英文拙訳のブログ記事

 英語版Wikipediaの"True self and false self"の拙和訳です。今のところ日本語版には対応項目はありません。
 サム・ヴァクニンは、私が去年だかに自己愛を直接主題にした一般向けの英書を探していたとき、ピート・ウォーカーの紹介していたエラン・ゴロムとどちらを読むか迷った人物で、やはり相当独特な人のよう。それと、ヴァクニンの項の最初のセンテンスはソースの英文から主部・述部がありません。書き込み者がピリオドとカンマを間違えたのかな、と思ったりしましたが、破綻したまま訳しました。


本当の自己と偽りの自己

 本当の自己(現実の自己、真正の自己、オリジナルの自己、傷つきやすい自己とも)と偽りの自己(偽の自己、理想化された自己、表面的な自己、擬制的な自己とも)は、そもそも1960年にドナルド・ウィニコットによって精神分析に導入された心理学的な概念である[1]。ウィニコットは、本当の自己を、自発的で真正な経験および本物の自己で生きているという感覚に基づく、自己の感覚を叙述するのに使った[2]。ウィニコットは偽りの自己については、反対に、防衛的な見せかけであると見なしたが[1]、この極端な場合には、あたかも本物であるかのような外面の背後で、その保持者は自発性を欠いて死んだようなあるいは虚ろな感覚の状態となる[1]。

 この概念はしばしばナルシシズムとのつながりにおいて使用される。


目次
1 特徴
2 先駆者たち
3 後の展開
3.1 コフート
3.2 ローウェン
3.3 マスターソン
3.4 サイミントン
3.5 ヴァクニン
3.6 ミラー
3.7 オーバック:偽りの身体
3.8 ユング派のペルソナ
3.9 スターンの三分割自己
4 批判
5 文学作品の例
6 関連項目
7 参照
8 参考文献
9 外部リンク


特徴
 ウィニコットは、本当の自己が、血流や肺呼吸などの(ウィニコットがただ存在していると呼んだ)、生きていることの経験をしている早い段階の乳児期に根ざしていると考えた[3]。これにより、赤ん坊は現実感覚の、あるいは人生が生きるに値するという感覚の、経験を作り出す。赤ん坊の自発的で非言語的なジェスチャーは、本能的感覚から派生するが[4]、親に反応されることで本当の自己の発展継続の基礎となる。

 しかしながら、ウィニコットが程よき養育(完璧である必要はない[5])と注意深く書き記したものが実行されなかった場合、幼児の自発性は、親の願望や期待に従う必要に侵される危険にさらされる[6]。ウィニコットの業績は、彼が偽りの自己と呼んだものの創造であるかもしれないが、それは『自分の存在の根源につながる本来の自己の感覚を覆ったりそれに相反しても、他者の期待が最重要になりえる』ような状態である[7]。彼が危険視したのは、『偽りの自己を通して、幼児は偽りの人間関係を築き、取り入れにより本物であるかのような見かけを獲得しさえしている』が[8]、実際には、独立しているように見える外見の背後に味気ない虚無を隠蔽しているに過ぎないということだった[9]。

 この危険は、赤ん坊が母親あるいは両親に調子を合わせなければならない場合(その逆ではなく)に特に顕著で、非人格的つまり人格的でなく自然的でもない基礎上に、対象の解離した認識のようなものを構築することになる[10]。しかし、このような病的な偽りの自己が、生気のない模倣に与して本当の自己の自発的な行為を抑えるとしても、それにもかかわらず、ウィニコットは、隠された本当の自己そのものが搾取されるという全滅的な経験のような、より悪い事態を防ぐために、それが致命的に重要であると考えた[3]。


先駆者たち
 ウィニコットが偽りの自己という概念を生み出すために頼ったものが精神分析理論の中に多くあった。ヘレーネ・ドイッチュは、現実の人間関係の代わりに擬制的な人間関係を持つところの「かのような」人格について述べていた[11]。ウィニコットの分析者だったジョアン・リヴィエールは、ナルシシストの仮装(表面的な同意に隠された支配のための捉えにくい秘密の苦闘)の概念を探求していた[12]。フロイトの、自我が同一化の産物であるとする後期の理論では[13]、自我を偽りの自己と見なしているだけに近かった[14]。一方、ウィニコットの本当/偽りの区別は、マイケル・バリントの「基本的欠陥」やロナルド・フェアバーンの「妥協した自我」の概念と比較されてもいる[15]。

 エーリッヒ・フロムはその著書『自由の恐怖』の中で、本来の自己と擬制的な自己を区別しており、擬制的な自己の非真実性は自由の孤独から逃れるための手段だとしている[16]。一方、ずっと以前に、キルケゴールのような実存主義者は、「人が本当の自己でいようと意志することは、実に絶望の反対である」―絶望とはつまり「自分以外の者であることを」選ぶこと、だと主張していた[17]。

 カレン・ホーニーは、1950年に出版した『神経症と人間の成長』の中で、自己改善の観点から「本当の自己」と「偽の自己」という自身のアイデアに基礎を置いたが、これを現実の自己と理想の自己として説明していて、現実の自己は今の自分の在り方であり、理想の自己はなれるかもしれない在り方が対応する[18]。(カレン・ホーニー§自己の理論も参照)。)


後の展開
 20世紀後半、ウィニコットの思想は、精神分析の内外におけるさまざまな文脈で拡張され、応用されてきた。

コフート
主要記事:ハインツ・コフート
 コフートは、ナルシシズムの研究においてウィニコットの業績を拡大させ[19]、ナルシシストたちを彼らの傷ついた内的自己を守るための防御的な鎧を発展させているものと見なした[20]。彼はナルシシズムについて、自らの自発的な創造性を犠牲にして外部の人格に同一化することで一貫性を獲得する場合よりも、自己の傷ついた残余に同一化する方がより病的でないと考えた[21]。

ローウェン
主要記事:アレクサンダー・ローウェン
 アレクサンダー・ローウェンは、ナルシシストは本当の自己と偽りの(あるいは表面的な)自己を持つものとして識別した。偽りの自己は、世界に提示される自己だが、表面上に留まる。これは、外見やイメージの背後にある本当の自己とは対照的をなす。本当の自己とは感情を持つ自己のことだが、ナルシシストにおいて感情を持つ自己は隠され、否認されなければならない。表面的な自己が服従と同調を示すため、内なる本当の自己は反発と怒りを持つ。この潜在的な反発と怒りは、その人の中の生命力の表出なので、決して完全に抑え込むことはできない。しかし、否認されているために、直接的にそれを表現することができない。代わりに、それはナルシシストの行動の中に現れる。また、誤った力ともなりうる[22]。

マスターソン
主要記事:ジェームズ・F・マスターソン
 ジェームス・F・マスターソンは、すべての人格障害は、人の2つの自己の間の葛藤が決定的に関係していると主張した。つまりそれは、幼児が母親を喜ばせるために作り上げた偽りの自己と、本当の自己のことである。人格障害の精神療法は、その人を本当の自分と再び連絡させようとする試みなのである[23]。

サイミントン
主要記事:ネヴィル・サイミントン
 サイミントンは、人の行動の源を扱うために、ウィニコットの本当の自己と偽りの自己の対比を発展させ、行動の自律的な源と不整合な源を対比させた-後者は外的な影響や圧力の内面化から引き出される[24]。例えば、親が子供の業績を通して自らを褒め称える夢は、行動の風変わりで不整合な源として内面化されることがある[25]。しかしながらサイミントンは、ウィニコットが見落としているものとして、人が偽りの自己や自己愛的な仮面のために自律的な自己を放棄する時の、意図的な要素を強調した[26]。

