2014年7月アーカイブ

 プロバイダ(ISP)切り替えの狭間で8月1日から3日まで自宅でネットができない感じ。

 CGIサイトのほう、通信部が不安定化してきて、続けるかどうかまた悩んでいる。
 アクセス数だけはじわじわ伸び続けてきていて、7月の広告表示回数は100万回弱にまでなりそう(96万回前後?)。その広告収益はおそらく3千5百円前後(にしかならない)。
 不安定化はしばらく以上続く感じで、上のプロバイダ(ISP)切り替え期間内もメンテしなければならないかもしれず、どうなるんだか。今日少しだけスクリプトを改良したけど、効いてんのかなあ...。
 そういえば、 別のサーバ会社のお試しサービスを利用してみたが、使えるHDD容量やモジュールは多そうだったけど、通信部の挙動はあんま変わらない感じだった。

 行くとこまで行くかぁ??

追記(2014/08/01)
1407.PNG 別ドメインサイトの、7月の広告収益グラフですが(青線が表示回数で、緑線が収益)、5月のグラフと比較すると多少変化してきているのが分かるかも。広告表示96万回と言っても、ルール上ひとつのWEBページに3枚まで貼ることができ、1回のWEBページ表示で広告が3回表示された勘定になるようなので、実際のPVはこの1/3くらいでしかありません。
 ネット広告は、やはりGoogleのアドセンスが一番効率がいいみたいなんだけど、私のサイトはごく初期に審査で落とされました。もろもろ自動処理なのでどこかにはGoogleの好まない語彙が入ってくる可能性があり、向こうのさじ加減というか、ある程度不可避な面があるので仕方なし。
 一昨日の改良が一応効いたっぽく、通信部やや安定してきた。ずっと綱渡りというかそんな感じだけど、取られる労力の度合いによっては、何らかの決断をする時が来るかも。完全に放置できれば文句はないんだけど...。

 先月末までのはずの前のプロバイダ(ISP)に(今は翌日早朝)どいうわけかまだ接続できている。

追記2(2014/08/03)
 さっき、業者による工事というかモデムの設置が終わったけど、移行後多少ネットのレスポンスがよくなったような感じで、wifi経由のホームグループ認識もすんなり完了。業者が去ったあと10分後には通常モードに。
 このプロバイダ(ISP)移行の間隙に、CGIサイトのほうは、結局特に大きなトラブルもなかった。取り越し苦労。杞憂。
 営業の人が最初に説明して、工事の人があとに来る方式だったけど、営業の人の白眼が黄みがかっていて、身なりはこざっぱりしているのに、相当疲労してる(or大酒家?)印象だった。工事の人は元気っぽかった、ま、よく分かんないけど。

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 コフートは、変容性内在化は作家でサディストのM氏の症例においてうまくいかない旨のことを確かにかなりはっきり言っているのだが、一般論として否定まではしていないと思う。少なくとも治療過程における「変容」までは成功して患者を安定的にし得ているようで、問題は、治療を終了しても変容の効果が持続する「内在化」の部分でうまくいかないということのようだ。
 一時的にうまくいっているように見えても、治療関係を終え離れると基本的な部分においてほとんど元に戻ってしまう。
 これは共依存の問題と地続きのような感じがする。また別に、「フロイトが実は一人も治せなかった」説が思い出される。


 日本の教育改革はうまく行きそうな気がしない。中国やインドの文明を受容したあと欧米に乗り換えて図に当たっただけで、結局日本人は建国以来みずから基幹技術を編み出し文明を築きえたことなどない。2千年くらいずーっと「先進国」の二番煎じ(三番煎じ...)でなんとかやってきただけの歴史なのだ。それなのにいまさら、事象に直接立ち向かえとか世界視点での主体性を持てとかいっても無理な話かもしれない。
  「開明的な教師」によって近代的な個人を演じさせられる『山びこ学校』の生徒たちの集団催眠のような異様さが頭をよぎる。「個人」を、教えられたとおりまったく没個人的に演ずる子供たち。ほとんどあれと同様に、近代を日本人はずっと演じ続けてきただけかもしれない。
 先進国に肉薄してうまくやる日本得意の位置取りは今やたいした役得を生み出さない。さりとて、新しく飛び移る足場はなかなか見出せない。このままずるずる発展途上国に戻りたくないなら、演技ではない本物の先進国になって先進国なりのリスクを負って行くしかない。でもどうやって?

