CIMG3579.jpg アマゾンでほぼ半額だったので臨床心理士の型落ちテキスト(『心理系大学院入試&臨床心理士試験のための心理学標準テキスト'19~'20年版』IPSA心理学大学院予備校)を買った。一応中古扱いだったが、要は売れ残りで、折り目も汚れもまったくない未使用本。受験する資格も予定もないので今のところこれで十分である。
 ただ配送担当の日本郵便が凶悪で、大阪北部(茨木市)から4日午後発送の連絡がメールであって、今日7日の午後にようやく京都市内の私のポストに入っていた。乗用車だと約一時間の距離である。それがほぼ四日がかりだった。運輸・交通網になんかあったのだろうか?


追記(2022/07/09):
 いやぁ、ひどい。間違いだらけ。今更意味ないけど、これはお勧めしないです。
 例:✕chamship ◯chumship (p77)
 多分ネットで調べ直しながら添削する感じになります。
 入手したのは第1版1刷で、このあとの版では修正されたりしたのだろうか?
 最近ハズレ本が多いかも。


追記2(2022/07/15):
 「偽りの自己」を発展させること??社会的仮面のような健全な「偽りの自己」に近づけていくという意味で言ってるのだろうか。しかし、肥大した「偽りの自己」の生気を滅し本当の自己の領域から引き剥がすのが現実的作業なのであり、それを発展と表現すべきか。せいぜい成熟。

 ウィニコット(Winnicott,D.W)は内的で主観的な世界と外的で客観的な環境要因とのかかわりを重視し、子どもの心身をホールディング(抱える環境)すること、偽りの自己を発展させること、分離不安に対する防衛として移行対象の概念を提唱しました。
(p139-p140)


追記3(2022/08/07):
 心理統計パートが凶悪。執筆者は明らかに自分が書いていることを理解していないか、そうでなければ、強い悪意がある。
 以下はp289の複数ある虚偽記載の一例。

✕「順序尺度 順序による数字の大小の違いはあるが、数値間の間隔が一定でないもの。数字を加算することはできない。」
◯「順序尺度 順序による数字の大小の違いはあるが、その間隔には意味がないもの。順序を示す数字を加算する等はできない。」

 いうまでもなく、順序尺度に対応するデータ値が数値として一定間隔になることはありうる。単に序数のことを指しているのであれば一定間隔が普通だ。

 あとp318の独立性の検定の計算式も強烈に間違ってる。男女差がない期待値を想定して実測値と共にカイ二乗検定を計算するだけなのに、なぜか男女の実測値が逆転するような狂った計算が記述されている。めちゃくちゃ。

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 Shahida Arabiに関連して「補足的ナルシシスト」という概念を思い出し、その発案者であるユルク・ヴィリィについて改めてネット検索していたら、たまたまYoutubeで以下の加藤諦三という人の動画を見つけました。
 加藤諦三氏は精神科医でも臨床心理学者でもないけれど、よくメンタルヘルスに関する発言をされている方のようです。著書でユルク・ヴィリィについても言及されているようです。動画では、彼がナルシシズムというものがなぜ重要な問題なのかを説明しているのですが、通して視聴して、私的に大きな問題を感じなかったのでメモ代わりに紹介します。初心者向け。
 集団ナルシシズムとヒューマニズムの対立は、ぼんやり私も考えていたことで、動画内で明示的に説明されたので多少驚きました。ただ、同時に、ナルシシズムもヒューマニズムの一部だとも言えると思っていたので、このあたりは難しいです。加害者側にもヒューマニズムがあるというか、人間はそんなふうに不完全な生き物なのだ、と言ってしまえなくもない。


追記(2022/06/11):
 空いた時間に加藤氏の上掲以外の動画も視聴しているのだが、微妙。
 加藤諦三氏は、長年人生相談番組をやってこられた社会学者だそうで、社会心理学系の限界みたいなものも感じる。夫の暴力に悩んでいる妻が文句を言いながらも別れようとしないのは問題解決の努力を怠っている、というような主張など、聴いていてクラクラした。表面だけ取れば間違ってはいないかもしれないが、これはおそらくは「共依存」の問題であり、言葉は運良くなにかのきっかけにはなるかもしれないが、相談者の心には届かないかもしれない。
 専門家でもないのに、見ず知らずの他人の相談に大量に乗れる人というのは、ある種の誇大感の持ち主かもしれない。