ヴァクニン
 自らナルシシストであると告白した作家サム・ヴァクニンのこの病の知名度を上げるという個人的使命として書かれたものの一部として[27]。ヴァクニンは、ナルシシズムにおける偽りの自己の役割を強調している。偽りの自己は、ナルシシストの本当の自己に取って代わるが、自己転嫁する全能感を原因とする苦痛や自己愛損傷から彼を防御することを目的とする。ナルシシストは、彼の偽りの自己を本物であるかのように見せかけ、他人にそのお喋りを肯定するよう要求するが、同時に不完全な本当の自己を覆い隠し続けている[28]。
 ヴァクニンの考えでは、ナルシシストにとって偽りの自己は荒廃した機能不全の本当の自己よりもはるかに重要であり、精神分析医とは対照的に、彼は治療を通して本当の自己を蘇らせる能力を信じていない[29]。

ミラー
主要記事:アリス・ミラー(心理学者)
 アリス・ミラーは、子供や患者は偽りの自己の背後で待たされ本当の自己がちっとも形成されていない可能性があり[30]、結果として、本当の自己を解放するということは、ウィニコットの蝶が繭から出てくるイメージのようには単純でない、と慎重に警告している[31]。しかし、本当の自己が発達しえたなら、偽りの自己の中身のない誇大さが自律的な活力の新しい感覚に移行する可能性があると、彼女は考えた[32]。

オーバック:偽りの身体
主要記事:スージー・オーバック
 スージー・オーバックは偽りの自己を、自己のある側面が、他の側面や自己の全部の潜在性を犠牲にして(親の圧力下で)過剰に発達することであって、それにより、その人自身から自然に表出するものへの持続的な不信を生み出していると考えた[33]。オーバックは、環境的な失敗がどのように心と体の内的な分裂につながるかというウィニコットの説明を拡張して[34]、偽りの身体(偽られた自分の身体感覚)というアイデアを包含するようにした[35]。オーバックは特に女性の偽りの身体を、真正や信頼の内的感覚を犠牲にした、他者との同一視に基づいて構築されていると見なした[36]。治療の過程で偽りの身体感覚という一枚岩を壊すことで、患者の中に一連の(しばしば痛みを伴うとしても)真正な身体感覚を表出させることができる[37]。

ユング派のペルソナ
主要記事:カール・ユング
 ユング派はユングのペルソナ概念とウィニコットの偽りの自己との重なりを探ってきたが[38]、類似性に注意を払いつつも、最も硬直した防衛的ペルソナだけが偽りの自己の病的状態に似ていると考えている[39]。

スターンの三分割自己
主要記事:ダニエル・スターン(心理学者)
 ダニエル・スターンは、ウィニコットの「存在し続けている」という感覚が、前言語的な自己として核を構成していると考えた[40]。彼はまた、偽りの自己の感覚を強化するために(本当の自己を言語的に不透明化し否定された状態にしておく)、言語がどのように使用されうるかを探った[41]。しかし彼は最終的に、社会的自己、私的自己、否認された自己の3つの区分を提案した[42]。


批判
 ネヴィル・サイミントンは、ウィニコットが偽りの自己に対する洞察と自我・イドの理論とを統合することに失敗したと批判した[43]。同様に、ジーン・バートランド・ポンタリスのような大陸の分析家は、本当/偽りの自己を臨床的な区別としては利用しているが、その理論的地位については留保している[44]。

 哲学者のミシェル・フーコーは、自己は構築物であるという反本質主義の理由から、本当の自己という概念をより広く問題にしている。つまり、自己は主観化のプロセスや自己形成の美学を通して進化させなければならないものであり、単に発見されるのを待っているものではない[45]。曰く「我々は芸術作品として我々自身を創造しなければならない」[46]。


文学作品の例
 『嵐が丘』は、本当の自己が既成概念を打ち破ろうと奮闘するという観点で解釈されている[47]。『I Never Promised You a Rose Garden』という小説では、ヒロインは自分のうわべの性格を「見せかけ」の単なるお化けと見なし、その裏に本当の自己を常により完璧に隠している[48]。
 シルビア・プラスの詩は、本当の自己と偽りの自己の対立という観点から解釈されている[49]。


関連項目
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参照
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参考文献
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外部リンク
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(Translated from the article "True self and false self" on Wikipedia)

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 英語版Wikipediaの"Narcissistic parent"の項目の拙和訳です。今のところ日本語版には対応項目はありません。例によって「関連項目」以下は省略していますが、あまりに素っ気ないので英語版へのリンクを張っておきました。


自己愛的な親

 自己愛的な親とは、ナルシシズムあるいは自己愛性人格障害に冒された親のことである。通常、自己愛的な親は独占的にそして所有物のように彼らの子供たちに接し、子供たちの主体性が育つことに脅かされている[1]。これは、子供が彼らの要求や要請を満たすためだけに存在していると考える親に伴う、自己愛的な愛着パターンをもたらす[2]。自己愛的な親はしばしば脅しや感情的な虐待によって自分の子供をコントロールしようとするものだ。自己愛的なしつけは子供たちの心理的発達(論理的思考や感情的、倫理的、社会的な行動あるいは態度)に不利な影響を与える[3]。親の期待を満足させるよう子を型に嵌めて操作するため、個人としての境界は頻繁に無視される[4]。
 自己愛的な人々は自尊心が低く、他人からの評価をコントロールしたいと思っている。そうしないと、責められ拒絶され、彼らの個人的な欠点が晒されることになると怖れているのだ。自己愛的な親は自己陶酔的で、しばしば誇大なレベルにまで達する。彼らはまた硬直的で子供を育てるのに必要な共感性に欠ける傾向がある[5]。


目次
1 特徴
2 ナルシシストの子供たち
2.1 短期的および長期的影響
2.2 メンタルヘルスへの影響
3 関連項目
4 参照
5 関連書籍
6 外部リンク


特徴
 ジークムント・フロイトの臨床研究で使われた自己愛という用語には、自己強化、自尊心、脆弱性、人々からの愛情を失うことや失敗に対する恐れ、防衛機制への依存、完璧主義、対人葛藤などの行動が含まれる[6]。
 自尊心を維持し、脆弱な本当の自己を守るために、ナルシシストは他者の行動、特に自分の延長とみなす子供の行動をコントロールしようとする[5]。それ故、自己愛的な親たちは、ファミリーイメージを維持したり、母や父に誇らせるための、「片想い」について言及することがある。彼らは、自分の子供が弱さを見せたり、大袈裟だったり、わがままだったり、期待に沿わなかったりするのを非難することもある。ナルシシストの子供たちは、特に人前においてや他人のために、自分の役割を果たしたり特技を披露することを学ぶ。彼らは概して、自分自身であることを愛されたり評価されていると感じた記憶があまりない。代わりに、彼らは愛と評価の経験を自己愛的な親の要求に従うことに結び付けている[7]。
 破壊的な自己愛的な親たちは、注目の的であることを一貫して必要としたり、誇張し、褒め言葉を求め、子供をこき下ろしたりするパターンを持っている[8]。非難や批判あるいは感情的な脅迫といった形での懲罰や、罪悪感を誘発しようとする試みは、親の望みや彼らの自己愛供給の必要に対する服従を確実なものとするために使われることがある[5]。


