2014年1月アーカイブ

 なかなか言葉というのは伝わるように書けないものだが、あんまり肩肘張っても仕方ないような気もしてきた。自分の無力を痛感。しかしなんにせよブログの書き方というかそのための心構えをこれまでと変えるつもり。

 去年の暮にツイッターのリストに登録した人が全然ツイートしないと思ったら、いつのまにか非公開になっていた。経緯不明。かなり網羅的に社交的な感じの人物でそれで目立っていたのだが、今月あまり見てなかったとはいえ非公開化の兆候は思い当たらない。なんかあったのかな、とここで書いても仕方ないわけだが。

 最近個人的にネット再評価というか(「再評価」は変か、なんと言えばいいんだろう?)、ネットが本格的に人々の人生の一部というか抜き差しならないツールに進化してきた感じがあるのかなと思ったりしている。私自身もネット上の他者に学ぶ感じが強く、一定の年月を経たりして、受ける衝撃の度合も増す。ある人には特に感謝の念を持っているが、ほぼなんの交渉もないのに一方的にそう伝えるのも奇矯なので、どうもしないけれど。ネットの不思議なところ。
 もちろん自分に「センサー」がない情況や現象にふれても意義は薄いのだが、合致する対象をネットに探し出せた場合、かなり強いインパクトを受ける場合もあると思う。私自身この数カ月で少し変わったと思う。凍った心も少しは解けたか。

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 Yeah!

 以前のエントリーの混乱している箇所を多少修正したけど、自分でもまとまらないまま即興的にエントリーを書き出すのはホント気をつけよう、いまさらだけども。目も当てられない。しかし、それ以前に、ブログとの距離感そのものを見直したい気がしている。

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 BPD方面の掲示板を見ていて、書き込みが生々しく、反省というか自分の認識をやや改めていた。
 やはり弱者同士が深く支えあうというのは美しい光景のようでかなり危険だ。なまじっか相手の気持が分かってしまうから、共感できるという意味ではどうしても引き寄せられてしまうが、羅針盤のない船の平和のようなもので、あとから大変なことになる。
 親子なら共依存もある程度仕方ないで済む場合もあるだろう。あるいは「育て直し」が功を奏する可能性すらあるのかもしれない。しかし、カップルの場合は所詮他人なので、多少は相手の親役をやってあげることがあるにしても、状況が本質的に異なる。双方が病んでいて悪循環の「純度」が高まってしまうと(どちらも別れればいいはずなのに別れられない)、エスカレーションが相当なことになるようだ。
 病者側の未熟さをやすやすとカバーしてなお余りあるような、経済的にもメンタル的にも知的にも強い健康優良児みたいなのと付き合うなら、共依存状態を完全に避けられるのかもしれない。しかし普通ですら難しいのにそういう少数の強者がわざわざ病んだ者をまじめな交際相手に選ぶとは思えないし、あってももはや保護者みたいな状態であり、成熟を前提とする感情の部分で相当通じ合わないだろう。
 掲示板の書き込みでは、多くの人が互いに傷つきながら関係を保ったり断ったりしているようだった。

 「BPDは内省できない」みたいなパートナーの方の述懐があって印象に残った。BPDのすべてが内省が苦手かどうかは症状の軽重や個性の関係もあると思うので留保するとしても、傾向として、自我や自尊感情や現実検討能力が弱いと自分というものの輪郭がはっきりしなくなると思われ、内省しようにもできなくなるのではないかと思われる。これは逆に誇大感によって自己の輪郭がなくなるNPD(不健全なナルシシスト)もその傾向があるのではないかと思う。
 内省ができているうちは、仮に悩んでいるとしても、ある程度自他の区別が適正に保たれている兆候かもしれない。内省ができず、手っ取り早く合致する解答をどこかに探すように、自分について「他人の頭で考える」しかないようだと好ましくない状況かもしれない。いろんな知識や考えを仕入れることはもちろん大切だが、それだけで自分が解決されることはないのだから。
 私は、弱い自我を強くすべきみたいなことをこのブログで書くが、これはわがままになるみたいな意味ではない。自他の区別がありながらも共感性を失わず比較的安定した自我のことを強い自我として指している。いわゆる自我脆弱や自我拡散に陥らない強い自我のこと。関連書籍に出てくる内容を私なりに噛み砕いて書いてるつもりだが、やや誤解を生むかもしれないと気付いたので。しなやかで強い自我。

