誤謬の訂正

 人間あんまり自分の間違いに注目しすぎないほうが精神衛生上いいとは思うのだが、特に強い間違いというのは、何か別のストレスがかかっている状況で起こることが多いような気がする。あっぷあっぷというかそんな感じの時期に、ほとんど根底的な次元から間違えてしまう、といったようなこと。
 体力的な負荷をかけると、四則演算のような単純な計算でもミスが発生・増加するというような調査があったような気がするし、鬱病の発症でIQが低下するといったような情報も耳にしたような気がする。
 しかし...。
 私はあるストレスのかかった悪い時期にどこか意図的に錯誤するというようなことがあった気がする。きわめて投げやりの高じた状態というか、錯誤を許す錯誤。表現しづらい。
 錯誤は、直接の被害が特にないとしても、自分への理解者を遠ざける効果をもたらすと思う。なんであれ整合的にふるまえていれば、他者の理解につながるのだ。
 錯誤は孤独なのである。


 ホントはコフートの悪文について書こうと思っていたのだが気が乗らない。英語なのに主語と述語が異様に離れているとか、なんでもかんでも一文にまとめようとしすぎるとか、挿入句が多用されるばかりでなく多次元の入れ子構造になることも珍しくないとか、諸々そういったことなのだが、著者が意識の流れをそのまま垂れ流すような書き方というか、そこからコフートの過剰な自己中心性と彼のフロイト派からの離反にまでつなげてみようと思ったのだが、今書いたからもういい。


追記(2017/08/18):
 錯誤の孤独というのは、現実をうまく捉えられないことの暗闇にはまり込むことなのだろう。人は結局、否が応でも生の現実に依拠せざるをえない。交通事故のよく起こる交差点で「みんなが間違えている」ことは、本質的な慰めにはならない。たしかに人が錯誤すること自体の現実性というものがあるとしても、それは行為の主体から次元をずらした別の認識にすぎない。何らかの規則性(と思しきもの)が発見されたとしても同様である。
 ひいては、同じ宗教に入ったり何かのコンサートで幻想を共有したりすることも、本来、各人の孤独の証明にすぎないかもしれない。「みんな現実がわからない」と同調してみてもそんなものは理解ではない。
 常に現実に正対しうる者だけが。しかし、これだと最終的にカントの「物自体」の超越性みたいな話になってしまうかもしれない。もともと誰も群盲以上にはなれないって?

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