神経症的傾向に伴う2つの特徴
1.目標追求に伴う無分別性
2.神経症的傾向を現すまいとして起こった不安の反動であること

クレアの強迫的傾向
1.自分の願望や欲求を強迫的に控えめにする
2.自分のことは他人のことほど考慮しない
3.他人に卓越しようとする強迫的欲求(防衛的な高慢さ)

神経症的傾向の分類
1.愛情と承認への神経症的欲求
2.自分の人生を引き受けてくれる相手がほしいという神経症的欲求(マゾヒズム?)
3.生活領域を制限しようとする神経症的傾向(ミニマリズム)
4.権力への神経症的欲求
4a.論理的・推理的に割り切ることによって自他を制御しようとする神経症的欲求
4b.意志力の全能を信じようとする神経症的欲求
5.人を利用し、人に勝つためには手段を選ばないという神経症的欲求
6.社会的に認められ、名声を博したいとの神経症的欲求
7.自己を称賛されたい神経症的欲求(自己愛)
8.個人的業績への神経症的野心
9.自立と独立への神経症的欲求(何人の助けも不要)
10.完全で非の打ち所のない状態への神経症的欲求


神経症的傾向の自己イメージ3様
1.卓越した理知
2.(受動的)愛の優越
3.完全なる自律・自足

同居する自己イメージの矛盾や相反が神経症的「症状」を生む。

歪んだまま自己正当化(二次的防衛)が始まる。

「分析操作というものは一歩一歩悪循環をときほぐすことにある。」p.81

精神分析過程の三段階
1.神経症的傾向の認識
2.その原因、顕現状態、結果の発見
3.その神経症的傾向とその人のパーソナリティの他の部分との相互関係、特に他の神経症的諸傾向との関係の発見

すぐに(パーソナリティの)変化を積極的に受け入れられるとは限らない。p.84


追記(2022/10/08):

患者に対決をせまる主な任務の三項目 p.95
1.できるだけ徹底的にかつ明けっぴろげに自己表現をすること
2.自己の無意識的欲動とそれが彼の人生におよぼす影響を知ること
3.彼と彼の周囲の外界との関係を乱すような性格傾向を改造する能力を成長させること

「自由連想からは自分が耐えられることしか掴まない」p.193

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《症例クレア》

「最近の一連の連想を概観すると、彼女は殆どの出来事の重点が予期しない援助や贈り物におかれていることを知って驚愕したのである。」p.217

「クレアがこの時期に発見したことで最も重要なことは、次にのべるようなことがらに対する強い反抗があるのに気づいたことである。すなわち自分自身の人生を歩むこと、自分自身の感情を味わうこと、自分自身の思考を思考すること、自分自身の興味・計画をもつこと、要約すれば自分自身であり、自分自身の中に権威を見出すこと、などに彼女は反抗したのであった。この発見が彼女のほかの発見と違うところは、それが全く感情を伴った洞察である、ということであった。」p.239

「今やっと彼女にわかったことは、前夜の自分の反応は実は彼との約束がふいになってがっかりしたためにおこったのではなく、彼が彼女の感情を無視したというその冷淡無情さに起因していることであった。」p.222

「たしかに彼女は自分の不幸を誇張したが、苦境を訴える人もなく、電話をかける相手たるピーターもいなかった。全人類の中で自分が一番哀れだと感じるだけで、援助がやってくると信じるほど彼女はもう非理性的ではなかった。」p.243

魔術的救助。p.243

「そこで問題は結局、一人でいられないという一般的なことではなく、排斥されることへの神経過敏さであることがわかったのである。」p.251-252

「このことと関連してクレアが思い出したのは、母と兄との緊密な結びつきであり、この結びつきから彼女はしめ出されていた。母や兄の目から見れば自分は厄介者にすぎない、というふうに彼女が感じさせられたいろいろの事件が浮かびあがってきた。」p.252

「もし彼女が、魔術的援助願望を彼女の依存性に結びつけて考えることなく、この両者が相互に不可欠の要素であることを知りえなかったなら、この魔術的援助願望を徹底的に克服することはできなかったであろう。」p.270

