前回あまり気が進まずにWikipediaの"Narcissistic supply"(自己愛供給)のページを訳したら、目次の訳を間違えてアップしていた。さっき訂正したけど、目次から間違えるとは我ながらひどい。校正で本文は一回通して見直したが、その時なぜか目次部分をスルーしていた。

 以前紹介したサム・ヴァクニンがこの"Narcissistic supply"の概念を推していて、その事自体はわりといいところを突いている気はするのだが、彼の著作を読んでいると、それ以前に彼のNPDであるという自認が怪しいものに思えてくる。その理由は主に、サム・ヴァクニンが刑事事件(証券詐欺)で有罪判決を受けているということと、彼がNPDとサイコパスの類縁性を異様に強調することにある。サイコパスがナルシシスティックであることは専門家の一致する所見だが、多少似たところがあるとしても両者は違うものだ。
 サム・ヴァクニンは、(医師資格もないのに)著書でDSMにおけるNPDの診断基準に独自の修正を加えているのだが、シンプルであるべき表現をくだくだしくしてるだけでなく、ややぎょっとする修正(引用イタリックの箇所)を行っている。彼は、NPDがもっと攻撃的な傾向を持っていると訴えたがっているのだ。

Constantly envious of others and seeks to hurt or destroy the objects of his envy or the sources of her frustration.

Vaknin, Sam. Malignant Self-love: Narcissism Revisited (FULL TEXT, 10th edition, 2015) (p.3). Narcissus Publications. Kindle 版.

 しかしDSMがNPDの攻撃性を強調しないのは、私は正しいと思う。攻撃性はNPDではなくサイコパスの特徴なのである。
 Wikipediaの彼のページの経歴によると、1985年頃にNPDの診断を受けたが当人が納得しなかったようで、その後、彼の起こした犯罪での仮釈放の条件がメンタルヘルス評価を受け入れることだったためNPDということになったようだ。しかし、もし仮にこれらが誤診だったとすると、彼の自認と客観基準のズレに関して説明がつくような気がするわけなのだ。
 詐欺師から心理学の教授になってしまうサム・ヴァクニンの知的パワーには敬服せざるをえないが、怪しさはつきまとう。過去には、Wikipediaの編集者も彼の取り扱いに苦慮したようで、議論になっているが、サム・ヴァクニン個人のページは今もWikipedia上に存在するし、他のページでも専門家のように記載されていたりする。

 Shahida Arabiはこの微妙なサム・ヴァクニンからかなり影響を受けているようで、彼女の微妙さを裏付けている気がする。

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 英語版Wikipediaの"Narcissistic supply"の拙和訳です。今のところ日本語版には対応項目はありません。英語版の記事内容はあまりいいとは言えないのですが、特にナルシシストと付き合っていかざるをえない側の人々にとって「自己愛供給」が非常にキーとなる概念だと思っており、訳すか訳すまいか先延ばしにしているうちにそれなりに時間が経ったのですが、その間も元記事はあまり改善していません。原文では運営からの信頼できないソースであるとの指摘も多発で、内容としても単なる英文としてもかなりいまいちな感じです。
 自己愛供給というのは、要は、ナルシシストに話を合わせたり口裏を合わせたりして、彼らの自己愛的渇望をヴァーチャルに満たしてやることです。まさにナルシシストの周りの人の身に覚えのあるところではないかと思います。
 このWikipediaの記事だと、一次的自己愛供給と二次的自己愛供給の違いがかなり分かりづらいですが、以下の引用元を確かめると、前者がランダムな他者からの供給であり、後者は家族や友人などの特定の他者からの供給ということのようです。

・Narcissists, Narcissistic Supply And Sources of Supply
https://www.healthyplace.com/personality-disorders/malignant-self-love/narcissists-narcissistic-supply-and-sources-of-supply

 あくまで参考までにと言うか、ざっと雰囲気だけでも伝わればと思って拙訳しました。
 関連項目以下はすべて省略。


追記(2022/11/24)
校正で目次のミスを見落としていたため訂正しました。
起源→供給源。

自己愛供給


目次
1 歴史
2 人格障害
3 自己愛の病理における作用
4 供給源
 4.1 一次的
  4.1.1 トリガー
 4.2 二次的
5 関連項目
6 参照
 6.1 引用
 6.2 出典


歴史
フロイトの自己愛充足の概念や彼の同僚である精神分析家カール・アブラハムの仕事に基づき、フェニケルは、幼い子供が心の平衡感覚を維持できるようにする供給に対する早い発達段階での自己愛的な欲求を強調する。彼はそのような自己愛供給を得るための2つの主たる戦略、攻撃とおもねり、という(それらは後に加虐的または服従的なものに発達しうるわけだが)対照的なアプローチ法に区別する。

フェニケルによると、子供時代の必要不可欠な供給の欠如が、抑鬱気質の鍵であり、同様にそれ以降の補償的な自己愛供給を求める傾向の鍵でもあった。衝動神経症や、恋愛依存を含む嗜癖、賭博、はすべてのちの人生における供給へのもがきの副産物と、彼により見なされた。精神分析家のエルンスト・ジンメル(1920)はより早く、神経症的賭博を、成人した状況において原初的な愛や注目を取り戻す試みとして考えていた。


人格障害
精神分析家のオットー・カーンバーグは、悪性の自己愛的な犯罪者が、自己愛供給の源として理想化され得ぬ他者への軽視によって、冷たく特徴づけられるべきものと考えた。自己心理学者のハインツ・コフートは自己愛性人格障害の人々は習慣的な自己愛供給元から切り離された場合に精神的に崩壊するものとみなした。そういう人物に自己愛供給をする人々は、個人としてのすべての境界が覆い隠され、まるでナルシシストの一部分のように取り扱われる。


自己愛の病理における作用
ナルシシストは思春期に「悪い」受容体(普通は親)を内面化する。彼らはこの受容体に対する社会的に好ましくない感情、とりわけ憎悪や嫉妬のような攻撃的な型を含む、を注視する。これらの知覚はナルシシストの不道徳で退廃したものとしての自己イメージを強化する。それらは結果的に機能不全の自己価値感覚を創造する。彼らの自信や自己イメージは非現実的に低く歪んだものとなる。これらの「悪い」感情を抑圧する試みにおいて、ナルシシストはあらゆる感情を抑圧しもする。彼らの攻撃性は、空想や、過酷なスポーツ、ギャンブル、向こう見ずな運転、ショッピングなどの、社会的に合法のはけ口に向けられる。ナルシシストは環境を敵対的で、不安定で、不十分で、道徳的に間違っていて、予測不可能な場所として見ている。

ナルシシストは一般に自己価値が内在する感覚を持たないので、自らの重要さを再確認して自身についての心地よい感覚を得たり自尊心を維持したりするために、注目や自己愛供給を通して他者に依存する。そして、他人が感情的な脅威とならないように、他者を操作や対象に仕向ける。この反応パターンが病的ナルシズムなのである。

ナルシシストは、他者から絶えず注目や自己愛供給を引き出すために、偽りの自己を外に映し出す。偽りの自己は、ナルシシストがそう見られたいと意図するパワフル、エレガント、スマート、裕福、良いコネがあるなどの、世間に見せる非現実的な外観や覆いである。そして、ナルシシストは、配偶者、家族、友人、同僚、ビジネス・パートナー、仲間などからなる身の回りから、この映し出された偽りの自分に対する反応を「収集」する。もし期待される自己愛供給(へつらい、賞賛、注目、恐怖、尊敬、喝采、肯定)が手に入らない場合、それらはナルシシストによって要求されたり強要されたりする。お金、お世辞、メディア露出、性的征服はすべて、ナルシシストにとっては同じもの、つまり自己愛供給の異なった形態に過ぎない。


