コフート関連の日本人の研究者のネット上にある論文等を読んだりしていた。
Overt&CovertのNPDの話や、森田正馬が扱った対人恐怖症に対する自己愛の関連付けなど、微妙な話題が多かった。森田正馬が傑出した人物であることは間違いないが、全知全能なわけでもないので、間違うことはあるだろう。
Overt&Covertは無自覚型と過剰警戒型と言い換えてもいいだろうが、私は傷の様相あるいは程度による違いから来ているのではないかと憶測したりする。両者とも心のコアの弱さは本質として似ているのだが、Overtはそれに一応わりとちゃんとした発達上のシールドが付いているので社交性は阻害されないが、Covertはそのシールドすらないので自己として社会から距離をとらざるをえない感じ、だと思うがどうだろう。
コフートの、カルチャースクールか何かの先生になって誇大感を癒していた症例は、読んだ当時も全く訴求しなかったが、あれが代償行為による解決だったのかもしれない。代償はある行為に対する過剰で不自然な意味づけを前提とするため、危険性をはらんでいる。それにあれは治療上の変容性内在化の失敗のはてだったような。
ほどよく恵まれた子供は適切な愛に包まれながら現実への健全な幻滅の過程をたどることができる。つまり幼稚な誇大感を無理なくスムーズに脱ぎ捨ててゆくことができる。誇大感を代償行為によってごまかそうとするのではなく、やはり、そのように誇大感そのものの縮小を目指すことが本筋であるはずだ。
インナーチャイルドを操作するような場合も、いつかの自分に振り向けられた誤った育児法を否定して理想モデルとすげ替えるよりも、その時の喪失によって持ち越された誇大感を、健康な自己愛によって今からでも当たり前の幻滅へと導いてやることのほうが本質的だと思われる。
代償行為による解決は危うい。たいていどこかに無理が出る。飛行機遊び(実際に操縦する)にのめり込んで子供も家庭も放置してしまう父親がエラン・ゴロムの書籍に出てきたっけ。
人は自ら祝福しつつ幻滅することができるはずだ。
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