追記2(2022/06/13):
 近くの図書館にあった加藤諦三氏の本を借りて読んでみたのだが、曖昧な根拠からの強すぎる断定や、次元の混同、過剰あるいは軽率な一般化、などが広汎に見られるかなりな代物だった。ただ1994年に以前書いたものをまとめたような出版だったので、その頃の日本ではパーソナリティ障害とかアスペルガー症候群とか愛着理論、あるいは複雑性PTSDなどの概念はほぼ知られていなかったと思われるから、絶対的に武器が足りなかった時代かもしれない。
 現代的には気恥ずかしくて誰も使わない「男とは~」「女とは~」といった類の大きな主語が頻出し、男女関係にまつわる些末あるいは卑近な例からの、過剰な一般化が繰り返され、考察とも言えないような散漫かつ軽薄なドグマが展開される。
 先約のある新し目の本も予約したが、順番が回ってくるのはやや先になりそう。

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 最近Shahida Arabi本の他にSam Vakninの"Malignant Self-love"も買ったのだが、Sam Vakninがハインツ・コフートを"Franz Kohut"と誤記していて、序盤からとても読む気が失せる。Kindleで検索すると本書内に3箇所この名前が出現している。コフートのミドルネームかなんかかと思ってネット検索するが何も出てこないし、おそらく単純な間違いだと思う。Franz Kafka?
 本書はKindle表記で697ページもある。うげぇ...。

Pathological narcissism was first described in detail by Freud in his essay "On Narcissism" (1914). Other major contributors to the study of narcissism are: Melanie Klein, Karen Horney, Franz Kohut, Otto Kernberg, Theodore Millon, Elsa Roningstam, J.G. Gunderson, and Robert Hare.

(赤字purplebaby)
Vaknin, Sam. Malignant Self-love: Narcissism Revisited (FULL TEXT, 10th edition, 2015) (p.2). Narcissus Publications. Kindle 版.
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Shahida Arabi.PNG 5月22日ころにAmazonで、Shahida Arabiの"Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself"を買ったのに付随して、Twitterで彼女のアカウントを新しいリストに入れたところ、数日後になぜかブロックされているのを発見した。リプライやリツイートなど、Shahida Arabiに対してリストに入れる以外の行動は一切していないので、原因がよくわからない。新たにリストを作る時に一瞬公開設定にしたため通知が行ってしまい、当人がそのリスト名を気に入らなかったたため起こったことかもしれない、と今は思ったりしている。
 いずれにせよ上掲の書物をのろのろ読み始めているのだが、ブロックされた件もあって、ナルシシストの被害者を自称する彼女自身が過剰な自己中心性を負っているような印象を持ち始めている。

Growing up with a narcissistic parent and witnessing narcissistic abuse was the precursor to the destructive, toxic relationships I had with narcissists - from friends to relationship partners to acquaintances to co-workers.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.18). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

I refocused on the people who validated me and wanted me to rise rather than fall.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.26). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

 私のブログ的には、ナルシシストの子供がナルシシストになるというのは全く不思議なことではないので(偽りの自己を発展させた親の機能不全により子もまた偽りの自己を発展させるというような機序になるだろうか)、それ自体としては特筆すべきでもないのだが、これは、比較的攻撃的(or反撃的)なタイプがNPD被害者グループで統率的な役割を担ったケースなのかもしれないと思い始めている。彼女はブログやネットコミュニティを媒介して支持を得ていったようで、彼女も引用しているPete WalkerのC-PTSD四分類を利用して説明するなら、余力のあるFight型がその思想のもとに互助グループ内の他の被害タイプをも説得し束ねていった、ようなイメージを思い描いている。
 追記予定。


