Wikipedia英語版の"Sadism and masochism as medical terms"の拙訳です。Wikipedia英語版にはサディズムとマゾヒズムに関してまとまった説明をしたページが複数あるのですが、今回訳したのは医学的観点からの説明の記事です。翻訳対象ページのlanguageを見ると「日本語」の表示があるので、そのまま対応する日本語版のページがあるように思えますが、クリックして表示されるのはなぜかSM (性風俗)のページですので恐らくリンクミスだと思われます。
文中に出てくる「日本人自体にマゾヒスティックな傾向がある」と主張しているらしいNakakukiという人物が印象的です。中久喜雅文博士のことだろうと思います。
サドマゾの発達上の原因を知りたくて訳してみたんですが、どうもフロイト系の原因理解は既に古くなっていて、むしろ原因を問わなくなってきているようです。恐らく厳密にはよく分からないからだと思います。あるいは、よく分からないことが分かってきたのだと思います。
「医学用語としての~」と銘打っているわりにはさほど専門的でもないので気軽に読めます。
フロイトのマゾヒスト分類のところで「女性的~」と「道徳的~」の2つだけが列挙されていますが、実際には分類項目としてもう一つ「性源的~」があります。
医学用語としてのサディズムとマゾヒズムサディズムとマゾヒズムは、その意味において、苦痛を負わせるか自身の上に苦痛を負わしめる場合の性的快楽や満足の感覚により特徴付けられる精神障害を表わしている。サドマゾヒズムは、使用される理論によって、一人の人に別の障害として起こるサディズムとマゾヒズムの共起性か、両方の用語の言い換えを表現するために、精神医学で使われる。医学におけるサディズムとマゾヒズムのの定義は、19世紀に精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングによって紹介されてから、幾度も修正されなおしてきた。
この記事は医学用語としてのサディズムとマゾヒズムの発達に焦点を当てており、精神疾患の分類と診断の手引(DSM)における性的倒錯理論の現代的定義につながっている。性愛的な実践、サドマゾのサブカルチャーや他の合意に基づくサディズムとマゾヒズムに関連する事柄については範囲としていない。しかしながら、この記事はそれらの用語の歴史に触れているので、BDSMへの言及がある。
1.早期の記述
サディスティックまたはマゾヒスティックな行動はクラフト=エビング以前から知られていた。1498年にイタリアの哲学者ピコ・デラ・ミランドラがセックスの前に鞭打たれることを欲する人物を記述している(Farin 1990)。1639年にはドイツの医師ヨハン・ハインリッヒ・マイボームはマゾヒズムに関する最初の理論を発表した(Meibom [1639] 1718)が、同時代の解剖学の知識に立脚するもので、背中を打ち据えることは腎臓内の精液を温めると仮定して、睾丸までそれが届くと性的興奮を引き起こすとした。クリスチャン・フランツ・パウリーニは1698年にこれを修正し、精液ではなく温まった血液が腎臓から下ってとしたが、基本的な理論はクラフト=エビングまで揺るぎのないままだった。1788年にはフランコイス・アメディー・ドッペットにより、女性器に対して同じ効果を仮定することで女性を含め、これは展開された。
性愛的な実践としてのサドマゾヒズムはマルキ・ド・サド以前にも文学ではよく知られていた。おおよそ紀元4世紀のカーマ・スートラは合意に基づく性愛的な平手打ちを記述している。1749年に出版された小説ファニー・ヒルにおいて、その英国人の著者であるジョン・クレランドは娼家の若い男性を鞭打つ主人公を登場させている。フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、彼の自伝の告白によれば、彼のマゾヒスティックな幻想の不幸について述べている。
同性愛や動物性愛のような予め分類された性的倒錯の他の実践と違って、サドマゾ的行動は聖書ではっきりした禁制がない。
2.クラフト=エビングと性的精神病理
