ミシェル・フーコーは『言葉と物』において(部分的にせよ)要素主義のようなロジックをもちいて既存の枠組みを打ち破ろうとしている。わざと「木を見て森を見ない」ようにする戦略で、ほとんど無限に分割されうる意味や概念の莫大な多様性の中であれもこれもすべては比較不能ではないかというわけである。そのような態度は分類学について述べているときにも垣間見られたが、終章の最後に提示される「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅する」というモチーフが露骨に示していると思う。
同性愛者として被差別的な時間を生きたとされるフーコーが、生物学上の突然変異や消えて行った種に注意を振り向けて巨大な連続性の存在を主張するとき、読む側としては危うさにドキドキしなくもない。すべてがそんなにも不備なく連続しているといったい誰が断言できるだろう。例えばラバが不妊の動物であることは種の境界の厳しさを示しているかもしれない。中間項が自在にあるとは到底思えない。
この要素主義的ロジックは現在のLGBTを擁護する多様性の議論にも通底している。欧米の人文系の学部学科でフーコーを教えないところはまれに違いない。
しかし、詭弁じみていると思わないではいられない。微細な点描(動)画を指差して「これは点の集まりです」とだけ言い張るのは、明らかに不当である。あるいは激しい化学反応を催す物質の組み合わせと無反応の組み合わせを同次元のバリエーションとしてのみ扱うのは、何か肝心のものを無視している。
脱構築と言ってもパラダイムシフトと言ってもいいが、何らかの発見によって通念を支えていた土台が崩れ全体像が見直されることはあるだろう。同性愛者への理解が科学的に進むことはありうることだし、それによって社会的通念が見直されることもありうることだ。しかしその行く末は誰にも先取りできない。
人は見たこともない究極の要素を想定してその側に立脚することは出来ない。
進化と多様性の網状連続体から巨大な生命潮流の存在を感じるのは自由だとしても、それが思い過ごしでないとはいえない。
同性愛が合理化されるのとは逆に、もし仮に、同性愛を「治療」することが(安価かつ無痛で)出来るようになった場合、彼らはその治療を受けないだろうか?
私は多様性を否定したいわけではない。多様性を用いた詭弁を否定したいだけだ。まるで多様性を構成する差異が相互に無害であるかのような。
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