イーロン・マスクが推すので、Grok3 betaに質問してみた。
 以下がその質問と回答。

Why isn't Complex PTSD included in DSM?

Complex Post-Traumatic Stress Disorder (C-PTSD) isn't included in the Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (DSM), currently in its fifth edition (DSM-5, with the text revision DSM-5-TR released in 2022), because the American Psychiatric Association (APA), which oversees the DSM, has not recognized it as a distinct diagnosis separate from Post-Traumatic Stress Disorder (PTSD). Here's why this decision has held, based on the available evidence and debates:
One key reason is the overlap between C-PTSD symptoms and those already captured under PTSD in the DSM-5. When the DSM-5 was developed, the PTSD criteria were expanded to include symptoms like negative alterations in cognition and mood (e.g., persistent shame or distorted self-blame) and a dissociative subtype, which many argued already encompassed much of what C-PTSD describes. A 2012 review by Resick and colleagues, cited by the National Center for PTSD, found that 92% of individuals meeting C-PTSD criteria also met DSM-5 PTSD criteria, suggesting insufficient evidence to justify a separate diagnosis at the time. The APA leaned on this, prioritizing diagnostic parsimony--keeping the system streamlined rather than adding overlapping categories.
Another factor is historical and procedural. C-PTSD, first proposed by Judith Herman in 1992, emerged relatively late compared to PTSD, which entered the DSM-III in 1980. When the DSM-IV was being drafted, a field trial led by Bessel van der Kolk supported a related concept, Disorders of Extreme Stress Not Otherwise Specified (DESNOS), to address chronic trauma's effects--like emotional dysregulation, identity issues, and relational difficulties. Despite a 19-to-2 vote in favor by the PTSD working group, the APA excluded it from the DSM-IV in 1994 without consulting the group, a move van der Kolk called a "tragic exclusion." This set a precedent, and by DSM-5's development, the focus shifted to refining PTSD rather than carving out C-PTSD, partly due to lingering skepticism about its distinctiveness.
There's also a practical angle: research and validation. While the World Health Organization's International Classification of Diseases (ICD-11) embraced C-PTSD in 2018 as a sibling diagnosis to PTSD--requiring PTSD's core symptoms (re-experiencing, avoidance, hyperarousal) plus disturbances in self-organization (affect dysregulation, negative self-concept, interpersonal problems)--the DSM process demands rigorous empirical backing. Some argue the evidence for C-PTSD as a standalone entity was historically thin or muddled by varying definitions, like DESNOS or the ICD-10's Enduring Personality Change After Catastrophic Experience (EPCACE). The DSM-5 committee, aiming for clinical utility and consensus, didn't see enough to break from PTSD's broader umbrella.
Critics, however, point to potential biases or systemic issues. Trauma experts like van der Kolk argue the DSM's reluctance reflects a failure to fully grasp chronic, interpersonal trauma's unique impact--say, childhood abuse versus a single combat event. Some suggest economic or political pressures play a role: recognizing C-PTSD could disrupt existing diagnostic categories (e.g., borderline personality disorder, often linked to trauma) or challenge funding models tied to established diagnoses. These claims, echoed in posts on X, lack hard proof but fuel suspicion about the APA's motives.
So, it's a mix of scientific caution (overlap with PTSD, need for more distinct evidence), historical momentum (past exclusions shaping present choices), and possibly unspoken priorities (simplicity over complexity). Meanwhile, clinicians often still use C-PTSD informally, and the ICD-11's adoption keeps the debate alive--future DSM revisions might yet shift if research or pressure mounts. What do you think about this divide? Does it match what you've seen or read elsewhere?

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「確かに私もこの何年か自分では 受け止めきれないほど多くのストーカー などのつきまといに複数あっており、最初は 怒っていました。でも相手は私が怒ったり 怯えたりすることで興奮するらしいのです。そして対決しようとした結果逆に相手を 喜ばせることになってしまいました。つまり その人たちは悪い交流で快楽を得ようと する人たちなのです。それにまんまとはまっ てしまいました。その結果異常な数の人たち に追われ私こそがうつになると思いました。何度かもう逃げきれないと死を覚悟した こともあります。それは今でもです。そこで何 ヶ月も思考して考え出したのが反応しない 練習でした。相手の怒りへの誘惑に乗らない 悪質な誘惑に乗らないという態度です。そして今では相手の行為に対して困ること はあっても怒りは不思議と出てこなくなり ました。困ったなくらいです。」