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「抵抗の背後にある欲動の発達をとがめてはならない。この欲動が擁護しようとしている神経症的傾向はほかの人生対処法が全部失敗に終わったとき、彼にひとつの生きる手段を与えてくれたものなのである。」p.297

「どんな抵抗でもあるていど強くなると、現実的にそれは分析の限界へと変貌する。」p.298

「今日の社会では、経済的に独立している人は象牙の塔にたやすく引きこもれる。ところが資力の貧しい人はよほどほかの欲求を最小限にきりつめないと、世間から身をひくことができない。ある人は威光や権力を鼻にかけるのが許されるような環境で育っているが、しかしまた別の人は無から出発したけれども外的環境を心にくいまでに利用して、ついには威光、権力などの目標を意のままにするであろう。」p.301

「重症の神経症は体にきつい鎧を着たように力一杯活動的な対人関係をもつのを邪魔する。そのため人生に対する怒りが発現してくるが、これはニイチェが人生羨望といったように、のけものにされているということに対する深い怒りである。自分に対しても人に対しても、敵意や軽蔑が非常につよい場合は、むちゃくちゃになるのが一番気持ちにぴったりする仕返しの方法である。だから人生の与えてくれるものすべてに対して"ノー"ということがのけものにされているものとしては唯一の自己表現方法なのである。」p.302
※ネット検索ではニーチェの「人生羨望」なる語はヒットしない。

「(自己分析の試みに際して伴う)もうひとつの偏向は、特殊な現在の障害を幼少期のある特定の経験そのままの繰り返しであるとみなす根づよい傾向である。自分を理解しようと思えば、自分の成長に作用した要因の理解が必要なことはいうまでもない。性格形成に及ぼす幼少期経験の影響は、フロイドの主要な発見のひとつである。しかし現在の性格形成に寄与しているのは、いつでもわれわれの幼少期の経験の総和である。従って現在のあるひとつの障害と幼少期のあるひとつの経験との関係だけを抜き出して解明したところで無駄なことである。現在の特性は現在の性格に内在する諸要因の全体的相互作用の現れとしてのみ理解できるものである。」p.308

「(先天的な素質による分析の限界に関して)或いは多かれ少なかれ意識的に決心するのは、次のようなことである。人間関係の問題は―そのあるものについては彼は自覚し理解しているが―彼のエネルギーにとって非常な負担であること、しかも平和な生活を送る唯一の方法、創造力を保つ唯一の方法は、人から遠ざかること、人や物への欲求を最小限に制限すること、そして欲求の最小限化という状況下なら、何とか生存をつづけうるということ、などである。」p.311
※本原書は1942年に出版されたが、ほぼ社会的ひきこもりのような概念である。あるいはシゾイド。日本では一時マスコミや斎藤環によって、引きこもりが日本特有の現象であるかのように喧伝されたが、虚偽である。

「完全な分析などというものはない。」p.315

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《訳者あとがき》
「ホルネイはフロイドを否定したのではなくて、ただ修正しただけだといっているが、フロイド分析学にとっては根本的な本能論や人格構造論(イド、自我、超自我)を斥けている。ホルネイによれば、人間を動かすものはフロイドのいうように性欲と攻撃欲ではなくて、安定感への欲求であるという。安定感への欲求は何に由来するのか。子供は親からかまってもらえないと不安を感じる。これをホルネイは根源的不安(basic anxiety)と名づけた。根源的不安は具体的には孤独感や無力感、或いは絶望感として感じられる。」p.318-319
※訳者あとがきは多数の雑な例がホーナイの主張を補強する(つもりの)ものとして出されていて怪しいのだが、さすがにこの箇所はそのまま受け取っても構わないだろう。