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 パブロン微妙。のんだらのんだで胃が荒れる。肝臓も使う。
 寒いけどもウォーキング再開せねば。

 私の美意識がどこにも対象を見い出せないみたいな不毛な話を昨今殴り書いてるわけだが、思春期以後の酷かった期間に比べるといちおうある程度は現実と和解している気はする。なにかの努力で改善できたのではなく、時間が勝手に中和した感じでしかないけど。
 これはたぶん私自身のスプリッティング的な部分が関係しているのだと思う。「人嫌い」としてはそれ以外にも色々な要素がつめ込まれていると思うが、たぶんのろのろ緩和してはいる。

 ユングは流行らないしよく分からないけど、ユングの「イマーゴ」概念をコフートが文中に使っていた。なんだかんだで生き残ってるんだなと思った。イマーゴは、親の人物イメージがその後の対人関係の祖形になるみたいなある意味当たり前な感じの話で、たとえば見ず知らずの他者に初めて会っても人は個々決まったような「構え」を取るわけだが、イマーゴはその無意識的な構えにも関与している。健全なイマーゴの獲得に失敗するとその後の対人関係が偏ったりうまくいかないみたいなことにもなる、とされると思う。まあ普通に考えてもある程度はそうなのだろう。偏った親イマーゴの克服方法は?

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 私の唯美主義の正体は結局は「人嫌い」なので、本当の唯美主義とは土台においてやや違うものかもしれない。真に美的なものが人の世にありえないために(!?)、はぐれた美意識が超越的になっているということなのであって、私に特に何か偏愛する美的世界があるというわけではないのだ。つまり現実から虚空に逃れようとする美意識の不定形のベクトルがあるだけなのだと思う。
 子供の頃の芸能人への低評価については、音楽教師の母がしばしば彼らをまるで害虫かなにかのように(ちょっと言い過ぎか)見なしていたということの影響もある気がする。ただ、そういう母への反発もないことはなかったのだが。
 自然の美しさというものもあるわけだが、それもどこか人を通して成立している感覚であるかもしれない。山や海が美しいと思うのは、どこか社会やそれを分かち合う他者を想定しているからありうるのではないだろうか?絶海の孤島に慣れたロビンソンクルーソーは、海をいちいち美しいとは思わなくなるのではないか。
 美がどこにもありえなければ美に飢えるので、唯美主義的にならざるを得ない。
 我ながら、なんだこれは。
 たとえば現実に絶望した革命家の脳裏には甘く美しいユートピアのイメージが刻まれているもののような気がするが...、私のはもっと不定形でむしろ反思想的だ。
 『人間は恋と革命のために生まれて来たのだ』太宰治
 この太宰の言う「恋」や「革命」の意味内容もたぶん空疎だ(ファンに怒られるかもしれないが)。

 中学生の時にクラスメイトのひとりが「アイドルになる」ために東京へ転校していったことがあった。彼女はクラス内でも真ん中くらいの容貌だったと思う。特に歌やダンスがうまいわけでもなかった。教師から彼女の転校を知らされたあと、驚いているはずのクラスメイトの誰もが奇妙に一切そのことに触れなかった。なんでこんなことを思い出したのか。彼女がアイドルになった形跡はない。
 別にアイドルになれなくても、人として幸福になっていればそれでいいわけだが。

