2020年11月アーカイブ

 今月初旬ころにダニエル・カーネマンの『ファースト&スロー』を読んでいたのだが、読後感が非常によろしくなかった。カーネマンの主張が説得的じゃないからなのだが、なにしろノーベル賞受賞者なので、権威と内容の曖昧さとの齟齬がストレスをいや増しにする。読み始めは、陳述記憶と非陳述記憶のメタファとして主張を展開しているのかな、とか思ったりもしていたのだが、なんか違う感じで、どんどん暴走的になってゆく感じだった。私は臨床心理学以外の心理学にはさらに詳しくないので、世界的な権威を背にして大著で真偽不明の暴論を押し込まれると、読者として情報の処理に困る。なにかおかしいと感じているのだが反論のための土台をもたないような状態にされるのだ。そのため、読み終えた後もフラッシュバックのようにムカムカ感に襲われ不愉快だった。
 しかしながら、ふと検索するとネットに、カーネマンの主張に対する専門的な批判は拍子抜けするほど容易に見つけることができた。すばらしいが、逆に言えば、ネットのない時代にこういう書物で権威的に暴論を押し込まれると一般人が抵抗するのは大変だったと思う。疑念に明瞭な形を与えるだけでも自分でかなりの勉強をしなければならないことになる。
 心理学の実験に高次の解釈を与えることは厳に慎むべきだと個人的に思うが、たいてい高名と言われる心理学者はその禁を犯している。例えば有名なセリグマンの犬の実験もあれが本当に何を意味しているのかについて、留保されるべきだ。あと、彼ら自身に「ある種の傾向」があるような気もしている。


追記(2020/12/31):
 うーん...。

(前略)経験という言葉は人間において最も十分なる意味を示しているものであると言えるのである。犬などが人から打たれて恐ろしいと思って逃げるのはそれは犬の経験であるが、こんな経験には反省が伴わないのである。したがって何の意味もない。人間の場合はこれに反して、もっともっと深広な意識の根底の上に立つ経験が可能になっているものである。
(鈴木大拙 「禅とは何か」 角川ソフィア文庫 p9 )

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 メンタライゼーション系の論文を読んでいて気になったので、短い上に本文だけですが英語版Wikipediaの"Psychic equivalence"の拙和訳です。


心的等価

 心的等価は 心の内容と外界の間に境界が引かれていない、つまり思ったことが自動的に真実になると仮定される、心の状態を表している。

目次
1 起源
2 後の人生で
3 関連項目
4 参照
5 外部リンク


起源
 心的等価は、内的・外的世界双方への反省であるメンタライゼーションの能力につながる、幼児期における原初的な心的状態である。例えば、心的等価モードでは、子供がクローゼットの中にモンスターがいると考えたなら、本当にクローゼットの中にモンスターがいるものと信じている。心的等価は、それ故、世界の具象的な理解の形式であり、代替となる観点への好奇心を全部ブロックしてしまう自己確信なのである。


後の人生で
 心的等価は、後の人生では、夢や妄想、またトラウマにおけるフラッシュバックの過程で再出現する。それは外的現実と心の内容との差異に対する自覚の一時的な喪失を伴う。PTSDにおいてはその人は(おそらく何年か後に)、適切な視座を完全に失って、元のトラウマ状況に実際に戻っていると確信する。

 防衛的な偽りの自己が心的等価の不安を防ぐために幼児期から構築されている場合、後の自己愛構造の崩壊は心的等価の迫真性による恐るべき衝撃の再現を導きうる。


関連項目
(省略)


参照
(省略)


外部リンク
(省略)

(Translated from the article "Psychic equivalence" on Wikipedia)

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