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CIMG1768.jpg 今年も宵山。
 夕方頃に八坂神社に行って賽銭を投げてきたが、境内の人出の1/3くらいは外国人のような感じだった。浴衣の人はあんまり多くない気がした。和装は年々ゆっくり減る傾向にあるような気がする。和装の盛衰は京都の地場産業の盛衰と直結している面があるはず。
 行く途中でわりとちゃんと身支度をした芸妓(相当若くまだ十代のような感じ)とおかみさんのペアとすれ違ったが、おかみさん側はきりきりしている様子でのほほん笑顔の芸妓とかなり好対照だった。適正な役割分担というか、たぶんあんなもんなのだろう。

 電子レンジこわれた。4年半くらいしかもたなかった。
 オーブンレンジの平均的な耐用年数は分からないが、4年半はたぶん短い方なんじゃないか。
 市の大型ごみチケットはすでに購入済みで、回収申し込みも昨日済んでいるが、前回は建物の玄関前に出していたオーブンレンジが盗まれたので、今回はホント気をつけよう。
 新しいのはごくエントリーモデルだけど、ほぼアフィリエイトのポイントだけで買ったので相当お得感が。おとといアマゾンで注文して今日届いた。例によってアース線がついてたけど、日本の住宅でちゃんとアース線のつなぐ場所がある家ってどれくらいあるんだろう??

 夏場になってパソコンの筐体がうるさいので、CPUファン&クーラー・フィン含め筐体内を掃除して使っていないケーブル類をマジックテープでたばねた。それでまあまあ静かに。

 このところブルーバックス的なものを読んでた。たぶんまだ読む。

 ゆとり教育というネーミングはまがまがしいしそれ自体失敗したのだろうが、途上国型の教育エートスから脱却するために、各分野の教科書に5%程度の分量で必ず『人類にとって何が分かっていないか』を書くようにするといいと思う。さらに試験に組み込んでもいい。それで少なくとも国内高学歴者を過分にあがめる(自己の全能感の投影)fanaticsは有意に少なくなると思う。旧制度に守られていた人々も競争せざるを得なくなる。たぶん?

 最高気温が35℃を超えてきたけど、わりと好調。ぜひともこのまま持続したい。

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 フロイトに対して性欲偏重の批判はよくある(ただし本当は晩年にややトーンダウンしている)が、致命的に欠けている視点として「言語(コミュニケーション)の習得」があると思う。

 先日鶏肉から直接だしをとった卵スープがおいしかったので、今度は同様に玉ねぎスープにしてみたらあんま良くなかった。玉ねぎの風味が強すぎてあれではたぶんスープの素を使っても違いが分からない。

 ヘッドセットをした男性があるお店の入り口の自動ドアのまん前で(当然ドアは開きっぱなし)通話相手と夢中に喋り続けていた。自動ドアのこちら側にはたまたま行列があって、そのヘッドセットの男性はいやがおうにも注目されたのだが、彼は喋り続けながら行列に注目されていることに対しあきらかに憤慨し始めた。そこそこ異様だった。

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 コフート原著は二度読みのようなやりかたでしか進められない感じなので、ちびちびしかしできるだけコンスタントに読み進める方式でやっている。これはこれで、考えながら読むのに合っている面もあり、短所ばかりでもない(としておこう!?)。

 乳児が母とのコミュニケーションによって情緒の雛形のようなものを獲得するのだとしても、人は事後的にそれを乗り越えうるものだろうか?

 「変容性内在化」はコフートによる鍵概念であり、治療の直接の目的であることもあるようだ。自称コフート派の和田秀樹は治療段階での変容性内在化はうまくいかないと入門書で書いてたが、彼が受験予備校経営に手を出したりタレント活動をしていたりするのと関係がありそうな気もする。治療過程での転移による擬似的な親子関係の復元ではうまく変容性内在化の効果を得られないということであろうが、精神療法におけるこの種の困難性の吐露は別に珍しい感じがしない。日本型受験エリートはテキスト(答え)がない世界で無力であるかどうか。