ナルシシストの子供たち
 ナルシシズムは世代をわたって展開する傾向があり、自己愛的な親はナルシシストや共同ナルシシストの子供を順に生み出す[9]。自信のある親あるいは程よい親は子の自律的な成長を認めることができるが、自己愛的な親はそうではなく自らのイメージを向上させるために子供を利用することがある[10]。自己高揚あるいは子供からミラーされ賛美されることに関心がある親は[11]、子に、親の感情的・知的要求のパペットのように感じさせているかもしれない[12]。
 自己愛的な親の子供たちは家庭内での支援に恵まれないことがある。親の行動を観察することで、子供はごまかしやあやまちが自分の欲しいものを手に入れるための効果的な戦略であることを学ぶ。また、子供は偽りの自己を発展させたり、自分の思い通りにするために攻撃や脅迫を使うことがある[13]。彼らは、友達や他の家族の行動を観察した場合に、むしろ反対の行動に注力することがある。自己愛的な親の子供が、他の家族において安全で本物の愛を経験したりその演じられている例を見たりすると、自分の人生と健全な家族の子供の人生の違いを識別したり違いに基づいて行動することがある。例えば、家庭での共感性の欠如や不安定さが、子供自身の共感性や尊重されたいという欲求を高めるかもしれない。同じように、家庭内での強烈な感情コントロールや境界の無視が、感情表現に対するその子の価値観や、彼らの他者に対する尊重の拡張欲求を高めるかもしれない。子は親の行動を観察しているが、多くの場合、同じような行動を取る側にいる。家庭に起因する苦痛や苦悩に代わるものが現れた場合に、子供はより快適で安全を誘発する行動に焦点を当てることを選ぶことができる[13]。
 自己愛的な子育てに共通するいくつかの問題は、適切で責任ある養育が欠如していることに起因している。これは、子供が虚無を感じたり、愛情関係に不安を感じたり、想像上の恐怖を発展させたり、他人を不信に思ったり、アイデンティティの衝突を経験したり、親とは別の存在に成長することができずに苦しんだりすることの原因となる[14]。
 その家族の傷つきやすく罪の意識に苛まれている子供は、親の欲求を満たすことを学び、親の希望に沿うことで愛を求めるかもしれない。親の「愛」を得ようとする中で、子供の正常な感情は無視され、否定され、最終的には抑圧されてしまう。罪悪感と羞恥が子供を発育遅滞に閉じ込める。攻撃的な衝動や怒りは、分裂し、正常な発達と統合されないことがある。一部の子供たちは防衛機制として偽りの自己を発達させ、人間関係において共依存に陥る。その子供の本当の自己に対する無意識の否認は、真正の自己を思い出させるどのようなものも恐れて、自己嫌悪のサイクルを永続化させることがある。[13]。
 また、自己愛的な子育ては、子供が被害者やいじめっ子のどちらかになったり、貧弱なあるいは過度に膨張したボディイメージを持ったり、薬物やアルコールを使用・乱用する傾向があったり、注目を集めるために(潜在的に有害な方法で)行動することにつながる[15]。

短期的および長期的影響
 子供たちは脆弱性を原因として、自己愛的な親の行動から極度の影響を受ける[16]。自己愛的な親は、子供を導いたり子供の人生上の第一の決定者であるという通常の役割をしばしば悪用し、過度に所有的で支配的になる。この所有性と過剰な支配はその子の力を奪う。親は子を単なる自分の延長と見なしている[17]。これは、子の想像力や好奇心レベルに影響を与えることがあり、彼らはしばしば外発的な動機付けのスタイルを発展させることになる。この高レベルの支配は、自己愛的な親が、彼らに対する子の依存を維持しなければならないためである可能性がある[17]。
 自己愛的な親はすぐに怒って[16]、子供を身体的・精神的な虐待を受ける危険にさらす[18]。怒りや罰を避けるため、虐待的な親の子供は、親の要求にことごとく応じる最終手段にしばしば助けを求める[19]。これは、子供の幸福感および自分で論理的な判断を下す能力の双方に影響を与えるが、彼らは大人になると自信や自分の人生をコントロールする能力をしばしば欠く。アイデンティティの危機、孤独感、自己表現に関する苦心なども、自己愛的な親に育てられた子供によく見られる[17]。大人になって自己を発見するのにもがくのは、子供の頃に経験した相当量の投影性同一視に原因がある[17]。親への行き過ぎた同一視のため、子は自分自身のアイデンティティを経験する機会を一度も得られないかもしれない。

メンタルヘルスへの影響
 研究によると、自己愛的な親の子は、養育者が自己愛的だと認識していない子供に比べて、成人期に鬱病になる率が有意に高く、自尊心が低いことが分かった[17]。親の子に対する共感の欠如がこれに寄与しており、子供の欲求はしばしば否定され、感情は抑制され、すべての情緒的幸福は無視される[17]。
 自己愛的な親の子供たちは、服従し同調するように教えられ、個人としての自分を見失うことになる。これは、子供が自分自身であることで親から評価されたり愛されたりした記憶をほとんど持たず、代わりに愛や評価を同調と結び付ける原因となりうる[17] 。子供は自己愛的な親と距離を取ることで利益を得ることができる。自己愛的な親の子供たちの中には、親との関係を毒性のものであると見なすようになった場合、思春期に家出を試みる者もいる[18]。


関連項目
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参照
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参考文献
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外部リンク
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(Translated from the article "Narcissistic parent" on Wikipedia)

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 メンタライゼーション系の論文を読んでいて気になったので、短い上に本文だけですが英語版Wikipediaの"Psychic equivalence"の拙和訳です。


心的等価

 心的等価は 心の内容と外界の間に境界が引かれていない、つまり思ったことが自動的に真実になると仮定される、心の状態を表している。

目次
1 起源
2 後の人生で
3 関連項目
4 参照
5 外部リンク


起源
 心的等価は、内的・外的世界双方への反省であるメンタライゼーションの能力につながる、幼児期における原初的な心的状態である。例えば、心的等価モードでは、子供がクローゼットの中にモンスターがいると考えたなら、本当にクローゼットの中にモンスターがいるものと信じている。心的等価は、それ故、世界の具象的な理解の形式であり、代替となる観点への好奇心を全部ブロックしてしまう自己確信なのである。


後の人生で
 心的等価は、後の人生では、夢や妄想、またトラウマにおけるフラッシュバックの過程で再出現する。それは外的現実と心の内容との差異に対する自覚の一時的な喪失を伴う。PTSDにおいてはその人は(おそらく何年か後に)、適切な視座を完全に失って、元のトラウマ状況に実際に戻っていると確信する。

 防衛的な偽りの自己が心的等価の不安を防ぐために幼児期から構築されている場合、後の自己愛構造の崩壊は心的等価の迫真性による恐るべき衝撃の再現を導きうる。


関連項目
(省略)


参照
(省略)


外部リンク
(省略)

(Translated from the article "Psychic equivalence" on Wikipedia)

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 自閉症の側から世界がどう見えているかはなかなか推察し難いものがあるわけだが、強力な手がかりとなるかもしれない有名な実験の記事("Sally-Anne test")を、英語版Wikipediaで発見したので拙和訳してみた。
 他者のなさ、あるいは他者性のなさみたいなものが彼らの特徴だと思うのだが、この実験では、寸劇の登場人物と自己の区別をつけられない彼らの意識の有り様がかなり露骨に示される。


サリー・アン課題

サリー・アン課題は心理学におけるテストであり、誤信念を他者に帰する社会的認知能力を計るため、発達心理学において使われる。サリー・アン課題の主要な実装は、サイモン・バロンコーヘン、アラン・M・レスリー及びユタ・フリスによって1985年になされ、1988年にはレスリーとフライスが、お人形ではなく、人間の俳優によってこの実験を繰り返し、同様の結果を得た。


1 課題の説明
2 結果
3 批判
4 他のヒト科の動物
5 参照


課題の説明
効果的な課題に発展させるために、バロンコーヘンらはウィンマーとパーナーによるパペット・プレイの枠組み(1983)を修正した。この中で、パペットは、純粋な作り話での仮定によるキャラクターというよりも、あるストーリーにおける実体的なキャラクターとして描かれている。バロンコーヘン、・レスリー、およびフリスによるこの自閉症の「心の理論」研究では、従来の診断基準によって自閉症と診断された20人、ダウン症である14人および臨床的に健常であると確定された27人の、計61人の子どもたちがサリーとアンによってテストされた。

