私はたぶん仏教徒ではないと思うのだが、去年末からずっと仏教関係の本を断続的に読んでいる。
 きっかけはどの時点に取るかで難しいが、もともと英語圏の新し目のメンタルヘルス本に「マインドフルネス」という概念が頻出して、それが仏教あるいはヨガから来ていると知ったこと。その後、私的・岡田尊司ブームのときに森田療法が紹介されていてそのベースが禅であることを思い出させられたこと。自分の本棚を見ると岩波文庫のスッタニパータがあったのでふと読み返したこと、等が挙げられる。
 仏教は托鉢を経済的基礎としていて、このことが共同体により事後的に与えられる「無償の愛」の反復のようにも見えるが、これは様々な意味で微妙な側面を持つと思う。たいていの宗教組織が寄付により成り立っているとしても、現世を拒絶しながら自己の再構築を目指す仏教を支えているのが現世側だということは原初的な欺瞞のようにも思える。修行者個人の(対象関係の)傷は共同体の気まぐれな施しからは修復できないかもしれない。ブッダは王子なので、乞食姿で近所を通りかかられればなにか寄贈しなければならないと沿道の人は(ある種の恐怖心から)思うかもしれない。もしそうなら与えられた粥には身分差別による反動が含みこまれている。
 生後すぐに実母と死別したブッダは、対象関係(or愛着スタイル)が壊れている可能性が低くない。


 仏教は親子の情愛を軽蔑している面があると思う。
「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かなものは悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
(ダンマパタ 第五章六十二 )


 他に修業によって恐怖が克服されるとも記述される。

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
(ダンマパタ 第十章一二九 )


 対象関係あるいは愛着スタイルの世代間伝播を想起させる。

しかしこの世でその愛執を捨てて、移りかわる生存に対する愛執を離れたならば、その人はもはや輪廻しない。その人には愛執が存在しないからである。
(ウダーナヴァルガ 第三章十三 )


 かなりの極論である。

それ故に、愛するものをつくってはならぬ。愛するものであるということはわざわいである。愛するものも憎むものも存在しない人々には、わずらいの絆は存在しない。
(ウダーナヴァルガ 第五章八 )

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CIMG3321.jpg

 今年は参道沿いの屋台がコロナによる自粛で一つもありませんでした。

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Kyoto City Library info.PNG
 京都市図書館の年末の最終開館日は通常より早く閉まるのだが、京都市図書館のWEBサイトにある、個別の図書館のトップページにも開館日カレンダーにも、その旨全く表記されないので注意が必要だ。開館時間変更の情報を当該WEBサイトから知るには、全体のトップページにある「京都市図書館からのお知らせ」内の「年末年始の休館のお知らせ」の項目をクリックし、その文中から、『なお,12月28日(月曜日)の開館時間は午前9時30分から午後5時までです。』の但し書きを見つけ出さねばならない(普通の平日は午後7時まで)。開館時間の変更は休館に関する事柄であるかどうかも微妙だが、私のように、個別の開館日カレンダーで28日まで休館ではないことを確認した後では、「年末年始の休館のお知らせ」に最終日の開館時間の変更が記されていると推測するのは多少なりともより困難になると言っていいと思う(ちなみに実際に図書館に行くと貼ってある「紙」の開館日カレンダーには変更が記されていました)。

 私がこのトラップに引っかかったのは今回で二度目である。

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 今月初旬ころにダニエル・カーネマンの『ファースト&スロー』を読んでいたのだが、読後感が非常によろしくなかった。カーネマンの主張が説得的じゃないからなのだが、なにしろノーベル賞受賞者なので、権威と内容の曖昧さとの齟齬がストレスをいや増しにする。読み始めは、陳述記憶と非陳述記憶のメタファとして主張を展開しているのかな、とか思ったりもしていたのだが、なんか違う感じで、どんどん暴走的になってゆく感じだった。私は臨床心理学以外の心理学にはさらに詳しくないので、世界的な権威を背にして大著で真偽不明の暴論を押し込まれると、読者として情報の処理に困る。なにかおかしいと感じているのだが反論のための土台をもたないような状態にされるのだ。そのため、読み終えた後もフラッシュバックのようにムカムカ感に襲われ不愉快だった。
 しかしながら、ふと検索するとネットに、カーネマンの主張に対する専門的な批判は拍子抜けするほど容易に見つけることができた。すばらしいが、逆に言えば、ネットのない時代にこういう書物で権威的に暴論を押し込まれると一般人が抵抗するのは大変だったと思う。疑念に明瞭な形を与えるだけでも自分でかなりの勉強をしなければならないことになる。
 心理学の実験に高次の解釈を与えることは厳に慎むべきだと個人的に思うが、たいてい高名と言われる心理学者はその禁を犯している。例えば有名なセリグマンの犬の実験もあれが本当に何を意味しているのかについて、留保されるべきだ。あと、彼ら自身に「ある種の傾向」があるような気もしている。