供給源
彼らが 「供給源」から受け取る注目は、ナルシシストの生存に必須であり、彼らの脆弱な自我が不安定な自尊心を処理するために依存しているので、それなしでは彼らは(物理的、比喩的に)死んでしまう。自己愛供給にはそれらを達成する特徴的な形式があるが、2つに分ける供給源からなる。学者や研究者は一般に、自己愛的供給の2つの主要な種類を認識している。:一次的は、より公に対して向けられた注目の形式を通して獲得されるもので、二次的は、たいてい対人関係を通して達成される注目によって獲得される。


一次的
一次的自己愛供給は、認知、名声、悪名、スターダムといった公的な形と、賞賛、感嘆、喝采、恐怖、嫌悪といった私的でより対人的な形の、両方の注目に基づいている。一次的な自己愛供給が、肯定・否定のどのような種類の注目をも表すことを理解することが重要である。彼らの「実感」は、他者がそれを信じている限りの、想像や虚構であり、あるいはナルシシストにとってのみ明白であるようなものかもしれない。内容より見かけなのであり、真実ではなく、それに対する彼らの知覚が重要なのである。したがって、彼らが偽りの自己を通して投射する思い通りの反応や注目を受けさえすれば、それに付随している意味合いなど取るに足らない。

トリガー
自己愛供給の主たるトリガーは、ナルシシストの偽りの自己の情報に従って供給源に対峙することにより、供給源に自己愛供給を行わせる、個人または対象である。自己愛供給は、トリガーに対する供給源の反応なのである。偽りの自己が賞賛を投射することでナルシシストが彼らの欲求に叶う環境を見つけた場合、それが一次的自己愛供給のトリガーとなる。

パブリシティー(名声あるいは悪評、有名であることまたは悪名高いこと)は、人々がナルシシストに注目する原因になるため、つまり供給源がナルシシストに自己愛供給の提供をするように方向づける、自己愛供給のトリガーである。パブリシティーは、人前に出ること、何かを創造すること、そして注意を喚起すること、によって獲得されうる。ナルシシストは、麻薬中毒者が定期的な服用を保証するためにやっていることと同様に、継続的にこの3つに縋る。自己愛供給のこのような原因の一つは、パートナーや仲間である。

二次的
二次的自己愛供給には、良い人生を送っているというイメージ(ナルシシストにとってプライドへの価値ある根拠)の投射、安全な生活(経済的安定、個人的受容性、上昇傾向)の維持、仲間の獲得、などが含まれる。したがって、パートナーを持つこと、相当な財産を所有すること、創造的であること、会社(病的な自己愛的空間に転換される)を運営すること、無秩序な自由を感じること、地域や社会の一員であること、技能や他の評判を持つこと、繁栄していること、土地を所有し自分のステータスサインを表示することは、すべて二次的自己愛供給を表している。ナルシシストの友人のコミュニティでは、どんなものでもステータス・シンボルとなり、そのコミュニティでの達成として二次的供給源とみなされるだろう。二次的供給とは、ナルシシストの生活が友人や親族にもたらす全体的なイメージのことである。しかしながら、それが維持されているなら、このタイプの供給は肯定的である必要があり、否定的などんな表出も、その人(誰であれ)を傷つけてしまうことになるだろう。短い一次的自己愛供給のための予備となる供給源でもあるのが、このタイプの供給源である。しかしながら、ナルシシストは、どちらをもほぼ同じ流儀で使用する。


関連項目
(省略)


参照
(省略)


引用
(省略)


出典
(省略)

(Translated from the article "Narcissistic supply" on Wikipedia)

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・エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』 東京創元社

 ルネサンスは地中海貿易でいち早く豊かになったイタリアから欧州に広がったわけだが、さらなる資本主義の進行により教会が腐敗しその反動としてルターやカルヴァンが登場してプロテスタントが生まれた。欧州の人々は経済・社会的な地殻変動によってしばらく生き方の方向性を見失ったが、かなりの勢力が新たな帰属先としてプロテスタント信仰と資本主義的な価値観が絡み合ったような社会システムを構築し普及させていった。ある意味なんでもないような過程であるが、フロムはサディズムやマゾヒズムといった概念を駆使してこれに対し独自の説明を展開する。
 歴史のはざまに落ち込み方向性を見失った人々に対して、フロムは、何かに従う(マゾヒズム)のではなく自発的に生きることを要求するのだが、無謀な飛躍を含むというかより強い言葉を使えば欺瞞のようなものを感じざるを得ない。人はそんなに強くないし、未来や合理性に関し十分に予見的でもない。
 当たり前だが、なにか(価値観や関係性や集団)に従おうとするのはそれだけでは別にマゾヒズムではない。たとえば、見知らぬ土地に旅行に行って不案内だからとガイドを雇ったとして、情報の真偽は確かめようがないけれどお金も払ってるし大体ガイドの言うことに従うのが普通だと思われるが、もちろんこれもマゾヒズムではない。歴史の変動期に翻弄された人々は、このような見知らぬ土地に迷い込んだ人に似ているだろう。
 たとえば、現代的な愛着理論の被虐待児に対する観察で、健全な愛着を得られなかった乳幼児たちは、本来愛着的なシチュエーションであっても無反応か無秩序な反応をする。このような事態は自発的に生きるための方向性を(ほとんど半永久的に)失わせる。愛着対象を内在化できている健康な幼児は、自分のある種の行為が親から愛される行為であることを知って、そのことが彼らの自発性に実効的な形式を与えてゆく。
 つまり自発性は、当人が無意識だとしても、程よい母親(とのコミュニケーション)によって早期に刻み込まれたある方向付けが大部を占める。そして、その方向づけが後に実際に社会的な果実を当人にもたらすならば、その人はそのままスムーズに人生を歩めていると見なせるだろう。歴史的な変動期には、この人生早期の方向付けと自立後の現実との間にズレが生じやすくなる。しかしながら、これはフロムが「自動人形」として描くような、心の基礎部分が壊れたような、病的な状態でないことは言うまでもない。そこまでサシが深く重篤であるためには、上述のように早期の愛着獲得に失敗している必要がある。当時の大衆層がみんなそのように病的な心的基礎を持っていたとは思えない。フロムのある種の無分別がこの辺りに隠れていると思われるが、また、個人の病理に関する知識を集団に当てはめるために生じる齟齬の一種だとも言えるかもしれない。
 歴史の転換点では人々の古いやり方が壊滅し、跳び移る石が必要になるわけだが、いつでも都合よく願望に叶うものが見つかるわけではないだろうし、状況は様々だ。プロテスタントとナチズムの同次元での対比はその意味でもかなりの違和感を残す。
 本書のおおまかな主題はナチズム成立の原因を探ることにあると思われるが、宗教改革前後の大衆の中世カトリックからプロテスタントへの乗り換えが前半に描かれ、大きな伏線となっている。同様の依存の移行として大衆のナチズムへの傾倒があったと言いたいわけである。ただ、カトリック国のイタリアでも類似のファシズムは台頭したし、日本でも伝統的な天皇を中心とした独特なファシズムかそれに近いものが現れた。フロムは、当時の資本主義の先進国に対し共通して一歩か半歩遅れを取っていたこれらの国々を相互に比較するようなことはしていない。
 不満を持った社会階層や国民が団結したりその代表者が攻撃的(サディズム的!?)になることは、私にはちっとも不思議じゃない。かなり当たり前の反応である。にも拘らず、フロムは何か、不当にも降って湧いた奇異な事態であるかのようにこれを叙述するような感じがある。
 フロムの考える自由は、深刻な社会変化に対して十分なレジリエンスを発揮できるほどに愛着関係に恵まれた個人の生き方を遠いモデルにしているようにも思われる。そういう人は、社会や身の回りに根底的な変化が生じても、相当な程度適応する力があるわけだが、誰でもそのように高度なレジリエンスを持ち合わせているわけではもちろんないし、乳幼児期までに培われている可能性が高く、大人になってからそれを獲得するのはかなり難しいことのように思われる。