この課題の手順としては、お人形の紹介のあと、子どもたちはそれらの名前を思い出す対照質問(名称質問)をされる。それで以下のような寸劇が上演される。サリーがおはじきを取って彼女のバスケットの中に隠します。そうして彼女は部屋を去って散歩にでかけます。彼女がいない間、アンはサリーのバスケットからおはじきを取り出して自分の箱に入れます。そこでサリーが再び紹介され、子どもたちは以下の質問を受けます。信念質問:「サリーは彼女のおはじきをどこに探す?」。


結果
課題をパスするためには、この信念質問に対し、サリーが自分のバスケットにおはじきがあると信じていることを示唆して、正しく答えねばならない。この答えは、サリーの視点よって連続的なものなのであり、参加者自身の視点によらない。もし参加者が代理的視点を採り得なければ、サリーが参加者と同じようにおはじきが移動していると信じる要因になってしまう。この課題をパスすることは、サリーが、現実と食い違っているとしても、彼女自身の信念を持っていると、参加者が理解していることの明示だとみなされる。そしてこれは「心の理論」の核心的要件である。

バロンコーヘンらの研究では、臨床的に健常である子供の27人の内23人(85%)が、そしてダウン症の子供14人の内12人(86%)がこの信念質問に正しく答えた。しかしながら、自閉症の子供は20人の内4人しか正しく答えられなかった。全体的には、四歳以下の子供が、自閉症のたいていの子供(年齢は上)とともに、サリーが彼女のおはじきが動かされているのを知らないことに見るところ気づけず、信念問題に対して『アンの箱』と答えた。

この課題は決して完全に最終的なものではない。しかしながら、その応用は自閉症における社会的な発達傾向を伝えている。


批判
バロンコーヘンらのデータが自閉症児における「心の理論」の欠如を示していると主張される一方で、彼等に影響を与えるありうべき他の要因が存在する。例えば、自閉症の個体は認知的により簡単な想起タスクにパスしうるが、自閉症の子供と聴覚障害者対照の両方がもつ言葉の問題が結果を混乱させる傾向にある。

ラフマン、ガーンハムおよびリドー(2001)は、社会的伝達機能としての視線に関して、サリー・アン課題と自閉症の間のリンクをより深く調査した。彼らはおはじきの第三のありうべき場所を追加した(調査者のポケット)。自閉症児と中程度の学習障害児がこのフォーマットでテストを受けた時、どちらのグループも信念質問に同等によく答えた。しかしながら、中程度の学習障害児の参加者は確実に正しい場所を見たが、質問に正しく答えた参加者ですら、自閉症児はそうではなかった。これらの結果は自閉症に関連する社会性欠如の表れかもしれない。

タガー・フラスバーグ(2007)は、サリー・アン課題の実証的事実にもかかわらず、基礎をなしている自閉症における「心の理論」仮説の重要性に関して、学者の中で不透明感が拡大していると述べている。成し遂げられたすべての研究の中で、多少の自閉症児はサリー・アン課題のような誤信念タスクにパスした。


他のヒト科の動物
チンパンジー、ボノボおよびオランウータンの視標追跡は、3種すべてがキングコングの着ぐるみ対象の誤信念を期待し、サリー・アン課題をパスしたことを示した。


参照
(省略)

(Translated from the article "Sally-Anne test" on Wikipedia)

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 Wikipedia英語版Isolation (psychology)の項目の本文だけの和訳です。現在読んでいる本に出てきた(スプリッティングとかかわっている)のと、日本語版の項目がなかったのでぼんやり訳してみました。参照は省略で元ページからたどってください。


隔離

隔離(独:Isolierung)は、ジグムント・フロイトによって最初に提案された精神分析理論での防衛機制の一つである。この概念は、抑圧に関連しているが、いくつかのやり方で区別される。これは、不快なあるいは脅威となる認知と、他の思念や感情との間における、ギャップの生成に関連する心的プロセスとして特徴づけられる。他の思念との連想的結合を最小化することにより、脅威となる認知が、より少ない頻度で思い出されて、自尊心や自己概念にあまり影響を与えないようになる。フロイトはこの概念を、一連の思考を始めてから続けて別の主題を考えようとする前に少し間を置く人物の例によって説明した。彼の理論では、インターバルを挟むことによってその人は、『他の思念への連想的接触につながる印象や行動についての彼の思念が彼に許容しがたいことを象徴的に理解されるようにして』いる、と説明した。有害な思念に対する防衛として、隔離は、再発して自己概念を損なう可能性のあるこれらの認知を許容することを自己に避けさせる。


証拠
広範な研究が、人々は心理的に隔離することにより脅威に対して彼ら自身を防衛する、という結論を支持している。抑圧者が、性急な浅いあるいは最小限の仕方で情報を加工することが示されてきた。ネガティヴな情報が提示されるとき、彼らはその衝撃を極小化するために自発的な幸福な思考や感覚をしばしば生成する。抑鬱的な人々は、善かれ悪しかれ、さらに徹底的に情報を加工する。この高次の加工は類似の情報への強い連想的つながりを作り出す。ある抑鬱者が有害な認知を避けようとする場合、しばしば、悪影響を与える何か他の思考をする。隔離が、社会的脅威に対する敏感さを促進し、社会的つながりの更新を刺激することは、人間および動物の研究による証拠が示すところである。

ある研究によると、人々がよくないフィードバックに直面しても、彼らがそのフィードバックをパフォーマンスの標準から隔離しておきうる限り、自身のパフォーマンスに対し依然として満足したままだったことが示された。研究者たちは、パフォーマンスの前および後(フィードバックの前でも、パフォーマンスおよびフィードバックの後でもない)に標準を提示した。早く標準を知らされた人々は他と同様にそれを思い出したが、単純にそれを無視した。彼らは、自尊心への脅威を最小化するため、なんとかして自身のフィードバックを標準から隔離した。標準を後から知らされた人々は、基準と比較して不成功を避けることができなかったため、自身のパフォーマンスにより満足しなかった。この形の隔離は矮小化と呼ばれてきた。

他の顕著な隔離の型は『時間的括弧化』と呼ばれ、これは、現在の自己へのインパクトを効果的に取り除くため、失敗や欠点がその過去の中に埋もれ去っていると知覚する。このタイプの過去に対する隔離は、宗教的転換や、『再生』体験、ある種の薬物依存矯正プログラム、また法システム内で違反者記録を廃棄することなどの中に見られうる。これらの社会的に受け入れられた行為は、少なくともある程度の事例においては、隔離を社会的に許容されたものにしている。またそれらの行為は過去の出来事から来るストレスを和らげるようだ。自尊心の低い人々は、過去の失敗を述べるとき、しばしば時間的括弧化を使う。認知に運ばれて来ようとするあらゆる悪事を自身から隔離することによって、彼らはそれが自らの現在の状態や人間関係とは関係がないと強く主張する。


影響
習慣的な抑圧者はそうでない人々に比べて不幸な記憶をより少なく持っているように見られてきたが、この違いは二次的連想の中にある。抑圧者に対する調査によると、彼らは悪い記憶に対して同じように強いネガティヴ反応を持っているが、それらの記憶は、非抑圧者と同じ程度には、他のネガティヴな感情を呼び起こさないのだ。「より複雑でない情緒構造」というフレーズが、この現象を叙述するために作られた。抑圧者は他の人と同じように悪い記憶を持っているが、それらは記憶の中で比較的隔離されているので、それらによってあまり困らせられたりしないのだ。最近の研究では、隔離は、苦痛を伴う認知に対するより効果的で重要な防衛機制の一つであるとの合意がなされている。これは、現実への欺きを必要としない対処メカニズムであり、いくつかの代替物(否認、昇華、投影、等)よりも妥当な役割を果たす。隔離の説明のため、完全に具体的なものとして捉えられるよう、さらなる研究が求められる。