 今年に入った辺りから視聴していた匿名自称カウンセラーの500本以上ある動画のうちの一つなのだが、この人自身に統合失調症の兆候が出ているかもしれない、と思わせる箇所に遭遇。もちろん、上記引用に述べられている事が本当にあったのかもしれないし、また、ごく一時的に精神的な揺らぎが大きくなっただけかもしれないけれど。
 この動画だけだとわからないが、ある程度数を視聴すると、本人がカウンセラーながら長期に亘り親子関係に起因する問題を抱えている感じがあって、なおかつよくある毒親との断絶を推奨する系なので、私としては相変わらず安直な親子断絶は副作用があるのではないかと思わざるを得ない。このブログに少なくとも2008年にスーザン・フォワードの『毒になる親』のレビューをした時から何度か書いていると思う。
 機能不全の親でもほとんどの場合「いいこと」もしており、断絶や一括否定が危険なのは、健全な要素まで付随的に切り捨ててしまうことになりかねないためだ。機能不全に起因するトラブルや対立が高じている時は悪循環にのみ注目し「いいこともしてもらった」や「(機能不全でも)善意は含まれていた」とは思いづらい。また、ごく幼少期によくしてもらったことは無意識であるため気づきづらいところもある。だから、今の思い込みによって行き過ぎた断念を持ってしまうと、囚われている苦痛から自由になることはあるかもしれないが、弱い自己の基礎にわざわざ新たなヒビを入れることにもなりかねない。
 健全な思春期の反抗の根底にはより強固な信頼関係があるが、機能不全の場合はその基本的な信頼は曖昧になっている。断絶は、善意の兆しをも一括りにして『すべてを捨てるか?』という激烈な問いがまとわりつく運命にある。
 私は、毒親であれ健全な親であれ客観視できるようになることが子どもの成熟だと思っているが、機能不全の親子の入り混じるような状態から境界を作ることは最低限のスタートラインに着くために必要だとしても、本来それは白黒思考の硬直した境界であってはいけない。それはまた別の思い込みでしかないからだ。バランスの取れた常識や正しい知識からの視座によるものでなければならない。
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CIMG3807.jpg おそらく優に5年以上はアマゾンのほしいものリストに入れたままだった Otto F. Kernbergの「Borderline Conditions and Pathological Narcissism」のハードカバー版を、マーケットプレイスの中古で3千円弱で手に入れることができた。一昨日日本の古書店から格安で出品されているのを見つけた瞬間にクリック。ネコポスで今日配達された。本書はKindle版だと現在5千円ちょっとくらい(以前はもっと高かったような気がする)なのだが、新品のハードカバー版になると2万円以上もする。
 やってきた中古本は状態がとてもよく、最近の古書店のリフレッシュ技術もあるのかもしれないが、ページには汚れはもちろん折り目も書き込みもまったく見当たらず、売った人は買ったけどほとんど読まなかったのではないかと思われる。表紙をアルコールで念入りに拭いたが、取れたのはわずかなホコリだけだった。
 2017年に買った同著者の「Object Relations Theory and Clinical Psychoanalysis」は抽象的な話が続きかなりきつかったが、私の英語力も当時より少しは向上してるはずだし、今回はあそこまでの苦行にはならないと信じたい。時間を見つけて、少しずつゆっくり読むつもり。
 素人読者で私の英語力だと書き込みは不可避か。

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・杉山登志郎『発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療』 誠信書房

(p.98)
自我状態療法の基本的な流れを下記に示す(福井, 2012)。

①自我状態にアクセスする
②自己と内的システムについて理解する
③自我状態間で話し合いや交渉を行う
④それぞれの欲求を満たす
⑤自我状態間に平和をもたらす
⑥トラウマ処理を実施する