追記(2022/06/24):
 Kindleでは他の読者がハイライトした箇所が表示されるのだが、以下の箇所では1915人もの読者がハイライトしている。

The narcissist does not feel empathy for others; he or she makes connections with other people for one purpose and one purpose only: narcissistic supply. Narcissistic supply is the attention and admiration of the people the narcissist collects as trophies. It is anything that gives the narcissist a "hit" of praise, or even an emotional reaction to their ploys. They need these sources of supply because they suffer from perpetual boredom, emotional shallowness and the inability to authentically and emotionally connect to others who do have empathy.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.51). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

 著者が自分を被害者としてナルシシストを悪魔化している風情のある本書ではあるのだが、ここではナルシシストを共感というものがまったく欠如している存在として強調している。しかしこれは必ずしも正確ではない。DSM-5のSECTION IIIで紹介されている次元モデルのNPDにおける共感性の説明では以下のように書かれている。
3. Empathy: Impaired ability to recognize or identify with the feelings and needs of others; excessively attuned to reactions of others, but only if perceived as relevant to self;over- or underestimate of own effects on others.

DSM-5 (p.767)

 またハーバード大学医学部マクリーン病院のアリエル・バスキン・サマーズらは以下のように叙述している。
Across the three case studies, it is easy to focus on the difficulty these patients have connecting to others and the clear examples of their deficient displays of empathy. It seems hard to say that any of these individuals are "lacking empathy" or are even "unwilling" to engage in empathic processing; yet, each of these individuals are classic examples of pathological narcissism.

Arielle Baskin-Sommers et al. "Empathy in Narcissistic Personality Disorder: From Clinical and Empirical Perspectives" (p.10)

 NPDは相手が自分の延長と感じられる場合やそうすべき社会的責務や価値が伴うような場合に共感性を発揮する。要は共感を選別的にしかできない傾向があるのだ。彼らの狭く歪んでしまった共感性が、かろうじてその制約された領域には残存しているとも言える。深刻な先天障害のように人間的な共感性をすべて失ってしまっているわけではないのだ。彼らは心のない悪魔ではない。

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 エラン・ゴロムの"Unloved Again"は、去年、最終章(第七章)だけ逐語訳的にみっちり読んで、それ以外は目次を確認しながらかなりの流し読みみたいな感じだった。その心残りがあり、先月下旬辺りから逐語訳的に第一章からゆっくり読みなおし始めた。現在第三章に入っている。と言っても症例集的な第一章の終わりまでで全体の40%もあるので、去年既読の最終章とあわせれば量的に2/3近く読了した(このKindle本はページ表記がない)。
 気がついたことを追記していく予定。


追記(2022/04/18):
 ずっと不思議に思っていることに「子供は親から愛されたがる」という普遍的現象がある。このありふれたモチーフへの肯定的な言及はいくらでもあるに違いないが、それが破壊的結果をもたらす場合があることは、問題意識を持つ人以外にはあまり顧慮されないかもしれない。このモチーフを医療少年院に勤めていた岡田尊司も、また相互に関係ない、自己愛者を主題とするエラン・ゴロムも著作で繰り返す。子は、大人になっても、親から愛されようとして生きてゆく。それは、いい意味でも悪い意味でも人格のコアを形成している。自己愛的な親に「愛されよう」として、子は時に取り返しのつかない破壊的な選択をしてしまう。


追記2(2022/04/19):

Grown children seek the internal "parent's" love by following its advice, which may include acting and feeling inadequate the way their parent labeled them. The adults' feelings for the hurtful "parent" are often powerfully positive but also suspiciously full of longing. They have the longing of a starving person looking for something to eat. Their state of emotional need is connected to the love-emptiness of their childhood. Sometimes they claim to hate their parents but unconsciously seek their love.

(Golomb, Elan. Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction . iUniverse. Kindle 版. 位置No.1773)

A person has the potential for new attitudes and attractions but lacks understanding of the childhood trauma that leads to their repetition. Attempting not to feel the early pain is like placing a huge weight against the fulcrum of change. Change depends on becoming conscious of what hurt you and then making a different choice.

