鋳型を割って出る

 コフート原著は二度読みのようなやりかたでしか進められない感じなので、ちびちびしかしできるだけコンスタントに読み進める方式でやっている。これはこれで、考えながら読むのに合っている面もあり、短所ばかりでもない(としておこう!?)。

 乳児が母とのコミュニケーションによって情緒の雛形のようなものを獲得するのだとしても、人は事後的にそれを乗り越えうるものだろうか?

 「変容性内在化」はコフートによる鍵概念であり、治療の直接の目的であることもあるようだ。自称コフート派の和田秀樹は治療段階での変容性内在化はうまくいかないと入門書で書いてたが、彼が受験予備校経営に手を出したりタレント活動をしていたりするのと関係がありそうな気もする。治療過程での転移による擬似的な親子関係の復元ではうまく変容性内在化の効果を得られないということであろうが、精神療法におけるこの種の困難性の吐露は別に珍しい感じがしない。日本型受験エリートはテキスト(答え)がない世界で無力であるかどうか。

 なんとなくなのだが、変容性内在化について、自己対象(普通は母親)の全能性に対する「健全な幻滅」過程としてだけ重要なのではなく(そんなものは部分的に過ぎない)、爾後のコミュニケーション全般の基礎工事が行われている時期であるからこそ重要なのではないか、と思い返したりする。
 「共感」というのは不思議なもので、自他の区別がついていながらも、同時に他者との共通領域みたいなものも意識していなければ成立しない。当然におのおの個性のちらばりあるいは単独性は有していても、人間なら大体これだけは共通してもっているだろうという最大公約数的な感情というものを芽として意識していなければ、コミュニケートしようという意欲すらわかないであろうし、現にコミュニケーション自体も成立しないであろう。要は、分かり合うには何か取っ掛かりのような基本的なものが必要なのであり、乳児時代の変容性内在化は、人間の行うコミュニケーションをそういう基本的な部分で支える土台を形成する時期(もしかすると二度とやり直せない)にあるからこそ特別な意味を担っていると言うべきなのではないか。コフートは自己愛の専門家だから仕方ないといえば仕方ないが、どこか狭いというか、母親に投影された全能感のゆくえにとらわれすぎのような気もする。

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