スキゾはパラノ

『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』ジル ドゥルーズ,フェリックス ガタリ

 古典『アンチ・オイディプス』において、その共同の執筆者であるドゥルーズ&ガタリは、既存の社会的価値を解体する資本主義の営為というものに対して、個人の思考を滅裂化する分裂症の病態をオーバーラップさせるモチーフを執拗に繰り返しているのだが、邦訳で(副題にもschizophrénieの訳語として)使われているこの「分裂症」という言葉が何を意味しているのかは多少曖昧である。通常schizophrénieというと現在の日本では「統合失調症」のことを指すはずだ。しばらく前まではブロイラー論文に対する訳語の「精神分裂病」で表していて(本書邦訳の出版年はこの時代に該当する)、更に昔、最初に疾病単位として確立したクレペリンへの訳語としての「早発性痴呆症」という呼び名もあるが、これはほとんど使用されないのではないかと思う。ちなみに、日本で何年か前に精神分裂病から統合失調症に呼称が変わったわけだが、これは主に多重人格等の解離性障害との混同を避けるためであった。いずれにせよ、いわゆる統合失調症を指す用語としては「分裂症」という呼び名はさほど聞かない。
 訳者がこのようなやや耳慣れない表現を訳語として使っているのはなぜなのか、訳者あとがきを読んでも書いてないわけだが、本来の統合失調症(邦訳出版当時は精神分裂病)とは敢えて意味のニュアンスを違えたかったからではないかとも思うのだが。というのも、本書内で「分裂症」と表現されているものは、おそらくは、主に破瓜型統合失調症のことであろうと思う。それに対するものとして提出されている「パラノイア」とはだいたい妄想性障害周辺を指しているものではないかと憶測される。しかし本来、統合失調症に厳しく対立する概念としてパラノイアがあるわけではないのだ。妄想性障害のみを指す場合もあるとは思うが、統合失調症に含まれる代表的なサブカテゴリに妄想型統合失調症があるのであって、より不完全なものは妄想性障害や妄想性人格障害として、それら異常で体系化された妄想を持つ疾病群をひとくくりとして「パラノイア」と呼ぶことは普通にある(1)。したがって、最初からパラノイア(の一部)を含んでいるはずの精神分裂病をパラノイアと対立させてしまうと当然矛盾が生じてしまうので、あえてずらした「分裂症」という表現を使って暗に破瓜型方面だけに意味を制限しようとしているのではないかと思うのだが。
 仏語原文の表現がどうなっているのかも気になるが、少なくともschizophrénieは、専門でない辞書的な意味として(つまり日常語的な使用法として)は、確かに破瓜型的な意味だけを担う場合があるようだ。しかしこれはかなり俗な使い方であり、厳密な議論には向かないはずだ。共同執筆者のガタリは精神科医なのにこのような使い方を許すものだろうか?それと別の視点としては、ややマイナーなのだけれど、既存の統合失調症のサブカテゴリの幾つかが不適切なもので、それらは本来別々に独立した疾病単位として扱われるべきものだと主張する学者が一応いるにはいたとは思う。その点でガタリの立場を調べる必要があるかもしれないわけだが、しかしいずれにせよクレペリンの3類型(破瓜・緊張・妄想)から始まって、現在に至り、DSMでもICDでもおおっぴらな基準においてそのような立場はとられていない。ガタリは現に妄想型は統合失調症に含まない別個の疾病だとする立場なのだろうか?
 ただ、いわゆるこの「スキゾ-パラノ」の通俗的な対立図式をよりすっきり「破瓜型-妄想型」と言い換えたとしても、なお私には違和感が残る。極端に脆弱化した自我というものが、破瓜型のように無抵抗にバラバラに散乱・壊滅してしまっているか、妄想型のように異常な妄想を発展させることによって辛うじてつなぎとめられた状態であるか、は、ある程度表層的な差異でしかないと思っているからだ。単純な対立概念として扱えるものかどうかはなはだ疑問なのだ。
 更には、人間の社会集団の歴史上でのダイナミズムを説明するのに、個人にまつわる精神疾患を持ち出すことが適切な行為であるのかどうか。

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