被差別者は差別する

 こないだちょうど投票一ヶ月前にトランプの大きめのスキャンダルが発覚したりして、ヒラリー側の情報収集能力の高さ、背後組織の巨大さが推察される。まだまだ隠し玉を持ってそうだけど。
 トランプがNPDかどうかはわからないが、仮にそうだとして、あれだけの羞恥ストレスにも耐えうるところを見ていると、マリー・イルゴイエンヌが紹介していたベトナム帰還兵で最もストレス耐性があったのはナルシシスト達だったという調査結果が私としては思い起こされる。耐性(鈍感さ)の強いポイントが個々偏るとは思うが、BPDなどとは根底において違うところか。
 アメリカの共和党って、この大統領選が終わったらどうなるんでしょう。まさか無くなるわけではないだろうけど、相当にドラスティックな改革が避けられないのでは。
 この長かったから騒ぎもそろそろ終了。トランプはある種の犠牲者かも(??)。


 フランスキリスト教徒の世俗化の話は、エマニュエル・トッドの『シャルリとは誰か?』を読んでいる限りでは微妙な気もしたが、ネットでいろんな人の情報を見ているとそれなりに深刻なのかもしれないと思えてきた。書籍内の統計の日曜に教会に行かなくなったくらいではまだだと思っていたが、特にネットにあった最近のフランスの子供があんまり洗礼を受けていないという情報の方がインパクトあった。これはカソリックだけの現象ではなく、プロテスタントのドイツでも似たように世俗化が進行しているらしいので新旧転向するとかの逃げ場もない感じかも。
 しかし異教徒から見れば、先鋭化したフランス自称無神論者たちすら「曖昧なクリスチャン」として括り得るかもしれない。なんというか彼らは教会(文化)を居場所としなくなっただけで本当の無神論者とはどこか違うような感じがする。納得しがたいものが残る。例えば彼らは欧州言語に潜んだキリスト教的な価値観を拒絶するだろうか。もし完全にそんなことをしたら会話できなくなるのでは?
 『シャルリとは誰か?』は客観的っぽい統計資料を駆使して構成されてはいるものの、それらの解釈においてかなり誘導的な面があり、『エマニュエル・トッドとは誰か?』という印象をもたざるを得なかった。ユダヤ人の子孫であるフランス国民のトッドは、フランス旧来のカソリシズムを嫌悪している感じが色濃く、フランス在来大衆がカソリックを捨てることが当たり前みたいな前提で、やや強い言葉を使えば「カソリック差別」あるいは「キリスト教差別」のような兆候を窺わせなくはない。彼が擁護するイスラム教に対する批判は意図的に抑えられ、ユダヤ教に関してはちょろっと触れられているだけにすぎない。しかしフランスのカソリシズムには情熱的なまでに辛辣なのである。彼が新作して振り回す「ゾンビ・カソリシズム」という着想自体が、「かくれユダヤ教徒」のような彼にとって切実かもしれないモチーフと重なって来て、こちらとしてはこの語が出てくるたびにげんなり感に駆られる。
 普遍的精神としてのカソリシズムのはずなのに、その傾向の強かった地域からより多く、移民排除の右翼政党に投票されたという事実は、私にはちっとも驚くべきポイントには思われなかった。フランス人のどこが秀でて平等主義的だったろう(ロマ差別とか今でもあるんでしょ?)。彼らの欺瞞が生々しく彼ら自身の眼に晒されたかもしれないが、おそらく外国人から見たら白けた感じではないか。
 結論付近に日本からしたらそう大したことない国民の高齢化問題を出してるのも、微妙すぎる。要は移民を入れないと若い働き手がいないという、身も蓋もない話であるが、日本の少子高齢化なんか完全に手遅れだけど移民論議は低調であるし、現に小国でも(必ずしも一次資源に頼らず)豊かな国が存在することとの兼ね合いも特に述べられない。
 一般フランス人より屈折しまくったトッド自身の差別意識が薄皮一枚の向こうにうごめいてる読後感。

・フランス人らしく暮らせ=移民に要求-サルコジ前大統領 (2016/09/19)
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016092000807&g=int