追記2(2022/10/09):
 読みながらメモしていったのでエントリーは複数回に分かれている。現在の精神医療では薬物治療にシフトしていて、精神分析的手法はあまり取らなくなっていると思われるが、無意味でもないと思ってまとめてみた。
 本書は基本的にクレアの症例のみを主軸として内容を展開している。恋人との何気ない行き違いから、自分の性格的傾向の自覚、そして、育った家庭において兄と密着した母により常に蔑ろにされていたことに、クレアの自己分析は行き着く。敗北主義的な傾向すらあり過剰に依頼心の強かったクレアは、分析によって過去の自分を脱却し立派に自己主張ができるようになったと述べられているわけだが、劇的変化の過程や機序はちゃんとは描かれていないと言っていいと思う。一応「真我を回復する」というモチーフは提示されるものの、偽りの自己の一般的なしつこさを念頭に置くとき、(分析への)抵抗の弱さにも違和感を持つし、クレアはとにかく自己分析をして好くなったのだ、と受け取るしかないという感じになってしまう。別言すれば、本当にこれで一件落着したのか疑いが残るわけなのである。
 クレアが行ったのは、ホーナイの治療過程での補助付きの自己分析だと思われ、通常の対面分析にかなり近い自己分析ということになり、その点注意が必要だ。クレアが純粋に単独で行った自己分析をホーナイがあとから聴いたという感じではない。むしろ主治医の誘導あるいは指導でゆるく守られた中での自己分析であると思われる。

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CIMG3597.jpg・エーリッヒ・フロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)

 加藤諦三がカレン・ホーナイと並んでよく引用するエーリッヒ・フロムなのだが、どちらも新フロイト派ということで、加藤諦三もおそらくそういう方向性なのだろう。エーリッヒ・フロムはネタ元として、さすがに加藤諦三の受け売り的な感じとは一味も二味も違う。

 愛は、配慮、責任、尊重、知から成っている(そうあるべき)と序盤に定義づけそれに基づいて話が進むことにはなるのだが、その前に、フロムが本書で言いたいことをぎゅっと要約したようなパラケルススの言葉が、目次のすぐあとに引用されているのを見逃してはならない。

『愛するということ』p.5
 何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。(中略)ある者に、より多くの知がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。(中略)すべての果実はイチゴと同じ時期に実ると思いこんでいる者は、ブドウについて何ひとつ知らないのである。
 パラケルスス〔一六世紀の医学者、神秘思想家、錬金術師〕
 他者を尊重しない、押し付けがましい、独りよがりな、あるいは杓子定規な、愛情関係が破綻に陥る運命の途上にあることはその通りだろう。しかし同時に、これは大なり小なり誰もが日常に身覚えのある破綻でもあるはずなのであり、人はこの種の無知から逃れられず、間違い続ける存在なのだと思われもする。
『愛するということ』p.84
 この段階にいたってはじめて、母性愛は大変な難行となる。つまり、徹底した利他主義、すなわちすべてを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力が求められる。多くの母親が母性愛というつとめに失敗するのもこの段階である。ナルシシズム傾向の強い母親、支配的な母親、所有欲の強い母親が「愛情深い」母親でいられるのは、子どもが小さいうちだけである。ほんとうに愛情深い女性、すなわち受けとるよりも与えることにより大きな幸せを感じ、自分の存在にしっかり根を下ろしている女性だけが、子どもが離れていく段階になっても愛情深い母親でいられるのだ。
 NPD親は自己の延長物として子に決定的に主体性が生じない形でなら愛情深さを維持するので、フロムの言い方には留保が必要な気がする。私はこのブログで何度も書いているがナルシシストが他者愛を全く持たないとするような考えは正しくないと思っている。彼ら自身がfull-fledgedな自己から追放されて発育しており、それはもちろん言い換えれば偽りの自己(解離)で生きているということなのだが、彼らの歪んだ期待と欲望の地平に沿った生き方をし続けるなら他者への愛情は持続する。一方主体性が生じてしまった子は彼らの憎悪する現実世界という「異界」の住人として同様に憎悪されることになる。だから、NPD親は成長する子が主体性を持たないように多様かつ能動的に働きかける。それは愛する対象を失いたくないという一般的な欲求によく似ている。
 自他の区別の曖昧さの中で、イニシアティヴを奪い合うというのがNPDの対他関係における基本把握なのだと思う。だから、どうしても人間関係の中での主体性のありかが鍵になってくる。