追記(2020/12/31):
 うーん...。

(前略)経験という言葉は人間において最も十分なる意味を示しているものであると言えるのである。犬などが人から打たれて恐ろしいと思って逃げるのはそれは犬の経験であるが、こんな経験には反省が伴わないのである。したがって何の意味もない。人間の場合はこれに反して、もっともっと深広な意識の根底の上に立つ経験が可能になっているものである。
(鈴木大拙 「禅とは何か」 角川ソフィア文庫 p9 )

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 メンタライゼーション系の論文を読んでいて気になったので、短い上に本文だけですが英語版Wikipediaの"Psychic equivalence"の拙和訳です。


心的等価

 心的等価は 心の内容と外界の間に境界が引かれていない、つまり思ったことが自動的に真実になると仮定される、心の状態を表している。

目次
1 起源
2 後の人生で
3 関連項目
4 参照
5 外部リンク


起源
 心的等価は、内的・外的世界双方への反省であるメンタライゼーションの能力につながる、幼児期における原初的な心的状態である。例えば、心的等価モードでは、子供がクローゼットの中にモンスターがいると考えたなら、本当にクローゼットの中にモンスターがいるものと信じている。心的等価は、それ故、世界の具象的な理解の形式であり、代替となる観点への好奇心を全部ブロックしてしまう自己確信なのである。


後の人生で
 心的等価は、後の人生では、夢や妄想、またトラウマにおけるフラッシュバックの過程で再出現する。それは外的現実と心の内容との差異に対する自覚の一時的な喪失を伴う。PTSDにおいてはその人は(おそらく何年か後に)、適切な視座を完全に失って、元のトラウマ状況に実際に戻っていると確信する。

 防衛的な偽りの自己が心的等価の不安を防ぐために幼児期から構築されている場合、後の自己愛構造の崩壊は心的等価の迫真性による恐るべき衝撃の再現を導きうる。


関連項目
(省略)


参照
(省略)


外部リンク
(省略)

(Translated from the article "Psychic equivalence" on Wikipedia)

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 多分(遠いor近い?)将来にはミラーニューロンとかの自然科学の話とつながってくるのだろうが、メンタライゼーションは、私の主たる興味であるNPDの非共感性(ただ当人は他者の内面を自分に都合のいい想像で埋めてしまうので共感性が欠如しているという自覚はないと思うが)と地続きの概念でありネット上にもそのものズバリなテクストがある。

・Affect regulation and mentalization in narcissistic personality disorder
https://www.researchgate.net/publication/283928025_Affect_regulation_and_mentalization_in_narcissistic_personality_disorder

・Mentalization-Based Treatment for Pathological Narcissism
https://www.researchgate.net/publication/340010181_Mentalization-Based_Treatment_for_Pathological_Narcissism

