おっちょこちょい

 こないだメンタルヘルスに興味をもったきっかけを少しだけ書いたが、私は内心において対象近親者をNPDだと断定してはいない。仮に実際本当にそうなのであったとしても、少なくともその傾向をある程度顕著に持っている人だという理解で十分なのであり、それ以上踏み越える必要は別にないと思っている。私に必要なのはどのように対応すれば現実的で良好な効果が現れるかであり、その効果が一般的な意味合いにおいて健全で正しいものであるようならそれでいいのである。
 ある程度偏りを納得しているとしても、それは人のタイプとしてであり、正式な意味での病名としてではないとも言えるかもしれない。
 たとえば、人は多様な理由で顕著に「話をコロコロ変え」るが、それが気分の揺れ動きやすさによるものなのか、生きる戦略としての日和見によるものなのか(大衆迎合的な政治家とか)、実際にコロコロ変えなければならないように現実が変化しているだけなのか(ほかにもたくさん)、などでそれぞれまったく意味内容が変わってくる。BPDを念頭に「気分」のスイングを中心に据えても、たとえばADHDのような人も気分がコロコロ変わるかもしれない。BPDの場合はスプリッティングや自己評価の低さや自我脆弱を基本に置く不安定さであり、ADHDはその種の脆さや傾向をあんまり持っていないかもしれない(し多動の傾向が顕著だろう)。そういう幾つもの差異を一定以上の時間と労力をもって地道に把握していく知識と態度がなければ、「断定」はまともな意味を持ち得ない。
 (厳しい意味での)判断がそう簡単な事じゃないと言いたくもあるのだが、たとえばひとつだけの人格障害を標的にする場合でもきわめて広範な知識が必要であり、ほとんど限りがないような面があるということなのである。DSMの診断基準を読んでも「類似の他の疾病ではない」みたいな意味合いのことがさらっと書いてあったりする。何気ない一行だとしてもこれはきわめて莫大な知識および労力を要する排他処理を意味している。医者は自分の職業的責任において診断書を出しているのだろうからそれはそれでいいのだが、彼らですら誤診(1,2)するのなら、素人としては拙速な断念をもつ必要は特にないように思うのだ。より良い方向に進んでいるかどうかを主に気にかけていればいい。

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