借りた本の表紙を拭いてないことに気づいたのだが、久しぶりに府立図書館に行ったこと自体が自分に対する『ためし行動』だったかもしれないなどと思いついた。カップ麺の異物混入事件からの流れで、汚れやすい図書館の本がそれと隠喩的につながっていたような気がした??
いずれにせよ、強迫的な感じはすっかり薄らいでしまった。本の表紙は結局あとにアルコールで拭いたけれど。
一昨年に出版されたDSM5でアスペルガー症候群が廃止されたことについて、『自閉症の脳を読み解く』のテンプル・グランディンが疑義を表明していて、賛意を表したい気持ちになった。色々事情があるのかもしれないが、現に判断基準を曖昧化したのだから、素人目にもある種の退行に見える。著者自身が自閉症で科学者である。
『境界性パーソナリティ障害と離人症』はゴツゴツした生々しい現場の本という感じで、患者から夜な夜な掛かってくる自殺の脅迫電話や、なし崩しに外出許可や制限薬物を得ようとする執拗な要求、直接的な暴力など、精神科医という職業の大変さを推察させる。
BPDと離人症は著者が言うほど強い結びつきを持たないような印象を私はこれを読んだあとも持っているが(離人症は極めて広範囲に起こる症状であんまり偏って考えないほうがいいのではないか)、著者自身が離人症の経験あるいは傾向を持っているらしく、情報が凝縮されかなり簡潔にかつわかりやすく要点がまとまっていてそこは貴重な感じだった。何年か前に私がえっちらおっちら読んでいた『Feeling Unreal』の内容とも大部分において整合する感じだった。
親を責めたり自己評価が低くなりがちなBPDへの「あなたにとってあなたはかけがいのない自己であり、あなたにとってあなたの代わりは他にいません。それはすばらしい自分であり、自分が過去にしてきた行為や、他人の評価で代わるものではありません。もちろんこの考えをあなたは拒否する自由があります。」の対話パターンが印象深かった。ただ励ましているというだけではなく、特に最後の一文が重要であると思えた。彼らを低い自己評価に縛り付けているのは、そのような(自己肯定の拒絶をもたらす)感情を親と共有して手放さないところの、彼ら自身という部分があるのだと思う。そしてそれは手放すことを決断できる何かだと著者は言いたいのだ。
『いじめの社会理論』は読み進めるほどにさらになんだかよくわからなくなっていって、壮大なる生煮えみたいな印象。
社会心理学系の本は(本書もそうだと思うのだが)たいてい話が大きくなりすぎて非科学的になりがちな印象がある。臨床心理学系もある意味ではすでに非科学的なので、その上にあれもこれも高次の条件を加えてゆくような感じで輪を描いて独断的になりやすい。ただ、誰かがそういう次元を乗り越えられるわけでもないので、もともとある程度我慢して読むものであろうけども。
著者が言うように、赤の他人であるのに、同質的であることや家族的であることが過剰に求められる面が日本社会にはあるのかもしれない。そして、そこからある種のアレルギーのようなものが発生する余地が生まれるとされるが、著者はネズミやハトの過密飼育を引き合いに出したりして(P33)、類例として多少違和感を持った。
共同体というのは何であれ何か同質性があるから共同体なのだ。そこに強いストレスがかかれば排除の論理はたいていは発動する。日本的な排除と欧米的な排除の性質の違いに対する理解と、排除そのものの起源に対する理解がある程度混同されているような印象を持たないではない。いちおういじめは必ずしも日本特有のものではないと述べられてはいるのだが、やや錯綜している。
自己愛憤怒は誰にでも起こる現象で、いじめの場面にのみ特定されるような何かではない。投影同一化も同様でもともと乳児期の分析に含まれる概念のはずで、いずれも著者の説明がぼんやりした印象を与える所以である。あとコフートの自己愛憤怒を紹介しながら、後半に突如わけもなくそれを「全能感憤怒」と独自に言い換えるのだが、不適切かつ無意味な言い換えだ。
あと本書はいじめを主題としながら、行為障害(サイコパスの子供時代)を含める特異な要素に言及しておらず、いじめをのっぺらぼうの一般論としてひとまとめに捉えようとする傾向を持っているように感じた。たとえば加害者集団の牽引役がたまたまそのような子であった場合に、やすやすと倫理的障壁を取り除き、集団が暴徒化するきっかけを与える確率を高めると思う。人格障害の一部の概念でいじめのような複雑な心理現象を切り分けるのではなく、もっと発達論的な視点から見たほうが思春期周辺のいじめを比較的よく説明したのかもしれない。
笠原嘉『境界例研究の50年』は2012年に書かれた最後のまとめのような一稿を除いて、境界例に関する1970~1980年代の古い論文ばかりが並べられている。
今や時代遅れの概念であるとも思われる「境界例」は非典型症状の集積所だった。現在いくつかの人格障害に収斂されるものだけではない、名状しがたいような症例も多く含んでいた。あえて言えば不完全な精神病や分類不能の神経症の集まりだったのだろうが、本書は後世その何割かが回収される人格障害の各カテゴリにすら当てはまらないような事例を(おそらくはあえて)強調していて、そうだ境界例とはもっと得体のしれない概念だったのだ、と少し居住まいを正すような気持ちにさせられた。小器用なカテゴライズからこぼれ落ちるわけのわからない症例に光を当て直すような著者の姿勢が誠実に思えた。
たとえば、1970年代の論文の中で、不安感、無力感、離人感、強迫症状を持ち、家庭内暴力にその他素行不良で、さらに容貌に対する劣等感から隆鼻整形したという「境界例」男性のケース。精神科入院によりきわめて顕著に諸症状が改善しはしたのだが、それがなぜなのか医師にも不可解なほどの変化。しかも改善は一時的なものではなく、まっとうな社会人としてその後何事も無くやって行っているという。笠原は自らの治療行為がどの程度寄与したのか疑い、当初の診断に問題があったかもしれない旨述べている。むろん、では明確になんだったのかについて言及するには至っていない。
NHKの語学関連テキストのKindle版がKindle Cloud Readerでも利用できるんだけど、どのくらい周知されてるか。日本語一般書籍はまだダメみたいだけど、なぜか雑誌類は利用OKなのがかなりある。パソコンの大画面で見られて相当便利。
ナルシシストはしょうもないことに過剰な自負心を抱いている場合が多いので、同質的な他者が自分と同様の満足を持ちあわせていないと土台が崩れて体面が汚されたように感ずる。他者の謙虚さがナルシシストの反感を買ってしまうメカニズムであるが、これも「自己愛憤怒」生成のバリエーション。気づきにくいってほどじゃないが。
本を返却しに府立図書館に行ったらちょうど近場の疏水を浚渫していた。浚渫用のショベルカーが水面の中央に浸っていて不思議な感じだった。
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