参照
(省略)

(Translated from the article "Isolation (psychology)" on Wikipedia)

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 コフートを読んでいて核心部分で出てきたので、ちょっとだけ単語の辞書的な意味を訳。
 コフートが'aim-inhibition'を使っていたのは、思春期の攻撃性を持ち始めた子供に対して、反撃(or攻撃)を自己抑制する扶養者の健全な反応を叙述する際で、下記項目の文脈とは多少トーンが異なるかもしれない。
 いわゆる毒親などは'aim-inhibition'が弱いと思われる。連れ子を攻撃してしまう義父とかね。

 改めてフロイトの現象摘出の嗅覚みたいなものに感銘を受ける。フロイトが与えた解釈は今となってはほとんど死んだかもしれないが、彼が解釈の対象とした現象は時代を超えて単位として残り続ける。 

 祖父の家の玄関にウィリアム・テルのタペストリーが張ってあったのを思い出したりした。
 あるいはペットの甘噛み的な行動も類推させる。

aim-inhibition

In psychoanalysis, the quality of an instinct (3) that fails to achieve its direct mode of satisfaction or instinctual aim but that obtains partial satisfaction from remote approximations of the behaviour or activity that would satisfy it. Sigmund Freud (1856-1939) introduced the concept in 1921 in his book Group Psychology and the Analysis of the Ego (Standard Edition, XVIII, pp. 69-143, at pp. 138-9) to explain the origin of sociable feelings of affection, the assumption being that if friendships and affection between relatives were not subject to aim-inhibition, then they would be overtly sexual. aim-inhibited adj.


目的抑止

 精神分析における。直接的な満足や本能の目的は達成できないが、それを満足させる振る舞いや行動に対する遠巻きの接近によって部分的な満足を得るところの、衝動特性。このコンセプトは、ジグムント・フロイト(1856-1939)が1921年にその著書『集団心理学と自我分析』(Standard Edition, XVIII, pp. 69-143, at pp. 138-9)の中で、愛着におけるうちとけた感覚の起源の説明のために導入した。もし友情や愛情関係が目的抑止に支配されていなければ、それらはあからさまに性的なものになるだろう。目的抑止的な(形容詞)。

(Translated from the article "aim-inhibition" on Oxford Reference)

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 英語版WikipediaのSvetlana Zakharova (dancer)の項目の和訳です。日本語版に該当ページが無かったので本文だけ訳してみました。参照や外部リンクは元のページからたどってください。


スヴェトラーナ・ザハロワ

スヴェトラーナ・ザハロワ(1979年6月10日生)は、ボリショイ・バレエおよびスカラ座のプリマ・バレリーナである。

ザハロワは、ソヴィエト連邦におけるウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国のルーツィクで、1979年6月10日に生まれた。6歳の時、スヴェトラーナは母に地元のスタジオで民族舞踊を習うために連れて行かれた。10歳の時、キエフ舞踊学校のオーディションを受け入学を許された。しかしたった4ヶ月後に、父の陸軍での東ドイツへの配置転換がスヴェトラーナの中途退学を強いた。その6ヶ月後、彼女の家族はウクライナへ戻り、スヴェトラーナはふたたびキエフ舞踊学校のオーディションを受けた。彼女は再入学を許され、ただちに教師ヴァレリア・スレジーナのもと第二クラスに加わった。

1996年から1997年に、彼女はマリインスキー・バレエにおいて、ロスティスラフ・ザハロフの『バフチサライの泉』内ルーベン・ボボフニコフの相手のマリア役で出演しデビューした。2003年から2004年に、彼女は長年にわたるボリショイの公開オファーを受け入れたが、これはマリインスキーへの不満が原因と言われる。

現在、ザハロワは世界中の大バレエ団にゲストとして招かれ旅をしている。彼女は同時代における最も優れたバレリーナのひとりであると考えられており、技術力、優美な脚さばき、並外れて高い伸長性、同様に音楽性においても、高く評価されている。「古典的」基準に適合しないため、すべての批評家が彼女の極端なポジションに審美的な喜びを見出すわけではない。

イタリアでは、彼女は、『白鳥の湖』『眠れる森の美女』また『ラ・バヤデール』のような作品を、ロベルト・ボッレをパートナーにしてスカラ座で踊った。

ザハロワは2005年にブノワ賞を、2006年にはロシア連邦賞を受賞した。

彼女はロシアのヴァイオリニスト、ヴァディム・レーピンと結婚している。夫婦はひとりの子を儲けているが、娘アンナであり、彼女は2011年2月17日に生まれた。ザハロワは2010年夏のボリショイツアーのロンドン公演を腰の怪我を理由に辞退したのだが、事実彼女はその時妊娠していたのである。ザハロワは、ソヴィエトのバレリーナであるガリーナ・ウラノワを記念する特別公演に2011年5月15日ロンドンで出演して、舞踊に復帰した。


参照
(省略)


外部リンク
(省略)

(Translated from the article "Svetlana Zakharova (dancer)" on Wikipedia)

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 「サポート・共感・真実」などと大仰な言葉を耳にすると、どこかあやしげな新興宗教じみて聞こえてしまうかもしれませんが(私も最初『あれ、買う本を間違えたかな?』と思った記憶)、このSETシステムというのは、むしろ、そういう神秘やオカルトとはまったく逆のことを主張していると言っていいと思います。なにしろSETにとっての真実とは、ただの現実のことであり、さまざまな非現実的逸脱の誘惑を振り払うことで見出されるものなのですから。
 SETが目指しているのは、要するに周りの家族や恋人や友人や治療者が、日々のBPDの破滅的な言動をできるだけ健全で妥当な範囲に鎮めながら、彼らの弱い自我や自尊感情や現実検討能力がより強化されるための補助をすることだと思います。SET自体はあくまで対処法であって治療ではないので、それで劇的な改善が見込めるわけではないでしょうが、私はこれに触れて、合理主義的な清潔さに、少なからず感動しました。さきの先入観からの落差ということもあったでしょうけれど(むしろその落差をこそねらってる面がある?)。
 また、個人的に、のちのカーンバーグの『現実検討能力』の理解の助けにもなったと思います。
 ただ私の印象として、BPDを含む家庭等は、たいてい予め何らかの問題を抱えている場合が多いと思われ、往々にしてこのSETを理想的に実行できる環境ではないかもしれません。まあ、だからこそシステムとして意識する必要があるということでしょうけれど。