 フロムは本書終盤で社会的変化が個人に与えた影響を強調する。蔓延する資本主義という疫病が本来健全だったはずの人々を機能不全に追いやったかのような説明が(マルクスを引用しながら)続く。まさに新フロイト派の面目躍如たる箇所なのかもしれないが、そうではなく、機能不全な人々は古くからたくさんおり、それを陰に陽に補助していた古い相互配慮的な社会システムが資本主義によって取り払われて、彼らの不全なありのままの姿が露出したのだと、私は思うのだ。両論は似ているようでまるで違う。
 昔の社会は経済活動をも含んだ全体を人治的な素朴なヒューマニズムで覆っており、そのことは例えば機能不全の家庭に育ったあきらかに未熟な人々にも居場所を鷹揚に与えている面があったと思われる。しかし、資本主義の進行により、経済合理性の追求がそのような前時代的ヒューマニズムを無駄なものとして労働現場等から取り去っていった。このある種の後退はその時点において社会内に影の領域を創造した。本来は失った代わりとなる明かりがなにか必要だったが、当面後回しにされざるをえない。そして、おそらくは前世紀の中葉あたりから、先進諸国では労働者のストレス障害や鬱病が社会問題として認識されるようになり始め、彼らへの福利厚生が企業や組織にとって当たり前になるごく最近まで、その影の領域に落ちたおびただしい犠牲者たちは黙殺されることとなった、のだと思う。


追記(2022/09/12):
 資本主義が、科学・医療技術の発展を伴い、人口増加に寄与したことは事実であろう。むしろ、昔なら死んでいたはずの「弱い子」を延命させたために問題が生じた可能性もある。このことは岡田尊司もどこかで書いていた気がする。
 いずれにせよ資本主義を害悪とみなす視点は単純すぎる。

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CIMG3592.jpg 加藤諦三の新し目の本(加藤諦三『愛されなかった時どう生きるか』PHP文庫)の図書館予約の順番が回ってきたので、このところわりと集中して読んでいたのだが、面白かったと言うべきか、単に考えさせられたと言うべきか、いずれにせよ出会えてよかったとは思った。
 「愛されないことを恐れるな」が著作最後の小見出し。愛されなかった現実に直面せよとのこと。本当の自分の発見?しかし、一般的な意味での愛することの機能不全は、完全な無能力を意味しはしない。恩着せがましい贈与にも、親の愛が全く含まれていなかった可能性は低いだろう。
 少しだけ愛されたのだ。愛されなかったのではない。直視すべき現実があるとすればそのことだ。親離れするのに、現実に対応しない断念まで持つ必要はないはずだ。
 極論を言えば、妄想を伴うような重度のNPD親が主観的には子を愛していた場合、壊滅的に機能不全だったとしても愛はあったのだ。愛する対象が現実の子とはかけ離れたイメージで捉えられていたとしても、何かを育て愛そうとしていることは子に伝わる。そして、その何かがおそらく自分を指しているらしいことも。
 もちろん、加藤氏を「愛さなかった」親の現実検討能力の毀損が、そこまで重篤だったとは思えない。
 健常者の愛でも、それが他者同士のコミュニケーションである以上、現実的・結果的に有効でない行為を全く含まないことは考えにくい(ウィニコット等はむしろ多少のズレは歓迎している)。そして、彼らが「自分は親に愛された」と言う場合に、それらの有効ではなかった細かな行為を厳格に排除しているとは考えにくい。彼らは無効だったことも含めた全体を指して「自分は親に愛された」と認識しているのだ。
 子の情緒的・人格的な発達にあからさまな不具合が出て、その人生に何らかの具体的な破綻をもたらしている場合、常識的な意味で、彼らは「愛されなかった」と言い出しうるかもしれないが、概念のしきいや因果関係は依然として曖昧かつ相対的なものである。
 望んだ相互理解の可能性が諦め切れないために、愛情飢餓が肥大し、畢竟親の愛を全否定するような行為は、それ自体が幼稚なスプリッティングの表れである。メンタルヘルス系でよく言及される毒親との断絶も似ていて、相当以上の喪失を覚悟した上でやる最終手段であって、安易にやるべきことではない。当人の幼児性こそがそのような蛮勇を許しているのかもしれないからだ。