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CIMG3227.jpg 岡田尊司の著作を集中的に読んでいる。
 アタッチメント(愛着)は対象関係論でもよく出てくる話題だが、より推し進めて、アタッチメントを正常化することで様々な疾患が治ると主張する作家の代表格が京都医療少年院で診ておられた岡田尊司氏。
 少年院での治療費用は子供たちが支払うわけではもちろんないわけで、間接的ながらも「無償の愛」としての代理安全基地がまだ成り立つ時期である。岡田氏はこの「愛着アプローチ」が成人患者にも効くと主張しているのだが、その点、やや留保的な印象を持った。
 患者の主観的世界を一方的に受容する態度はコフートのやり方に似ている感じがした。同時に彼の変容性内在化に到達させ得なかった症例が思い出される。
 あと、本格的な精神病などでこのやり方で間に合う感じがあんまりしなかった。
 しかしながら、仮に劇的に効かなくとも、(家族関係を起源とする)問題の本質を大づかみするという意味で、「愛着アプローチ」は知っておいて損はないかも。回避性人格障害や境界性人格障害、自己愛性人格障害等がたびたび言及される。
 アタッチメントはその人物の幼児的全能感の保管庫のようなものだと思う。真の実態が幻想なのだとしても(!)、その幻想がないと大抵の人は前に進めない。


追記(2020/07/23):
 調べるとネット上には岡田氏への批判があって、さもありなんという感じなのだが、一応擁護のようなことをしておくと、「反応性愛着障害」や「脱抑制型対人交流障害」のような公的な愛着障害の概念を独自に敷衍していることは、彼自身が著作の中である程度説明している(少なくともそういう箇所がある)。もちろんそのような拡大が正しい行為かどうかは是非があるのだろうが、私は読み始めに手持ちのDSM5と比較し明らかな個人の主張と認識していたので、当初よりそういう立場・思想の人なのだろうという受け止めである。
 愛着対象の代理としてカウンセラーを据えるやりかたは、誰が考えても依存を生む。一生責任を持つような心構えを岡田氏は披露していたが、治療は経済行為でもあるのだから見方によっては白々しく感じなくもない。
 あと、こじれた親子関係を仲裁・適正化することが、彼の著作上に繰り出す症例のようにうまくいくのか相当訝しい。
 ただ、私は、岡田氏を詐欺師のように表現することには(今のところ)賛同しない。愛着の形成や様式あるいはその発展の仕方が人間の精神に致命的な影響を与えるという主張には、大づかみの論理的一貫性があると思うからだ。


追記2(2020/08/03):
CIMG3232.jpg 愛着理論の確立者であるボウルビィを読んだほうが早いかも(ただし訳はあまり良くない)。


追記3(2020/08/22):
 追い岡田尊司をしているのだが、『ADHDの正体』(p45下段真ん中)の記述が意味不明で、もとの論文に当たると、おそらく不注意型のパーセンテージのことを岡田氏が誤解されているのだと思う。全文を見れば結果をまとめた表があり、51.7%なのは子供時代もADHDだった大人ADHDが不注意型である割合であり、54.1%の方は子供時代にはADHDでなかった大人ADHDの中での不注意型の割合であると思われる。


追記4(2020/09/20):
 岡田氏の著作を第二波的に読んでいて、今図書館で予約してる「死に至る病」で7月から数えて18冊目になるのだが、未だに岡田氏の印象は微妙なままである。しかし刺激を受けるという次元ではポジティヴな印象を持っている。


追記5(2020/09/26):
 なんだかいつもとトーンが違う。

 自己肯定感を持ちなさい、などと、いい年になった人たちに臆面もなく言う専門家がいる。が、それは、育ち盛りのときに栄養が足りずに大きくなれなかった人に、背を伸ばしなさいと言っているようなものだ。
岡田尊司『死に至る病』(p20)

 

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 今週火曜にアマゾンでアマゾンが販売する在庫のある商品を注文したのだが、ようやく土曜の今日届いた。
 まだコロナ?

