『意志と表象としての世界』において、ショーペンハウアーは「(生きようとする)意志の否定」ということを自滅したキリストや禁欲・苦行を旨とする仏教あるいはインド哲学を賛美しながら主張している。外的な意志(=神の意志)と内的な意志(=自己の意志)の二項対立を隠然と維持しながら、彼は「確かにこれが自己の自由意志である」と言えるものを探しているように見える(*1)。自他の区別を取り払えなどの主張も、一切を外部としてひとまとめにして目覚めた自己のみを聖域化しようとする退行的意識でしかないだろう。身体を含めた外的な刺激の反応としてわき出てくる世俗的意欲を次々にそぎ落として行った末、最後に残る、自己にのみ帰属する純粋な意志が「意志否定の意志」だとしているのだと思う。この意志否定のプロセス(利他や禁欲や苦行のような)の極致において、外的な意志と純化された内的な意志が完全に一致し、神との合一感覚が得られるのだとされる。(だからよく言われるペシミズムの思想という評価とはかなり違う面があり、一般的な意味での自殺も明確に否定している)
しかし私に言わせればそのような宗教的恍惚はまやかしである。外部と内的意志は予め一致しているというか地続きなのであり、それを認識するには特に何らの恍惚も事前手続きも信仰すら必要としない。無論、認識を持つことと証明を得ることは同義ではないが、恍惚となることで証明が達成されるわけでもまたない。証明を向こう岸とする先の海は誰にも渡り得ず、そこは単に「無知の知」のようなものだ。
結局ショーペンハウアーのこのつまらない立論は、外的意志と内的意志が相互排除的な二項であるとする始点から演繹されたためにこうならざるを得なかったのだと思う。超越論的自我以外のものを不純物としてそぎ落とさなければ神と同質化しないため、こんな下らない作業が発生してしまうのだ。仏陀は愚かしい自己陶酔を避ける等のために苦行を否定しているのに、ショーペンハウアーはそこを全く理解していない。自己の意志を否定する意志が特別で純粋で神に近い「意志の聖域」だと思い込むからこそ、このような勘違いが出てくる。否定の意志など何ら特権的なものでも超越的なものでもない。
*1
「意志が自分の本質自体の認識に到達して、この認識の中からかの鎮静剤を獲得し、まさにそのことによってさまざまな動因の影響から脱却するようになったときにはじめて、意志の自由が出現するにいたるからである。」(第七十節より)
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