 フロムは(社会的に成功した)芸術家を自発性を発揮する羨望すべき存在として提示するが、留保したいところだ。内的な自発性と外的な成功の法則があらかじめ合致しているような人が世の中にいるとしても、その人物がこの世界を生み出したのでないとすれば、機序の本体は必ず現実の側にある。彼はたまたま自己中心の夢から醒めないままでいられているに過ぎない。仮に一生涯醒めないままでいられるケースがあったとしても、中間をゴールと取り違えたままでい続けることであり、それはそれで一つの悲劇かもしれない。
 しかも実際の芸術家は需要に合わせるため秘密裏に様々な調整をしているに違いなく、それは水鳥の水面下の足掻きのようなものだと思われる。
 芸術家の自発性というものは、理想的な成熟による自己確立とは別のものであるように、私には思われる。
 ただフロムは称揚しながらも、これを子供の自発性の美しさと併置してもおり、どこかでは未熟なものと分かっているのかもしれない。むしろ内面と外界のずれにどう対峙するかが成熟した自発性の領分であろう。

 名著と言われる本書を読みながら、この作品がどうしてそのような強い力を読者に及ぼすことができるのか、原因を考えないではいられなかった。エーリッヒ・フロムは、この著作において、自発性というものを肯定するモチーフを徹底的に強調しその上に論を展開している。人の自発性を(極端なほどに)強調するということは、読者に対してどうしたって各々の「いま、ここ」を意識させることになる。読めば読むほど、外部に制限されない生の自己というものを読者自身に突きつける。このことが、いわゆるマインドフルネスと同じ効果をもたらすのではないかと思われるのである。禅もある種のマインドフルネスである。外的な刺激や束縛を忘れて、本来の自分というものをひととときでも取り戻す。
 そういうわけで、本書の内容であるナチズムの原因や成立についての説明がどこまで厳密なものであるかはさておき、読者に対してメンタル的にポジティヴな効果をもたらす可能性があり、そのことが読後感をいやが上にも爽快なものにする直接の原因になっているのではないかと思われるのだ。
 ただ、現実的には、人は自発的でばかりもいられない。土日の坐禅会でリフレッシュしたサラリーマンが月曜からはまた会社でもがくことになるように、この本を読み終えてしばらくはその薬効に与るとしても、読者は共同性から逃れられない現実に帰っていかなければならない。


CIMG3653.jpgp.21
『本書で提出した立場は、フロイトの考えとはちがっている。フロイトは歴史というものを、社会的には規定されない心理的な要素の結果であると説明したが、われわれはそれに強く反対する。また、社会過程における動的な要素の一つである人間的な要素の役割を無視するような理論にも、強く反対する。』
※フロイトがそんな極端な立場だっただろうか?

p.53
『近代的な意味での自由はなかったが、中世の人間は孤独ではなく、孤立してはいなかった。生まれたときからすでに明確な固定した地位をもち、人間は全体の構造のなかに根をおろしていた。こうして、人生の意味は疑う余地のない、また疑う必要もないものであった。人間はその社会的役割と一致していた。かれは百姓であり、職人であり、騎士であって、偶然そのような職業をもつことになった個人とは考えられなかった。社会的秩序は自然的秩序と考えられ、社会的秩序のなかではっきりした役割を果せば、安定感と帰属感とがあたえられた。そこには競争はほとんどみられなかった。ひとは生まれながら一定の経済的地位におかれ、それによって、伝統的に定められた生活程度は保証されたが、同時に、より高い上層階級の人間にたいする経済的義務は果たさなければならなかった。しかしこのような社会的地位の限界を破らないかぎり、自由に独創的な仕事をすることも、感情的に自由な生活をすることも許されていた。いろいろな生活様式をあれこれと自由に選ぶという、近代的な意味での個人主義(しかしこの選択の自由は非常に抽象的なものであるが)は存在しなかったが、実際生活における具体的な個人主義は大いに存在していた。』
※しかしながら、有能とはいえない職人の分不相応な自負心のようなものも想起させる。人々が共通の基準では試されなかった時代だったかもしれないが、そういう状況下で見出された個人主義は現代から見れば幻影のようなものかもしれない。個人としての夢の中に居られた時代だったのだ。

p.93
『ひとは自分が自らの主人であるとは考えてはならない、とかれは教える。』
※カルヴァンの教えだが、腐敗した教会を介さずに、神に直接対峙して自己否定する態度はルターと共通している。

p.97
『カルヴィニストはまったく素朴に、自分たちは選ばれたものであり、他のものはすべて神によって罰に決定された人間であると考えた。』
※しかし人に対してはこのような尊大さが共存する。ルターの権威主義とも通底するが、ある種の差別感情が宗教改革の原動力だったことは否めないようだ。ルターは大衆というものを相当嫌悪したようだ。

p.138
(資本主義がプロテスタンティズムの精神をさらに発展させた文脈で)
『財産や社会的名声をほとんどもたない人間にとっては、家族が個人的威光を与える源であった。そこでは個人は「なんらかのもの」と感ずることができた。かれは妻や子供をしたがえ、舞台の中心となることができた。そして単純にも自分の役割を自然の権利と考えていた。かれは社会的世界では無に等しいが、家庭では国王であった。家族のほかに、国家的な誇り(ヨーロッパではしばしば階級的誇り)がまた重要な意味をあたえた。個人的には無に等しくても、自分の属している集団が、同じような他のしゅうだんよりも優れていると感ずることができれば、それを誇ることができた。』
※図らずもナルシシストの説明とほぼ同じだが、私的に実在する具体的な人物を想起した。

p.164
『かれは彼女なしには、―あるいはすくなくとも、かれの掌中にあって頼りない存在と思われるような人間なしには生きていけない。ただこの関係が破れそうなときにだけ、愛の感情があらわれる。他のばあいには、サディズム的人間は、かれが支配していると感じている人間だけをきわめてはっきりと「愛し」ている。』
※これもナルシシストの説明である。

p.170
『マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれることである。』
※自由の重荷というより現実の重荷ではないか。

p.175
『サディズム的衝動の本質はなんであろうか。ここでもまた、他人に苦痛をあたえようという願望が本質なのではない。サディズムの形にはさまざまなものが観察できるが、それはただ一つの本質的な衝動にまでさかのぼることができる。すなわち他人を完全に支配しようとすること、かれをわれわれの意志にたいして無力な対象とすること、かれの絶対的支配者となること、かれの神となり、思うままにかれをあやつることである。かれを絶滅させ、彼を奴隷にするのは、この目的のための手段である。その最もきびしい目標はかれを悩ませることである。なぜなら他人を支配する力として、他人に苦痛をあたえ、自己防禦できないものに苦悩をしのばせる以上のことはないからである。他人(あるいは他の生物)を完全に支配することの快楽、これがサディズム的衝動の本質である。』
※素行障害の少年の小動物への嗜癖的な殺傷や、サイコパスの起こす快楽的な犯罪など、サディズムが必ずしも社会関係としての支配を求めているわけではないケースは多々ある。口唇期サディズム。

