていたのを思い出す人がいるかもしれない。私はそれより世代が少し後なのだが、ダブルバインド仮説に触れたのは浅田氏の何らかの著書がほぼ初めてということだったと思う。しかし、あんまり説得されなかった。その後ご本尊と言うべきかベイトソンの『精神の生態学』も読んだが、アルコール中毒患者や国によるジェスチャーの違いなどの話は面白かったけれど、ダブルバインド仮説についてはやはり説得されなかった。むしろこの仮説には精神分裂病に対する何か本質的な説明が欠けているように思われた。その後たまたま古本屋で見つけた『精神分裂病と家族』という古典を二束三文で買い、似たものとして"Pseudomutuality"仮説の存在も知ったが、これまたピンとこない感じだった。いずれにせよ当時既存の心因説は、私としてはよく分からないままに、今日どれも時代遅れになってしまっているようだ。
 この何日か、ブランケンブルクの『自明性の喪失』を読んでいて、この本は大学時代に大学図書館で一度は手に取ったということを思い出した。同時に当時本の内容が殆ど理解できず投げ出したことも思い出した。ブランケンブルクの精神医学者としての理論的立場が難解と言われる現存在分析にあったことが大きく影響していたと思う。自分として何がましになったのか不明だが今回は何とかかんとか読み果せた。
 敢えて症状の乏しい寡症状性分裂病を研究することによって、むしろ精神分裂病の本質としての「基礎障碍」の領域に迫ろうとすることに著者のエネルギーは割かれている。症例としてはアンネ・ラウのケース一つだけが引かれている。現象学における世界存在に対するエポケー手法の援用によって、精神分裂病者の「この世界に根を下ろしていない感じ」に迫ろうという試みが、本書全体において梃子のような役割を果たしている。
 ところで私は読みながら、現存在分析的手法というものにかなりの違和感を覚えた。まず超越論的自我というものが非常に怪しい。無論方法的懐疑のように、真実に迫るために敢えて採用された方便ではあるとしても、そのような方法を採ること自体の是非が十分問われていないように思う。だから倒錯としての超越論的自我ということを思わないでもなかった。幾ら「方法」であることを強調しても、「この世界の外部」を想定することに付きまとうかもしれない幼時に失われた全能感を機軸とする観察者自身の未熟性の包含というものが疑われる。「この世界」に外部があるかどうかは未定である。従って、エポケーは、そう思えば勝手に出来るとしても、それを方法として固定化してしまうことは不当な特権を自己に与える行為かもしれないのだ。世界に対する判断を留保するという行為が人間の「恣意の聖域」に属するように思い過ごしがちであることから来る自己欺瞞であるように思う。実際は聖域などなくそれも予め「世界」の一部であるはずだ。
 現象学そのものを敵に回すつもりはないし私の不勉強によるところも多々あろうが、現在哲学そのものの終焉が叫ばれる理由として、この種の長年の澱みたいな哲学側の欺瞞が暴露されたということもあるのではないだろうか。しかし、このことをここで深追いしても仕方がない。
 本書では遺伝子的要因と環境要因を巡る諸説が示唆されてはいるが、必ずしも分裂病の原因面に対し深く焦点が当てられてはいない。私は読み進めながらベイトソンのダブルバインド仮説がなぜ駄目なのかを自分なりに言語化しようとあれこれ考えていた。思い付いたのは例えば以下のようなことだ。
 分裂病者の壊滅的なまでに脆い自我というものが、おそらくは分離個体化から思春期の周辺で形作られるものだとするなら、子供の自我に恐怖するような親が悪意なく長い時間を掛けてその芽を摘み採り続ける異常な環境において成立するかもしれない。無論子供の側が遺伝子異常を含めた先天的な傾向によって自我の成熟を一方的に放棄するような場合も想定しうるわけだが、今は横に置き敢えて環境因に絞って考える。つまりベイトソンが間違ったのだとすれば、「親の側が表面では相手に自立を望みながら本心では強くそれを否認している」というような理解の仕方をしてしまったからではないか。おそらく実態としてそうではないのだ。最初から自我のみを破壊の標的とするなら、むしろそれ以外の事柄に関して相手を否定する理由は特にない。自我を持たずにはよく自立・成熟しえないと思うのは健康な心の持ち主であるが、彼らはそうではないのだ。あるいはその矛盾の辻褄を自分があわせる必要はないと考えているのかもしれない。いずれにせよ自我を持たずに満足して生きるわが子こそが望ましい、と。
 例えば人生上に激しい欲求不満を抱えるタイプの親が、子供に対する期待とは名ばかりに、子を媒質として世界全体を自分の中に取り込みたいと妄想するかもしれない。そのためには子は独自の自我を持たない操り人形のような存在でなければならない。あるいは、親子関係において闘争的だが弱い自我をしか持たない親が子が普通レベルの自我を持つことにも恐怖するということもあるかもしれない。また子を扶養することがあまりに重荷で、自分の殺意を子の自我に投影して見出すケースもあるかもしれない。子に自我があってもらっては困るケースは色々想像できる。
 確かにこれらによって必然的にダブルバインド状況は生まれるかもしれない。しかしながら、ある人間関係のうちにいびつな人間把握がもたらされれば同じくまったく容易にダブルバインド状況は発生しうる。これは私が最初にダブルバインド仮説に触れた時に抱いた疑念そのものでもあるが、「異なる次元間での矛盾するメッセージによる混乱」などというありふれた条件だけで人があそこまで荒廃するとは到底思えない。自我を破壊するプロセスを巡って幾つかの局面がダブルバインドに該当するように見えたとしても、そんなことは少しも本質的なことではない。本質的なことはこの種の親が一貫して明確に子の自我を破壊しようとしているということに他ならないと思う。
 ただしそれは親が自覚的な悪人であることを必ずしも意味しない。
 子の自我を破壊する方法とはどのようなものなのだろう。まず人は自他の区別が曖昧な時期からそれがはっきりして精神的に自立したと言えるまでの期間、少しずつ自我を補強しながら世界を自分にとっての世界として再構成してゆくものだと思う。それはある種地道な自と他を峻別するマーキング作業のようなものではないだろうか。その過程において本来「自」として区別されるべきものが悉く「他」とされた場合人はどのような成長を遂げるか、というのが統合失調症(旧称精神分裂病)のモチーフではないかと私は思うのだ。方法としては結局は何らかの脅迫によって「自」を「他」と信じ込まされるのだろうが、それが全く虚偽の認識であるかどうかというのは、主体のありかの問題として、確かに非常に微妙な面があるのだと思う。例えば、プラモデルを完成させるなど子供なりの達成を見てその経験の主体が子供本人にあるとするのがおそらくは普通だ。しかし生み育てプラモデルを選び買い与え作ることを許したのは親だ。もっと極端なことを言えば、「今は殺さずプラモデルを作らせている」と表現すれば分かりやすいだろう。家庭内で絶対的強者としての親は子をいつでもどうすることも出来る。その生殺与奪権が誰に帰属しているかという問いが絶え間なく前提とされ続けるとき、子は「自」とすべきことが皆無に近いことを感じ取るのだと思う。抜け殻のような自我に借り物の現実が対応したような子供が出来上がる。思春期以降に訪れる社会的な意味での自立の時期において、人は実際に自分の判断を行使して自分の人生を生き始めるだろう。しかしある青年はその時、他の青年達とは違って、自分には自分と呼べるものが何もないことに気付く。

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