 私は実は精神的なものの価値をそんなには高く捉えていない。すべてケミカルな反応だから精神など幻想なのだというのはヒッピー思想(ヒッピー文化には思想的バックボーンがあった。主に薬物使用による意識の変容を体験した人々が、昔ながらの精神と物質の対立において物質の側に素朴に勝利を与えた。村上龍もいちおうこの系譜だと思う。)だが、私は精神の本質が物質である(だろう)ことにヒッピーのようにはショックを受けないので、そんな程度で精神活動が無価値だと思ったりはしないが、『いくら話し合ったって無駄』という感じがどこかに強固にあることも確かなのだ。精神活動としてのコミュニケーションというものに対する信頼が普通よりやや低いかもしれない。やはり具体的に事態を動かせ(れ)ばそれなりにかなりのことが解決するものだと思う。
 では私は一体なににこだわっているというのだろう?

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 個人的にはめっきりネットの生放送を観なくなっているのだが、ネットのトラフィックを調査をしているsimilarweb.comのニコ生の統計を見ると、まったくの横ばいみたい。人が減ってる説は嘘かなぁ。

 フロイトは発達段階のモデルのなかでサディズムという語を大きく二回使っていると思う。ひとつは口唇期サディズムでもうひとつは肛門期サディズムだ。大人の性倒錯としての起源はどちらかと言うと肛門期サディズムにあるとされるかもしれない。口唇期サディズムの方は幼く反射的に過ぎて、支配―被支配の政治的側面がない。マゾヒズムはフロイト的には自己へ向かうサディズムとして捉えられ、大本でサディズムに統合される。
 私がフロイトの説明を信じているということでは必ずしもないが。

 私はどこか唯美主義的なところがあり、たぶんこれは色んな意味でよくない傾向だと自分で分かっているのだが、分かっていてもなおらない。芸能人の外見の美醜について点数をつけあうようなことを子供の頃だれでもするかもしれないが、私の与える数字だけがすべて異様に低くその場の雰囲気を壊したのを覚えている。

 焦っている人に「焦るな」とアドバイスするのはどの程度効果があることなのだろう。

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 年末年始にかけてRSSリーダーとかtwitterのお気に入りを大幅整理していた。あと全体に観なくなっているニコ生のお気に入りもかなり消した。消しまくって、ほとんどミラーコミュがメインになってしまった。新しい社会現象だと思って気にしていた市民右翼系のコミュやtwitterも、私の中で「オワコン化」したのですべて登録抹消した。

 「夫婦関係の精神分析」は去年末に届いてるけど、ゆっくり読む。通読することが目的なのではなく、読みながらいろいろ考えることがメインなので。自分を子供とする夫婦のことも念頭。

 英語圏のSM系のフォーラムを情報源に少しそういうサイトを見て回ったりした。(以下リンク注意)
 アメリカで今人気があるっぽいミストレスのサイトのサンプル動画(一見声のかわいい小奇麗なおばさんが、わりと異常なことをカメラに向かって当たり前のようにしゃべり続ける)で、自分の英語のリスニング力の向上を知った。どうやらぼんやりとは聞き取れる感じになっているようだったが、そのことはできれば別の機会に知りたかった...。
 このおばさんは、SM嬢であることが隣人に露見して何か差別的な態度を取られたらしく、ブログで怒ったりしている。一般のアメリカ(orカナダ)人は実は日本人が思っているよりずっと保守的だと思う。
 見た目ならこの人がきれいな気もしたけど、喋るとややもっさり感
 スタイルだけならこの人もかなりだけど、専業のSM嬢ではないみたい。
 巨乳系もいたがよくわからなかった。あと女王様はポルノスター的に名前を売れるけれど、M系の方はそういうのはダメみたいな感じだ。


 あんまり関係ないけど、少しSMっぽい歌詞があるのを思い出してYouTubeでアン・ルイスの『WOMAN』の動画観てたら、妙にアン・ルイスがかわいかったので貼ってみた。繰り返される"My name is woman."というフレーズはまさに女性の「個であることの自己否定」なのだろうけれど、ひととき女性らしい夢を見るためのものならことさら咎めることもないことなのであろう。

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