 具体的な治療の手技を説明する。最初に患者の身体の安全感がある場所を特定し、イメージでその部位に、芝生の公園とそのなかにある小さな家を思い浮かべてもらう。イメージのなかでその家のなかに入って、地下室に通じる階段を探す。地下室への階段が見つかったら、ゆっくりとその階段を降り、地下室の扉を開ける。地下室において、さまざまな自我状態に会い、自我状態と交渉をしたり、トラウマ処理を行う。その後、お礼を言って地下室を後にして、再び階段を上り戻ってくる、というのがスタンダードなやり方である。
 上記は本書内で紹介されるワトキンスの「自我状態療法」の説明なのだが、本書の場合の自我状態とは患者に複数の人格があることを想定しているが、本来はパーツとしてもう少し意味が広いようだ。催眠を利用することで通常は出会えない他人格とコミュニケーションが取れるようになるとしている。しかし、健常者がやる場合は解離そのものがもっと弱々しいものなので催眠の手続は必要ないかもしれない。また、健常者と言えどトラウマのない人はいないので、この療法のプロセスを誰でもやってみるといいと思うのだ。一般人は、フラッシュバックや人格の断片のようなものに対してやってみるといいと思う、というか私はやってみた。
 杉山氏はこの自我状態療法の簡易版を愛用しているそうで、必ずしも催眠誘導を用いず、下記のような手順らしい。
(p.100-p.101)
①イメージの家を身体の安心感のある部位に作る
②家のなかに入りパーツに集まってもらう
③パーツを確認する
④心理教育を行う
⑤幼い子からトラウマ処理を行う
⑥平和共存の確認
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・Marc Tonkin, Ph.D., and Harold J. Fine, Ph.D. (1985) Narcissism and Borderline States: Kernberg, Kohut, and Psychotherapy 〔PSYCHOANALYTIC PSYCHOLOGY, 1985, 2 (3) 221-239〕
https://www.sakkyndig.com/psykologi/artvit/tonkin1985.pdf

 著者は、今の読者には唐突な感じで、トマス・クーンのパラダイム理論を紹介して(当時流行っていたのだ)前半の紙幅を費やすのだが、クーンの理論によれば、成熟した科学は説明をシンプルなものにするがクライシスの中にある科学はノイズや複雑さに満たされる、という。著者は、シンプルな理論としてコフートを、複雑な理論としてカーンバーグを紹介するが、カーンバーグに対してコフートの理論が同一線上でより成熟しているということではなく、伝統的なフロイト理論の限界域で格闘するカーンバーグと、新しい概念で理論を構築するコフートの間に、ある種の断絶があるということのようだ。