p.192
『またかれらは、依存しているという事実を全然意識しないこともよくある。たとえこのような依存をぼんやりと意識しているとしても、かれらが依存している人間や力は曖昧なままになっていることが多い。この力に結びつくはっきりしたイメージはない。その本質的な性質は、ある人間を保護し、助け、発展させ、彼らとともにあり、彼らを孤独にしないような働きをするところにある。このような声質を持つ「X」を魔術的な助け手と呼ぶことができよう。』
※カレンホーナイが著書「自己分析」の中で『魔術的救助』とか『魔術的援助』と呼んだものと類似だが、出版はフロムのほうが一年早いようだ。こういう表現の仕方の起源が他にある可能性もあるが未知。現実世界から漏れ出した自己愛の痕跡かもしれない。養育過程になんらかの深い欠損がある場合、こういう心理は簡単に克服できるようなものではない。

p.233
『ナチズムの諸原理にたいしてどんなに反対していようとも、もしかれが孤独であることと、ドイツに属しているという感情をもつことと、どちらか選ばなければならないとすれば、多くのひとびとは後者を選ぶであろう。』
※ドイツ人フロムは本書執筆時(1941)にはアメリカに移住してすでに何年も経っている。現実にはナチズムに対して明確な否定的意識を持っていたドイツ人はごく少数だったろう。

p.234
『下層中産階級の社会的性格が労働者階級のものとことなっていたといっても、それはこの性格構造が労働者階級のうちには存在しないということではない。しかしそれは下層中産階級に典型的なものであって、労働者階級ではこの同じ性格構造を同じように明瞭に示したものは、ほんの少数であった。』
※なんとも妖しい言い回しである。ある社会的階級に顕著な特徴が別の階級にあまり見られないことは当たり前で、ほとんどトートロジーのようなものである可能性もある。また精神に内在化したものではなく、単にある階級に共通する外的な条件を反映したものにすぎない可能性もあるだろう。

p.244
『サディズムは他人にたいして、多かれ少なかれ破壊性と混合した絶対的な支配力をめざすものと理解され、マゾヒズムは自己を一つの圧倒的に強い力のうちに解消し、その力の強さと栄光に参加することをめざすものと理解される。サディズム的傾向もマゾヒズム的傾向もともに、孤立した個人が独り立ちできない無能力と、この孤独を克服するために共棲的関係を求める欲求とから生ずる。』
※幼児性が残存したものであることは疑いがないとは思う。

p.245
『ゲッペルスは、サディズム的人間が自己の対象に依存するさまを正確に描いている。すなわち、サディズム的人間は他のだれかに対して力をもたないかぎり、どんなに弱く空虚に感ずるか、またこの支配力がどんなにかれに新しい力をあたえるかを描いている。「ひとはときに深い意気消沈にとらえられることがある。ひとは再び大衆の前にでるときにのみそれを克服することができる。民衆はわれわれの力の源泉である」。』
※これも自己愛で説明したほうが早いが、権力者等に付随して起こりうる一般的な現象でありナチスに特有なものでもなんでもない。

p.248
『自分の目的はドイツの繁栄だけでなく、文明一般の最良の利益に奉仕しているのだというヒットラーの確信は、この数年来あらゆる新聞読者に周知のことであった。』
※ポツダム宣言では日本が「世界征服」を企んでいたことになっているのだが、多分知っている日本人は殆どいない。現実はせいぜい大東亜共栄圏の構築であろうか。ただこの記述は「我が闘争」からのようなので事実であろう。合理化された誇大感として捉えればどうということもない。

p.253
『サド・マゾヒズム的性格に典型的な、強者にたいする愛と無力者にたいする憎悪は、ヒットラーやかれの追随者の非常に多くの政治的行動を説明する。』
※このサド・マゾヒズム的性格という謎めいた語彙はナルシシストにきわめてスムーズに置き換えられる。

p.267
『近代人にたいする自由の二面性を論じたとき、現代において、個人の孤独と無力を増大させている経済的諸条件を指摘した。すなわちその心理的結果を論じて、この無力は権威主義的性格にみられる一種の逃避を導くか、あるいは孤独となった個人が自動人形となり、自我を失い、しかも同時に意識的には自分は自由であり、自分にのみ従属していると考えるような強迫的な画一性に導くことを示した。』
※小市民的な幸福を全否定しているようにも読める。フロムの傲慢さが垣間見える。

p.269
『他方、子どもは教育の早い時期に、まったく「自分のもの」でない感情をもつように教えられる。とくに他人を好むこと、無批判に親しそうにすること、またほほえむことを教えられる。』
※本書でかなりぞっとした箇所。大丈夫ですかフロムさん?

p.279
『近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は両親の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。』
※フロムには共同性に対する過剰な潔癖症が表れる。ナチズムに対する反発が底流にあるのかもしれないが、もはや極論に近くなっている。

p.281
『風変わりにならず、他人の期待に順応することによって、自己の同一性についての懐疑は静められ、一種の安定感があたえられる。しかしその払う代価は高価である。自発性と個性を放棄することは生命力の妨げとなる。心理的に自動人形であることは、たとえ生物学的には生きていても、感情的、精神的には死を意味する。たとえ生の運動をおこなっているとしても、かれの生命はかれの手から砂のようにこぼれていく。』
※共同性によって独りでは決して得られないものが得られるわけだが、共同性にのみこまれてしまうかどうかは別の話だし、ほとんどの人は何らかの距離を取って生きているはずなのである。ペルソナ等。

p.286
『芸術家の地位は傷つきやすいものである。というのは、その個性や自発性が尊敬されるのは、じっさいには成功した芸術家だけであるから。もし作品が売れなければ、かれは隣人から奇人か「神経症患者」とみられる。芸術家のこのような事情は、歴史上の革命家の事情とにている。せいこうした革命家は経世家となり、失敗した革命家は罪人となる。』
※芸術家の恣意性は受け手の現実法則と合致した場合のみ価値を持つ。芸術家がこの世界の創造主である可能性はほぼゼロなので、それはなんらかの偶然かめぐり合わせによってもたらされるにすぎない。

p.288
『自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えたりすることを表現できなかったり、またその結果、他人や自分自身にたいしてにせの自我をあらわさなければならなかったりすることが、劣等感や弱小感の根源である。気がついていようといまいと、自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え、感じ、話すことほど、誇りと幸福をあたえるものはない。』
※一面的な真実を誇張している感じで、アジテーションに近いと言わざるをえない。あるいはフロムの感情が上滑りしている。

p.289
『もし個人が自発的な活動によって自我を実現し、自分自身を外界に関係づけるならば、かれは孤立した原子ではなくなる。すなわち、かれと外界とは構成された一つの全体の部分となる。かれは正当な地位を獲得し、それによって自分自身や人生の意味についての疑いが消滅する。この疑いは分離と生の妨害から生まれたものであるが、強迫的にでも自動的にでもなく、自発的に生きることができるとき、この疑いは消失する、彼は自分自身を活動的創造的な個人と感じ、人生の意味がただ一つあること、それは生きる行為そのものであることをみとめる。』
※自発性と社会の要請との辻褄が合った場合に自我が実現されるという話で、今方向性を見失っている人には目を醒ますような効果があるかもしれないが、一般論としては偏りすぎている。なぜなら外界を説得するプロセスには自発性を超えたものがつきまとうに決まっているのだから。

