住んでいるマンションが長期工事で大変だった。
このひと月の間、断続的・追加的に何らかの工事がなされた。あの大家の男性は相も変わらず傲岸な態度で、こちらに背を向けたまま挨拶など当たり前。結果的に間違いだらけだった工事説明のレジュメを配る際も、こちらが紙をちゃんと掴む前に手放す。要は捨て与える感じ。工事に関する一定の説明は、管理者の法的な義務ではないかとも思うのだが、「捨て与える」瞬間には(快感により?)頬が微妙に緩んでいるように見えておぞましかったのだけど、もしかしたらこちらの一方的な思い込みだったかもしれないので断定は避けておく。あと、一連の工事によって水道の水が白濁していると訴えている他の住人をたまたま廊下で見掛けたのだが(至極正当な訴えだと思うのだが)、大家男性がなぜだか「蔑むように」睨みつけていた。睨まれた住人側は慌てて目をそらしうつむいたのだが...。??
ちなみに、普段対応をしている大家女性陣はこれとはまったく正反対の態度なのであり、ひどいギャップなのだ。
気が向いて、『阿Q正伝』を少し読み返したりしていた。
阿Qの人物造形は謎である。当時の中国の国際的な立場を、戯画的にいち人物に押し込めたものなのだとすれば、実在しうる人物像として分析するのは、元々が的はずれなのかもしれない。阿Qは、知能の高くない自己愛性人格のようにも、アスペルガー症候群等を含む広汎性発達障害の何かのようにも見える。過剰な自己中心性を担うパターンは他にもあるだろうが、後半から捨て鉢のように泥棒や謀反にコミットするとしても、反社会性人格のようには思えない。かねて他者を陥れ快楽を得ようなどとはしないし、倫理的な共感性も一応有していると思う。売り言葉に買い言葉のような法螺と、悪意ある嘘とは、区別して考えるべきだ。魯迅もわざわざ文中で「阿Qは本来正しい人だ」と言明している。また、BPD、あるいは躁鬱や統合失調症のような感じでは明らかにない。
自己愛性人格の誇大自己としてのナルシシズムは、比較的に現状肯定的な性質を持つような気がする。彼らは内的にはこの世界の(もしかしたらこの宇宙の?)王様なので、この世界を否定してしまうとある意味自己否定につながってしまう面が出てくるはずだからだ。それに対してアスペルガー的自己中心性は、妥協しない主観的正しさにおけるナルシシズムであり、社会常識と対峙する局面が大いにありうる。
阿Qには確かにアスペルガー的な「自分ルール」に対するこだわりのようなものもみられる。例えば「精神上の勝利法」と表現されているもので、現に喧嘩で無残に負けているのに、これは子供に打たれたようなものなのだと思い込んで、むしろ勝ち誇って立ち去るというのである。この「精神上の勝利法」が周辺にばれて(というか自分で言っちゃうからなのだが)、それ自体がからかいの対象になったあとも、自分は「自(みずか)ら軽んじ自ら賤(いや)しむことの出来る第一の人間だ。そういうことが解らない者は別として、その外の者に対しては「第一」だ。状元(じょうげん)もまた第一人じゃないか。」などと独白する。状元とは、昔の中国で超難関試験とされた科挙合格者の、そのまた第一位の成績を修めた人物のことである。その状元を、単独性をてこに自分と同一視して、愚者どもには自分をけなす権利そのものがない、とのたまっているのである。この辺り、なかなかよくできた防衛機制的エスカレーションではある。
しかし、これで阿Qが十分アスペルガー的なのかと言えば、そんな気は全然しない。もっと色んな自分ルールで充満している必要がある。阿Qの逸脱的な自分ルールは、防衛機制的な「精神上の勝利法」以外には顕著なものはそんなに見られないわけで(趙姓自称のディテールが語られないのが惜しい)、そのことの不自然さはどうしても残る。特に、物語の結末で阿Qが処刑される原因となる、革命党に同調するきっかけも酒を呑んでの思いつきの感が甚だしく、何か自分の強いこだわりを守るために「参加」した感じはゼロに近い。
別様、依然として、自己愛性人格に似ている感じも並行するのだけど、自己重要感や自己特別視といった、仰々しさや恍惚感がそう一貫しているわけではなく、また他人を道具的に搾取する感じは希薄で、それらの点やはりそぐわない面が残る。ごく一部分だけ切り取り、複合型とか不完全型とか言ってもつまらない。
振り出しに戻るわけじゃないが、阿Qの人物造形はなんだかよく分からない。阿Qは、探せば世界のどこかに実際にいそうな気もするし、いなそうな気もする。
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