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 探していたカーンバーグの有名な論文がネット上にpdfであったので、リンクメモ。趣旨としては全体にカーンバーグがコフートを論難しているものなのだが、下に抜粋している箇所はその文脈とは直接は関係なく、今で言う心のレジリエンスの発生源に関するもので、個人的に印象に残ったため。

・Contrasting Viewpoints Regarding the Nature and Psychoanalytic Treatment of Narcissistic Personalities: A Preliminary Communication - Otto F. Kernberg, M.D.
http://www.sakkyndig.com/psykologi/artvit/kernberg1974.pdf

The normal reaction to loss, abandonment, and failure is the reactivation of internalized sources of love and self-esteem, which are intimately linked with internalized object relations and reflect the protective function of what has been called "good internal objects."

Contrasting Viewpoints Regarding the Nature and Psychoanalytic Treatment of Narcissistic Personalities: A Preliminary Communication - Otto F. Kernberg, M.D.
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 エーリッヒ・フロムの『生きるということ』を読んでるが、「持つ」と「ある」の対比を非常にノイジーなやりかたで論述している。しかし、彼が言う「持つ」人というのは、要は、(モノや他者に承認を求めるような)「偽りの自己」が優勢な人のことだと思う。愛着理論で言えば非安定型に多いかもしれない。エーリッヒ・フロムはドナルド・ウィニコットより4歳若いだけのようで、同時代の読者として前者を選んだ人は遠回りを強いられたことと思う。
 これまで私はエーリッヒ・フロムはたぶん『破壊』しか読んだことがなく、ヒトラーの精神分析パートが微妙というか荒唐無稽な感じで、あまり印象は良くなかった。エーリッヒ・フロムは加藤諦三の元ネタみたいなので今回図書館で借りてみている。


追記(2022/07/25):
 偽りの自己による「持つこと」は自己目的化された所有欲であり拡大欲である。それら病的な欲望を取り去るのに「持つこと」それ自体を取り去ってしまおうとするのは、多くの場合、行き過ぎた反動である。「持つこと」にも疎外されたものとそうでないものとがあり、健全な所有をも否定する態度になれば別の倒錯が含意されはじめる。俗世の全財産を捨てる仏教の出家者のような緊急避難的な行動を一般化するのにも似ている。

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CIMG3579.jpg アマゾンでほぼ半額だったので臨床心理士の型落ちテキスト(『心理系大学院入試&臨床心理士試験のための心理学標準テキスト'19~'20年版』IPSA心理学大学院予備校)を買った。一応中古扱いだったが、要は売れ残りで、折り目も汚れもまったくない未使用本。受験する資格も予定もないので今のところこれで十分である。
 ただ配送担当の日本郵便が凶悪で、大阪北部(茨木市)から4日午後発送の連絡がメールであって、今日7日の午後にようやく京都市内の私のポストに入っていた。乗用車だと約一時間の距離である。それがほぼ四日がかりだった。運輸・交通網になんかあったのだろうか?


追記(2022/07/09):
 いやぁ、ひどい。間違いだらけ。今更意味ないけど、これはお勧めしないです。
 例:✕chamship ◯chumship (p77)
 多分ネットで調べ直しながら添削する感じになります。
 入手したのは第1版1刷で、このあとの版では修正されたりしたのだろうか?
 最近ハズレ本が多いかも。


追記2(2022/07/15):
 「偽りの自己」を発展させること??社会的仮面のような健全な「偽りの自己」に近づけていくという意味で言ってるのだろうか。しかし、肥大した「偽りの自己」の生気を滅し本当の自己の領域から引き剥がすのが現実的作業なのであり、それを発展と表現すべきか。せいぜい成熟。

 ウィニコット(Winnicott,D.W)は内的で主観的な世界と外的で客観的な環境要因とのかかわりを重視し、子どもの心身をホールディング(抱える環境)すること、偽りの自己を発展させること、分離不安に対する防衛として移行対象の概念を提唱しました。
(p139-p140)


追記3(2022/08/07):
 心理統計パートが凶悪。執筆者は明らかに自分が書いていることを理解していないか、そうでなければ、強い悪意がある。
 以下はp289の複数ある虚偽記載の一例。