p.290
『自我の独自性はけっして平等の原理と矛盾しない。人間は生まれつき平等であるという命題の意味は、人間はすべて同じ根本的な人間性をあたえられ、人間存在の根本的運命を分有し、すべて同じように、自由と幸福とを求める譲渡すべからざる要求をもっているということである。』
※少し孟子を思い出す。先月ロバート・ヘアを含むサイコパス関連の書籍を続けて三冊読んだのだが、サイコパスは共通して前頭下部領域の脳の機能が著しい低位状態にあることが科学的に判明しているらしい。そのようなサイコパスだけでなく、はたして人間がすべて同じ根本的な人間性をあたえられているかどうかについて同意しかねる。

p.293
『しかし生命にたいして決定的に対立するファシストの「理想」のようなものについてはどうであろうか。あるひとびとが、他のひとびとが本当の理想にしたがっているのと同じような熱心さで、いつわりの理想にしたがっているという事実は、どのように理解できるだろうか。』
※誘導的な問いかけ方。人が生命に決定的に対立しているのに人が気づかないわけがないのだ。米国にいて祖国ドイツを眺めるフロムとは、別の条件下に(社会的・経済的に困窮したドイツ)、当時のドイツ国民はいたはずなのである。

p.296
『もしアナーキーということが、個人がどのような権威も認めないということを意味するのであれば、その答は合理的権威と非合理的権威との差別について語ったことにみいだされる筈である。合理的権威は―真の理想のように―個人の成長と発展という目標をもっている。それゆえそれは、原則として個人やかれの現実の目標と対立することはなく、かれの病的な目標と衝突するのである。』
※愛着対象を内在化できなかった個体は生きるまともな方向性を持てない。なぜなら何が合理的な目標なのかを判断する土台すらないからだ。あるいは合理性そのものが断片化したり歪んだりしている。また、特に病的な偏りがない場合でも、何が合理的な目標であるかは一般的にあらかじめ分からないことが多いだろう。

p.302
『人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろかれが大きな機械の歯車、自動人形になってしまったという事実、かれの生活が空虚になりその意味を失ってしまったという事実である。』
※欧州人が使役・搾取してきた奴隷たちはどうだったのか。また、一方で、制約的な状況下の他者が自動人形に見えてしまう人の脆弱性(or誇大感)もありえる。

p.306
『社会的性格は個人のもっている特性のうちから、あるものを抜きだしたもので、一つの集団の大部分の成員がもっている性格構造の本質的な中核であり、その集団に共同の基本的経験と生活様式の結果発達したものである。』
※或る社会階層の成員に共通した特性が見い出だせることはあるだろうが、その特徴は個人として自己のごく一部あるいはペルソナに相当している可能性が低くない。ペルソナをその人の性格構造の本質とするのは誤りだと思うが、影響がより深く浸透しているケースもあるだろうし、そういう意味での識別が必要な気がする。

p.310
『思想が強力なものとなりうるのは、それがある一定の社会的性格にいちじるしくみられる、ある特殊な人間的欲求に応える限りにおいてである。』
※ドイツの中流下層階級はナチズムに対してまず感応したのではなく、当時の困窮した社会状況にまず感応したのだ。その土壌からナチスが生まれた。第一義的に、ナチズムは社会状況の派生物にすぎない。

p.318
『それゆえ、われわれはつぎのような事実に到達する。すなわち、性格の発達は基本的な生活条件によって形成され、生物学的な固定した人間性というものは存在しないが、人間性はそれ自身一つの力学をもっていて、社会過程の進化における積極的な要因を形成している。』
※本書に限らずエーリッヒ・フロムは、人の性格形成に関して、先天的要因や乳幼児期(臨界期)の対象関係の影響にあまり立ち入らない。社会心理学者だからといって、人を主語にする場合に、それらに言及しないでは済まないはずでだ。

p.320
『愛、保護、知識、物質的事物など、ひとがえたいと思うすべてのことを、自分以外の外部のものから受動的に受けとろうとする願望は、他人にたいするかれの経験の反作用として、子どもの性格のうちに発達する。もし他人との経験から恐怖心が生まれ、自己の強さの感情が弱められるならば、もし創意と自信とが麻痺させられるならば、もし敵意が発達しそしてそれが抑圧されるならば、またもし同時に、父か母が、絶対服従という条件のもとで、愛情や保護をあたえるならば、これら一連のことがらは、積極的に問題を解決する態度を失わせ、かれのすべてのエネルギーは、かれのあらゆる願望を思いがけなく実現させてくれる、外的な力を求めるようになる。』
※おそらく本書ではここが最も親子関係に接近した箇所であるが、この程度である。いわゆる魔術的援助(あるいはフロムの言うマゾヒズム)の説明でもあるが、これが当時のドイツの中流下層階級にきわめて特徴的だったためナチズムへの盲従につながっていくという理路が本書の基本骨格である。いやぁ、えーと。

p.322
『ヨーロッパの下層中産階級に典型的にみられる肛門的性格が、幼児時代の排泄と結びついた特殊な経験によって生まれると考えるかぎり、なぜある特殊な階級にだけ肛門的性格がみられるのか、ほとんど理解できなくなる。しかし、肛門的性格を、性格構造に根ざした外界との経験から生まれてくる対人関係の一形式と考えるならば、下層中産階級の偏狭とか孤独とか敵意とかいう生活様式全体が、なぜこのような性格構造を発達させたかを理解する鍵をつかむことができるのである。』
※ナチス台頭を準備したインフレで、ドイツの下層中産階級は経済・社会的に困窮したので、偏狭だったり孤独だったり敵意を持ったりしたとしても特に不思議ではない。外的な環境への適応が或る階層に属する各人に恒常的に内在化されたもののように叙述するのは適切ではない。言うまでもないが、特定の階級にだけ肛門期的性格が見られるというようなことはない。

p.326
『人間は外界の変化にたいして、自分自身を変化させることによって対処し、そしてこれらの心理的要因が、こんどは逆に、経済的社会的な過程の形成を助長する。』
※一般論としてはおっしゃるとおりです。

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神経症的傾向に伴う2つの特徴
1.目標追求に伴う無分別性
2.神経症的傾向を現すまいとして起こった不安の反動であること

クレアの強迫的傾向
1.自分の願望や欲求を強迫的に控えめにする
2.自分のことは他人のことほど考慮しない
3.他人に卓越しようとする強迫的欲求(防衛的な高慢さ)

神経症的傾向の分類
1.愛情と承認への神経症的欲求
2.自分の人生を引き受けてくれる相手がほしいという神経症的欲求(マゾヒズム?)
3.生活領域を制限しようとする神経症的傾向(ミニマリズム)
4.権力への神経症的欲求
4a.論理的・推理的に割り切ることによって自他を制御しようとする神経症的欲求
4b.意志力の全能を信じようとする神経症的欲求
5.人を利用し、人に勝つためには手段を選ばないという神経症的欲求
6.社会的に認められ、名声を博したいとの神経症的欲求
7.自己を称賛されたい神経症的欲求(自己愛)
8.個人的業績への神経症的野心
9.自立と独立への神経症的欲求(何人の助けも不要)
10.完全で非の打ち所のない状態への神経症的欲求


