本当の自己と偽りの自己

 英語版Wikipediaの"True self and false self"の拙和訳です。今のところ日本語版には対応項目はありません。
 サム・ヴァクニンは、私が去年だかに自己愛を直接主題にした一般向けの英書を探していたとき、ピート・ウォーカーの紹介していたエラン・ゴロムとどちらを読むか迷った人物で、やはり相当独特な人のよう。それと、ヴァクニンの項の最初のセンテンスはソースの英文から主部・述部がありません。書き込み者がピリオドとカンマを間違えたのかな、と思ったりしましたが、破綻したまま訳しました。


本当の自己と偽りの自己

 本当の自己(現実の自己、真正の自己、オリジナルの自己、傷つきやすい自己とも)と偽りの自己(偽の自己、理想化された自己、表面的な自己、擬制的な自己とも)は、そもそも1960年にドナルド・ウィニコットによって精神分析に導入された心理学的な概念である[1]。ウィニコットは、本当の自己を、自発的で真正な経験および本物の自己で生きているという感覚に基づく、自己の感覚を叙述するのに使った[2]。ウィニコットは偽りの自己については、反対に、防衛的な見せかけであると見なしたが[1]、この極端な場合には、あたかも本物であるかのような外面の背後で、その保持者は自発性を欠いて死んだようなあるいは虚ろな感覚の状態となる[1]。

 この概念はしばしばナルシシズムとのつながりにおいて使用される。


目次
1 特徴
2 先駆者たち
3 後の展開
3.1 コフート
3.2 ローウェン
3.3 マスターソン
3.4 サイミントン
3.5 ヴァクニン
3.6 ミラー
3.7 オーバック:偽りの身体
3.8 ユング派のペルソナ
3.9 スターンの三分割自己
4 批判
5 文学作品の例
6 関連項目
7 参照
8 参考文献
9 外部リンク


特徴
 ウィニコットは、本当の自己が、血流や肺呼吸などの(ウィニコットがただ存在していると呼んだ)、生きていることの経験をしている早い段階の乳児期に根ざしていると考えた[3]。これにより、赤ん坊は現実感覚の、あるいは人生が生きるに値するという感覚の、経験を作り出す。赤ん坊の自発的で非言語的なジェスチャーは、本能的感覚から派生するが[4]、親に反応されることで本当の自己の発展継続の基礎となる。

 しかしながら、ウィニコットが程よき養育(完璧である必要はない[5])と注意深く書き記したものが実行されなかった場合、幼児の自発性は、親の願望や期待に従う必要に侵される危険にさらされる[6]。ウィニコットの業績は、彼が偽りの自己と呼んだものの創造であるかもしれないが、それは『自分の存在の根源につながる本来の自己の感覚を覆ったりそれに相反しても、他者の期待が最重要になりえる』ような状態である[7]。彼が危険視したのは、『偽りの自己を通して、幼児は偽りの人間関係を築き、取り入れにより本物であるかのような見かけを獲得しさえしている』が[8]、実際には、独立しているように見える外見の背後に味気ない虚無を隠蔽しているに過ぎないということだった[9]。

 この危険は、赤ん坊が母親あるいは両親に調子を合わせなければならない場合(その逆ではなく)に特に顕著で、非人格的つまり人格的でなく自然的でもない基礎上に、対象の解離した認識のようなものを構築することになる[10]。しかし、このような病的な偽りの自己が、生気のない模倣に与して本当の自己の自発的な行為を抑えるとしても、それにもかかわらず、ウィニコットは、隠された本当の自己そのものが搾取されるという全滅的な経験のような、より悪い事態を防ぐために、それが致命的に重要であると考えた[3]。