(p.229) Narcissism develops gradually throughout infancy and early childhood along two separate but parallel tracks of development that correspond to two precursors of later images of the self and the other person. The first track concerns an image of the self called the grandiose self, and the second track concerns a self object called the idealized parent imago. The development of narcissism moves gradually from an archaic state of fusion of the self and the other to the differentiation of the self from the other. The grandiose self and the idealized parent imago represent the first distinct differentiation and form of the foundation upon which further differentiation of the self is built.
(p.230) As the child experiences frustrations (e.g., hunger) in this state, he develops an ability to reconstruct the euphoria of the nonfrustrated autoerotic state by forming a grandiose and exhibitionistic image of himself (the grandiose self) and a perfect, omnipotent selfobject (the idealized parent imago).
 上2つは、コフート理論の、乳幼児の原初的な融合状態から誇大自己と理想化イマーゴに分かれる場面を説明した箇所からの抜粋だが、コフートは(カーンバーグと違い)誇大自己をもともと健康なものとして捉えている。空腹などのちょっとした苦痛が母親と自分が別の存在であることを予感させ、全体としては肯定感を保ったまま、自己と母親(イメージ)への分離が進む。別言すれば、これは誇大感の分担のようなものだ。この分担は現実を受容するに付随して差異化を繰り返しながらどんどん進行し、健康な大人になる頃には誇大感はほとんど世界全体へと雲散霧消してしまう運命にあると思われる。ナルシシストの異常性は、この文脈では、原初の分担の失敗が尾を引く誇大感の抱え込みにあると思われる。
 本稿によると、カーンバーグ理論による健康な発達では誇大自己や理想化イマーゴは生じないとしている(それらはスプリッティングの反映のように捉えられる)。そういうことなら、コフートは幼少期のある程度の欠損は当たり前のものと前提しているように見えるかもしれないが、一方でカーンバーグは病的な側面にのみ注目している感じもするのでもともとの視座が異なるのかもしれない。
 いわゆる「投影性同一視」は赤ちゃんの原始的防衛機制を表す場合と、BPDやNPD等の患者が示す病的な(原始的)防衛機制を表す場合に分けられるが、後者に関して本論文中に端的な要約があったので訳してみた。たぶんWikipediaよりもかなりまし。
(p.235) The term projective identification refers to the patient's tendency to defend against a dangerous object, which he has created projectively, by identifying with that very same aggressive object and "empathically" becoming aggressive himself toward the object. This is expressed by the patient attacking the object before it attacks him.
(私訳)「投影性同一視」とは、患者の投影的に創造する危険な対象への防衛傾向を意味しているが、患者がその攻撃的な対象に同一化し、その対象に向かって『共感的』に攻撃的になることによる。これは、対象が攻撃してくる前に患者がそれを攻撃することで表現される。
(p.236) Kernberg and Kohut differ in three major ways: They focus on diagnostically different patient groups, they have different etiological theories to explain the pathology with which they deal, and they use different therapeutic techniques.
1.カーンバーグは転移を起こさない分析不可能な患者を診たが、コフートは自己愛転移によって分析可能な患者を診た。
2.カーンバーグの考えるボーダーラインの原因は発達の病的な成り行きにあるが、コフートが考える原因は正常な発達のある時期における停止にある。
3.カーンバーグの治療は闘争的なトーンで行われ抵抗を利用し解釈を与えて患者の自我を強くしようとするが、コフートの治療は静かな雰囲気の中で自己愛転移を利用して患者の失われている構造を控えめな形で供給する。
 私はカーンバーグとコフートのどちらが正しいとも確信しないが、乳幼児が(不満や苦痛や恐怖などの)負の感情から誇大感を生み出すという機序について、改めて反芻せざるを得なかった。鍵要素となるomnipotenceは日本語では万能感とも全能感とも訳されるが、おそらく万能感というものは多幸感に近い。それに比べて、全能感はそれ自体なにか常軌を逸した異様なものだ。北山修も著書のどこかで両者を区別していた気がするが、私の語感と一致するかどうかわからない(多分しない)。説明を試みれば、満たされた乳幼児は万能感を持つが、全能感を持つのはむしろ満たされない乳幼児なのだ。外部を忘却するのが万能感、外部を妄想によって上書きしようとするのが全能感。(薬物によるような場合は別にして)前者は健全であり、後者は病的ということになるだろうか。
 空腹になってもいつもは泣けばすぐにお乳にありつけたのに、何らかの事情で今回はどれだけ激しく泣いても救済者(母親)が現れないという場合に、乳児は欲望の成就を阻止するこの世界を滅ぼすべき邪悪なものとして妄想しだすかもしれない。正義は我にあるわけだ。なんだかカルト宗教にありそうな理路だけど、そこでは、超越的な力が間違ったこの世界を正すことになるはずなのである。
 コフート的な誇大自己と理想化イマーゴへの分裂は、自然な万能感を破綻はさせず小さく揺るがす程度の危機によって生み出されると思える。しかし、この万能感の維持が致命的に失敗した場合、乳幼児は世界への復讐のための全能感(妄想)を生み出し、ひいてはそれが病的なナルシシズムとなっていく。

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・Co-Narcissism: How We Accommodate to Narcissistic Parents (2005 ) Alan Rappoport, Ph.D.
https://alanrappoport.com/wp-content/uploads/2021/09/Co-Narcissism-Article.pdf

 偶然見つけたDr. Alan Rappoportの論文なのだが、Jürg Williの補足的ナルシシスト、あるいはGlen O. Gabbardの過剰警戒型ナルシシスト、あるいはPaul WinkのCovertなナルシシストに大体オーバーラップするような概念としてCo-Narcissismを提示している(2005年)。補助的ナルシシズムと訳すと意味が通りやすいが、接頭辞のCo-は「共同」的な意味合いの方が強いので、むしろ原語は一瞥だけで意味を把握しづらいかもしれない。ネット検索しても、(残念ながら)あまり流行っていない。
 参考文献にはElan Golombが載っていたりしてひどく懐かしいが、アカデミックな価値がある論文というより、Rappoportのカウンセリング経験から形成された概念的見通しを綴った小品と言っていいと思う。だが、それとして印象深かった。
 通常ナルシシストは、まず治療に来ないとか、普通の意味での転移が起きないとかいって、治療困難の烙印を押されがちだが、本稿ではそのような弱音はなく、intrinsic valueの確信や、他者愛の発見によって治るというような、拍子抜けするほど希望的な筋立てになっている。intrinsic valueとは何か?


