今月初めごろに『「草枕」変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド 』を読んでいたのだが、なんとなくグールドの楽しみ方が自分なりにようやく多少は把握できた感じで、借りたCDを聴いたりYOUTUBEでグールドの演奏を視聴したりしていた。YOUTUBEの書き込みで「彼は聴衆のためでなく、自分のために弾いているのだ」と批評している人がいて印象的だったが、そういう解釈は一見それっぽいが違うのではないかと思える。もとよりサービス精神の塊であるグールドはむしろ他人のためにこそ弾いていたのだ。ただ、彼の聴衆への贈り物は少し特殊なものだったのだと思う。
いろいろな演奏者によるゴルドバーグ変奏曲をYOUTUBEで聴いてみたが、グールドが異質なのはその非共感性なのだと思う。誰もがゴルドバーグ変奏曲を媒介にして自分の感情を吐露するような弾き方をする。もともとは不眠に悩む伯爵を元気付けるために書かれた曲であり、聴き手へのやさしさや気遣いや苦悩に対する共感を思い入れたっぷりに演奏に込めるのが通例である。しかしグールドの弾き方はむしろそのような共感的な情緒を排した過剰なクリアネスを特質として帯びている。たとえば、大人の哀しみを理解しえない子供が、子供なりの愛情から事情も分からぬままにあれやこれや慰めてあげようと精一杯に腐心している感じに近い。この変奏曲はまさに14歳の少年演奏者ゴルドバーグを想定してバッハが書いたものであり、確かに永遠の少年だったグールドにとっては運命的な楽曲だったと言えるのかもしれない。
うわさ通りに、グレン・グールドが発達障害の一種であるアスペルガー症候群だったかどうかは、分からない。が、たぶんそうだったかもしれない。グールドのインタヴューの衒学的な無内容さは、空疎な感情しか持ち得ない自分の身を守る(隠す)ために、どこかで聞いたような他人の批評の言葉をかき集めて、弾幕のようにめくらめっぽう撃っているのに近い感じがする。ゴルドバーグ変奏曲以外でもグールドはクリアな弾き方を決して崩さない。情緒的なモーツァルトを嫌い、さらに情緒的なショパンに至っては弾いてみせることすらしなかった。自分の過剰にクリアな弾き方に合致する楽曲しかまともに弾けなかったとも言えるだろう。
グールドから聴衆への贈り物は、微に入り細をうがつような情緒的絡みつきをごっそりそぎ落とした、異様な象形をなしている。微細な情緒表現を期待するリスナーには、自閉的で不親切に映るかもしれない。しかし、彼は彼の言葉できわめて誠実に語りかけているに過ぎない。
50歳近い最晩年のテレビ収録で、担当の女性ディレクターが突然泣き出した話が先の書籍に出てくる。彼女は、グールドが人のあたたかさというものを生涯知らずにきたのだと思うと急に悲しくなったのだ、と説明する。本の筆者は、そこからグールドが病的な潔癖症だった話につなげて同情していたが、二度の恋愛経験がただ潔癖症によって破綻したとも思えない。ファンには、その思い入れの強さから、芸術家グールドの内面的な深さを過信する傾向がどうしてもあるかもしれない。
グールド
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