コフートは、変容性内在化は作家でサディストのM氏の症例においてうまくいかない旨のことを確かにかなりはっきり言っているのだが、一般論として否定まではしていないと思う。少なくとも治療過程における「変容」までは成功して患者を安定的にし得ているようで、問題は、治療を終了しても変容の効果が持続する「内在化」の部分でうまくいかないということのようだ。
一時的にうまくいっているように見えても、治療関係を終え離れると基本的な部分においてほとんど元に戻ってしまう。
これは共依存の問題と地続きのような感じがする。また別に、「フロイトが実は一人も治せなかった」説が思い出される。
日本の教育改革はうまく行きそうな気がしない。中国やインドの文明を受容したあと欧米に乗り換えて図に当たっただけで、結局日本人は建国以来みずから基幹技術を編み出し文明を築きえたことなどない。2千年くらいずーっと「先進国」の二番煎じ(三番煎じ...)でなんとかやってきただけの歴史なのだ。それなのにいまさら、事象に直接立ち向かえとか世界視点での主体性を持てとかいっても無理な話かもしれない。
「開明的な教師」によって近代的な個人を演じさせられる『山びこ学校』の生徒たちの集団催眠のような異様さが頭をよぎる。「個人」を、教えられたとおりまったく没個人的に演ずる子供たち。ほとんどあれと同様に、近代を日本人はずっと演じ続けてきただけかもしれない。
先進国に肉薄してうまくやる日本得意の位置取りは今やたいした役得を生み出さない。さりとて、新しく飛び移る足場はなかなか見出せない。このままずるずる発展途上国に戻りたくないなら、演技ではない本物の先進国になって先進国なりのリスクを負って行くしかない。でもどうやって?
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