物事が思い通りにうまく行くと、幼児的な全能感への退行が起こる場合があるかもしれない。しかし現実には誰も全能者ではないので、過剰な歓喜の後にはある種の「軟着陸」が要請されることになる。しかし、この軟着陸がうまくできず、現実を否認したり現実の受容をできるだけ先に繰り延べようとする人もいるかもしれない。
決定論(仏教など)では物事が誰かの思い通りに行くのではなくて、何か自律的に思った気になっている人そのものが大きな現象の中の要素に過ぎないみたいな捉え方かもしれない。キリスト教も決定論的な風合いがあるが、比較的人の自由意志を認めてる感じがあるかもしれない。神道は「そんなこと知ったことじゃありません」みたいな感じであろうか?
『人に自由意志があるかどうか』という問題は厳密には誰にも答えられない。吉本隆明さんというポエム好きの人がいたが、ミシェル・フーコーが来日したときに対談して(通訳はのちの東大総長の蓮實重彦(奥さんフランス人))、そのことをやや強調的に訊いていた。誰も答えられっこない意地悪な質問なのだが、さすがフーコーは賢くてのらりくらりと躱して軽率に言質を取られないようにしていた。吉本自身は意志について『偶然の重なりが必然に転化する』などと、妥当感覚あるいは歴史感情みたいな(あるいは知の無根拠性みたいな?)ナイーヴな感じのことを、相手に尋ねる際に述べている。この対談は本になっている。
人に自由意志がないという証明があるわけではもちろんない。むしろ、実社会は各個人に自由意志の余地が大幅に存していると前提して成り立っているもののような気がする。自由な心がけのありかた次第で誰もが他の誰かのようになれる、という感じの、まるで巨大なカルト(?)のような一面がなくはない。労働(者)は資本の前に互換でなければならないから、そこから醸成された後付のポリシーであるかもしれないが。
誰かの業績が、単なる偶然でなく、その人の自由意志としての固有で主体的な判断があってはじめて発生しえたのだという、反決定論的主張はよくあるし、通俗的なレベルでそれを批判しようとは別段思わない。しかしそこには本当は、ある過剰な権利主張が含みこまれている。幸運に乗じて自分を大きく見せようと「主体」を騙る横着者は少なくないかもしれない。
ある意思決定が本質において主体的なものであったかどうかは、実は本人を含め誰にも分からない。何かの発明のように、たとえ人類にとってまったく新しい意思決定であったとしても、である。
赤ん坊はまだ自他が不分明な存在者で、健全な発達に伴ってしだいに「分別」を獲得していくかもしれない。「実社会のカルト」は、おそらくは、この一般に認識される発達段階から導かれた素朴な誤解により成り立っている面もあると思われる。(幼稚な?)日本社会は比較的その誤解の度合いが強いのかもしれない。自分の意識に差異が浮かび上がってくる以前の世界はすべて同質で一体だと無意識的に思いこむところにつまずきの石がある。しかしたぶん現実はいつでも差異に満ちていたし今も満ちている。
自由意志とは、意志そのものの未知性から導かれた素朴で手前勝手な空想であるかもしれないけれど、それに対する肯定否定どちらの証拠があるわけでもないので、自由意志があるのかないのか問われてよせばいいのに挙証責任を負った方が議論に負ける仕組みである。
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