神経症的傾向の自己イメージ3様
1.卓越した理知
2.(受動的)愛の優越
3.完全なる自律・自足

同居する自己イメージの矛盾や相反が神経症的「症状」を生む。

歪んだまま自己正当化(二次的防衛)が始まる。

「分析操作というものは一歩一歩悪循環をときほぐすことにある。」p.81

精神分析過程の三段階
1.神経症的傾向の認識
2.その原因、顕現状態、結果の発見
3.その神経症的傾向とその人のパーソナリティの他の部分との相互関係、特に他の神経症的諸傾向との関係の発見

すぐに(パーソナリティの)変化を積極的に受け入れられるとは限らない。p.84


追記(2022/10/08):

患者に対決をせまる主な任務の三項目 p.95
1.できるだけ徹底的にかつ明けっぴろげに自己表現をすること
2.自己の無意識的欲動とそれが彼の人生におよぼす影響を知ること
3.彼と彼の周囲の外界との関係を乱すような性格傾向を改造する能力を成長させること

「自由連想からは自分が耐えられることしか掴まない」p.193

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《症例クレア》

「最近の一連の連想を概観すると、彼女は殆どの出来事の重点が予期しない援助や贈り物におかれていることを知って驚愕したのである。」p.217

「クレアがこの時期に発見したことで最も重要なことは、次にのべるようなことがらに対する強い反抗があるのに気づいたことである。すなわち自分自身の人生を歩むこと、自分自身の感情を味わうこと、自分自身の思考を思考すること、自分自身の興味・計画をもつこと、要約すれば自分自身であり、自分自身の中に権威を見出すこと、などに彼女は反抗したのであった。この発見が彼女のほかの発見と違うところは、それが全く感情を伴った洞察である、ということであった。」p.239

「今やっと彼女にわかったことは、前夜の自分の反応は実は彼との約束がふいになってがっかりしたためにおこったのではなく、彼が彼女の感情を無視したというその冷淡無情さに起因していることであった。」p.222

「たしかに彼女は自分の不幸を誇張したが、苦境を訴える人もなく、電話をかける相手たるピーターもいなかった。全人類の中で自分が一番哀れだと感じるだけで、援助がやってくると信じるほど彼女はもう非理性的ではなかった。」p.243

魔術的救助。p.243

「そこで問題は結局、一人でいられないという一般的なことではなく、排斥されることへの神経過敏さであることがわかったのである。」p.251-252

「このことと関連してクレアが思い出したのは、母と兄との緊密な結びつきであり、この結びつきから彼女はしめ出されていた。母や兄の目から見れば自分は厄介者にすぎない、というふうに彼女が感じさせられたいろいろの事件が浮かびあがってきた。」p.252

「もし彼女が、魔術的援助願望を彼女の依存性に結びつけて考えることなく、この両者が相互に不可欠の要素であることを知りえなかったなら、この魔術的援助願望を徹底的に克服することはできなかったであろう。」p.270

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「抵抗の背後にある欲動の発達をとがめてはならない。この欲動が擁護しようとしている神経症的傾向はほかの人生対処法が全部失敗に終わったとき、彼にひとつの生きる手段を与えてくれたものなのである。」p.297

「どんな抵抗でもあるていど強くなると、現実的にそれは分析の限界へと変貌する。」p.298

「今日の社会では、経済的に独立している人は象牙の塔にたやすく引きこもれる。ところが資力の貧しい人はよほどほかの欲求を最小限にきりつめないと、世間から身をひくことができない。ある人は威光や権力を鼻にかけるのが許されるような環境で育っているが、しかしまた別の人は無から出発したけれども外的環境を心にくいまでに利用して、ついには威光、権力などの目標を意のままにするであろう。」p.301

「重症の神経症は体にきつい鎧を着たように力一杯活動的な対人関係をもつのを邪魔する。そのため人生に対する怒りが発現してくるが、これはニイチェが人生羨望といったように、のけものにされているということに対する深い怒りである。自分に対しても人に対しても、敵意や軽蔑が非常につよい場合は、むちゃくちゃになるのが一番気持ちにぴったりする仕返しの方法である。だから人生の与えてくれるものすべてに対して"ノー"ということがのけものにされているものとしては唯一の自己表現方法なのである。」p.302
※ネット検索ではニーチェの「人生羨望」なる語はヒットしない。

「(自己分析の試みに際して伴う)もうひとつの偏向は、特殊な現在の障害を幼少期のある特定の経験そのままの繰り返しであるとみなす根づよい傾向である。自分を理解しようと思えば、自分の成長に作用した要因の理解が必要なことはいうまでもない。性格形成に及ぼす幼少期経験の影響は、フロイドの主要な発見のひとつである。しかし現在の性格形成に寄与しているのは、いつでもわれわれの幼少期の経験の総和である。従って現在のあるひとつの障害と幼少期のあるひとつの経験との関係だけを抜き出して解明したところで無駄なことである。現在の特性は現在の性格に内在する諸要因の全体的相互作用の現れとしてのみ理解できるものである。」p.308

「(先天的な素質による分析の限界に関して)或いは多かれ少なかれ意識的に決心するのは、次のようなことである。人間関係の問題は―そのあるものについては彼は自覚し理解しているが―彼のエネルギーにとって非常な負担であること、しかも平和な生活を送る唯一の方法、創造力を保つ唯一の方法は、人から遠ざかること、人や物への欲求を最小限に制限すること、そして欲求の最小限化という状況下なら、何とか生存をつづけうるということ、などである。」p.311
※本原書は1942年に出版されたが、ほぼ社会的ひきこもりのような概念である。あるいはシゾイド。日本では一時マスコミや斎藤環によって、引きこもりが日本特有の現象であるかのように喧伝されたが、虚偽である。

「完全な分析などというものはない。」p.315

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《訳者あとがき》
「ホルネイはフロイドを否定したのではなくて、ただ修正しただけだといっているが、フロイド分析学にとっては根本的な本能論や人格構造論(イド、自我、超自我)を斥けている。ホルネイによれば、人間を動かすものはフロイドのいうように性欲と攻撃欲ではなくて、安定感への欲求であるという。安定感への欲求は何に由来するのか。子供は親からかまってもらえないと不安を感じる。これをホルネイは根源的不安(basic anxiety)と名づけた。根源的不安は具体的には孤独感や無力感、或いは絶望感として感じられる。」p.318-319
※訳者あとがきは多数の雑な例がホーナイの主張を補強する(つもりの)ものとして出されていて怪しいのだが、さすがにこの箇所はそのまま受け取っても構わないだろう。


追記2(2022/10/09):
 読みながらメモしていったのでエントリーは複数回に分かれている。現在の精神医療では薬物治療にシフトしていて、精神分析的手法はあまり取らなくなっていると思われるが、無意味でもないと思ってまとめてみた。
 本書は基本的にクレアの症例のみを主軸として内容を展開している。恋人との何気ない行き違いから、自分の性格的傾向の自覚、そして、育った家庭において兄と密着した母により常に蔑ろにされていたことに、クレアの自己分析は行き着く。敗北主義的な傾向すらあり過剰に依頼心の強かったクレアは、分析によって過去の自分を脱却し立派に自己主張ができるようになったと述べられているわけだが、劇的変化の過程や機序はちゃんとは描かれていないと言っていいと思う。一応「真我を回復する」というモチーフは提示されるものの、偽りの自己の一般的なしつこさを念頭に置くとき、(分析への)抵抗の弱さにも違和感を持つし、クレアはとにかく自己分析をして好くなったのだ、と受け取るしかないという感じになってしまう。別言すれば、本当にこれで一件落着したのか疑いが残るわけなのである。
 クレアが行ったのは、ホーナイの治療過程での補助付きの自己分析だと思われ、通常の対面分析にかなり近い自己分析ということになり、その点注意が必要だ。クレアが純粋に単独で行った自己分析をホーナイがあとから聴いたという感じではない。むしろ主治医の誘導あるいは指導でゆるく守られた中での自己分析であると思われる。