(Golomb, Elan. Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction . iUniverse. Kindle 版. 位置No.1815)

 結局、徹底操作(フロイト)的なものが魔法の杖との主張。そんなもので、特定の発達段階に一回的にしか形成されない愛着スタイルが基礎から変わるとは思えない。


追記3:(2022/05/07):
 6日に"Unloved Again"一応読了。

 エラン・ゴロム博士のロジックの大まかな建て付け。
1.大人になってからも続く(あるいは一生続くかもしれない)自己愛的な親からの影響を断ち切らなければならない
2.そのためには自己の歴史の、無意識下に隠された負の部分について、意識化しなければならない
3.本当の自己を回復させるにあたって、育った家族や社会の寄与は期待しえない
4.自然との触れ合いや、性的パートナーとの相互的なヒーリングに希望がある

 エラン・ゴロムの著作には、彼女の夫らしき人物は出てくるのだが、自分たちの子供の話は一切出てこない。機能不全の家庭に育った者同士が結婚した場合、無理に子供を持たない方がいい場合も多いのかもしれないが、回復の達成度としての印象は薄くなる。傷を負ったカップルによる相互ヒーリングがどれほどうまくいったとしても、そこから適切で現実的な養育能力が体得されることはありえないかもしれないが。
 人は、大人になっても、知らず親の影響下で物事を判断しており(主体がないという意味ではない)、あらかじめ無意識的に方向性のようなものが定められている。この刻み込まれた方向性が現実に対して適応的なら、実際に踏み出しても、当人は影響をことさら意識しないしする必要もない。その方向性ではうまく行かない、あるいは行きそうにもない時にこそ、意識化されることになる。
 なんとか心の安定を保つために、成熟を放棄するのもひとつの知恵ではあるだろうが、やむを得ない犠牲と言っていいかどうかはわからない。
 エラン・ゴロムは、実社会への適応というものを、必ずしも肯定的に見ていない。彼女にとって社会は窮屈で不自由で不自然な何かなのだ。私には、これが幼い誇大自己の温存のように思われてならなかった。社会から距離を取り、自分と似た傷を持つパートナーとの空想的自由に逃げ込むことは、本質的な治癒を意味しているだろうか。

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 近所のスーパーに半年くらい前初めてレジに入ってきた頃に、見るからに嫌々やって異様に処理が遅く目立っていた二十歳くらいの女の子の手際が、今日相当に向上しているのに気が付いた。以前ののほほんとしていた表情も目つきが鋭くなり、少し人が変わった感すらある。誰もがある種の幻滅を通して成長するものかもしれないが、当初あれほどレジ業務に絶望している感じだった新人も慣れてくると別の次元が見えてきたのかもしれない。現実を受容するプロセスが進んだと言うべきなのかもしれないが。
 当初は、あからさまにもう一つあるレジに自分側の負担を押し付けていたわけなので、そのわがままな幼女のような振る舞いは印象的だった。もっと言えば、私はどこか心的に共鳴するものを感じていた気がする。そういう意味で今日は少し感慨のようなものがあった。


追記(2022/04/12):
 2月の下旬から身辺バタバタで他人を心配している場合ではないのだが、近所のスーパーなので目につかざるをえない。一定の適応を遂げ一時は落ち着いたかと思われた件のレジの女の子なのだが、最近また苦悩し始めた感じで、レジカウンターに突っ伏すような態勢で商品をバーコードリーダーに通している。ほとんど見るに忍びないが、彼女はいつまで持つのか。
 なぜこんなに気になるのか分からないが、私の大学時代のコンビニバイトで似たような感じだったことを思い出した。ただ、私はこれは合わないと思いすぐ(二ヶ月程度で)、辞めてしまったが。彼女はすでに半年は耐えていると思うので、当時の私より我慢強いか、事情があるのだろうか。


追記2(2022/04/16):
 4日ぶりに見かけたが、今日は上機嫌だった。少し安心したけど、機嫌の浮沈がそのまま(素直にor抑制なく)出てしまうのも精神年齢の低さの兆候か。書いていて我ながら心当たりが...。

