2008年5月アーカイブ

 最近、有名な若い女性アナウンサーが自殺したとかで、ネット上にそれに対する意見なり感想なりが多く見受けられるようになっている。と言っても、一部他殺説等もあるようで事件自体まだよく分からないところもあるのだが、一般的には自殺だと思われている。
 様々な書き込みを眺めていて引っかかるのは、この自殺者の絶望というものを闇雲に軽蔑しようとする人々が存在することだ。つまり、どんな辛いことがあったか知らないが、世の中にはもっと辛い思いをしながらも必死に生きている人が多くいるに違いなく、「軽々しく」絶望するのは軽蔑されるべきことだという論旨。
 自殺したのがどちらかと言えば社会的に恵まれていると思われる元東京キーTV局のアナウンサーということで、あの書き込み者達は自己がやっかむ分野にのみ囚われて、人が様々な理由で自殺しうるということを忘れてしまっているのではないかと思うのだが。何もかも恵まれているのに自殺するなんて本人の考え方がどこかおかしいに違いない、というわけだ。仮に庶民の常識から見れば浮ついていると思えるような理由で自死を選んだのだとしても、当人が身をおく環境にあってみれば現に抜き差しならない状況だったのかもしれない。あるいは感情の落差ということもあるだろう。高所から平地に落ちれば怪我をする。平地に居続けている者は無論なんともあるはずがない。
 軽蔑すべき絶望など存在しないように私は思う。例えば当人が物事のネガティヴな側面にばかり注目して絶望していることは、ただ鬱病の発症によってそうなっているのかもしれない。あるいは、それが無知や勘違いによってもたらされた絶望だとしても、それらが自殺との関係において捉えられる時は軽蔑しても意味がない。人格に著しい偏りがあるような場合も、別にその人物を好きになる必要はないわけで、絶望していることそれ自体は軽蔑すべきではない。
 容易に共感できないからといって、その絶望が絶望でないわけではない。

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 これまで何冊かの原書を含め外国の精神科医が書いたメンタルヘルス系の本を読んできて、自分なりに思うのは、「人間にとって人間こそがまだまだ未知の存在なのだ」ということだ。あるいは精神医学という学問領域はちゃんとした科学と呼べる水準にはまだ達していないということだ。世界的に有名な医者でも「患者と二人三脚」や「精神科医は回復への補佐役に過ぎない」みたいな事を率直に書く。無論日本の精神科医でも誠実な人はそのように書くのだが、「引きこもりは必ず治せる」(斎藤環)とかわりと平気で書く人もいる。それらはセールストークのようにも聞こえるし、善意に取れば病者を励ましているようにも聞こえるが、基本的には虚偽であろうと思う。また厳密には医師法にも違反している発言かもしれない。
 日本には精神医学の領域にまともな学者は殆ど居ないのではないかと私は思っている。阿闍世コンプレックスの古澤平作や小此木啓吾などがいるが世界的には殆ど価値など認められていないと思うし、この仮説が人間の欲望の根源を捉えているとは到底思えない。フロイトのエディプスコンプレックス仮説の方がより正統だなどというようなことを言いたいのではない。フロイト以降は、こういったそれらしいような基底コードを設定する行為自体を乗り越えねばならないはずなのだ。日本の精神医学界は要は物真似のように欧米に追従しているだけなのであり、まともでオリジナルな研究など殆ど存在しない。しかし追従してる側の方が権威的で断定的な態度をとるのは一体どういう訳だろう?
 神戸の酒鬼薔薇事件のときのワイドショーで、犯行声明の文章をひと目見たあるマイナーな大学病院の精神科医が、「これは精神分裂病を装った成人だ」などと殆ど断定に近い口調で分析していたのを思い出す。無論真犯人は少年だったのであり、裁判に付帯する時間を掛けた正式な精神鑑定では行為障害その他と判断された。その準レギュラー的な扱いの精神科医氏は少年の逮捕後もしばらくワイドショーに出続けていたがいつしか見掛けなくなった。しかしおそらく今もこの国のどこかで医療行為を続けているに違いない。
 薬剤の未発達ということもある。SSRIに関する本をかなり前に読んだが、偽薬との比較においてのSSRIの自殺率の高さと症状改善に関するアドバンテージの低さはショッキングだった。最近ニュージーランドで抗鬱剤の効果を否定するような調査結果も発表されたようだ。しかしそれ以前に、精神医療の現場で多く流布している鎮静剤や覚醒剤は所詮表面的な症状を抑え改善するものでしかない。無論周辺の反応を矯正することで病んでいる本質が快方に向かう場合があるだろうことを否定しはしない。しかし、病気そのものに直接に効く薬などは現在存在しないというのが本当のところのはずだ。
 ネットラジオ等で個人放送をしている精神科や心療内科への通院者は少なくないが、たまに聞いていると、保険診療の点数稼ぎのためにでたらめな処方をして患者を廃人にするだけの精神科医の話が出てくることがある。例えばグループワークで出会った仲間が、最初は幾らか無気力で感情の水位が低いだけだったのに、いつしか支離滅裂なことを言い始め、異常な行動をとるようになり、そのまま元に戻らなくなるのだという。その人物の症状に相応しくない程多種多様の薬が夥しく処方されていることをずっと不審に思っていたこと、素人判断とはいえあれはまず薬以外に原因は考えられないこと、またこの種の出来事が案外珍しくはないこと、ある種の精神科医は患者を人間だと思っていないこと、等について彼らは憤り嘆く。
 一方で、精神医学という営為そのものを否定する人々もいる。しかし現在実態としてそれ以上に有効なものがないのに、「さかしらに」精神医学の未熟性や種々の仮説の非現実性ばかりをあげつらってこの営為のすべてを否定する態度は公正ではないように私は思う。やはり必要なことではあるのだ。過信・盲信は厳に禁物だけれども。

