ダニエル・スターン

CIMG3463.jpg 偽りの自己をめぐってスターンの名前が出てきたので、以前から気になっていたこともあり、京都市図書館にあるものを借りて読んでいた。『乳児の対人世界<理論編・臨床編>』『母親になるということ』。読んでいる最中はあれこれ思うこともあったのだが、今日3冊めを読み終えて本は返却してきて、読後感が複雑すぎて軽率になにか言いたくないという感じが強い。
 批判対象とする人物の主張をスターンが誤解している面があるのではないかという危惧が終始あった。対象関係論が乳児の自他の未分状態を強調していて実際の観察された乳児に想定される自己感の兆候と矛盾すると言うが、対象関係論は完全に自他不分明な錯乱状態を乳児に想定しているわけではない。いわば自己の前駆体のようなものを、スターンのようには自己の中に含めないだけで、対象関係論者が、誰でも見ればわかる乳児の自己の兆候をすべて無視しているとすることは想定しづらい。ウィニコットが、乳児が自分の全能感を支え演出していたのが実は母親だったのだと気づく(脱錯覚)段階に注目するように、乳児に自己感があったとしてもそれは同時に自他の不分明さをいまだ含んでいる非現実的な自己なのである。したがって、現実には自己感と不分明さは必ずしも対立しておらず、むしろそれら自体が混じりあいながら併存していると思われる。
 ただ、スターン自体の印象が悪いわけでは全然ない。乳児の不分明さよりも自己(感)を主軸に発達の歴史を追ったほうが説明の仕方としてうまく整理がつく面があることは明らかで、伝統的な理論の中にそういう意味でのやや大きめの間隙が埋め込まれていたことは否めない。伝統的な理論は乳児ならではの不分明さに主軸を置くような傾向が確かにあり、そのことは発達論的な分析や観察のハードルを徒に上げた。スターンの思想は、分からないことより分かることから積み上げていくようなやり方で、実際主義的な清潔さがある。
 偽りの自己論に戻るが、ウィニコットは『本当の自己は、個人の精神機構がありさえすればあらわれてくるものであり、感覚運動系の活動の総和以上の意味はないのである。』(「情緒発達の精神分析理論」 p182)と述べている。スターンが述べる本当の自己は、否定された自己のことであり、感覚機構による私的自己とも分けて考えており、両人はほとんど根底から違うことを言っていると言っていいと私には思われた。
 あと、必ずしも外傷の時期にこだわらないスターンと現代的なトラウマ派との近親性も感じた。


追記(2021/10/14):
 なんと書名を誤記していたので訂正しました。「対人関係」→「対人世界」。私のIMEで「対人」と打つと「対人関係」と予測変換されて、そのまま決定して気付かなかったための事故でした。あしからず。

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