✕「順序尺度 順序による数字の大小の違いはあるが、数値間の間隔が一定でないもの。数字を加算することはできない。」
◯「順序尺度 順序による数字の大小の違いはあるが、その間隔には意味がないもの。順序を示す数字を加算する等はできない。」

 いうまでもなく、順序尺度に対応するデータ値が数値として一定間隔になることはありうる。単に序数のことを指しているのであれば一定間隔が普通だ。

 あとp318の独立性の検定の計算式も強烈に間違ってる。男女差がない期待値を想定して実測値と共にカイ二乗検定を計算するだけなのに、なぜか男女の実測値が逆転するような狂った計算が記述されている。めちゃくちゃ。

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 Shahida Arabiに関連して「補足的ナルシシスト」という概念を思い出し、その発案者であるユルク・ヴィリィについて改めてネット検索していたら、たまたまYoutubeで以下の加藤諦三という人の動画を見つけました。
 加藤諦三氏は精神科医でも臨床心理学者でもないけれど、よくメンタルヘルスに関する発言をされている方のようです。著書でユルク・ヴィリィについても言及されているようです。動画では、彼がナルシシズムというものがなぜ重要な問題なのかを説明しているのですが、通して視聴して、私的に大きな問題を感じなかったのでメモ代わりに紹介します。初心者向け。
 集団ナルシシズムとヒューマニズムの対立は、ぼんやり私も考えていたことで、動画内で明示的に説明されたので多少驚きました。ただ、同時に、ナルシシズムもヒューマニズムの一部だとも言えると思っていたので、このあたりは難しいです。加害者側にもヒューマニズムがあるというか、人間はそんなふうに不完全な生き物なのだ、と言ってしまえなくもない。


追記(2022/06/11):
 空いた時間に加藤氏の上掲以外の動画も視聴しているのだが、微妙。
 加藤諦三氏は、長年人生相談番組をやってこられた社会学者だそうで、社会心理学系の限界みたいなものも感じる。夫の暴力に悩んでいる妻が文句を言いながらも別れようとしないのは問題解決の努力を怠っている、というような主張など、聴いていてクラクラした。表面だけ取れば間違ってはいないかもしれないが、これはおそらくは「共依存」の問題であり、言葉は運良くなにかのきっかけにはなるかもしれないが、相談者の心には届かないかもしれない。
 専門家でもないのに、見ず知らずの他人の相談に大量に乗れる人というのは、ある種の誇大感の持ち主かもしれない。


追記2(2022/06/13):
 近くの図書館にあった加藤諦三氏の本を借りて読んでみたのだが、曖昧な根拠からの強すぎる断定や、次元の混同、過剰あるいは軽率な一般化、などが広汎に見られるかなりな代物だった。ただ1994年に以前書いたものをまとめたような出版だったので、その頃の日本ではパーソナリティ障害とかアスペルガー症候群とか愛着理論、あるいは複雑性PTSDなどの概念はほぼ知られていなかったと思われるから、絶対的に武器が足りなかった時代かもしれない。
 現代的には気恥ずかしくて誰も使わない「男とは~」「女とは~」といった類の大きな主語が頻出し、男女関係にまつわる些末あるいは卑近な例からの、過剰な一般化が繰り返され、考察とも言えないような散漫かつ軽薄なドグマが展開される。
 先約のある新し目の本も予約したが、順番が回ってくるのはやや先になりそう。

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 最近Shahida Arabi本の他にSam Vakninの"Malignant Self-love"も買ったのだが、Sam Vakninがハインツ・コフートを"Franz Kohut"と誤記していて、序盤からとても読む気が失せる。Kindleで検索すると本書内に3箇所この名前が出現している。コフートのミドルネームかなんかかと思ってネット検索するが何も出てこないし、おそらく単純な間違いだと思う。Franz Kafka?
 本書はKindle表記で697ページもある。うげぇ...。

Pathological narcissism was first described in detail by Freud in his essay "On Narcissism" (1914). Other major contributors to the study of narcissism are: Melanie Klein, Karen Horney, Franz Kohut, Otto Kernberg, Theodore Millon, Elsa Roningstam, J.G. Gunderson, and Robert Hare.