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『自明性の喪失―分裂病の現象学』 W.ブランケンブルク

「だれでも、どうふるまうか知っているはずです。だれもが道筋を、考え方をもっています。動作とか人間らしさとか対人関係とか、そこにはすべてルールがあって、だれもがそれを守っているのです。でも私にはそのルールがまだはっきりとわからないのです。私には基本が欠けていたのです。だからうまくいかなかったのです。ものごとはひとつひとつ積み重ねていくものなのですから。」(P131)

 精神分裂病(現在の呼び名は統合失調症)と聞けば、わが国でのニューアカデミズムブームの時に浅田彰がベイトソンのダブルバインド仮説を大々的に取り上げていたのを思い出す人がいるかもしれない。私はそれより世代が少し後なのだが、ダブルバインド仮説に触れたのは浅田氏の何らかの著書がほぼ初めてということだったと思う。しかし、あんまり説得されなかった。その後ご本尊と言うべきかベイトソンの『精神の生態学』も読んだが、アルコール中毒患者や国によるジェスチャーの違いなどの話は面白かったけれど、ダブルバインド仮説についてはやはり説得されなかった。むしろこの仮説には精神分裂病に対する何か本質的な説明が欠けているように思われた。その後たまたま古本屋で見つけた『精神分裂病と家族』という古典を二束三文で買い、似たものとして"Pseudomutuality"仮説の存在も知ったが、これまたピンとこない感じだった。いずれにせよ当時既存の心因説は、私としてはよく分からないままに、今日どれも時代遅れになってしまっているようだ。
 この何日か、ブランケンブルクの『自明性の喪失』を読んでいて、この本は大学時代に大学図書館で一度は手に取ったということを思い出した。同時に当時本の内容が殆ど理解できず投げ出したことも思い出した。ブランケンブルクの精神医学者としての理論的立場が難解と言われる現存在分析にあったことが大きく影響していたと思う。自分として何がましになったのか不明だが今回は何とかかんとか読み果せた。
 敢えて症状の乏しい寡症状性分裂病を研究することによって、むしろ精神分裂病の本質としての「基礎障碍」の領域に迫ろうとすることに著者のエネルギーは割かれている。症例としてはアンネ・ラウのケース一つだけが引かれている。現象学における世界存在に対するエポケー手法の援用によって、精神分裂病者の「この世界に根を下ろしていない感じ」に迫ろうという試みが、本書全体において梃子のような役割を果たしている。
 ところで私は読みながら、現存在分析的手法というものにかなりの違和感を覚えた。まず超越論的自我というものが非常に怪しい。無論方法的懐疑のように、真実に迫るために敢えて採用された方便ではあるとしても、そのような方法を採ること自体の是非が十分問われていないように思う。だから倒錯としての超越論的自我ということを思わないでもなかった。幾ら「方法」であることを強調しても、「この世界の外部」を想定することに付きまとうかもしれない幼時に失われた全能感を機軸とする観察者自身の未熟性の包含というものが疑われる。「この世界」に外部があるかどうかは未定である。従って、エポケーは、そう思えば勝手に出来るとしても、それを方法として固定化してしまうことは不当な特権を自己に与える行為かもしれないのだ。世界に対する判断を留保するという行為が人間の「恣意の聖域」に属するように思い過ごしがちであることから来る自己欺瞞であるように思う。実際は聖域などなくそれも予め「世界」の一部であるはずだ。
 現象学そのものを敵に回すつもりはないし私の不勉強によるところも多々あろうが、現在哲学そのものの終焉が叫ばれる理由として、この種の長年の澱みたいな哲学側の欺瞞が暴露されたということもあるのではないだろうか。しかし、このことをここで深追いしても仕方がない。
 本書では遺伝子的要因と環境要因を巡る諸説が示唆されてはいるが、必ずしも分裂病の原因面に対し深く焦点が当てられてはいない。私は読み進めながらベイトソンのダブルバインド仮説がなぜ駄目なのかを自分なりに言語化しようとあれこれ考えていた。思い付いたのは例えば以下のようなことだ。