先駆者たち
 ウィニコットが偽りの自己という概念を生み出すために頼ったものが精神分析理論の中に多くあった。ヘレーネ・ドイッチュは、現実の人間関係の代わりに擬制的な人間関係を持つところの「かのような」人格について述べていた[11]。ウィニコットの分析者だったジョアン・リヴィエールは、ナルシシストの仮装(表面的な同意に隠された支配のための捉えにくい秘密の苦闘)の概念を探求していた[12]。フロイトの、自我が同一化の産物であるとする後期の理論では[13]、自我を偽りの自己と見なしているだけに近かった[14]。一方、ウィニコットの本当/偽りの区別は、マイケル・バリントの「基本的欠陥」やロナルド・フェアバーンの「妥協した自我」の概念と比較されてもいる[15]。

 エーリッヒ・フロムはその著書『自由の恐怖』の中で、本来の自己と擬制的な自己を区別しており、擬制的な自己の非真実性は自由の孤独から逃れるための手段だとしている[16]。一方、ずっと以前に、キルケゴールのような実存主義者は、「人が本当の自己でいようと意志することは、実に絶望の反対である」―絶望とはつまり「自分以外の者であることを」選ぶこと、だと主張していた[17]。

 カレン・ホーニーは、1950年に出版した『神経症と人間の成長』の中で、自己改善の観点から「本当の自己」と「偽の自己」という自身のアイデアに基礎を置いたが、これを現実の自己と理想の自己として説明していて、現実の自己は今の自分の在り方であり、理想の自己はなれるかもしれない在り方が対応する[18]。(カレン・ホーニー§自己の理論も参照)。)


後の展開
 20世紀後半、ウィニコットの思想は、精神分析の内外におけるさまざまな文脈で拡張され、応用されてきた。

コフート
主要記事:ハインツ・コフート
 コフートは、ナルシシズムの研究においてウィニコットの業績を拡大させ[19]、ナルシシストたちを彼らの傷ついた内的自己を守るための防御的な鎧を発展させているものと見なした[20]。彼はナルシシズムについて、自らの自発的な創造性を犠牲にして外部の人格に同一化することで一貫性を獲得する場合よりも、自己の傷ついた残余に同一化する方がより病的でないと考えた[21]。

ローウェン
主要記事:アレクサンダー・ローウェン
 アレクサンダー・ローウェンは、ナルシシストは本当の自己と偽りの(あるいは表面的な)自己を持つものとして識別した。偽りの自己は、世界に提示される自己だが、表面上に留まる。これは、外見やイメージの背後にある本当の自己とは対照的をなす。本当の自己とは感情を持つ自己のことだが、ナルシシストにおいて感情を持つ自己は隠され、否認されなければならない。表面的な自己が服従と同調を示すため、内なる本当の自己は反発と怒りを持つ。この潜在的な反発と怒りは、その人の中の生命力の表出なので、決して完全に抑え込むことはできない。しかし、否認されているために、直接的にそれを表現することができない。代わりに、それはナルシシストの行動の中に現れる。また、誤った力ともなりうる[22]。

マスターソン
主要記事:ジェームズ・F・マスターソン
 ジェームス・F・マスターソンは、すべての人格障害は、人の2つの自己の間の葛藤が決定的に関係していると主張した。つまりそれは、幼児が母親を喜ばせるために作り上げた偽りの自己と、本当の自己のことである。人格障害の精神療法は、その人を本当の自分と再び連絡させようとする試みなのである[23]。

サイミントン
主要記事:ネヴィル・サイミントン
 サイミントンは、人の行動の源を扱うために、ウィニコットの本当の自己と偽りの自己の対比を発展させ、行動の自律的な源と不整合な源を対比させた-後者は外的な影響や圧力の内面化から引き出される[24]。例えば、親が子供の業績を通して自らを褒め称える夢は、行動の風変わりで不整合な源として内面化されることがある[25]。しかしながらサイミントンは、ウィニコットが見落としているものとして、人が偽りの自己や自己愛的な仮面のために自律的な自己を放棄する時の、意図的な要素を強調した[26]。