(p.2) Commonly, one parent was primarily narcissistic and the other parent primarily co-narcissistic, and so both orientations have been modeled for the child. Both conditions are rooted in low self-esteem. Both are ways of defending oneself from fears resulting from internalized criticisms and of coping with people who evoke these criticisms. Those who are primarily co-narcissistic may behave narcissistically when their self-esteem is threatened, or when their partners take the co-narcissistic role; people who primarily behave narcissistically may act co-narcissistically when they fear being held responsible and punished for another's experience.
 後半の症例のパートでは、上掲引用に対する具体例のような感じで、妻や子供には尊大に振る舞い自分の父親には卑屈な態度になる自己愛的な男性が出てくる。誇大さと卑屈さは、ひとりのナルシシストの中で、場合によって入れ替わり得る相補的な要素と言いたいわけである。確かにそうと言えるかもしれない。しかし私は、少なくともNPDには基本姿勢というべきものがあり、それは人との組み合わせによってたやすく変わる何かではないように捉えている。基本姿勢として、Overtは自らがどこまでも拡大したいのであり、Covertは自分を無くして全能者に包摂されたいのだ。身近な対人関係によって態度が振幅することがあるとしても、各々の欲望は別の方角を向いている。
(p.3) One of the critical aspects of the interpersonal situation when one person is either narcissistic or co-narcissistic is that it is not, in an important sense, a relationship. I define a relationship as an interpersonal interaction in which each person is able to consider and act on his or her own needs, experience, and point of view, as well as being able to consider and respond to the experience of the other person. Both people are important to each person. In a narcissistic encounter, there is, psychologically, only one person present. The co-narcissist disappears for both people, and only the narcissistic person's experience is important. Children raised by narcissistic parents come to believe that all other people are narcissistic to some extent. As a result, they orient themselves around the other person in their relationships, lose a clear sense of themselves, and cannot express themselves easily nor participate fully in their lives.
 なぜNPDとのコミュニケーションが成り立たないのかの端的な説明。NPDはこの世界に意思疎通可能な他者を発見できない。彼らは自己の派生イメージを相手にした自作自演のようなやり取りをすることしかできない。NPD親に育てられた補助的ナルシシストの子は、意識的・経験的にそれを克服していなければ、相手の自己愛を基軸として関わりを持とうとしてしまう。
(p.4) It is powerfully healing for the patient to experience a relationship that is not based on narcissism. Co-narcissistic people are therefore greatly helped by the therapist's embodiment of Carl Rogers' principles of accurate empathy, interpersonal warmth and positive regard, and personal genuineness.
(p.4) In addition to the beneficial effect of the relationship between therapist and patient, a major part of the therapy process involves understanding how events and experiences in patients' early lives resulted in their current fears, inhibitions, and orientation towards others.
 NPDが外的な評価に依存しているのは自我の根底的な脆弱性と裏腹であり、簡単に取り去ることはできない。しかし肯定的な外的評価の供給源(自己愛供給源)を演じながら、彼を自律的な自己肯定状態に誘導しようとするカウンセラーが十分な信頼を勝ち得た暁に、患者は外的評価への依存そのものを断ち切る飛躍を決行するかもしれない。古い松葉杖から別の補助器に取り替えたあと更にそれをも取り去るのに似て、果たしてその後、ひとりでどこまでまともにやっていけるかが際どい問題になる。intrinsic valueを確信させる幼少期の良好な親子関係に代わるものは、その後どこまでも現れないからである。
(p.7) It is often helpful in overcoming narcissistic anxieties to realize that the other person's behavior is a result of their own views and experience, is not a reflection on oneself, and one's self-esteem does not have to be affected by their behavior. For co-narcissistic people, who experience strong feelings of guilt and blame, recognizing that they are not responsible for another's experience is a great relief. It is important for people with either narcissistic or co-narcissistic problems to come to believe that they have intrinsic value, independent of their accomplishments or what others may think of them.
 言うまでもなく、他者の自分への評価がすべて相手の思い込みで自己完結的なものであるとするのは無理があるし、社会の中で生きてゆく以上、他者による評価が自分に何の影響も与えないとするのも無理がある。しかしながら、そのような前提はNPDが幻想を断ち切り本当の意味での他者を発見するための必要な手続きであるのかもしれない。また、ある種のメンタライゼーションでもあるかもしれない。けれども、おそらくはこの手続きの後の道行きが険しい。C-PTSDのPete Walkerが著書でいまだに自分の子供の健全な反応に当惑することがあるというようなことを書いていたと思うが、NPDのサシが深い場合、外的評価への過剰な指向性を引き剥がすと壊滅した自我だけが残るということになりかねない。

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 近年のコロナ自粛の反動からかすごい人の数で、最後尾に並ぶと本殿到達までに二・三時間はかかると思われたので、いつもの楼門の絵馬だけ撮って帰ってきた。
 実際のお参りは後日にします。