クラフト=エビングは、異様な性的事例の歴史や性犯罪を集めた『性的精神病理』の最初の版を1886年に出版した。「サディズム」および「マゾヒズム」という言葉は後の版で発表された。「サディズム」はクラフト=エビングがマルキ・ド・サド(『ソドムの120日』のよな、サドの仕事の重要な部分は後まで出版されなかった)の人生と作品について知っていることから受け継がれた。サドは1814年に死んだ。「マゾヒズム」に対してクラフト=エビングは、オーストリアの作家であるレオパルド・フォン・ザッハー=マゾッホという、同時代の人の名前を選んだ。「サディズム」および「マゾヒズム」は、しかしながら、サドやザッハー=マゾッホの作品が表わすように性的嗜好と好色性に関するまったく違った論理に起因している(ジル・ドゥルーズはザッハー=マゾッホに関する発表でこの点を暴露した)。
クラフト=エビングの基本仮説は、出産に直接関連しない性行為のすべての形式は性的倒錯だというものだ。彼はベネディクト・モレルによって出版された退廃の理論の観点からサディズムとマゾヒズムを記述している。これは性的倒錯のような特徴は遺伝しうると述べている(Morel 1957)。言い換えれば、非道徳的で不利益な性行為-自慰のような-と考えられたことに手を染めた人々は、これらの傾向を彼らの子供に伝えて、人間の遺伝子プールの着実な劣化を引き起こす。
クラフト=エビングは、男性の中に基本的で生得的な性的サディズム傾向を、女性の中に生得的な性的マゾヒズムの傾向を見ていて、この見方は精神分析家によって拡大された。
他の同時代の研究者達はクラフト=エビングの発見を疑うか、修正を示唆するかした。イギリスの医師ハヴロック・エリスは苦痛を楽しむことは性愛の文脈に限られていると記した (Ellis [1939] 1967)。1892年には、アルバート・フォン・シュレンク=ノッツィングがアルゴラグニアなる語を記述の代替形式として提案した(Schrenck-Notzing 1892)。しかしながら、クラフト=エビングの理論はジグムント・フロイトによって採用され精神分析の欠くことの出来ない一部となり、それらの優位は確固たるものとなった。
3.フロイトと精神分析
フロイトはマゾヒズムと(より少ない程度で)サディズムを精神分析の核心部分とした。『性道徳に関する3つの論文』で、彼は性行為の間に苦痛を与えたり受けたりする傾向を「あらゆる性倒錯の中で最も一般的で最も重要だ」と判断した(Freud [1905] 1996)。彼はまた一般に両方の傾向が同一人物の内に起こると指摘した。
フロイトはサディズムとマゾヒズムの起源に関する理論を繰り返し変更したが、当初マゾヒズムは自己に対するサディズムの形式としてのみ起こると言っていた。彼は後に、「一次的」及び「二次的」マゾヒズムと「女性的」及び「道徳的」マゾヒズムのような下位形式の概念を提唱した。彼はまた罪を重要なファクターと見なし、彼の性心理学的発達理論の内に双方の傾向を統合した。簡単に言えば、それらは子供の中の不完全あるいは不正常な性的発達のしるしであると仮定されている。
カール・ユングやヴィルヘルム・ライヒやテーオドール・ライクのようなフロイトの追随者達は、その過程において新用語や概念を作りながら、彼の着想を拡大・修正した。エルスワース・ベイカーはマゾヒスト的性格の起源を親の不一致に帰した。ヘレーネ・ドイチュはすべての女性は生得的にマゾヒスティックであると主張し(Deutsch 1930)、クラフト=エビングとフロイトの見解を補強した。何人かの理論家は、日本のように国全体の人々が精神分析的な意味でマゾヒスティックだと考えられるはずだと主張する(Nakakuki 1994)。これらの修正のため、「マゾヒスト」のような最も基本的な単語ですら精神分析において非常に多くの違った意味を獲得したため、用語は精神分析者自身を混乱させ、部外者に理解しがたいようなものになった(Maleson 1984)。
サドマゾヒズムに対するフロイトの理論とサドの哲学はジル・ドゥルーズやシモーヌ・ド・ボーヴォワールのような理論家を魅了した。彼らの作品は、正式の研究に基づかないし時に現実の生活のサドマゾヒズムから遠く離れていたけれど、20世紀中盤における大衆のこの主題に対する見解に強い影響を与えた。
4.実証研究