(赤字purplebaby)
Vaknin, Sam. Malignant Self-love: Narcissism Revisited (FULL TEXT, 10th edition, 2015) (p.2). Narcissus Publications. Kindle 版.
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Shahida Arabi.PNG 5月22日ころにAmazonで、Shahida Arabiの"Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself"を買ったのに付随して、Twitterで彼女のアカウントを新しいリストに入れたところ、数日後になぜかブロックされているのを発見した。リプライやリツイートなど、Shahida Arabiに対してリストに入れる以外の行動は一切していないので、原因がよくわからない。新たにリストを作る時に一瞬公開設定にしたため通知が行ってしまい、当人がそのリスト名を気に入らなかったたため起こったことかもしれない、と今は思ったりしている。
 いずれにせよ上掲の書物をのろのろ読み始めているのだが、ブロックされた件もあって、ナルシシストの被害者を自称する彼女自身が過剰な自己中心性を負っているような印象を持ち始めている。

Growing up with a narcissistic parent and witnessing narcissistic abuse was the precursor to the destructive, toxic relationships I had with narcissists - from friends to relationship partners to acquaintances to co-workers.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.18). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

I refocused on the people who validated me and wanted me to rise rather than fall.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.26). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

 私のブログ的には、ナルシシストの子供がナルシシストになるというのは全く不思議なことではないので(偽りの自己を発展させた親の機能不全により子もまた偽りの自己を発展させるというような機序になるだろうか)、それ自体としては特筆すべきでもないのだが、これは、比較的攻撃的(or反撃的)なタイプがNPD被害者グループで統率的な役割を担ったケースなのかもしれないと思い始めている。彼女はブログやネットコミュニティを媒介して支持を得ていったようで、彼女も引用しているPete WalkerのC-PTSD四分類を利用して説明するなら、余力のあるFight型がその思想のもとに互助グループ内の他の被害タイプをも説得し束ねていった、ようなイメージを思い描いている。
 追記予定。


追記(2022/06/24):
 Kindleでは他の読者がハイライトした箇所が表示されるのだが、以下の箇所では1915人もの読者がハイライトしている。

The narcissist does not feel empathy for others; he or she makes connections with other people for one purpose and one purpose only: narcissistic supply. Narcissistic supply is the attention and admiration of the people the narcissist collects as trophies. It is anything that gives the narcissist a "hit" of praise, or even an emotional reaction to their ploys. They need these sources of supply because they suffer from perpetual boredom, emotional shallowness and the inability to authentically and emotionally connect to others who do have empathy.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.51). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

 著者が自分を被害者としてナルシシストを悪魔化している風情のある本書ではあるのだが、ここではナルシシストを共感というものがまったく欠如している存在として強調している。しかしこれは必ずしも正確ではない。DSM-5のSECTION IIIで紹介されている次元モデルのNPDにおける共感性の説明では以下のように書かれている。
3. Empathy: Impaired ability to recognize or identify with the feelings and needs of others; excessively attuned to reactions of others, but only if perceived as relevant to self;over- or underestimate of own effects on others.

DSM-5 (p.767)

 またハーバード大学医学部マクリーン病院のアリエル・バスキン・サマーズらは以下のように叙述している。
Across the three case studies, it is easy to focus on the difficulty these patients have connecting to others and the clear examples of their deficient displays of empathy. It seems hard to say that any of these individuals are "lacking empathy" or are even "unwilling" to engage in empathic processing; yet, each of these individuals are classic examples of pathological narcissism.

Arielle Baskin-Sommers et al. "Empathy in Narcissistic Personality Disorder: From Clinical and Empirical Perspectives" (p.10)

 NPDは相手が自分の延長と感じられる場合やそうすべき社会的責務や価値が伴うような場合に共感性を発揮する。要は共感を選別的にしかできない傾向があるのだ。彼らの狭く歪んでしまった共感性が、かろうじてその制約された領域には残存しているとも言える。深刻な先天障害のように人間的な共感性をすべて失ってしまっているわけではないのだ。彼らは心のない悪魔ではない。