 中上健次が柄谷行人との対談で挙げていた『被差別者は差別する』との言は中上氏の発案だったろうか。雰囲気的に誰かの警句の援用だった気もする。
 父と行った和歌山市の郷土資料館みたいなところで、中上健次のコーナーが追いやられたような隅っこの方にぽつんとあり、展示内容よりそれが印象深かった。
 先日、近所で何度か見かけたことのある黒人青年が跛を引くようにマンション前を歩いていて、彼とすれ違おうとした幼女が咄嗟に「こわい~」と後ろの母親に駆け戻るのを目撃した。ただし幼女は終始笑顔であって本当の恐慌状態ではあきらかにない。やや演技的というべきか。再度のすれ違いざま、母親に抱きとめられている幼女に黒人青年は優しくハイタッチを促し、幼女は笑顔のままそれに応えて掌を合わせ、黒人青年は通り過ぎた。
 一定のなごやかさのうちに、黒人青年が何を思ったかわからない。
 恐怖心が差別の一因であるかどうか分からないが、もしかするとそうかもしれない。
 怯えるにしても怯え方が、あるいは恐怖するにも(差別を避ける)正しい作法がある、という非難はありうるかもしれない。人の原初的な反応の中に真実があるのではなく、健全で成熟した大人の理性の内にそれがある?
 しかし例えば、ある社会内集団があり彼らの犯罪率の平均が彼ら以外より顕著に高い場合に、その集団に属することだけがわかっているある個人に対しまったく警戒しないでいるのは、大人でも自然ではないように思える。積極的な攻撃や排除のような具体的行動に結びつけば露骨だろうが、初対面から親和性をもって応ずるケースと比較すれば、避けたり警戒するだけでもすでに受動的な差別の発露だと言っていいだろう。果たしてこの種の(ほとんど不可避的な)差別を人類から消せるものだろうか?(元々白人のみだった地域に一人黒人が転入してきたら白人たちが一斉に転出してしまった事例を、トッドが出していたが、ここまで行くと受動的でも「露骨」に違いないが)
 恐怖心は、誰にでも認知の歪みの基本要素である「過剰な一般化」や「結論への性急な飛躍」をもたらしうるが、これは突き抜けるとかなりな状態になる。認知行動療法の書籍では、統合失調症者の「妄想」は煎じ詰めれば恐怖心に由来する、と述べている。これは特に奇異な解釈ではないと思われる。前半は患者の妄想を理詰めで突き崩し少なくとも疑義を抱かせるくらいのところまでは持っていける等と述べながら、後半では妄想それ自体が彼らの心のバランスを保つ役割をしているかもしれず、それを無碍に取り去ることが果たして本当にいいことなのか、と自問しだす、ある意味ありがちな展開の精神療法の著作だったが、人格の次元に話が及んだ時、ナルシシストの本質として自己憐憫(これも「過剰な一般化」や「結論への性急な飛躍」の一様態であろう)を挙げていたのも印象に残る。ギャバードによるナルシシストのサブタイプの内で「無自覚型」の場合(トランプがそうであるかどうか?)は、全面的な自己肯定感が常態としてあるわけだが、果たしてどういう形で自己憐憫が意識化されうるだろう。
 コフートが著書で出していた有名なX氏の症例では、母が父を常に侮蔑しつつX氏を理想化して過大な期待を寄せる家庭で、X氏は早期以降における父の理想化プロセスに失敗したため、初源的な誇大感が健全な変遷としての幻滅を得られずに人格に定着してしまう。本来なら理想化した父を一旦内面に取り入れた上で現実的で健全な幻滅が訪れるが、X氏は理想化がキリストとかまるで非現実的な別物に入り込んでしまっているためどこまでも軟着陸できない。X氏は誇大感による様々な雑念の下、現実には、一意的に目指していた「救済者」への道に挫折する。社交を避け孤立と寂しさの中で生きていると叙述され、こちらは「過剰警戒型」に相当するだろうか。
 ナルシシストの自己憐憫がどういった形で本人に意識化されているかのバリエーションは、ギャバードによる「無自覚型」と「過剰警戒型」の分かれ目みたいなことと深く関わると思われるが、各ナルシシストの現実社会での自己実現の度合いと、元々負っている傷の深さとが、絡み合いながら原因を構成しているに違いない。過剰警戒型のように他者の評価に怯える要請がない無自覚型が恐怖するのは、もはや自らの死や有限性そのもの以外には考えにくい。ナルシシスト共通の誇大感の原風景が、無自覚型の方にこそ生々しく鮮明に表れているとも言えよう。ただし寿命は絶対に超克できず、子孫を同一視してその人生の可能性を自分の誇大感ために利用しようとするケースもあるだろうが、彼らが社会的な成功を得られるかどうか以前に、自立の過程で他者性が発現せざるを得ないしそうでなければ健全でないのである種の瓦解が必ず待っている。結局一般的に人が羨むことをすべてやりつくすみたいな「水平的な無限」を希求することから出られないわけで、それも死によって中断させられる。
 どんぐりの背丈のように有限でしかありえない自己を全能視して周りから「特化」しているナルシシストが、その本質においてすでに差別的なのは言うまでもない。したがって彼らが始終体から差別を湧出するのは極めて本来的な姿だと思われる。
 ナルシシストはわかりやすい一例というだけで、(恐怖心に縁取られた)認知の歪みを持っているのが彼らだけであろうはずはない。むしろ、ほとんどすべての人が大なり小なりあるいは千差万別の歪みを持っていて、そのことを超克できない。
 社会的な力関係の中で、何かのきっかけが差別の連鎖を惹き起こすこともあるのかもしれない。強者から弱者へ、差別が時に暴力を伴って伝わるが、差別されている弱者が今度は差別する側に回る可能性を忘れてはならない。被差別者は聖者でも何でもない。仮に聖者のような人がいたとしても、その個人だけが聖者なのだ。一見可哀想な被差別者が、むしろ差別と暴力を撒き散らすスプリンクラーになるおそれがある。その責任が彼ら以外にあるという彼らの主張も許してはならない。

追記(2016/11/07):
 記憶違い等をやや補正。


 なんか珍しく3日がかりでたらたら書いてしまった。
 風邪がなおってきたかもしれない。

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