精神分析の外部において、サドマゾヒズムへの見方は20世紀後半に現実生活のサドマゾヒストの実際の振る舞いに対する研究とともに変わり始めた。両性内のサドマゾ的傾向はアルフレッド・キンゼーによって彼の報告書の一部として書き留められた。サドマゾ的サブカルチャーの存在を最初に記述したのは1972年のロバート・リットマンだ(Litman 1972)。
サドマゾヒズムに関する最初の大規模の実証研究は、1977年にアンドレアス・スペングラーによって指揮された。スペングラーはドイツの医師で、基礎データを集めるためにアンケートを使った(Spengler 1977)。彼の成果は殆どの早期の仕事(特に精神分析家のもの)と食い違っていて、彼は先行の研究は「偏見と無知の重荷を負って」いると結論を下すこととなった(Spengler 1979)。ノーマン・ブレスロウがこれを発展させた時、彼はスペングラーのものも含めてすべての科学的文献の中でたった5つだけ先行実証研究を見付けた(Breslow 1985)。ブレスロウはまた売春婦ではない女性達がサドマゾ的サブカルチャーの重要な部分を構成していることを最初に示した(Beslow 1985)。実証研究は、クラフト=エビング以来広く言われ続けてきた、サドマゾヒストにおける暴力犯罪へのつながりや社会病理学的行動への傾向増加の証拠を見付けてはいない。
以前主張されたより遙かに多くの人々がサドマゾヒズムを実践していて、サドマゾヒストがサブカルチャーを形成するという理解は、医学の外部からの研究者の流入を導いた。人類学者のポール・ゲバードは文化的文脈でサディズムとマゾヒズムを記述した(Gebhard 1969)。再びドイツで、トーマス・ウエッツシュタインは社会学的な観点から地方のサブカルチャーの大規模な研究を実施し、スペングラーの成果とそれの発展を確認した(Wetzstein 1993)。これらの研究の影響による1つの主要な変化は、女性がマゾヒスティックな役割に自身を限定しないという理解だった。最近の研究の多くでは、サディスティックまたマゾヒスティックな衝動の原因が何かを考えることは、それらのメカニズムや諸特性を記述することに比べて少ない。
5.研究と主流文化
実証研究の成果と性的マイノリティーへの寛容な態度の増大は、例えば1971年のユーレンスピーゲル結社のように、ますますサドマゾヒスト達を公的なグループを形成するように導いた。これはドイツやノルウェイのように合意した成人間のサドマゾヒズムが合法である国々においてはとりわけ当てはまる。結果として、サドマゾヒズムは更に一層西洋と日本の文化の主流として存在するようになった。更に、サドマゾヒスト自身が本やメディアを通して自身の考えを表現しだしたのだ。これの実例は、デンマークのマリア・マーカス(Marcus 1974)、米国のパット・カリフィア(Califia 1980)、フランスのベネッサ・デューリー(Duries 1993)、そしてドイツのキャスリン・パシッヒ (Passig 2000)である。
6.サディズムとマゾヒズムの今日
より新しい研究の成果は、病気の分類としてのサディズムとマゾヒズムの廃止への要求を導く結果となり、本当に病的な形式は他の診断により適切にカバーされるものと論じられている。BDSMサブカルチャーは、差別とその潜在性の主張を強調することにより、また精神障害のリストから同性愛を取り除く前例を参照することにより、この衝動に別の次元を加えた。
それに応じて、米国精神医学界は、合意に基づくサドマゾ的行為はそれだけでは最早性的障害とは考えないとするために、1994年の精神疾患の分類と診断の手引(DSM IV)においてサディズムとマゾヒズムの診断基準を見直した。2000年に出版されたDSM-IV TRでは、サドマゾ的行為は、もし患者が「合意を持たない人に対してこれらの衝動に基づき行動する」か「衝動、性的幻想、あるいは行動が際だった苦悩や人間関係の問題の原因になった」場合に障害として診断されうる。結果として、合意に基づくサドマゾヒズムは、患者の人生に深刻な困難を引き起こさない限り、もはや障害として考慮され得ない。
1995年にデンマークはサドマゾヒズムを障害の分類から完全に除去した最初の国になった。
コメントする