このところ夕食後に必ずバナナ(トリプトファン+ビタミンB6+マグネシウム→セロトニン→メラトニン)を摂るようにしているのだが、格段に深く眠れるようになり、ほとんど新生感。たったこんなことでという感じだが、しかし、ということは、これまでかなり浅い睡眠だったことの証左...。
指先に出ていた肌荒れ含め、また長引いていた風邪含め、ようやく完全復調という感じ。
最近『エレンの歌3番』をよく流しているのだけど(本来賛美歌ではなく、劣勢の戦士を鼓舞する不穏なる戦いの歌であるようだけれども、やはりどこか母胎回帰的な...)、YOUTUBEにあげられてるソース不明のバージョンがいいのでそちらばかり聴いている。YOUTUBEは出来れば動画広告をやめてほしいが、考えてみればむしろこれまでどうやって収益を上げていたのか不思議な気もする。というか大本のGoogle自体の収益モデルがよく分からない。クロールデータの供与と広告による収益が主らしいが、なんだか釈然としない。
先掲のコフートのKindle書籍に作家でサディストの自己愛パーソナリティーの症例が出てくる。作家氏は、特にそれを望まぬ妻にSM行為を強要するかなりの人なのだが、彼の持つ過剰な自己顕示欲に対するコフートの解釈にややはっとさせられた。つまり、幼少期における母なるものとの不調和あるいはその共感的反応の欠乏が、のちの「もっと自分を見て!」という恒常的欲求(不満)につながっているというのだ。作家氏のケースでは、幼時怪我をした自分の血液が兄弟の衣服に付着して、母が自分ではなく兄弟のほうのみを病院に連れて行ったエピソードが紹介されている(後刻なんとか気付いてもらえたようだが)。怪我の程度は書かれていないが、基調としての母親の無関心・愛情の偏在がこれ以外の情報によっても補強されうるものだったと考えられるようだ。
母に顧みられないことの欲求不満が、のちの病的な自己顕示欲に「必ず」つながるとは言えないのではないかという疑問は、誰でも思いつくかもしれないが、そこの微妙で重要な分かれ目についても、コフートはヒントを出している。つまり、母親の無関心が未だ完全に絶望的なものとはなっていないという要件である。彼女が十分で健全な反応を示す希望がちらつくエサのように少しは残っているということである。「『もっと見て』もらえれば母からまともな反応が返ってくるかもしれない」という希望が完全には失われていない、ある意味で生殺しのような中途半端な状態のまま人格に定着してしまった成り立ちを、仮説的解釈としてコフートは示していることになる。
たぶんこれは、先月紹介したGlen O. Gabbardのサブカテゴリのどちらにも帰属しないか、折衷的なケースに当たるようなものかもしれないが、これはこれで典型としてのリアリティーを持っていると言わざるを得ないと思った。
コメントする