追記(2023/01/08):
 3日の午後くらいに北野天満宮を再訪、拝礼し、おみくじも引いてきた。タイミングが良かったのか、三光門まで普通に歩いて行けた。おみくじは久しぶりの大吉だったけど、4日からもうドタバタ。
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  前回あまり気が進まずにWikipediaの"Narcissistic supply"(自己愛供給)のページを訳したら、目次の訳を間違えてアップしていた。さっき訂正したけど、目次から間違えるとは我ながらひどい。校正で本文は一回通して見直したが、その時なぜか目次部分をスルーしていた。

 以前紹介したサム・ヴァクニンがこの"Narcissistic supply"の概念を推していて、その事自体はわりといいところを突いている気はするのだが、彼の著作を読んでいると、それ以前に彼のNPDであるという自認が怪しいものに思えてくる。その理由は主に、サム・ヴァクニンが刑事事件(証券詐欺)で有罪判決を受けているということと、彼がNPDとサイコパスの類縁性を異様に強調することにある。サイコパスがナルシシスティックであることは専門家の一致する所見だが、多少似たところがあるとしても両者は違うものだ。
 サム・ヴァクニンは、(医師資格もないのに)著書でDSMにおけるNPDの診断基準に独自の修正を加えているのだが、シンプルであるべき表現をくだくだしくしてるだけでなく、ややぎょっとする修正(引用イタリックの箇所)を行っている。彼は、NPDがもっと攻撃的な傾向を持っていると訴えたがっているのだ。

Constantly envious of others and seeks to hurt or destroy the objects of his envy or the sources of her frustration.

Vaknin, Sam. Malignant Self-love: Narcissism Revisited (FULL TEXT, 10th edition, 2015) (p.3). Narcissus Publications. Kindle 版.

 しかしDSMがNPDの攻撃性を強調しないのは、私は正しいと思う。攻撃性はNPDではなくサイコパスの特徴なのである。
 Wikipediaの彼のページの経歴によると、1985年頃にNPDの診断を受けたが当人が納得しなかったようで、その後、彼の起こした犯罪での仮釈放の条件がメンタルヘルス評価を受け入れることだったためNPDということになったようだ。しかし、もし仮にこれらが誤診だったとすると、彼の自認と客観基準のズレに関して説明がつくような気がするわけなのだ。
 詐欺師から心理学の教授になってしまうサム・ヴァクニンの知的パワーには敬服せざるをえないが、怪しさはつきまとう。過去には、Wikipediaの編集者も彼の取り扱いに苦慮したようで、議論になっているが、サム・ヴァクニン個人のページは今もWikipedia上に存在するし、他のページでも専門家のように記載されていたりする。

 Shahida Arabiはこの微妙なサム・ヴァクニンからかなり影響を受けているようで、彼女の微妙さを裏付けている気がする。


追記(2022/12/31):
 サム・ヴァクニンの怪しさが光るわけのわからない文章。ナルシシストである親がナルシシストである子供をどの程度発生させるかについての叙述。親から子へ連続するのは非常に少数派だと言いながらも、ナルシシストである子供から見て、その親や養育者のうち大抵一人以上はナルシシストだなどと述べている。子だくさんなカルチャーを前提にしているのだろうか?何を言いたいのかよくは分からないが、根拠や出典も不明。サム・ヴァクニンは万事この調子。しかしこの無責任さがまさにナルシシストの兆候ではあるのだが。

At the risk of over-simplification: narcissism does tend to breed narcissism, but only a small minority of the children of narcissistic parents become narcissists. This may be due to a genetic predisposition or to different life circumstances (like being the firstborn). Still, most narcissists have one or more narcissistic parents or caregivers.

Vaknin, Sam. Malignant Self-love: Narcissism Revisited (FULL TEXT, 10th edition, 2015) (p.616). Narcissus Publications DOOEL. Kindle 版.


追記2(2023/02/19):

Antisocial personality disorder and narcissistic personality disorder share the traits of exploitation, superficiality, and lack of empathy, but even at the more severe end of the spectrum, individuals with narcissistic personality disorder do not demonstrate the total breakdown of moral functioning and absence of any capacity for loyalty that typifies antisocial personality disorder, nor is narcissistic personality disorder typically associated with the history of childhood conduct disorder that is common in antisocial personality disorder.