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CIMG3597.jpg・エーリッヒ・フロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)

 加藤諦三がカレン・ホーナイと並んでよく引用するエーリッヒ・フロムなのだが、どちらも新フロイト派ということで、加藤諦三もおそらくそういう方向性なのだろう。エーリッヒ・フロムはネタ元として、さすがに加藤諦三の受け売り的な感じとは一味も二味も違う。

 愛は、配慮、責任、尊重、知から成っている(そうあるべき)と序盤に定義づけそれに基づいて話が進むことにはなるのだが、その前に、フロムが本書で言いたいことをぎゅっと要約したようなパラケルススの言葉が、目次のすぐあとに引用されているのを見逃してはならない。

『愛するということ』p.5
 何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。(中略)ある者に、より多くの知がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。(中略)すべての果実はイチゴと同じ時期に実ると思いこんでいる者は、ブドウについて何ひとつ知らないのである。
 パラケルスス〔一六世紀の医学者、神秘思想家、錬金術師〕
 他者を尊重しない、押し付けがましい、独りよがりな、あるいは杓子定規な、愛情関係が破綻に陥る運命の途上にあることはその通りだろう。しかし同時に、これは大なり小なり誰もが日常に身覚えのある破綻でもあるはずなのであり、人はこの種の無知から逃れられず、間違い続ける存在なのだと思われもする。
『愛するということ』p.84
 この段階にいたってはじめて、母性愛は大変な難行となる。つまり、徹底した利他主義、すなわちすべてを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力が求められる。多くの母親が母性愛というつとめに失敗するのもこの段階である。ナルシシズム傾向の強い母親、支配的な母親、所有欲の強い母親が「愛情深い」母親でいられるのは、子どもが小さいうちだけである。ほんとうに愛情深い女性、すなわち受けとるよりも与えることにより大きな幸せを感じ、自分の存在にしっかり根を下ろしている女性だけが、子どもが離れていく段階になっても愛情深い母親でいられるのだ。
 NPD親は自己の延長物として子に決定的に主体性が生じない形でなら愛情深さを維持するので、フロムの言い方には留保が必要な気がする。私はこのブログで何度も書いているがナルシシストが他者愛を全く持たないとするような考えは正しくないと思っている。彼ら自身がfull-fledgedな自己から追放されて発育しており、それはもちろん言い換えれば偽りの自己(解離)で生きているということなのだが、彼らの歪んだ期待と欲望の地平に沿った生き方をし続けるなら他者への愛情は持続する。一方主体性が生じてしまった子は彼らの憎悪する現実世界という「異界」の住人として同様に憎悪されることになる。だから、NPD親は成長する子が主体性を持たないように多様かつ能動的に働きかける。それは愛する対象を失いたくないという一般的な欲求によく似ている。
 自他の区別の曖昧さの中で、イニシアティヴを奪い合うというのがNPDの対他関係における基本把握なのだと思う。だから、どうしても人間関係の中での主体性のありかが鍵になってくる。

 フロムは本書終盤で社会的変化が個人に与えた影響を強調する。蔓延する資本主義という疫病が本来健全だったはずの人々を機能不全に追いやったかのような説明が(マルクスを引用しながら)続く。まさに新フロイト派の面目躍如たる箇所なのかもしれないが、そうではなく、機能不全な人々は古くからたくさんおり、それを陰に陽に補助していた古い相互配慮的な社会システムが資本主義によって取り払われて、彼らの不全なありのままの姿が露出したのだと、私は思うのだ。両論は似ているようでまるで違う。
 昔の社会は経済活動をも含んだ全体を人治的な素朴なヒューマニズムで覆っており、そのことは例えば機能不全の家庭に育ったあきらかに未熟な人々にも居場所を鷹揚に与えている面があったと思われる。しかし、資本主義の進行により、経済合理性の追求がそのような前時代的ヒューマニズムを無駄なものとして労働現場等から取り去っていった。このある種の後退はその時点において社会内に影の領域を創造した。本来は失った代わりとなる明かりがなにか必要だったが、当面後回しにされざるをえない。そして、おそらくは前世紀の中葉あたりから、先進諸国では労働者のストレス障害や鬱病が社会問題として認識されるようになり始め、彼らへの福利厚生が企業や組織にとって当たり前になるごく最近まで、その影の領域に落ちたおびただしい犠牲者たちは黙殺されることとなった、のだと思う。


追記(2022/09/12):
 資本主義が、科学・医療技術の発展を伴い、人口増加に寄与したことは事実であろう。むしろ、昔なら死んでいたはずの「弱い子」を延命させたために問題が生じた可能性もある。このことは岡田尊司もどこかで書いていた気がする。
 いずれにせよ資本主義を害悪とみなす視点は単純すぎる。

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CIMG3592.jpg 加藤諦三の新し目の本(加藤諦三『愛されなかった時どう生きるか』PHP文庫)の図書館予約の順番が回ってきたので、このところわりと集中して読んでいたのだが、面白かったと言うべきか、単に考えさせられたと言うべきか、いずれにせよ出会えてよかったとは思った。
 「愛されないことを恐れるな」が著作最後の小見出し。愛されなかった現実に直面せよとのこと。本当の自分の発見?しかし、一般的な意味での愛することの機能不全は、完全な無能力を意味しはしない。恩着せがましい贈与にも、親の愛が全く含まれていなかった可能性は低いだろう。
 少しだけ愛されたのだ。愛されなかったのではない。直視すべき現実があるとすればそのことだ。親離れするのに、現実に対応しない断念まで持つ必要はないはずだ。
 極論を言えば、妄想を伴うような重度のNPD親が主観的には子を愛していた場合、壊滅的に機能不全だったとしても愛はあったのだ。愛する対象が現実の子とはかけ離れたイメージで捉えられていたとしても、何かを育て愛そうとしていることは子に伝わる。そして、その何かがおそらく自分を指しているらしいことも。
 もちろん、加藤氏を「愛さなかった」親の現実検討能力の毀損が、そこまで重篤だったとは思えない。
 健常者の愛でも、それが他者同士のコミュニケーションである以上、現実的・結果的に有効でない行為を全く含まないことは考えにくい(ウィニコット等はむしろ多少のズレは歓迎している)。そして、彼らが「自分は親に愛された」と言う場合に、それらの有効ではなかった細かな行為を厳格に排除しているとは考えにくい。彼らは無効だったことも含めた全体を指して「自分は親に愛された」と認識しているのだ。
 子の情緒的・人格的な発達にあからさまな不具合が出て、その人生に何らかの具体的な破綻をもたらしている場合、常識的な意味で、彼らは「愛されなかった」と言い出しうるかもしれないが、概念のしきいや因果関係は依然として曖昧かつ相対的なものである。
 望んだ相互理解の可能性が諦め切れないために、愛情飢餓が肥大し、畢竟親の愛を全否定するような行為は、それ自体が幼稚なスプリッティングの表れである。メンタルヘルス系でよく言及される毒親との断絶も似ていて、相当以上の喪失を覚悟した上でやる最終手段であって、安易にやるべきことではない。当人の幼児性こそがそのような蛮勇を許しているのかもしれないからだ。

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 探していたカーンバーグの有名な論文がネット上にpdfであったので、リンクメモ。趣旨としては全体にカーンバーグがコフートを論難しているものなのだが、下に抜粋している箇所はその文脈とは直接は関係なく、今で言う心のレジリエンスの発生源に関するもので、個人的に印象に残ったため。

・Contrasting Viewpoints Regarding the Nature and Psychoanalytic Treatment of Narcissistic Personalities: A Preliminary Communication - Otto F. Kernberg, M.D.
http://www.sakkyndig.com/psykologi/artvit/kernberg1974.pdf

The normal reaction to loss, abandonment, and failure is the reactivation of internalized sources of love and self-esteem, which are intimately linked with internalized object relations and reflect the protective function of what has been called "good internal objects."