 分裂病者の壊滅的なまでに脆い自我というものが、おそらくは分離個体化から思春期の周辺で形作られるものだとするなら、子供の自我に恐怖するような親が悪意なく長い時間を掛けてその芽を摘み採り続ける異常な環境において成立するかもしれない。無論子供の側が遺伝子異常を含めた先天的な傾向によって自我の成熟を一方的に放棄するような場合も想定しうるわけだが、今は横に置き敢えて環境因に絞って考える。つまりベイトソンが間違ったのだとすれば、「親の側が表面では相手に自立を望みながら本心では強くそれを否認している」というような理解の仕方をしてしまったからではないか。おそらく実態としてそうではないのだ。最初から自我のみを破壊の標的とするなら、むしろそれ以外の事柄に関して相手を否定する理由は特にない。自我を持たずにはよく自立・成熟しえないと思うのは健康な心の持ち主であるが、彼らはそうではないのだ。あるいはその矛盾の辻褄を自分があわせる必要はないと考えているのかもしれない。いずれにせよ自我を持たずに満足して生きるわが子こそが望ましい、と。
 例えば人生上に激しい欲求不満を抱えるタイプの親が、子供に対する期待とは名ばかりに、子を媒質として世界全体を自分の中に取り込みたいと妄想するかもしれない。そのためには子は独自の自我を持たない操り人形のような存在でなければならない。あるいは、親子関係において闘争的だが弱い自我をしか持たない親が子が普通レベルの自我を持つことにも恐怖するということもあるかもしれない。また子を扶養することがあまりに重荷で、自分の殺意を子の自我に投影して見出すケースもあるかもしれない。子に自我があってもらっては困るケースは色々想像できる。
 確かにこれらによって必然的にダブルバインド状況は生まれるかもしれない。しかしながら、ある人間関係のうちにいびつな人間把握がもたらされれば同じくまったく容易にダブルバインド状況は発生しうる。これは私が最初にダブルバインド仮説に触れた時に抱いた疑念そのものでもあるが、「異なる次元間での矛盾するメッセージによる混乱」などというありふれた条件だけで人があそこまで荒廃するとは到底思えない。自我を破壊するプロセスを巡って幾つかの局面がダブルバインドに該当するように見えたとしても、そんなことは少しも本質的なことではない。本質的なことはこの種の親が一貫して明確に子の自我を破壊しようとしているということに他ならないと思う。
 ただしそれは親が自覚的な悪人であることを必ずしも意味しない。
 子の自我を破壊する方法とはどのようなものなのだろう。まず人は自他の区別が曖昧な時期からそれがはっきりして精神的に自立したと言えるまでの期間、少しずつ自我を補強しながら世界を自分にとっての世界として再構成してゆくものだと思う。それはある種地道な自と他を峻別するマーキング作業のようなものではないだろうか。その過程において本来「自」として区別されるべきものが悉く「他」とされた場合人はどのような成長を遂げるか、というのが統合失調症(旧称精神分裂病)のモチーフではないかと私は思うのだ。方法としては結局は何らかの脅迫によって「自」を「他」と信じ込まされるのだろうが、それが全く虚偽の認識であるかどうかというのは、主体のありかの問題として、確かに非常に微妙な面があるのだと思う。例えば、プラモデルを完成させるなど子供なりの達成を見てその経験の主体が子供本人にあるとするのがおそらくは普通だ。しかし生み育てプラモデルを選び買い与え作ることを許したのは親だ。もっと極端なことを言えば、「今は殺さずプラモデルを作らせている」と表現すれば分かりやすいだろう。家庭内で絶対的強者としての親は子をいつでもどうすることも出来る。その生殺与奪権が誰に帰属しているかという問いが絶え間なく前提とされ続けるとき、子は「自」とすべきことが皆無に近いことを感じ取るのだと思う。抜け殻のような自我に借り物の現実が対応したような子供が出来上がる。思春期以降に訪れる社会的な意味での自立の時期において、人は実際に自分の判断を行使して自分の人生を生き始めるだろう。しかしある青年はその時、他の青年達とは違って、自分には自分と呼べるものが何もないことに気付く。