"Narcissistic Personality Disorder: Diagnostic and Clinical Challenges" (p.5) Eve Caligor, M.D., Kenneth N. Levy, Ph.D., Frank E. Yeomans, M.D., Ph.D.

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 英語版Wikipediaの"Narcissistic supply"の拙和訳です。今のところ日本語版には対応項目はありません。英語版の記事内容はあまりいいとは言えないのですが、特にナルシシストと付き合っていかざるをえない側の人々にとって「自己愛供給」が非常にキーとなる概念だと思っており、訳すか訳すまいか先延ばしにしているうちにそれなりに時間が経ったのですが、その間も元記事はあまり改善していません。原文では運営からの信頼できないソースであるとの指摘も多発で、内容としても単なる英文としてもかなりいまいちな感じです。
 自己愛供給というのは、要は、ナルシシストに話を合わせたり口裏を合わせたりして、彼らの自己愛的渇望をヴァーチャルに満たしてやることです。まさにナルシシストの周りの人の身に覚えのあるところではないかと思います。
 このWikipediaの記事だと、一次的自己愛供給と二次的自己愛供給の違いがかなり分かりづらいですが、以下の引用元を確かめると、前者が他者からのランダムな供給であり、後者は家族や友人などからのレギュラーな供給ということのようです。

・Narcissists, Narcissistic Supply And Sources of Supply
https://www.healthyplace.com/personality-disorders/malignant-self-love/narcissists-narcissistic-supply-and-sources-of-supply

 あくまで参考までにと言うか、ざっと雰囲気だけでも伝わればと思って拙訳しました。
 関連項目以下はすべて省略。


自己愛供給


目次
1 歴史
2 人格障害
3 自己愛の病理における作用
4 供給源
 4.1 一次的
  4.1.1 トリガー
 4.2 二次的
5 関連項目
6 参照
 6.1 引用
 6.2 出典


歴史
フロイトの自己愛充足の概念や彼の同僚である精神分析家カール・アブラハムの仕事に基づき、フェニケルは、幼い子供が心の平衡感覚を維持できるようにする供給に対する早い発達段階での自己愛的な欲求を強調する。彼はそのような自己愛供給を得るための2つの主たる戦略、攻撃とおもねり、という(それらは後に加虐的または服従的なものに発達しうるわけだが)対照的なアプローチ法に区別する。

フェニケルによると、子供時代の必要不可欠な供給の欠如が、抑鬱気質の鍵であり、同様にそれ以降の補償的な自己愛供給を求める傾向の鍵でもあった。衝動神経症や、恋愛依存を含む嗜癖、賭博、はすべてのちの人生における供給へのもがきの副産物と、彼により見なされた。精神分析家のエルンスト・ジンメル(1920)はより早く、神経症的賭博を、成人した状況において原初的な愛や注目を取り戻す試みとして考えていた。


人格障害
精神分析家のオットー・カーンバーグは、悪性の自己愛的な犯罪者が、自己愛供給の源として理想化され得ぬ他者への軽視によって、冷たく特徴づけられるべきものと考えた。自己心理学者のハインツ・コフートは自己愛性人格障害の人々は習慣的な自己愛供給源から切り離された場合に精神的に崩壊するものとみなした。そういう人物に自己愛供給をする人々は、個人としてのすべての境界が覆い隠され、まるでナルシシストの一部分のように取り扱われる。


自己愛の病理における作用
ナルシシストは思春期に「悪い」受容体(普通は親)を内面化する。彼らはこの受容体に対する社会的に好ましくない感情、とりわけ憎悪や嫉妬のような攻撃的な型を含む、を注視する。これらの知覚はナルシシストの不道徳で退廃したものとしての自己イメージを強化する。それらは結果的に機能不全の自己価値感覚を創造する。彼らの自信や自己イメージは非現実的に低く歪んだものとなる。これらの「悪い」感情を抑圧する試みにおいて、ナルシシストはあらゆる感情を抑圧しもする。彼らの攻撃性は、空想や、過酷なスポーツ、ギャンブル、向こう見ずな運転、ショッピングなどの、社会的に合法のはけ口に向けられる。ナルシシストは環境を敵対的で、不安定で、不十分で、道徳的に間違っていて、予測不可能な場所として見ている。

ナルシシストは一般に自己価値が内在する感覚を持たないので、自らの重要さを再確認して自身についての心地よい感覚を得たり自尊心を維持したりするために、注目や自己愛供給を通して他者に依存する。そして、他人が感情的な脅威とならないように、他者を操作や対象に仕向ける。この反応パターンが病的ナルシズムなのである。

