2019年12月アーカイブ

シャーンドル・フェレンツィ『臨床日記』(みすず書房)

 シャーンドル・フェレンツィは昨今のトラウマ派の草分け的存在で、外傷分析への傾倒を放棄したフロイトに反旗を翻したフロイトの直接の弟子。
 以下は抜粋で、※印は私の注釈。


p131
この容疑〔※分析をする側がその過程でサディスティックな満足を得ようとするのではないか〕を立証し実証するものとして、フロイトが、明らかに私の口の固さを計算に入れてのことだが、私の前でもらしたある発言を思い起こさねばならない。「患者どもはろくでなしだ」。患者のよいところは分析家を生かしてくれることだけで、分析家の研究材料だ。われわれ分析家が患者を助けることなどできない。治療へのニヒリズムと言うしかないが、それでもこのような疑念は口にせず患者に希望をもたせれば患者は網にかかるものだ。


p255
〔※『エディプスコンプレックスの見直し』というタイトル内〕両親への固着、つまり近親姦的固着が、自然な発達の結果とは思われず、外から心に植え付けられたもの、つまり超自我の産物である症例はけっしてまれでないが、本例もその一つだろう。


p269
息子が成長すれば父は死なねばならないという不安感が無意識内で非常に強くなっていたと考えれば、いずれかの息子を自立させることへの彼の不安を説明できる。それと同時に、かつてフロイト自身が息子として父親を殺したかったという事実も指し示している。これを認めるかわりに父殺しのエディプス理論を打ち立てたが、どう見ても、それを当てはめたのは他者だけで、自らに向けることはなかった。自らを分析されることに不安があったのはそのためであり、文明化された大人に今も原始的本能衝動が存在することはなく、エディプスの病は麻疹みたいな子供の病であると考えるにいたったのもそのためだろう。


p271
要するにFr〔※フロイトのこと〕が心的外傷理論に反対するのは、彼自身の弱さを洞察することへの防衛手段である。


p274
性的能力をもつ人である父親の去勢が、自ら経験した屈辱への反応として起こったことが一つの理論構成へ彼を導き、父親は息子を去勢し、それ以降は神として息子に崇拝されるということになった。彼の態度を見ると、Fr〔※フロイトのこと〕は去勢する神の役割を演じるだけで、自身の子供時代の去勢という外傷的瞬間について何も知ろうとしない。彼は分析を受ける必要のない唯一の人間というわけである。


p304
近親姦タブーの厳格さが近親姦への固着の原因か〔※というタイトル〕

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