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 私は昔、(諸事情により)多少メンタルヘルス系の書籍を読み溜めた頃に、ネット上にことさら偏った人物を見つけようとしていた時期があった。今はもうネット情報の断片性や不効率性に気づいて新規開拓はほぼやめてしまったのだが、まだpeercastが動画配信の中心だったような時期に、ひとりの統合失調症の診断を受けているという女性の動画でいわゆる「言葉のサラダ」「観念奔逸」のような症状を見て驚き感銘を受けたことがある。本に書いてあったのはこれのことか、というわけである。その女性は数年後にはかなり回復して、ツイッターか何かで理解者と結婚したらしいあるいは子供もできたというような情報を知ったのだが、年月を経ても大抵はあまり変化のない病者たちの中で、症状的にも社会的にもかなりの改善を達成したらしい特筆すべき人物として彼女を記憶していた。
 しかし、今年ルータ及びOSのポート開放ができるようになった関係で(前はマンション内の別スペースにフロアを一括して処理するルータがありそこから各戸にLANケーブルだけが敷かれる方式だったためポート開放は不可能だった)、多分10年前後の時を経てふたたび彼女の配信を視聴したのだが、浮気配信のような内容で非常にがっかりした。確かに、明らかに安定的に普通に会話できていたし統合失調症の症状的にはあの頃と比べるべくもないのだが、見れない間私が夢想していたのとは違い、ちっとも安定していない現実がそこにはあった。視聴者から注目されたいために浮気中継をしている感じもなくはなく、配信依存のような側面も危惧した。
 常識的には彼女はそれなりに円満たるべき環境にあったはずだが、やはりなにか過剰なものを背負っているということであろうか。


追記1(2020/05/03):
 ベイトソンのダブルバインド仮説は流行らないが、統合失調症者は意識の枠組みにおいてどこか二律背反的な構造を予感させる。何かが予めせめぎ合っている。集中力がないとか飽きっぽいとかいうのとは違う。深みにある矛盾によって土台そのものがねじれている。寛解しても(or薬で症状を抑えても)必ずしもそこから自由になり切れない場合があるのかもしれない。

 フロイトは一人の患者も治せなかったと言われるが、3つくらいのパターンが挙げられていたような気がする。①そのまま治らなかった ②一旦治ったように見えたがしばらくして再発した ③当初の症状は治ったが(反動と思われる)別の症状が発生した


追記2(2020/05/23):
 流行らないと言えば一昔前までの書籍には「プレコックス感」なるものが記述されていたが、ほとんど死語になったような気がしないでもない。要は統合失調症者から受けるいわく言い難い印象のことなのだが、追記1前段に示したような内実だったのか、あるいはもっと別のことを意味していたのか今となってはよく分からない。
 精神医療が独占していた病者たちの実像がネットによって暴露されて、彼らをことさら神秘めかす行為が野放しでいられなくなった面もあるのかもしれない。


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 Windowsの文字入力モードの切替はいつまでトグル方式がデフォルトなのだろう。「半角/全角」キーを押すことで入力モードを順繰りに変えてゆく方式のことであるが、この方式は、そもそも現在どの入力モードなのか分からなければキーの無駄押しの連続になる可能性がある。
 現在の入力モードを記憶なり確認なりしなければならないトグル方式が不効率なやりかたであることはネットで多くの人が非難していて私も同意するが、一応キー設定をカスタマイズすることで簡単にかつかなりな程度この泥沼を回避することができることはできる。
 私はキーボードの「変換」をIMEオンに、「無変換」をIMEオフに割り当てている。現在の入力モードが何であれ、とりあえずこのキーを押せば、次からは目当てのモードで入力できるというわけで、面倒さの根源である入力モードの記憶や確認から解放される。これはほぼMacintoshと同じ形であろうかと思う。
 Windows10ではある時から、ウィンドウがアクティヴになったときに「あ」や「A」の文字が画面中央に表示されて現在モードが分かるようになったのだが、視覚的にうるさいため人間に対する負荷としては微妙な感じで、私はこの機能は使っていない。以前にも書いたが、現在の入力モードはテキストエリアのカーソルバーの形状で判別できるようにすればいいだけのはずだ。
 英語のような直接入力圏のWindows利用者と比較した場合、我々は余計な労力が要求されるだけ作業効率がいくらかでも劣ることになる。一回一回はわずか数秒程度の遅れでも、これが莫大な人数の上に何十年あるいは一生続くと考えると小さな話ではない。
 奇妙なのはLinuxの日本語ディストリビューションでもトグル方式のIMEが採用されていることだ。有志が自由に作れるOSのLinuxで、なぜわざわざトグル方式を採用する必要があるのか理解に苦しむ。カーソルバーのデザインを可変にすることも彼らには容易なはずだ。各ワープロソフトや付属IMEも同様。


追記(2020/03/14):
 もっと英語力があれば、Linuxについては最初から英語でインストールして英語メインで操作をするのだが、そこまでは無理。

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