ナルシシストは、他者から絶えず注目や自己愛供給を引き出すために、偽りの自己を外に映し出す。偽りの自己は、ナルシシストがそう見られたいと意図するパワフル、エレガント、スマート、裕福、良いコネがあるなどの、世間に見せる非現実的な外観や覆いである。そして、ナルシシストは、配偶者、家族、友人、同僚、ビジネス・パートナー、仲間などからなる身の回りから、この映し出された偽りの自分に対する反応を「収集」する。もし期待される自己愛供給(へつらい、賞賛、注目、恐怖、尊敬、喝采、肯定)が手に入らない場合、それらはナルシシストによって要求されたり強要されたりする。お金、お世辞、メディア露出、性的征服はすべて、ナルシシストにとっては同じもの、つまり自己愛供給の異なった形態に過ぎない。


供給源
彼らが 「供給源」から受け取る注目は、ナルシシストの生存に必須であり、彼らの脆弱な自我が不安定な自尊心を処理するために依存しているので、それなしでは彼らは(物理的、比喩的に)死んでしまう。自己愛供給にはそれらを達成する特徴的な形式があるが、2つに分ける供給源からなる。学者や研究者は一般に、自己愛的供給の2つの主要な種類を認識している。:一次的は、より公に対して向けられた注目の形式を通して獲得されるもので、二次的は、たいてい対人関係を通して達成される注目によって獲得される。


一次的
一次的自己愛供給は、認知、名声、悪名、スターダムといった公的な形と、賞賛、感嘆、喝采、恐怖、嫌悪といった私的でより対人的な形の、両方の注目に基づいている。一次的な自己愛供給が、肯定・否定のどのような種類の注目をも表すことを理解することが重要である。彼らの「実感」は、他者がそれを信じている限りの、想像や虚構であり、あるいはナルシシストにとってのみ明白であるようなものかもしれない。内容より見かけなのであり、真実ではなく、それに対する彼らの知覚が重要なのである。したがって、彼らが偽りの自己を通して投射する思い通りの反応や注目を受けさえすれば、それに付随している意味合いなど取るに足らない。

トリガー
自己愛供給の主たるトリガーは、ナルシシストの偽りの自己の情報に従って供給源に対峙することにより、供給源に自己愛供給を行わせる、個人または対象である。自己愛供給は、トリガーに対する供給源の反応なのである。偽りの自己が賞賛を投射することでナルシシストが彼らの欲求に叶う環境を見つけた場合、それが一次的自己愛供給のトリガーとなる。

パブリシティー(名声あるいは悪評、有名であることまたは悪名高いこと)は、人々がナルシシストに注目する原因になるため、つまり供給源がナルシシストに自己愛供給の提供をするように方向づける、自己愛供給のトリガーである。パブリシティーは、人前に出ること、何かを創造すること、そして注意を喚起すること、によって獲得されうる。ナルシシストは、麻薬中毒者が定期的な服用を保証するためにやっていることと同様に、継続的にこの3つに縋る。自己愛供給のこのような原因の一つは、パートナーや仲間である。

二次的
二次的自己愛供給には、良い人生を送っているというイメージ(ナルシシストにとってプライドへの価値ある根拠)の投射、安全な生活(経済的安定、個人的受容性、上昇傾向)の維持、仲間の獲得、などが含まれる。したがって、パートナーを持つこと、相当な財産を所有すること、創造的であること、会社(病的な自己愛的空間に転換される)を運営すること、無秩序な自由を感じること、地域や社会の一員であること、技能や他の評判を持つこと、繁栄していること、土地を所有し自分のステータスサインを表示することは、すべて二次的自己愛供給を表している。ナルシシストの友人のコミュニティでは、どんなものでもステータス・シンボルとなり、そのコミュニティでの達成として二次的供給源とみなされるだろう。二次的供給とは、ナルシシストの生活が友人や親族にもたらす全体的なイメージのことである。しかしながら、それが維持されているなら、このタイプの供給は肯定的である必要があり、否定的などんな表出も、その人(誰であれ)を傷つけてしまうことになるだろう。短い一次的自己愛供給のための予備となる供給源でもあるのが、このタイプの供給源である。しかしながら、ナルシシストは、どちらをもほぼ同じ流儀で使用する。


関連項目
(省略)


参照
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引用
(省略)


出典
(省略)

(Translated from the article "Narcissistic supply" on Wikipedia)

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