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 HDDの隅になぜかテキストファイルとして保存してあった、匿名掲示板の古い書き込みを発見。
 「優しい名無しさん」というのは旧2ちゃんねるのメンタルヘルス板のデフォルトネームみたいなのだが、私はメンタルヘルス板に行っていた記憶はあまりない。稀に見に行って、(保存してあるということは)よほど印象に残った書き込みだったのだと思う。
 今読んでも言っていることがかなり正確で当を得ており、2002年の段階でこんな認識に至っているとは相当に素晴らしい。この頃にNPD親について書かれた一般向け和書なんてあった気がしないので(今でもほぼ皆無かも)、この方は内省に加え基礎的なことを勉強してこのようなまとまった認識を得るに至ったのではないかと思われる。
 ただここに書かれているのはNPDに育てられた子供の一つのパターンに過ぎなくて、誇大感を(攻撃を伴うような形で)能動的に発露しようとするようになる場合もあるし、趣味的なことへの常軌を逸した逃避や社会的な孤絶に至るようなパターンもあるだろうと思われる。
 抽出したフレーズをクォートしてGoogle検索しても何もヒットしないので、この頃のデータはもはやネット上から消えている可能性があると思われ、気まぐれにここに補完しておく。

719 名前: 優しい名無しさん 投稿日: 02/08/26 05:54

自己愛性の親に育てられた子供の後遺症について調べた事をまとめて書きます。

親が自己愛性の場合、子供も自己愛性になる確率が高い。
主な原因は、1.ネグレクト(放任) 2.溺愛(過保護) 3.虐待
しかし、自己愛性の親による強力な洗脳のせいで自己愛性とは正反対の、
過剰に「利他的」な人間に育つ場合もある。
ここのスレの自己愛性被害者の人達で親が自己愛性の場合、後者が多いはずです。

自己愛性の親は自分の子供にさえ嫉妬し(自己愛性の嫉妬は無限で無差別なので)、
子供が正常なナルシシズムを持つ事すら許さず、ただ自分を輝かせる為だけの、自分
の延長線上の存在として育てる。子供が自分より幸福になる事を許さない。その結果、
自己愛性に育てられた子供は、大人になって親から離れても自己愛性の他者を輝かせる
存在として生きてしまう。

自己愛性の親に育てられた子供は、競争を嫌い、注目を嫌い、誉めらると居心地が悪く
なり(いい気になると親から罰せられるという刷り込みがある為)、自己の利益に
無頓着で、他人を喜ばせる為にエネルギーを消耗し、普通の人間なら嫌がる自己愛性
の人達といる事に不快感を感じにくい。むしろある期間は自己愛性の人達といると人生
に彩りがあるように感じエネルギーがわいて来るように感じる。自分は無価値だと
思っている。

自己愛性の親に育てられた人は子供の頃から親を幸せにし、まわりの人達を幸せに
する事に心を砕き、自分の幸せは後回しどころかそれを求めると親から罰せられると
いう刷り込みがあるので、自分を幸せにする術を知らない。幸せになると言う事は親へ
の裏切り行為だと思っている。唯一自己愛性の人達の世話をしている時に、自分の
役割があるような気がして一時的な、しかし後に苦痛を伴う、安定感を得る。親から
健康的なナルシシズムを抑圧されているので、自己愛性を賞賛し、理解を示し、
自惚れ鏡になってあげる(ミラーリング)事によって、代償のナルシシズムを得る。

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 いわゆる「変容性内在化」に関する丸田俊彦と和田秀樹による説明なのだが、コフートのセオリーの文脈としてはどっちもそれらしいと言えばそれらしいのだが、以下に示すように両者はかなり言ってることが違う。あるいは、総体として複雑な概念に対して、切り口が違うだけでどちらかが間違っているというわけではないということもありうる。ネット上のテキストでは丸田派が多いのだろうか。
 私が'The restoration of the self'を購入して読んだときは、コフート自身による明確な定義付けの箇所はなく、「変容性内在化」とは、母親のリアルなイメージを換骨奪胎して(ある程度都合よく抽象化して)子供が取り入れる、みたいな理解だったので、丸田側なのだろうか。
 初めに「変容性内在化」が説明された『自己の分析』は邦訳を図書館で借りて読んで、複雑な上に訳文に閉口したイメージ(今読むとまた違った印象が得られるかもしれないが)。しかもコフートはその後(双子転移の取り扱いを含め)生涯をかけて自説をゆっくり修正・整理していったはずなので、その加減もある。
 もともと簡潔な定義があるわけではないのなら、解釈の余地として、和田説もありうるのかもしれないが。