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 エラン・ゴロムの"Unloved Again"は、去年、最終章(第七章)だけ逐語訳的にみっちり読んで、それ以外は目次を確認しながらかなりの流し読みみたいな感じだった。その心残りがあり、先月下旬辺りから逐語訳的に第一章からゆっくり読みなおし始めた。現在第三章に入っている。と言っても症例集的な第一章の終わりまでで全体の40%もあるので、去年既読の最終章とあわせれば量的に2/3近く読了した(このKindle本はページ表記がない)。
 気がついたことを追記していく予定。


追記(2022/04/18):
 ずっと不思議に思っていることに「子供は親から愛されたがる」という普遍的現象がある。このありふれたモチーフへの肯定的な言及はいくらでもあるに違いないが、それが破壊的結果をもたらす場合があることは、問題意識を持つ人以外にはあまり顧慮されないかもしれない。このモチーフを医療少年院に勤めていた岡田尊司も、また相互に関係ない、自己愛者を主題とするエラン・ゴロムも著作で繰り返す。子は、大人になっても、親から愛されようとして生きてゆく。それは、いい意味でも悪い意味でも人格のコアを形成している。自己愛的な親に「愛されよう」として、子は時に取り返しのつかない破壊的な選択をしてしまう。


追記2(2022/04/19):

Grown children seek the internal "parent's" love by following its advice, which may include acting and feeling inadequate the way their parent labeled them. The adults' feelings for the hurtful "parent" are often powerfully positive but also suspiciously full of longing. They have the longing of a starving person looking for something to eat. Their state of emotional need is connected to the love-emptiness of their childhood. Sometimes they claim to hate their parents but unconsciously seek their love.

(Golomb, Elan. Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction . iUniverse. Kindle 版. 位置No.1773)

A person has the potential for new attitudes and attractions but lacks understanding of the childhood trauma that leads to their repetition. Attempting not to feel the early pain is like placing a huge weight against the fulcrum of change. Change depends on becoming conscious of what hurt you and then making a different choice.

(Golomb, Elan. Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction . iUniverse. Kindle 版. 位置No.1815)

 結局、徹底操作(フロイト)的なものが魔法の杖との主張。そんなもので、特定の発達段階に一回的にしか形成されない愛着スタイルが基礎から変わるとは思えない。


追記3:(2022/05/07):
 6日に"Unloved Again"一応読了。

 エラン・ゴロム博士のロジックの大まかな建て付け。
1.大人になってからも続く(あるいは一生続くかもしれない)自己愛的な親からの影響を断ち切らなければならない
2.そのためには自己の歴史の、無意識下に隠された負の部分について、意識化しなければならない
3.本当の自己を回復させるにあたって、育った家族や社会の寄与は期待しえない
4.自然との触れ合いや、性的パートナーとの相互的なヒーリングに希望がある

 エラン・ゴロムの著作には、彼女の夫らしき人物は出てくるのだが、自分たちの子供の話は一切出てこない。機能不全の家庭に育った者同士が結婚した場合、無理に子供を持たない方がいい場合も多いのかもしれないが、回復の達成度としての印象は薄くなる。傷を負ったカップルによる相互ヒーリングがどれほどうまくいったとしても、そこから適切で現実的な養育能力が体得されることはありえないかもしれないが。
 人は、大人になっても、知らず親の影響下で物事を判断しており(主体がないという意味ではない)、あらかじめ無意識的に方向性のようなものが定められている。この刻み込まれた方向性が現実に対して適応的なら、実際に踏み出しても、当人は影響をことさら意識しないしする必要もない。その方向性ではうまく行かない、あるいは行きそうにもない時にこそ、意識化されることになる。
 なんとか心の安定を保つために、成熟を放棄するのもひとつの知恵ではあるだろうが、やむを得ない犠牲と言っていいかどうかはわからない。
 エラン・ゴロムは、実社会への適応というものを、必ずしも肯定的に見ていない。彼女にとって社会は窮屈で不自由で不自然な何かなのだ。私には、これが幼い誇大自己の温存のように思われてならなかった。社会から距離を取り、自分と似た傷を持つパートナーとの空想的自由に逃げ込むことは、本質的な治癒を意味しているだろうか。

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