『毒になる親』 スーザン フォワード
劇薬は、重病人に対して使うべきものである。
本書が薦める親との訣別は、よくある思春期の自立の物語をただ遅れてやり直すのとは違う、より根底的な次元における悲しい別れである。それは、最初から親でも子でもなかったことを納得する作業なのであり、これからについても親でも子でもないという永久的な断念を持つことなのである。だから、独立した自我を持つ存在として親との関係を再構成するといった幸福な自立の過程などではなく、独立した自我を持つために親との関係をすべて断ち切ってしまうというある意味で短絡的な自立方法を、この本は主題としていることになる。
私は読みながら、このような極端な方法が、親の永続的過干渉やアルコール中毒、あるいは近親相姦といった誰が見ても明らかに深刻な問題を含んだ親子関係に対してならそれなりに有効に機能するような感じはしたが、果たしてどの程度の悲劇を背負った人から適用し始めるべきものかよく分からない気がした。あるいは著しく扶養者としての能力に欠けた親に対して持つべき断念の境界線というものをどこに設けるべきなのかよく分からない気がした。蚊に刺されて痒いからといってその腕を切り落とすバカもいまい。断念を持つべき基準というものを著者は具体的に示すべきだ。
もうひとつ気になったのは、責任論に関してだ。本書では、大人になってからの自滅的な行為は自己の責任であり子供時代は全面的に庇護されるべき立場なのだから親の責任なのだという主張がなされていた。これもまたあまりに単純な分け方で違和感を持った。過去と現在の関係は因果関係そのものである。近親相姦経験者が大人になって鬱病になり自傷行為を繰り返したとして、それがまったく本人の責任ではないとは無論思わないが、元となる悲劇が存しなければ鬱病にもならなかったであろうに、著者には自由意志に対する過信があるのではないかと思えてならなかった。一般論として、自傷行為を回避する大人なりの知恵というものは確かにあるべきだが、それも万能なものなどあるはずがなく、こういった制約的な局面で人間の意志力を過大評価するのは木を見て森を見ない態度だと思う。もとより意志を超えた負の力に彼らは苦しんでいるのだ。
本書を通読して印象深かったのは、決定論と自由意志論の昔ながらの対立が非常に生々しい形でここに表出しているということだ。言うまでもなく、この対立に統一を与えることは誰にとっても簡単なものではない。もしも完全に決定論に立つなら、「毒になる親」の行為も大過去により決定されているはずで、ある意味で彼らの責任を問うことそれ自体が空しい所業に他ならないとなるかもしれない。完全な自由意志論に立つことは困難だと思うが、大幅なる意志の自由を認める立場なら、人は何につけ大体は「そうでない」選択をなしえることになる。これが「責任」の根拠ともなる。しかし、本書に示される現実的な人間関係を前に、どちらの立場がより正しいのか私には判断がつかない。あるいは両者を折衷するとしてどのような割合で折衷するのが正しいのかも分からない。
親子断絶ノススメ
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