SETコミュニケーション

img183.jpg 『SET』―Support(サポート) Empathy(共感) Truth(真実)―は、三つのパートからなるコミュニケーションのシステムである。破壊的なふるまいや、重要な決定をするセッション、あるいは他のクライシスに対峙するあいだ、ボーダーラインとの相互関係は、これら三つすべての要素を浮かび上がらせるはずである。
 このシステムの『S』ステージである『Support』(サポート)は、個人的な気遣いの言葉を呼び起こす。「私はあなたがどう感じているのか心から気にしています」はサポートの言葉の一例である。力点は話し手自身の感情に置かれるが、本質的には助けになろうとする個人的な誓約にある。
 『Empathy』(共感)の部では、人はボーダーラインのカオス的な感情を認識しようと試みる。たとえば、「あなたはどんなにか怖かったに違いない...」。共感と同情(「あなたを気の毒だと思います...」)を混同しないことは重要で、後者は恩着せがましいととられて怒りを誘ってしまう可能性がある。また、共感は、話し手自身の感情への言及を最小限にした、中立的なやりかたで表現されるべきものである。ここでの力点は、ボーダーラインの痛みの経験にあり、話し手のそれにはない。「あなたの苦しみが私にはすべて分かります」のような発言は、実際あなたは分かっていないとか対立を悪化させるだけの、冷笑的な応答を招く。
img184.jpg 『Truth』(真実)や現実を表している『T』ステートメントは、ボーダーラインが彼自身の人生に対する最終的な責任を負っているのであり、他者の助けようとする試みがこの第一の責任を先取りすることはできないということに、力点を置く。Support(サポート) とEmpathy(共感) が当人がどう感じているかを認識しようとする主観的なステートメントである一方で、Truth(真実)のステートメントは、ある問題が存在しているという認識を示し、それを解決するために何がなされうるのかという実際問題に注意を向ける。「それで、それについてあなたはどうするつもりなの?」はひとつの本質的なTruth(真実)の反応である。その他の特徴的なTruth(真実)表現は、話し手がボーダーラインの振る舞いに対する責任を負うことを強いられていると感じた行動に対し言及するが、これは事実問題の中で中立的な方法によって表現されるべきである(「起ったことはここにある...、いくつかの帰結...、これが私ができることの精いっぱい...、あなたはどうするつもりなの?」)。しかし、それらは、責め立てたりサディスティックに懲らしめるのを避けるようにして話されるべきである(「これはあなたが巻き込んだ大混乱ですよ!」「あなたの自業自得ってもの!」)。『SET』システムの『Truth』(真実)部は最も重要であり、彼の世界の大半が現実的な結末を排除したり拒絶したりするので、、ボーダーラインにとって受け入れるのが最も難しい。
 ボーダーラインとのコミュニケーションでは、三部すべてのメッセージが含まれているようにすべきである。しかしながら、三つすべてのパートが述べられても、ボーダーラインはそれらすべてを統合しないかもしれない。これらの段階のひとつがきちんと述べられないとか『聞いて』ない場合に、おきまりの反応に終わる。
 たとえば、このシステムの『Support』(サポート)ステージが回避された場合、ボーダーラインは、彼に気を掛けなかったり関わりたがらない他者を、特徴的に非難する。その場合、他者が彼を気遣わなかったり危害をもたらしたがりさえするかもしれないということに基づいて、それ以上のやりとりを放棄する傾向にある。ボーダーラインからの非難である、「かまってくれない!」は通常『Support』(サポート)ステートメントが組み込まれていないことを示唆している。
 メッセージのEmpathy(共感)部の伝達がうまくいかないのは、他者がボーダーラインが受けている試練を理解していないという感覚を導き出す。(「私の気も知らないで」)。こうなると、ボーダーラインは、彼が誤解されていると言って、コミュニケーションの拒否を正当化するだろう。他者が痛みを正しく評価しえないので、彼の反応は低く評価されうる。Support(サポート) とEmpathy(共感) いずれかの申し出がボーダーラインによって受け入れられなかった場合、さらなるコミュニケーションが聞かれることはない。
img185.jpg 『Truth』(真実)要素がはっきり表現されない場合、さらに危険な状況が到来する。ボーダーラインは、彼の欲求に対してもっとも満足がいくと彼が思っているやり方への他者による黙従を、他者が本当に彼に責任を持ってくれているとか、彼の認識が全体的にシェアされサポートされているているという、確証として通常は解釈する。ボーダーラインのこれらの他者とのもろい融合は、結局は、その関係が彼の非現実的な期待の重みに耐えられなくなるときに崩壊する。明言された『Truth』(真実)および対決がないと、ボーダーラインは他者に過剰に深入りし続ける。彼の欲求が満たされたなら、ボーダーラインは、すべてがよくなったとか、少なくとも、状況がましになっていると主張するだろう。実際、このからみつきの兆候は、しばしば顕著な、一時的な対立の停止であって、たとえばボーダーラインは敵意や怒りをあまり表さなくなるだろう。しかし、彼の非現実的な期待がついに破綻するとき、怒りと失望の大火災のなかで関係は崩壊する。

(Translated from 『I Hate You, Don't Leave Me』p100-p102 Jerold J. Kreisman)

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 日本語版Wikipediaに『自己愛憤怒』のページはあるのですが、やや物足りなかったので当該英語版を訳してみました。特に、自己愛憤怒は基本的にコフートの用語なのに、なぜかまったくそのことに触れていない...。
 今回は分量は少ないのですが、日本語にのらないセンテンスが多く、いつも以上に拙訳です。
 『自己愛損傷』およびそのエピゴーネンの訳名はだいたいで捉えてください。
 あとフロイトのところはおとぎ話みたいなもので特に読まなくてもいいかも。フロイトは現代でもなお再解釈の対象としての価値を持っているとしても、彼の解釈を今でもそのまま適用している治療者はほぼ存在しないのではないかと思われます。しかも再解釈はかなり高度な作業で素人が手を出す分野ではない?
 『自己愛憤怒』の概念は、人類が日々生み出している暴力における、ひとつの起源を提示している可能性があります。


自己愛憤怒と自己愛損傷

自己愛憤怒とは自己愛損傷へのリアクションのことであるが、自己愛損傷とはナルシシストの自尊感情あるいは自己価値に対する、感受された脅威のことである。自己愛損傷(or自己愛傷痕)はジクムント・フロイトによって1920年に使われたフレーズで、自己愛創傷および自己愛打撃は程度がそれ以上であって、相互にほぼ代替可能な用語である。自己愛憤怒はハインツ・コフートによって1972年に新作された。
自己愛憤怒は、超然としている場合や苛立ちや困惑の表出から、暴力的攻撃を含む深刻な感情爆発までの連なりの上に立ち起こる。自己愛憤怒反応は、人格障害に限らず、カタトニーや偏執性妄想および鬱病のエピソードの中にも見られる可能性がある。これはナルシシストが二層の憤怒を持っていることを示してもいる。憤怒の第一層は(ほかの誰かに対する)持続的な怒りとして考えられ、そして自己を標的とする怒りである第二層を伴う。

1フロイトと自己愛打撃
2さらなる精神分析的展開
3コフートと自己心理学
4完全主義
5セラピー
6批判
7文化的関連
8関連項目
9参照
10参考文献
11外部リンク

フロイトと自己愛打撃
1914年の『狼男』の症例研究でフロイトは、後期の大人になってからの神経症の原因を、『彼は、彼の淋病の感染が彼の身体の深刻な傷になると考えることを強いられた。彼のナルシシズムに対するこの打撃が彼にとって過大なものであり、彼はバラバラになった。』時点であると識別した。数年後、「快感原則の彼岸」においてフロイトは、幼児性欲への不可避的な退行から判断して、「愛の喪失やしくじりがそれらの背後に自愛に対する恒常的な損傷を自己愛傷痕の形で残す、...彼が『嘲笑』されたところの最大限の反映によって」と主張した。1923年に彼が付け加えたのは、「吸った後の母親の乳房が失われる経験から、また大便の日常的な引渡しからの、身体的喪失を通すことによって自己愛損傷の着想を獲得する」―喪失はその後「この喪失の着想が男性器に結びついた」時に去勢コンプレックスに流れ込む。一方で1925年には彼はよく知られているように、「女性が彼女のナルシシズムへの傷に気付いたのちに、彼女は傷痕のように劣等感を発展させる」とするペニス羨望に関して付け加えた。

さらなる精神分析的展開
フロイトが彼の最晩年の著書で『自己に対する早期の損傷(自己愛に対する損傷)』と呼んだものは結果的に幅広い様々な精神分析家によって拡大された。カール・アブラハムは大人の抑鬱のキーが、自己愛備給の喪失を経由したナルシシズムに対する打撃の幼児体験にあるとみなした。オットー・フェニシェルは抑鬱における自己愛損傷の重要性を確認し、境界性人格を包含するためにその分析を拡大した。
エドムンド・バーグラーは、ナルシシズムにおける幼児的全能感の重要性と、自己愛的全能感への何らかの打撃のあとにくる憤怒を強調した。また一方で、ラカン派は、自己愛創傷におけるフロイトを自己愛的鏡像段階におけるラカンに結びつけた。