『コフート理論とその周辺』 丸田俊彦 p111
 Transmuting Internalization:変容性内在化
 Kohutの用語。理想化された自己-対象idealized self-objectが内在化されて精神的構造となる過程。われわれが口にする異種タンパク(たとえば牛肉)が体内で消化、同化されて血となり肉となるように、自己対象が内在化される過程において(自己-対象がそのままの形で内在化されるのではなく)変容をとげるところから、変容性内在化と呼ばれる。すなわち理想化された対象に対する幻滅(それは多くの場合理想化された対象に対する正しい現実的認識でもある)がわずかずつ進み、最適量のフラストレーションoptimal frustrationが持続すると、理想化された自己-対象へのlibido投資investmentが撤回され、非人格化された特定の機能が内在化されることになる。この過程が自我理想を生み、超自我に理想化を行う特性idealizing qualityを与えるため、内在化された自己評価調節機能は安定し、自己は心的緊張の調節装置となる。Kohutはこの変容性内在化が正常発達過程として起こるばかりでなく、精神分析の治療過程としても見られると主張する。
『〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析』 和田秀樹 p141-142
 (purplebaby注:フロイトの超自我に対して)一方、コフートのいう理想化自己対象とは、あくまでも外にあって自分の一部として体験される対象であり、心の中に取り込まれて完全に住み込むものではないのです。しかし理想化自己対象がそばにいなくても、その自己対象との関係がしっかりしたものであれば、ある程度は代わりとして心の中にいてくれます。ですから、ここではコフートは「変容性内在化」ということばを使っています。変容性とは完全には住み着かないという意味です。しかし、多少は内在化するので、自己対象がいつもそばにいなくても何とかやってはいけるのですが、あまり相手がそばにいないと、自己が不安定になったり、ばらばらになってしまうと考えます。あるいは非常に不安なときなどは、自己対象を求めてしまうというわけです。

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CIMG3501.jpg
 今年は参道の屋台が復活していた。

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 今年の後半くらいから大きめのアップデートのたびにCentOS7がトラブる。
 10月にはCentOS7上のChromeの更新に付随してOS自体の入れ直しにまで至ったが、今日のカーネルを含めたアップデートではPython3.8を要求され、普通には入らないのでRedHat用ので代用して入れた(ネット上に使える旨の情報があったから出来たのだが)。こういう変則的な行為を強いられるようになると、OSもかなり末期だ。
 サポートが2024年までのCentOS7に先んじて、CnetOS8は今年いっぱいでサポートを終了する。CentOS8はCentOS streamというローリングリリース方式のものに吸収されるようだが、必ずしも前評判がよろしくなく、CentOSの創設者であるGregory Kurtzeが後継としてRocky Linuxという別のディストリビューションを用意するなど、分裂の様相を呈している。このあたり、かなりげんなりする。
 CentOS7とデュアルブートしているMX Linuxがまずまずなので、すでに主にそちらでLinux機を起動するようになってから久しい。私のLinux機のストレージでCentOS7が専有しているのは40GBに過ぎないので、このまま塩漬けのようにしてしまう案もありうるが、なんだかんだ気になってアップデートしてまたトラブルが起こりその度時間が取られるみたいなことは避けたく、来年あたりどこかの時点で思い切って初期化してしまうことになるかもしれない。
 ただLinux機をデュアルブートにしているのはバックアップ用などの意図があってのことなので、40GBのスペースにはMX Linuxと同じDebianベースのUBUNTUでも入れようか(そのほうが覚えることが少なくて楽?)。
 まだ何も決めていないが、いずれにせよ面倒だなぁ...。

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