2013年4月アーカイブ

 IE10はページ内検索の挙動が初期からおかしい(マッチした群の最後尾に到達する前にループしようとする場合がある)のだが、もうそれなりの期間が経っているのに是正されない。同様の症状は複数のPC上で確認した。
 業を煮やしてというわけでもないのだが、デスクトップアイコンのちらつきなどハード的に固有に相性の悪かったIE9ではなく、IEについてはHTML5に未対応時代の8にまで戻してしまった。で、それではもちろんHTML5を活用したページは閲覧できないので、最新のFirefoxで代用することに...。
 私は基本的に純正ブラウザを使いたい派なのだが、Microsoftはもうかなりあれだ。ちゃんとしたものが作れなくなっているのかもしれない...。ネット上ではWindows8のUIの評判がすこぶる悪く「Windowsの一回休みの法則」的に言われるが、Windows7もエクスプローラから「上へ」ボタンを消してみたりいったい何の時刻のことだかよく分からない謎な「日付時刻」という項目があるなど、特にいいわけではない。MicrosoftはXP後期あたりからある種の隘路に向かい始めた気がする。

 3月初め頃に初歩的バグを直したCGIサイトの方のアクセスが伸びていて、更なる改良も多少したとはいえ、あのバグがボトルネックになっていた可能性が低くないと思われ、改めて以前の利用者に申し訳ないやら恥ずかしいやら...。昨日の29日はGWということも合わさったのか、設置以来初めて1日7000ヒットを超えた(ただし検索エンジンからの巡回を含んでいる数字)ようだ。あんまり増えすぎても心配な面があるわけだが、まだ処理的にはいちおう余裕がある感じ。
 ブラウザを更新するのにマルチクリックは負荷がかかるのでやめてほしいが、その人の癖なんだろうか...。

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 自己愛というものはたぶん誰にでもあるものなので、おどろおどろしく「自己愛性人格障害」などと呼んでも、彼らが(やや?)極端なだけで誰でもどこかは似ているというところがあると思われる。なんというか『病者から学ぶ』論に反対する人もいるとは思うが、私はそうは思わない。病者と健常者の境界域は入り組んだグラデーションのようなものであってそんなに截然としたものではないと思う。彼らのように激しい偏りが恒常化していないとしても、何らかのストレスの重なりなどによって、一時的にであれ、似たような状態に陥ることが普通の人でもあるかもしれない。そういうときに彼らから派生する知恵に助けられることはないことではないだろう。
 実はという程でもないが、現在信頼されているひとつのサイコパスの診断基準は、自己愛性人格障害のそれと重複した箇所を持つ内容になっている。ロバート・ヘアという人の作ったサイコパスの診断基準なのだが、因子群の1から3まである内で、1の中のいくつかは自己愛性人格障害(および演技性人格障害)とほぼ共通のものだとされていると思う。
 また、境界性人格障害に関しても、カーンバーグ系の解釈によれば自己愛性人格障害は境界性人格障害と同根とされるべきものだし、コフート的には(和田秀樹の説明によればだが)自己愛性人格障害の極端化したほとんど精神病に近いものをボーダーラインと呼ぶとされているようだ。
 冒頭に述べたように自己愛は基本的に誰にでもあるものなので、メンタルになんらかの変調をきたした人物の自己愛になんからの異変があるとしても特に不思議はないといえるかもしれないが、関係の深い群として人格障害のクラスタBのどれかを書物で横断的によく見かける気はする。
 いずれにせよ、自己愛というものがある普遍性を持つキー概念であることは論を俟たない。未だなんだかよく分からない複雑怪奇なものでもあるが。

 分からないといえば、先日、子供の部活かなんかの指導者の過度に威圧的な態度について電話で誰かに相談してる知らない中年女性が隣にいて、私はたまたま彼女のちょうど真正面に座っていたのだが、彼女がしゃべるうちにだんだん自らの怒りで興奮してきていて「もう時間だから」とあえて途中で電話を切って立ち去ろうとしたとき、私と眼が合ってしまってなぜかその瞬間に「きっ」と睨まれてしまった。慣性あるいは勢いというべきものか、部活の指導者に向けられるべき敵意が転移のような形で私に向けられたのか、それとも実際に私の態度が何か気に食わなかったのか...。
 おそらくそのはっきりした答えを知ることは永遠にないのだろう。

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CIMG1249.jpg このところ夕食後に必ずバナナ(トリプトファン+ビタミンB6+マグネシウム→セロトニン→メラトニン)を摂るようにしているのだが、格段に深く眠れるようになり、ほとんど新生感。たったこんなことでという感じだが、しかし、ということは、これまでかなり浅い睡眠だったことの証左...。
 指先に出ていた肌荒れ含め、また長引いていた風邪含め、ようやく完全復調という感じ。

 最近『エレンの歌3番』をよく流しているのだけど(本来賛美歌ではなく、劣勢の戦士を鼓舞する不穏なる戦いの歌であるようだけれども、やはりどこか母胎回帰的な...)、YOUTUBEにあげられてるソース不明のバージョンがいいのでそちらばかり聴いている。YOUTUBEは出来れば動画広告をやめてほしいが、考えてみればむしろこれまでどうやって収益を上げていたのか不思議な気もする。というか大本のGoogle自体の収益モデルがよく分からない。クロールデータの供与と広告による収益が主らしいが、なんだか釈然としない。

 先掲のコフートのKindle書籍に作家でサディストの自己愛パーソナリティーの症例が出てくる。作家氏は、特にそれを望まぬ妻にSM行為を強要するかなりの人なのだが、彼の持つ過剰な自己顕示欲に対するコフートの解釈にややはっとさせられた。つまり、幼少期における母なるものとの不調和あるいはその共感的反応の欠乏が、のちの「もっと自分を見て!」という恒常的欲求(不満)につながっているというのだ。作家氏のケースでは、幼時怪我をした自分の血液が兄弟の衣服に付着して、母が自分ではなく兄弟のほうのみを病院に連れて行ったエピソードが紹介されている(後刻なんとか気付いてもらえたようだが)。怪我の程度は書かれていないが、基調としての母親の無関心・愛情の偏在がこれ以外の情報によっても補強されうるものだったと考えられるようだ。
 母に顧みられないことの欲求不満が、のちの病的な自己顕示欲に「必ず」つながるとは言えないのではないかという疑問は、誰でも思いつくかもしれないが、そこの微妙で重要な分かれ目についても、コフートはヒントを出している。つまり、母親の無関心が未だ完全に絶望的なものとはなっていないという要件である。彼女が十分で健全な反応を示す希望がちらつくエサのように少しは残っているということである。「『もっと見て』もらえれば母からまともな反応が返ってくるかもしれない」という希望が完全には失われていない、ある意味で生殺しのような中途半端な状態のまま人格に定着してしまった成り立ちを、仮説的解釈としてコフートは示していることになる。
 たぶんこれは、先月紹介したGlen O. Gabbardのサブカテゴリのどちらにも帰属しないか、折衷的なケースに当たるようなものかもしれないが、これはこれで典型としてのリアリティーを持っていると言わざるを得ないと思った。

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