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 月送り機能を付けようと思ったらどんどん深みにはまっていった。

1)<MTArchivePrevious>と<MTArchiveNext>を利用して先月と来月分アーカイブへのリンクを作成する。

2)既定の<mt:Calendar>を、月別アーカイブに合致するカレンダーを自動表示してくれる<mt:Calendar month="this">に変更すると、トップのindexページでは利かなくなってしまうので、</mt:Calendar>までの内容を<mt:if name="main_index">と<mt:else>によって条件分けして別個に記述。

 が、今度は個別ページやカテゴリアーカイブでカレンダー自体が表示されなくなってしまった。今はこれ以上はちょとどうしようもない感じ。月別表示時の排他的なnameがあるといいのだが見当たらないし、自分で設定することも出来ないようだった。有志のプログラマの方がJAVAやAJAXを使った高度なカレンダーをネット上に公開されているようだが、素人としては設置するのもそこそこ大変そうだし、デザインがみな同じになってしまわないか、ページが重くなるのではないかと、何となくそちらには気が進まない。
 残念ではあるけれど、どうしても付けねばならないというものでもなし、月送り機能は省いたままで運用しようと思う。

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 先ごろ『沖縄ノート』を巡る名誉毀損裁判で一審の判決が出た。そのしばらく後のタイミングということで、元来この争いについてよく分かっていない私としては、本誌における被告大江健三郎氏の主張から争点を手っ取り早くまとめて理解できるかもしれないと思い込み、大垣書店で雑誌を立ち読んできた。
 曽野綾子が「巨塊」を「巨魁」と誤読・誤記していることの指摘とか、それを無修正で転載・引用してしまう軽薄な学者やジャーナリスト達のこととか、「罪の塊」が"Corpus Delicti"の訳からの表現であることなどの細かなことに関する叙述が延々続いて、多少は事情を理解したが何だかげんなり。こんなの数十行くらいで済む話ではないのかなどと思い、帰ってきてネットを検索してみたら、本件においては訴状内容の関係でそれらがかなり本質的な話題であるとのこと。しかし、そうならそれで、これ自体が瑣末な争いだったのか。
 今のところ、ある局面に限っては高潔で自己犠牲的な判断をしたことが事実として露見したと思われる赤松大尉ではあるのだが、彼の命令があろうがなかろうが、慶良間の集団自決が軍による制約的な状況下において且つまたその手榴弾によって行われたのは変わらない事実なのだろう。文書や口頭による正式な命令が無かったことが、赤松大尉の汚名を幾らか晴らすとしても、別に軍の関与の全否定にまでつながらないのは当たり前の結論だ。
 英語版のwikipediaを見ると、「罪の塊」表現の元とされる"Corpus Delicti"という言葉は本来は「他殺体」などではなく「罪体(犯罪構成事実)」といったほどの意味を持つようだ。大江氏がこの言葉に対して何らかの誤解をしていたとしても、あるいは流布している誤解をそのままに受け取っていたとしてもあまり関係はない。ある他殺体がその加害者側から見て己の「罪の塊」であると表現することに別段の無理はないからだ。表現を生み出す過程に些細な瑕疵があるというだけだろう。
 ただ、私自身は『沖縄ノート』は高校くらいに読んでそこに用いられていた表現の詳細の一々などとうに忘れているが、軍側に対して「屠殺者」とかかなりの否定的な言辞が書き連ねてあったように記憶するのだが。今回原告側に誤った先入観があったのだとしても、本書のどこをとっても厳正に名誉毀損等に当たらないかどうかは疑わしいという心持もする。

