慰安婦問題で左系のラスボスっぽい吉見義明の著作を二冊読んでみたのだが、肝心なところで独断や推測が出てきて、なかなか微妙な印象だった。特に一部の論者が当時の国際法上で慰安婦制度そのものが違法だったかもしれないとする根拠に「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止ニ関スル国際条約」というのがあるらしいのだが、この条約は植民地や属地を例外化する付帯事項があり、日本は当時朝鮮や台湾の名を挙げて例外化の宣言をしている。吉見氏はこの宣言が無効であるかのようなニュアンスで話を進めてこれはなにかハードな証拠が出てくるのかと思ったのだが、ある法律家NGOの解釈を根拠として出してきただけで、なんだかあんまり次元が高くない。
慰安婦問題は去年うろ覚えの中曽根元総理の弁明をもとに、独断的なエントリーを書いてしまった反省があるのであまり決め付けるようなことは言いたくないのだが、ふたつの本とも、なかなか怪しげな印象を持たないではなかった。吉見氏が共著者である方の本の中には、上の条約に例外化の付帯事項がないようなことを断言している人がいたり、また、慰安婦制度のことをエポックな悲劇として詳しく子供たちに教えるべきだと主張する中学教師などがいて、奇妙だったり気持ち悪かったりした。
一般論として、批判能力の弱い子供にはどうしたらより良いかを教えるべきで、負の事例についてことさらに深く追究させる必要はないと思われる。
まったくの別件で今T・モラウェッツ『ウィトゲンシュタインと知』を読んでいて、偶然目に留まった印象深い箇所(p28)があったので下に書き写しておく。
歴史上のある出来事を主張するために証拠を集める場合、その出来事に関するわれわれの確実性の程度はその証拠によって規定される。しかしその証拠の全部が全部錯覚ではないということに関する確実性は根拠付けられるものではないし、それを我々は知っているとは言えない。この確実性を支える証拠はありえないのである。というのはこれに関して誤っているという仮設(ママ)は我々が証拠を持っているという可能性そのものを切り落としてしまうからである。まあいくら歴史を論じても際限がない面が原理的にある、ということであろうか。
なんでウィトゲンシュタイン本なぞ読んでいるかというと、ウィトゲンシュタインが、無限を実体的に捉えられない人間はある規則が反復されることを無限として認識しているに過ぎない、みたいなことを言っていたのを思い出したからなのである。最近私は、人の「愛着」に「無限」の感覚が必ず付帯するような気がして、無限をめぐって、それっぽいものを同時並行で読んでいる。もう一冊読みかけなのも、遠山啓の『無限と連続』である。
3月は会計年度末で企業のネット広告用の予算が吐出されて多少上がりが良くなるなどと言われるが、私の自作サイトの広告もこのところ微妙にそんな気もする。今週になって再び1日4百円を超えだしている。
しっかし4月はサーバ引っ越しするんだろうか。めんどくさいなぁ...。
ニコ生やなんかの人気放送をランキング化しているサイトが新興のアフリカTVに対応していたので、ふとこれどうやってるんだろうと思って、なんとなくアフリカTVの放送一覧ページのソースを眺めていたら、ピンときて色々やっているうちに自分でも放送一覧JSONが取得できてしまった。
興味のある方は、下記URLをリファ'http://live.afreecatv.jp'に設定してCGIなどからアクセスしてみてください。
http://live.afreecatv.jp/app_lives.php?pt=get_cast
一般ブラウザからアクセスしてもリファが違って弾かれるだけなのであしからず。
しかしリファなどの環境変数を書き換えるのってネットプログラミング的には珍しいわけではないみたいだけど、法的にどうなんだろう?ユーザーエージェント(これも環境変数の一種)の偽装についてはWikipediaに項目があって、これを読む限りでは特に法的にどうこうって感じはないみたいな風ではあるのだけれど。
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