私はモノアミン仮説(いわゆる鬱病のセロトニン仮説などを含む)を元来あんまり信じていない。理由は単純で、精神疾患によって神経伝達物質の多寡が仮に特徴的にあるのだとしても、それはある種の表象であり根本原因ではないのではないと思うからである。例えば、ここに汗をかいている人がいるとして、なぜ汗をかいているのかは極めて多様な原因が推測される。お腹が痛いというのでもまぁ同様である。それらは仮に病によるものだとしてもその「症状」でしかないだろう。
統合失調症患者のドーパミンの分泌が特徴的に過剰であるとする説も、モノアミン仮説の一種なのだが、その程度のドーパミンは健常者でも普通に分泌される時があるのに、別に誰も統合失調症のようにはならないのであり、それでドーパミンを統合失調症の限定的な原因物質とするようなことを言われても、なんというかファナティックな情熱にでも頼らなければそんなものなかなか認めがたい。
しかし日本でも、NHKや朝日新聞やタレント精神科医などがこのモノアミン仮説を盛んに広めてきた。私はどこかで嘘っぽいなぁと思いながらも、個人的にハードな反証があるわけでもないので、個別の事実としては話半分的に受け入れたりしながら、微妙な距離をとってきたと思う。以前このブログで懐疑論者の著作を紹介したこともあったが、私個人として否定論者として完成された認識を持っていたというわけでは必ずしもない。
で、モノアミン仮説の斜陽というか、最近さすがにうるさく聞かなくなってきたなと感じていて、逆にどういう成り行きがその後生じていたのか知りたくなって、多少ネットで検索していた。それっぽいとされていたのが京都市図書館ネットワークにもあったので以下の2冊を借りて読んでみた。
・『クレイジー・ライク・アメリカ』イーサン・ウォッターズ
・『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』ロバート・ウィタカー
『クレイジー・ライク・アメリカ』、要は精神医学の比較文化学(!)なのだが、それが人類にとってあまりにも未開な分野すぎて、何かにつけアメリカをモデル化したがる日本を含める後進国(アメリカの文化的ストーカー?)全般に対する気持ち悪さを素朴に表明してるだけのように、思えてくる感じ「も」あった。アフリカの呪術的な現象を短絡的に統合失調症として話を進めたり、拒食症に過剰な実体性を見ている感じがあったりと、なかなか微妙な面もある気がしたが、基本的に不真面目な本というわけではなく、香港やアフリカや日本の精神医療の実態の(アメリカへの)追尾性について縷々述べている。
肝心のモノアミン仮説の虚構性については後半にちょろっと出てくるだけなのだが、それなりにまとまっている。該当箇所の一部を抜粋してアップしておく。(画像のp280冒頭に『モノアミンはセロトニンのサブグループ』という表現がありますが、本当はセロトニンが属するサブグループと言いたかったのではないかと思います。モノアミン類は、神経伝達物質の3つあるサブグループのうちのひとつで、セロトニンはさらにそのモノアミン類に属しています。原文にどう書いてあるのか不明だけど、あの訳文を読み流すと意味が通らないかも。)
『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』は、これでもかこれでもかという感じでモノアミン仮説(あるいは精神の化学的解釈全般)の否定につながる論文を紹介し続けるような本で、興味が無い人は相当きついとは思われるのだけど、私は約540ページを約2日で読み通しました。特に著者が「本気」だと思うのは、よく探したというか、列挙されてる研究のほとんどがちゃんとした素性のものであるということで、製薬会社の資金によらず、NIMH(アメリカ国立精神衛生研究所)などからの公的資金によって書かれた論文や、ハーバードのような名の通った大学で行われた研究を中心に、彼の論拠となるものを拾いだしている点にある。
しかし、この辺り、著者に致命的な落ち度があるとすれば、モノアミン仮説「肯定」論者の論文や研究をほぼまったく紹介していないということがあると思われる。モノアミン仮説を否定している論文の信頼性を高めるだけでは、この戦いにおいては、必ずしも十分ではないかもしれない。
まず鬱病者のセロトニン分泌が健常者よりも少ないという前提そのものを論拠を示して否定しているのだが、仮にセロトニンの再取り込みを遮断しても、受容体が鈍麻して生体反応(ホメオスタシス)として人体がバランスを取ろうとしてしまうのであり必ずしも目的の効果が得られない上に、投薬が長期化した場合に生体そのものが変化して離脱(薬をやめること)が極めて危険になる場合があると主張する。確かに筋の通った話で、SSRIに「適応」してしまった体からそれを奪うと、急に後ろからはしごを外すようなもので、当たり前の処理すら薬なしでできなくなっている体を地面に叩き落とすことになるだろう。また症状が良くなったとされる率もプラセボの場合とほとんど変わらないという主張も、従来から言われているが、典拠を示して繰り返している。
ADHDの原因が先天異常であるというのは実は必ずしもはっきりしていないとの主張や、長期投薬者が短命であるとの主張も印象深い。精神薬の効果を疑問視させる様々な動きについて年表のようにまとめている箇所があるのでアップする。
こういう問題に膨大な労力と知力を傾ける著者の激しい情熱のありかがどこにあるのか不思議に感じるところもないではない。正義心とかジャーナリスト魂とかあるかもしれないが、正直この手の本における製薬会社陰謀論はもはやほとんど陳腐化しているモチーフでしかないと思う。それくらい有り触れているのだし、これだけの知力のあるジャーナリストがとらわれるにしては単純すぎる。この著者は言い尽くされている地平をさらに厳しく掘り下げるような努力をこの著作でしているのだ。
ある統合失調症と診断された若い女性が、たまたま通い始めたキリスト教会のメンターのような男性と出会い(のちに結婚)離脱に成功する逸話が著者の内的な核心だったかもしれない。女性はその男性に「自分を統合失調症だと思ってはならない」と言われて雷に打たれる。そして医師の処方による薬のカクテルの摂取を一切やめる決意をする。離脱後ダイエットに成功した彼女の容姿を、著者がとても美しいと唐突に褒める箇所がある。比較的テクニカルな内容の本書で著者の感情的な部分が吐露されているこのような部分に本心が宿っていると捉えるのは深読みだろうか。キリスト教の自然主義的な側面というべきか、薬によって歪められないありのままこそが神に与えられた人間の本来の状態であり美でありうるということかもしれない。
日本で反精神医学というと、精神医学の科学的な無根拠性をさかしらに指弾しているだけというようなイメージもなくはない(なにもないところに手探りの努力を積み重ねているだけだからそんなもんあるわけない)。しかし本場の反精神医学には、それとはまた次元を隔て、キリスト教の人間把握を精神医学が提供しようとするそれに対し優越させようとする原初的な情熱が働いている面があるような気がする。
一般の人々は単純な答えを欲する。あるいは単純な答えがどこかにあると思い込みたい、そのほうが安心だから。しかし現実にはないのだ。製薬会社はそれらのことをよく知った上で倫理的に綱渡りのようなマーケティングを日々しているのだと思う。製薬会社のグラクソ・スミスクラインはパキシルの服用等による自殺率の上昇に関して以下のように述べている。
抗うつ薬と自殺との因果関係をはっきりさせることは極めて困難な問題です。先に述べたとおり、若い年代の患者さんでは抗うつ薬での治療中に自殺行動が起こるリスクが高まる可能性が示されていますが、うつ病という病気そのものに重大な自殺の危険性がある上、他の考えられる多くの要因が存在するためです。
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