 なんとなくなのだが、変容性内在化について、自己対象(普通は母親)の全能性に対する「健全な幻滅」過程としてだけ重要なのではなく(そんなものは部分的に過ぎない)、爾後のコミュニケーション全般の基礎工事が行われている時期であるからこそ重要なのではないか、と思い返したりする。
 「共感」というのは不思議なもので、自他の区別がついていながらも、同時に他者との共通領域みたいなものも意識していなければ成立しない。当然におのおの個性のちらばりあるいは単独性は有していても、人間なら大体これだけは共通してもっているだろうという最大公約数的な感情というものを芽として意識していなければ、コミュニケートしようという意欲すらわかないであろうし、現にコミュニケーション自体も成立しないであろう。要は、分かり合うには何か取っ掛かりのような基本的なものが必要なのであり、乳児時代の変容性内在化は、人間の行うコミュニケーションをそういう基本的な部分で支える土台を形成する時期(もしかすると二度とやり直せない)にあるからこそ特別な意味を担っていると言うべきなのではないか。コフートは自己愛の専門家だから仕方ないといえば仕方ないが、どこか狭いというか、母親に投影された全能感のゆくえにとらわれすぎのような気もする。

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 物事が思い通りにうまく行くと、幼児的な全能感への退行が起こる場合があるかもしれない。しかし現実には誰も全能者ではないので、過剰な歓喜の後にはある種の「軟着陸」が要請されることになる。しかし、この軟着陸がうまくできず、現実を否認したり現実の受容をできるだけ先に繰り延べようとする人もいるかもしれない。

 決定論(仏教など)では物事が誰かの思い通りに行くのではなくて、何か自律的に思った気になっている人そのものが大きな現象の中の要素に過ぎないみたいな捉え方かもしれない。キリスト教も決定論的な風合いがあるが、比較的人の自由意志を認めてる感じがあるかもしれない。神道は「そんなこと知ったことじゃありません」みたいな感じであろうか?

 『人に自由意志があるかどうか』という問題は厳密には誰にも答えられない。吉本隆明さんというポエム好きの人がいたが、ミシェル・フーコーが来日したときに対談して(通訳はのちの東大総長の蓮實重彦(奥さんフランス人))、そのことをやや強調的に訊いていた。誰も答えられっこない意地悪な質問なのだが、さすがフーコーは賢くてのらりくらりと躱して軽率に言質を取られないようにしていた。吉本自身は意志について『偶然の重なりが必然に転化する』などと、妥当感覚あるいは歴史感情みたいな(あるいは知の無根拠性みたいな?)ナイーヴな感じのことを、相手に尋ねる際に述べている。この対談は本になっている。

 人に自由意志がないという証明があるわけではもちろんない。むしろ、実社会は各個人に自由意志の余地が大幅に存していると前提して成り立っているもののような気がする。自由な心がけのありかた次第で誰もが他の誰かのようになれる、という感じの、まるで巨大なカルト(?)のような一面がなくはない。労働(者)は資本の前に互換でなければならないから、そこから醸成された後付のポリシーであるかもしれないが。

 誰かの業績が、単なる偶然でなく、その人の自由意志としての固有で主体的な判断があってはじめて発生しえたのだという、反決定論的主張はよくあるし、通俗的なレベルでそれを批判しようとは別段思わない。しかしそこには本当は、ある過剰な権利主張が含みこまれている。幸運に乗じて自分を大きく見せようと「主体」を騙る横着者は少なくないかもしれない。

 ある意思決定が本質において主体的なものであったかどうかは、実は本人を含め誰にも分からない。何かの発明のように、たとえ人類にとってまったく新しい意思決定であったとしても、である。

 赤ん坊はまだ自他が不分明な存在者で、健全な発達に伴ってしだいに「分別」を獲得していくかもしれない。「実社会のカルト」は、おそらくは、この一般に認識される発達段階から導かれた素朴な誤解により成り立っている面もあると思われる。(幼稚な?)日本社会は比較的その誤解の度合いが強いのかもしれない。自分の意識に差異が浮かび上がってくる以前の世界はすべて同質で一体だと無意識的に思いこむところにつまずきの石がある。しかしたぶん現実はいつでも差異に満ちていたし今も満ちている。

 自由意志とは、意志そのものの未知性から導かれた素朴で手前勝手な空想であるかもしれないけれど、それに対する肯定否定どちらの証拠があるわけでもないので、自由意志があるのかないのか問われてよせばいいのに挙証責任を負った方が議論に負ける仕組みである。

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