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 フロアの閲覧席がかなり空いていたのが印象的だった。借りたのは中央図書館に無かった一冊のみ。
『自明性の喪失―分裂病の現象学』 W.ブランケンブルク

 2週間あるので、ゆっくり読みたい。
 大江健三郎が雑誌『世界』の6月号に書いている記事が読みたいのだけれど、図書館の雑誌コーナーに置いてあるやつは嫌だなあ。雑誌そのものというより、図書館側が装着させている使い回しのカバーの方こそが嫌な訳だけど、見るからに猛烈に不潔な感じなのであり基本的に手に触れたくない。読みたいのは大江氏の記事だけだというのに買ってしまうのももったいない。本屋で立ち読もうかな。

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『電波利権』 池田 信夫
 政官業の腐敗構造に鋭く迫るとまでは行かず、基本的な事柄をなぞったような内容でやや物足りなかった。所詮素人なので基本を論じてもらっても一向に構わないのではあるけれども、自分としては地上波マスコミに具わってきたと思われる「古い問題」の方にどちらかと言うと興味があった。なぜ、電波帯域の空いていた時代に新規参入も入れ替えも全く行われず、電波利用料はただ同然の安さで、放送免許の保有資格に基づくような行政罰が史上一度も発動されたことがないのか、またなぜにケーブルテレビが発達しなかったのか、等々を知りたかったのだ。あるいは政治権力や大手広告代理店による支配or相互支配について。おそらくこちらの方にこそより本質的で深い闇があると思うのだが本書では殆ど述べられていない。地デジや携帯電話との帯域確保争いの喧騒に押し流され、つまりは新時代の到来とともに、古き澱は人知れず罪を問われることもなくただ消え去って行くのだろうか。そうであってはいけないような気がするのだが。

『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』 有馬 哲夫
『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』 関岡 英之
 上記二冊はよくある陰謀論というほどには認識や論理が飛躍してもいないのだが、どちらもアメリカの日本支配について書かれた本であり、それ以上さほど強い印象もなかった。有馬氏の方は史料的性格が強いと思う。関岡氏の著書はなんか当たり前のことに対して殊更に驚いている感じが付きまとって、その点に関しては、かなり違和感があった。まるで日本が敗戦国だということを知らない人が書いたみたいだ。内政干渉はとんでもないと言うが、年次改革要望書なんぞより現日本国憲法がすでにアメリカによる内政干渉の最大の賜物の一ではないのか。日本が現在もアメリカの半属国であるという事実に大袈裟に驚いて見せることで日本国民に独立主権国家としての地位を回復させるよう促したいのかもしれないが、日本側にどれだけイニシアティヴがあるのか非常に疑わしく、誰かが声高に叫んだところでなるようにしかならない問題だと私は思う。