Contrasting Viewpoints Regarding the Nature and Psychoanalytic Treatment of Narcissistic Personalities: A Preliminary Communication - Otto F. Kernberg, M.D.
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 エーリッヒ・フロムの『生きるということ』を読んでるが、「持つ」と「ある」の対比を非常にノイジーなやりかたで論述している。しかし、彼が言う「持つ」人というのは、要は、(モノや他者に承認を求めるような)「偽りの自己」が優勢な人のことだと思う。愛着理論で言えば非安定型に多いかもしれない。エーリッヒ・フロムはドナルド・ウィニコットより4歳若いだけのようで、同時代の読者として前者を選んだ人は遠回りを強いられたことと思う。
 これまで私はエーリッヒ・フロムはたぶん『破壊』しか読んだことがなく、ヒトラーの精神分析パートが微妙というか荒唐無稽な感じで、あまり印象は良くなかった。エーリッヒ・フロムは加藤諦三の元ネタみたいなので今回図書館で借りてみている。


追記(2022/07/25):
 偽りの自己による「持つこと」は自己目的化された所有欲であり拡大欲である。それら病的な欲望を取り去るのに「持つこと」それ自体を取り去ってしまおうとするのは、多くの場合、行き過ぎた反動である。「持つこと」にも疎外されたものとそうでないものとがあり、健全な所有をも否定する態度になれば別の倒錯が含意されはじめる。俗世の全財産を捨てる仏教の出家者のような緊急避難的な行動を一般化するのにも似ている。

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CIMG3579.jpg アマゾンでほぼ半額だったので臨床心理士の型落ちテキスト(『心理系大学院入試&臨床心理士試験のための心理学標準テキスト'19~'20年版』IPSA心理学大学院予備校)を買った。一応中古扱いだったが、要は売れ残りで、折り目も汚れもまったくない未使用本。受験する資格も予定もないので今のところこれで十分である。
 ただ配送担当の日本郵便が凶悪で、大阪北部(茨木市)から4日午後発送の連絡がメールであって、今日7日の午後にようやく京都市内の私のポストに入っていた。乗用車だと約一時間の距離である。それがほぼ四日がかりだった。運輸・交通網になんかあったのだろうか?


追記(2022/07/09):
 いやぁ、ひどい。間違いだらけ。今更意味ないけど、これはお勧めしないです。
 例:✕chamship ◯chumship (p77)
 多分ネットで調べ直しながら添削する感じになります。
 入手したのは第1版1刷で、このあとの版では修正されたりしたのだろうか?
 最近ハズレ本が多いかも。


追記2(2022/07/15):
 「偽りの自己」を発展させること??社会的仮面のような健全な「偽りの自己」に近づけていくという意味で言ってるのだろうか。しかし、肥大した「偽りの自己」の生気を滅し本当の自己の領域から引き剥がすのが現実的作業なのであり、それを発展と表現すべきか。せいぜい成熟。

 ウィニコット(Winnicott,D.W)は内的で主観的な世界と外的で客観的な環境要因とのかかわりを重視し、子どもの心身をホールディング(抱える環境)すること、偽りの自己を発展させること、分離不安に対する防衛として移行対象の概念を提唱しました。
(p139-p140)


追記3(2022/08/07):
 心理統計パートが凶悪。執筆者は明らかに自分が書いていることを理解していないか、そうでなければ、強い悪意がある。
 以下はp289の複数ある虚偽記載の一例。

✕「順序尺度 順序による数字の大小の違いはあるが、数値間の間隔が一定でないもの。数字を加算することはできない。」
◯「順序尺度 順序による数字の大小の違いはあるが、その間隔には意味がないもの。順序を示す数字を加算する等はできない。」

 いうまでもなく、順序尺度に対応するデータ値が数値として一定間隔になることはありうる。単に序数のことを指しているのであれば一定間隔が普通だ。

 あとp318の独立性の検定の計算式も強烈に間違ってる。男女差がない期待値を想定して実測値と共にカイ二乗検定を計算するだけなのに、なぜか男女の実測値が逆転するような狂った計算が記述されている。めちゃくちゃ。

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 Shahida Arabiに関連して「補足的ナルシシスト」という概念を思い出し、その発案者であるユルク・ヴィリィについて改めてネット検索していたら、たまたまYoutubeで以下の加藤諦三という人の動画を見つけました。
 加藤諦三氏は精神科医でも臨床心理学者でもないけれど、よくメンタルヘルスに関する発言をされている方のようです。著書でユルク・ヴィリィについても言及されているようです。動画では、彼がナルシシズムというものがなぜ重要な問題なのかを説明しているのですが、通して視聴して、私的に大きな問題を感じなかったのでメモ代わりに紹介します。初心者向け。
 集団ナルシシズムとヒューマニズムの対立は、ぼんやり私も考えていたことで、動画内で明示的に説明されたので多少驚きました。ただ、同時に、ナルシシズムもヒューマニズムの一部だとも言えると思っていたので、このあたりは難しいです。加害者側にもヒューマニズムがあるというか、人間はそんなふうに不完全な生き物なのだ、と言ってしまえなくもない。


追記(2022/06/11):
 空いた時間に加藤氏の上掲以外の動画も視聴しているのだが、微妙。
 加藤諦三氏は、長年人生相談番組をやってこられた社会学者だそうで、社会心理学系の限界みたいなものも感じる。夫の暴力に悩んでいる妻が文句を言いながらも別れようとしないのは問題解決の努力を怠っている、というような主張など、聴いていてクラクラした。表面だけ取れば間違ってはいないかもしれないが、これはおそらくは「共依存」の問題であり、言葉は運良くなにかのきっかけにはなるかもしれないが、相談者の心には届かないかもしれない。
 専門家でもないのに、見ず知らずの他人の相談に大量に乗れる人というのは、ある種の誇大感の持ち主かもしれない。


追記2(2022/06/13):
 近くの図書館にあった加藤諦三氏の本を借りて読んでみたのだが、曖昧な根拠からの強すぎる断定や、次元の混同、過剰あるいは軽率な一般化、などが広汎に見られるかなりな代物だった。ただ1994年に以前書いたものをまとめたような出版だったので、その頃の日本ではパーソナリティ障害とかアスペルガー症候群とか愛着理論、あるいは複雑性PTSDなどの概念はほぼ知られていなかったと思われるから、絶対的に武器が足りなかった時代かもしれない。
 現代的には気恥ずかしくて誰も使わない「男とは~」「女とは~」といった類の大きな主語が頻出し、男女関係にまつわる些末あるいは卑近な例からの、過剰な一般化が繰り返され、考察とも言えないような散漫かつ軽薄なドグマが展開される。
 先約のある新し目の本も予約したが、順番が回ってくるのはやや先になりそう。

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