コフートと自己心理学
コフートはその独創性のある論文『自己愛と自己愛憤怒に関する考察』(1972)の中で広範囲の見聞を調査した。彼は、自己愛憤怒が、成熟した攻撃性を伴うそれとは対照的な多くの形式の中のひとつの主要な形式であると考えた。まさに自己の構造それ自体がナルシシストの中では弱められているので、彼らの憤怒は現実的な自己主張には結びつかないのであり、自己愛憤怒をもたらす感知されるか想像されるかした自己愛損傷に対して、過敏になる傾向が彼らには残されるのだ。
コフートにとって自己愛憤怒は、情況に対するナルシシストの全面的なコントロールの欲求に結びついているが、「復讐、過ちの是正、あらゆる方法による苦痛の取り消し、への欲求」を含み込んでいる。これは、受動的な犠牲化の感覚を他者に痛みを与える能動的役割に替えるための、ナルシシストによる試みであり、同時に自身の(本当はいつわりである)自己価値の感覚を再建する試みである。これは自己防衛・保存をも包含しうるが、ナルシシストを脅かすものを破壊することでもたらされる安寧と力の感覚の、再生に寄与する憤怒を伴う。
あるいは、コフートによると、憤怒は失敗に直面したときの羞恥の結果とみなしうる。自己愛憤怒は、ナルシシストの自尊感情や自己価値への脅かしである自己愛損傷によってもたらされるところの、制御不能で予想外の怒りなのである。憤怒はいろいろな形で起こるが、すべてにひとつの重要な事項の「復讐」がつきものである。自己愛憤怒は、恐怖に基礎を置くが、脅威が去ったあとも持続するだろう。
ナルシシストにとって憤怒は、彼らを侮辱したと感じる人物に向けて方向付けられるが、他者にとっては憤怒はつじつまの合わない不当なものである。この憤怒は彼らの認知を損ない、それゆえ彼らの判断を損なう。怒っている間、彼らは叫び、事実を歪曲し、根拠のない批判をする傾向がある。著書『自己の分析』で、コフートは、思うようにいかないことの感覚を原因とする表現が憤怒に発展するのだが、ナルシシストは痛みや苦しみを和らげる方法を見つけるため、対立を捜し求めさえするだろう、と説明している。

完全主義
ナルシシストはしばしば見せかけの完全主義者であり、注目の的であることを求める。彼らは注意が向けられるシチュエーションを作り出す。完全であろうとする彼あるいは彼女の試みは、ナルシシストの誇大な自己イメージに結合している。もし認知される完全状態が達成されなければ、それは罪悪感や羞恥、怒りや不安を導きうる。なぜなら、もし彼あるいは彼女が完全でないなら、彼あるいは彼女は、他者からの賞賛と愛を失うだろうと信じているからである。
このような完全主義の背後に、自己心理学は誇大自己へつながる早期におけるトラウマティックな傷を見るだろう。

セラピー
アダム・フィリップスは セラピー治療は、常識による期待とは反対に、基礎的な『人生の現実』によって惹き起こされる全能感喪失の進行と折り合いをつけ、またそれを学びなおすために、患者が「自己愛の恐ろしい傷(その子供が持つ両親からの排斥の経験)」を再体験するよう仕向けられることを伴うのだ、と主張した。

批判
コフートのコンセプトの広い普及は、時にその陳腐化につながるかもしれない。ネビル・サイミントンは「あなたは人々がこんな風に言うのを聞くだろう。『ああ、私はとてもナルシシスティック』あるいは『私の自己愛に傷がついた』。このようなコメントは、たいして意味のない台詞であり、本来の状態に対する正しい認識ではない。現に自分の中の自己愛を認識するということは、深い苦悩を強いるものなのだ」と指摘した。

文化的関連
市民ケーンの主人公は自己愛憤怒を表出していると考えられている。

関連項目
(省略)

参照
(省略)

参考文献
(省略)

外部リンク
(省略)

(Translated from the article "Narcissistic rage and narcissistic injury" on Wikipedia)

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 英語版Wikipediaの"Sadistic personality disorder"項目の拙和訳です。前回、一応これとの対になっている自己敗北性(マゾヒスティック)人格障害を訳したので補完的に訳してみました。サディスティックな傾向は、反社会性人格障害などの既存の概念にかなり明示的に含みこまれているので、必ずしも独立した項目として扱う要請は強くはないのではないかというような気もします。
 ミロンの各サブタイプの邦名については目安程度で、おもに意味を汲んでくださいませ。
 脚注、関連項目、参照、外部リンク等は省略しています。 


サディスティック人格障害

サッディスティック人格障害は、アメリカ精神医学会による「精神障害の診断と統計の手引き」修正第3エディション(DSM-III-R)の付録にのみ現れる、サディズムに関する人格障害の診断のことである。DSMの現在のバージョン(DSM-IV)はこれを含んでおらず、したがってもはや有効な診断カテゴリだとは考えられていない。代わりに「特定不能の人格障害」の診断が用いられうる。しかしながら、この障害はいまなお研究目的のために調査されている。
サディズムは、他者に対して表出する冷淡で獰猛で操作的で下劣な行動によって特徴付けられる、行動障害である。今日に至るまで、サディズムの正確な原因ははっきり分かってはいない。しかしながら、個別的なサディスティック人格発達の潜在的原因を説明する多くの理論が存在する。

1.サディズムの定義
2.他の人格障害との並存
3.家族的傾向/幼児体験とサディスティック人格障害
4.サディスティック人格障害に対するDSM-III-Rの診断基準
5.DSMからの除外
6.ミロンのサブタイプ
 6.1激発型サディスト
 6.2暴君型サディスト
 6.3強要型サディスト
 6.4惰弱型サディスト
7.関連項目
8.参照
9.外部リンク

サディズムの定義
サディズムは、苦痛や不快をこうむる他者を見ることで快楽を得ることを意味する。相反過程理論では、誇示するだけでなくサディスティックな振る舞いの実行を楽しむことの様態も説明している。サディスティック人格障害を持つ人々は再発性の残酷行為と攻撃を示す。サディズムは、感情的残酷さの行使、恐怖の活用を通しての他人に対する意図的な操作、暴力への没頭、をも意味しうる。
ある種のサディスティックな人々が痛みや苦しみを他者に与えることで快楽を得るのではあるのだが、サディズムというものは必ずしも肉体的な攻撃や暴力の行使を必要としない。よりしばしば、サディスティックな人々は攻撃的な社会的振る舞いを示し、他者に優越しているという感覚を成就させるために公衆の面前で彼らに恥をかかせるのを楽しむ。


他の人格障害との並存
サディスティック人格障害は、他の人格障害と調和した形で現れているのをしばしば発見される。事実、諸研究は、サディスティック人格障害が他のタイプの精神病理学的障害と最高次の並存性を持つ人格障害であることを発見している。また一方、サディズムは他の精神病理学的障害を示さない患者の中に見受けられることもある。たびたびサディスティック人格障害と平行して起こる人格障害は行為障害である。加えて、反社会性と自己愛性人格障害がサディスティック人格障害と診断された人々の中に時々見受けられる。サディスティック人格障害とともに存在することがしばしば見い出される他の障害には、双極性障害、パニック障害、鬱病、境界性人格障害、演技性人格障害、強迫性障害、自己敗北性人格障害、受動的攻撃行動が含まれる。諸研究は、サディスティック人格障害と高確率の並存をもつ、アルコール依存症のような、他のタイプの疾病を発見している。
他の障害との高レベルの並存によって、研究者は、サディスティック人格障害と他の形式の人格障害の区別にある程度の困難性を抱えている。サディスティック人格障害はそれ自体もはやDSMには含まれていないけれど、性的サディズムのような、サディズムを含む他のタイプの障害はいまなおDSMの中に見い出される。