『良心をもたない人たち―25人に1人という恐怖』 マーサ スタウト
 「サイコパス、譫妄なき狂気」というわけだが、思いのほか面白かった。
 サイコパスにとって、良心というものはどこまでも彼らの奇妙なゲームの一環に於いて演じられる対象でしかなく、またすべての他人は「もの」でしかない。非常識なほどの犠牲を払ってでもゲームに「勝ちたい」人格なのだが、この「勝つ」という概念自体が普通の人とずれている。すなわちすぐばれる嘘でもその一時に於いて他人を出し抜けられれば絶対的な勝ちなのであり、自分の惨めさを訴え同情を引くことに成功するのもなぜか勝ちなのだ。もしかしたら他人を良心の重荷に括り付けることが彼らにとっての勝利なのかもしれない。
 ある種の麻痺者が痛点を持たないように、サイコパスは良心というものを感じ取る力がない。そのことが社会内である種の自由さと言うか逆説的な優越性として作用する場合があり、彼ら自身もその点において倒錯した自負心を抱いている。ただし本来、生産的な能力を背景とするような優越性ではないため、何か外的な刺激に身を晒すときにだけ現れる一瞬の火花のようなものである。そのためかサイコパスはいつでも自ら外的刺激を求める傾向を持つ。
 著者はどちらかと言うと遺伝子異常にこの障害の主たる原因があると思っているようだ。
 超自我と良心は必ずしもイコールではないが、やや広く観て超自我に類縁するものなのだとすれば、それが健全に機能しないのは、例えば分離個体化の周辺で母親が父親を根底的に否定していたからかもしれないと思う。そのためちゃんと父性的愛情を伴って「禁止」や「抑制」がもたらされたとしても、母親が遮断してしまい、内部に取り込めなかったのではないか。乳児期の子供に対してちぐはぐな対応しかしない母親への不信が基底的な人間不信に及んでいるような場合、あるいは父親が何らかの内的事情で父性的愛情を発揮できないケースに於いてもまた子は自らの内に正しい超自我を育めない様に思う。

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 さくらでブログを始めた途端の出来事。もしかしたらGWで人手が足りなかったのもあるかもしれないが、復旧まで二日も掛かったのは何か相当手間取ったのか。データのコピーだけでそんなに時間が掛かるとも思えない。うーむ。

http://info.sblo.jp/article/14626877.html
2008年05月04日
さくらのブログにおける長時間の停止に関するお詫び
お客様各位

平素より、さくらインターネットをご利用頂き、厚く御礼申し上げます。

5月2日早朝に発生致しました、さくらのブログに関する機器障害に伴い、復旧まで長時間にわたりブログが表示できない状態が続きました。ご利用のお客様には、多大なご迷惑をお掛け致しましたこと、深くお詫び申し上げます。

今回の障害について、お客様のブログ記事を格納するディスク装置の不具合が原因であり、当該装置の交換により復旧を致しております。
なおディスク装置については、ディスク本体の故障時でもサービスが停止することなく、データの安全性も保障される構成がなされておりましたが、今回は制御装置の故障により著しく速度が低下する状況となっておりました。
そのため、復旧作業については制御装置の交換を予定しておりましたが、交換直後のデータ消失に関するリスクを回避するために、最新状態データのコピー作業を行っており、復旧までに時間を要する状況となりました。

今後、原因の究明および復旧体制の検証を行い、再発防止に努めてまいります。

※調査報告につきましては、完了次第、当社ウェブサイトにおいて公表をさせて頂きます。

平成20年5月4日
さくらインターネット株式会社
代表取締役社長 兼 最高経営責任者
田中 邦裕

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 今回は下記四冊。
『電波利権』 池田 信夫
『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』 有馬 哲夫
『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』 関岡 英之
『良心をもたない人たち―25人に1人という恐怖』 マーサ スタウト

 放送免許関連には(腐敗の温床として)前から興味があってネット上で調べたりしていたが、なかなか限界があるようなので、要点をまとめていそうな本を借りてみた。あとは独立国家のようなそうでないような戦後日本についての著書二冊と、サイコパス(≒反社会性人格障害)に関する本。ちょっと疑わしい人物がネット上にいて気なっていて、入門書となるような本を読んでみたかった。逆に疑いが晴れるということになるかもしれないが、反社会性人格障害と演技性人格障害はクラスタBの中で一対のものとなっているはずで、少なくともそのどちらかには該当するのではないかと考えている。言動のあまりの偏り方に『一体この人は何なのだろう』と思う人はいるものだが、これでもやもやが無くなればいい。

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