ヴァクニン
 自らナルシシストであると告白した作家サム・ヴァクニンのこの病の知名度を上げるという個人的使命として書かれたものの一部として[27]。ヴァクニンは、ナルシシズムにおける偽りの自己の役割を強調している。偽りの自己は、ナルシシストの本当の自己に取って代わるが、自己転嫁する全能感を原因とする苦痛や自己愛損傷から彼を防御することを目的とする。ナルシシストは、彼の偽りの自己を本物であるかのように見せかけ、他人にそのお喋りを肯定するよう要求するが、同時に不完全な本当の自己を覆い隠し続けている[28]。
 ヴァクニンの考えでは、ナルシシストにとって偽りの自己は荒廃した機能不全の本当の自己よりもはるかに重要であり、精神分析医とは対照的に、彼は治療を通して本当の自己を蘇らせる能力を信じていない[29]。

ミラー
主要記事:アリス・ミラー(心理学者)
 アリス・ミラーは、子供や患者は偽りの自己の背後で待たされ本当の自己がちっとも形成されていない可能性があり[30]、結果として、本当の自己を解放するということは、ウィニコットの蝶が繭から出てくるイメージのようには単純でない、と慎重に警告している[31]。しかし、本当の自己が発達しえたなら、偽りの自己の中身のない誇大さが自律的な活力の新しい感覚に移行する可能性があると、彼女は考えた[32]。

オーバック:偽りの身体
主要記事:スージー・オーバック
 スージー・オーバックは偽りの自己を、自己のある側面が、他の側面や自己の全部の潜在性を犠牲にして(親の圧力下で)過剰に発達することであって、それにより、その人自身から自然に表出するものへの持続的な不信を生み出していると考えた[33]。オーバックは、環境的な失敗がどのように心と体の内的な分裂につながるかというウィニコットの説明を拡張して[34]、偽りの身体(偽られた自分の身体感覚)というアイデアを包含するようにした[35]。オーバックは特に女性の偽りの身体を、真正や信頼の内的感覚を犠牲にした、他者との同一視に基づいて構築されていると見なした[36]。治療の過程で偽りの身体感覚という一枚岩を壊すことで、患者の中に一連の(しばしば痛みを伴うとしても)真正な身体感覚を表出させることができる[37]。

ユング派のペルソナ
主要記事:カール・ユング
 ユング派はユングのペルソナ概念とウィニコットの偽りの自己との重なりを探ってきたが[38]、類似性に注意を払いつつも、最も硬直した防衛的ペルソナだけが偽りの自己の病的状態に似ていると考えている[39]。

スターンの三分割自己
主要記事:ダニエル・スターン(心理学者)
 ダニエル・スターンは、ウィニコットの「存在し続けている」という感覚が、前言語的な自己として核を構成していると考えた[40]。彼はまた、偽りの自己の感覚を強化するために(本当の自己を言語的に不透明化し否定された状態にしておく)、言語がどのように使用されうるかを探った[41]。しかし彼は最終的に、社会的自己、私的自己、否認された自己の3つの区分を提案した[42]。


批判
 ネヴィル・サイミントンは、ウィニコットが偽りの自己に対する洞察と自我・イドの理論とを統合することに失敗したと批判した[43]。同様に、ジーン・バートランド・ポンタリスのような大陸の分析家は、本当/偽りの自己を臨床的な区別としては利用しているが、その理論的地位については留保している[44]。

 哲学者のミシェル・フーコーは、自己は構築物であるという反本質主義の理由から、本当の自己という概念をより広く問題にしている。つまり、自己は主観化のプロセスや自己形成の美学を通して進化させなければならないものであり、単に発見されるのを待っているものではない[45]。曰く「我々は芸術作品として我々自身を創造しなければならない」[46]。


文学作品の例
 『嵐が丘』は、本当の自己が既成概念を打ち破ろうと奮闘するという観点で解釈されている[47]。『I Never Promised You a Rose Garden』という小説では、ヒロインは自分のうわべの性格を「見せかけ」の単なるお化けと見なし、その裏に本当の自己を常により完璧に隠している[48]。
 シルビア・プラスの詩は、本当の自己と偽りの自己の対立という観点から解釈されている[49]。


関連項目
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参照
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参考文献
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外部リンク
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(Translated from the article "True self and false self" on Wikipedia)

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