私の唯美主義の正体は結局は「人嫌い」なので、本当の唯美主義とは土台においてやや違うものかもしれない。真に美的なものが人の世にありえないために(!?)、はぐれた美意識が超越的になっているということなのであって、私に特に何か偏愛する美的世界があるというわけではないのだ。つまり現実から虚空に逃れようとする美意識の不定形のベクトルがあるだけなのだと思う。
子供の頃の芸能人への低評価については、音楽教師の母がしばしば彼らをまるで害虫かなにかのように(ちょっと言い過ぎか)見なしていたということの影響もある気がする。ただ、そういう母への反発もないことはなかったのだが。
自然の美しさというものもあるわけだが、それもどこか人を通して成立している感覚であるかもしれない。山や海が美しいと思うのは、どこか社会やそれを分かち合う他者を想定しているからありうるのではないだろうか?絶海の孤島に慣れたロビンソンクルーソーは、海をいちいち美しいとは思わなくなるのではないか。
美がどこにもありえなければ美に飢えるので、唯美主義的にならざるを得ない。
我ながら、なんだこれは。
たとえば現実に絶望した革命家の脳裏には甘く美しいユートピアのイメージが刻まれているもののような気がするが...、私のはもっと不定形でむしろ反思想的だ。
『人間は恋と革命のために生まれて来たのだ』太宰治
この太宰の言う「恋」や「革命」の意味内容もたぶん空疎だ(ファンに怒られるかもしれないが)。
中学生の時にクラスメイトのひとりが「アイドルになる」ために東京へ転校していったことがあった。彼女はクラス内でも真ん中くらいの容貌だったと思う。特に歌やダンスがうまいわけでもなかった。教師から彼女の転校を知らされたあと、驚いているはずのクラスメイトの誰もが奇妙に一切そのことに触れなかった。なんでこんなことを思い出したのか。彼女がアイドルになった形跡はない。
別にアイドルになれなくても、人として幸福になっていればそれでいいわけだが。
私は実は精神的なものの価値をそんなには高く捉えていない。すべてケミカルな反応だから精神など幻想なのだというのはヒッピー思想(ヒッピー文化には思想的バックボーンがあった。主に薬物使用による意識の変容を体験した人々が、昔ながらの精神と物質の対立において物質の側に素朴に勝利を与えた。村上龍もいちおうこの系譜だと思う。)だが、私は精神の本質が物質である(だろう)ことにヒッピーのようにはショックを受けないので、そんな程度で精神活動が無価値だと思ったりはしないが、『いくら話し合ったって無駄』という感じがどこかに強固にあることも確かなのだ。精神活動としてのコミュニケーションというものに対する信頼が普通よりやや低いかもしれない。やはり具体的に事態を動かせ(れ)ばそれなりにかなりのことが解決するものだと思う。
では私は一体なににこだわっているというのだろう?
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