コルベアが今ネット上で流行っているらしい"Pen-Pineapple-Apple-Pen"の「ネタ潰し」ネタをやっていたのだが、要はパントマイムっぽい元ネタに現実のペンやリンゴやパイナップルが欠けていて、小道具さんよろしくコルベアが街中探しまわってようやくそれらを持ってきたという設定で、オチとしてはペンが実際にはパイナップルには刺さらない(皮が固くて)、ということのようだ。
私はそれよりも、日本人に対して何かが遅れたことを謝るコルベアを見て、真珠湾攻撃で日本側の宣戦布告が「遅れた」問題を隠喩的に想起してしまい、ややドキドキしてしまった。今更大昔に宣戦布告が遅れたことについて日本側から謝るのもおかしな気がするが、十分時間が経ったとも言え、天才的にうまく会話できる総理大臣がいれば記念的な首脳会談とかで(その逆鱗に!)触れてみてもいいかもしれない。しかし、当時の在米大使館員の怠慢説やそれ自体大本営の故意説など必ずしもディテールの決まっていない状態でなんらかの総括をするのは、国内向けとしても簡単ではないに違いない。
一般のアメリカ人は当時の日本がアメリカを含む国々によってかなり厳しい資源封鎖をされていたという前提をまず知らないと思われるので、奇襲としての真珠湾攻撃に純粋な憎悪(藪から棒で不合理かつ卑劣かつ身の程知らずな...)を抱いている場合がほとんどだと思う。真珠湾攻撃をするに至った(せざるを得なかった)プロセスの日本側からの視点に興味のあるアメリカ人などほとんどいないだろうから(とは言えアカデミックな歴史書には書いてあるのかもしれない)、この辺りはなかなか越えられない高い壁だ。
コルベアが最後に"I-- JUST MIME IT"と繰り返し言い訳して悔しがるのは、いつもアメリカを真似る日本人への当てこすりが含まれているかどうか。もしそうだとするとやや古い日本イメージかもしれない。
私がめったにコメディアンで笑わないのは、こうやってあれこれ上の空に考えてしまうことも原因のひとつかもしれないが、根本的には、芸人が提供する笑いの本質が多くの場合差別だ、と信じているということがあると思う。コルベアは、差別主義者を差別するとかして(メタ差別)、そこのところをうまくオブラートに包んで提供している、かのようだ。
どういうわけだかこのところの私は「差別」に関して意識が向かいがちなので、やや差し引いて考えるべきか。エマニュエル・トッドの「シャルリとは誰か?」でフランス人の屈折しまくった人種差別を読んでいる途中だが、私の興味が向かっているのは特に人種差別というわけではない。差別意識の遍在性みたいなこと。誰も差別から逃れられないみたいなこと。
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