幸福な同床異夢とそうでない同床異夢について

 私は最近Linux版のFirefoxでネットを見る機会が多いんだけど、レイアウトが微妙にずれていたりして、WEBデザインて大変だと思わずにいられない。IEのバグや独自規格がこの界隈でよく喧伝されるけど、Linux版のFirefoxもなかなか。同じFirefoxなのにLinux各ディストリビューションで表示が違ったりする。

 なんかネット閲覧の指向がまた変わり始めた感。個人放送の視聴とかかなり辛くなってきたかも。そのうちまた風向きが変わるかもしれないけど、誰もが警戒過剰な感じで相当つまらない。その人が素地をありのままに出しているような感じの頃がよかった。

 とはいえ、15日にオライリーのJavascript(百科事典並の厚さ)を買ったので、それを読んでいる。ネットそのものから離れる感じでは当分ないな。

 体調そんなによくはないが、活動量はあんがい低くない。

 人々がある現実に対し(たまたま)共通的な反応をすることは成就されたコミュニケーションだろうか?
 ロジックの同一性を担保してるのは「現実」に他ならない。たぶん人の意識はロジックの同一性を担保できたりはしない。
 他者の主体性の不在からその思考を出発させるウィトゲンシュタインは、メンタルヘルス分野のいくつかの典型を候補として想起させるが、最終的には現実に寄り添う方向を選んでいることが彼の凡百とは違うところだ。

 先月また性懲りもなく不完全性定理の参考書に挑戦して無残に弾き返された感があったのだが、その後自分なりにこれの何に違和感を抱いてきたのか省みていた。たぶん、この定理が過分に特権的な断定を含んでいるように思えるからだと思う。『ある公理が無矛盾なら証明も反証もできない命題が存在する、かどうかは人間には断定できない』としたいのが私の情緒なのである。自ら与えた前提の強度を過信しているように見えることの違和感と言うべきか。ずっと初めの頃「じゃあ不完全性定理を不完全性定理自体に適用するとどうなるの?」と素朴に思ったのも、同様の趣旨の表現だったのではないかと思う。
 岩波文庫の『不完全性定理』だったかに、これを本当に理解できるのはごく少数みたいな言説が(著者の主張としてではないが)紹介されて、私としては改めておののいたが、この定理を最終視すべきでない感じの導入がいくらかちりばめられており、きわめて間接的ながらも溜飲を下げた。

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