家族的傾向/幼児体験とサディスティック人格障害
これらの理論の多くは、サディズムが主に個別のしつけに依拠しているという事実を共通して指摘する。生物学的、環境的側面がこの行動障害に寄与すると知られてもいるのだが、遺伝パターンや遺伝子的要因についての証拠はあまり得られていない。
サディスティック人格障害は女性よりも男性に多く見い出される。加えて、諸研究ではサディスティック人格タイプの現れには家族パターンがあると示唆している。特に、サディスティック人格障害の人々はしばしばある同様の心理タイプの近親者を持つ。
幼少期や性的発達段階早期の好ましくない経験が、サディスティック人格の個別における発展のメジャーな要因のひとつであると信じられている。サディズムやサディスティック人格は個別的な条件付けを通して発展しうるとも観察されてきた。たとえば、性的喜びに伴うある特定の刺激や、幸福に伴う他者の苦痛の、持続的な連結がサディズムやサド・マゾキズムの原因になりうる。


サディスティック人格障害に対するDSM-III-Rの診断基準
A)成人早期までに始まる、しみついた残酷で下劣で攻撃的な振る舞いであり、下記のうち少なくとも四つの反復的発生が必要とされる。
1.人間関係の中で優勢を築く目的のための、身体的残酷さや暴力性を持つ(誰かから物を盗むために彼あるいは彼女を殴るような、単に何らかの非相互的な目的を達成するためではない)。
2.ほかの人がいる前で誰かに恥をかかせたり品位を貶める
3.彼あるいは彼女のコントロールのもとに、誰かを異常に厳しく扱ったりしつけたりする(例:子供、生徒、囚人、あるいは患者)。
4.他者(動物を含む)の心理的または身体的苦悶を、面白がったり楽しんだりする。
5.他者を阻害し痛みを与える目的で嘘をつく(単に別の目的を達成するためではなく)。
6.誰かをおびえさせることによって(脅迫や恐怖をすら通して)、彼らに彼あるいは彼女の望むことをやらせる。
7.彼あるいは彼女と近しい間柄の誰かの自律性を制限する(例:配偶者をひとりで外出させようとしなかったり、10代の娘が社交の催しに出席するのを許さない)。
8.暴力、武器、格闘技、怪我、あるいは拷問に魅了される。

B)Aに列挙された振る舞いは、ただひとりの人に向けられたものではなく(例:配偶者、ひとりの子供)、もっぱら性的興奮(性的サディズムのような)を目的とするものでもない。


DSMからの除外
多くの理論家や治療者が1987年のDSMに対してサディスティック人格障害を提出し、更なるシステマティックな臨床研究や調査を促進するためにDSM-III-Rの中に置かれた。彼らの被害者が自己敗北性人格障害としてラベルを付けられているのにもかかわらず、サディスティック人格の特徴を持つ大人たちがラベル付けされていないので、追加するよう提案されたのだ。臨床業務に対してどの診断が承認されるのかまたされないのかをめぐる混乱への多くの懸念があった。SPDは、治療を求める人が多くなくごくわずかの研究しかなかったので、 DSM-IVからは除外された。大体において、SPDは性犯罪者やシリアルキラーのような人々の特定グループの中に見出されるのだが、これが利用価値のある診断であるとは考えられないのだ。テオドール・ミロンのような理論家たちは、SPDに関する更なる研究を生起させたかったのでDSM-IV人格障害ワークグループにこれを提案したが、これは拒絶された。これがDSM-IVに含まれなかったことにより、サディズムの次元モデルがSPDよりも適正なものになった可能性があると言われている。
『社会的、職業的、その他重要な領域の職務に関する、臨床的に有意な苦悩や障害を原因とした』性的サディズムはいまなおDSM-IVの中にある。


ミロンのサブタイプ
テオドール・ミロンはサディストの4つのサブタイプを識別した。個別のサディストは誰も以下の中でゼロ、一個あるいは一個以上を顕示する可能性がある。

激発型サディスト
このタイプのサディスティック人格は、彼らが人生上において失望や不満を感じることからくる、突発的な暴力性によって知られている。彼らが屈辱や絶望を感じるとき、彼らはコントロールを失い彼らが蒙ったと感じた虐待や非難に対する復讐を求める。これらの暴力的振る舞いは、かんしゃくや、他者(特に家族)への恐怖を与えるような攻撃、そして抑えの利かない怒りを通じてあらわになる。一般に激発型サディストはある種の状況において危機を感じ、急変を伴って他人にショックを与える。激発型サディストは『不機嫌で好戦的な物腰の中で変化』しないので、彼らがいつどのようにカッとなるかを知ることは不可能なのである。解放された攻撃性は常に誰かに向かうのだが、それは主に感情的解放として、また彼らが彼ら自身の内部に抱いている感情を追い出す方法として機能する。

暴君型サディスト
サディスティック人格のこの変種は、サブタイプの中でもよりゾッとする残酷なもののひとつである。なぜならこれらのサディストは、他人を脅し残忍に扱う行動を味わうように見えるのである。つまり、彼らの犠牲者を萎縮させ服従させることが特殊な満足の感覚を与えているように見えるのだ。SPDのこのサブタイプはある程度激発型サディストに似ているけれど、暴君型サディストは彼らの行動においてより整然としているのである。これらのサディストは激発型サディストのように感情的利得のためにそのフラストレーションを解放しようとしたりはしないのだが、代わりに彼らは恐怖や脅迫を呼び起こす意図的な活用手段として暴力を用いようとする。それ以外の激発型サディストと暴君型サディストの違いとしては、暴君型サディストは彼らの選んだ人物が攻撃されたときに反撃しようとしないことを非常に注意深く確認して犠牲者を選ぶ。暴君型サディストは一般的に、死に物狂いで世界から隠そうとしている、低い自尊感情と内的不安定性を持っていて、だから彼らは他者を打ちのめすことによって周囲の人々より優越している気になることがありうる。

強要型サディスト
このカテゴリのサディストは、軍曹、大学の学部長、刑務所の監視人、警官、また他の権威的な職務に時々見い出しうる。なぜなら彼らが、ルールや規則や法を破った人々をコントロールし罰を与える人物であるべきと感じるポジションにいるからである。彼らは共通の利益のために行動していると信じているのだけれど、ただそれだけ以上の深い動機を持っている。これらのサディストは一般に、彼らの権威の領分でのルール破りたちを探し出し、その個別のケースに割り当てうるもっとも厳しい罰を行使する。もし強要型サディストが社会から、たとえば警官や刑務所員として雇われたなら、彼らの行動は不公正だと認識されないし、思うがままに他者を支配し犠牲にし破壊する広範囲の自由を彼らは持つ。彼らは公正に行動するだろうが、彼らのパーソナリティは、サディスティックに邪悪な振る舞いを駆り立てる彼らの感情に対する抑えが利かない。これらのサディストが他者を支配し処罰すればするほど、彼らはより満足し力がみなぎる。公正さの自己認識は強化され、エゴは増長する。強要型サディストが他者を処罰することによって獲得する満足は、自身の振る舞いを止められずまたそれらの状況下での現実認識を失ったような、中毒状態に到達しうる。彼らは日常においてまるきり普通に権力を行使したり振舞うことになるような合法的な権威によって行動しているので、ほとんどのケースにおいて、これが否定的な注意を引くことはない。

惰弱型サディスト
この種のサディストは、芯から心細く臆病者のように行動するので、他の三つのタイプの正反対である。彼らは彼らの敵視のファンタジーを投影することで現実の危険を先取りし、話し合いは後回しで敵を未然に防ぐことを希望して先制攻撃をする。これらのサディストは多くの物事におびえているが、彼らがパニックを経験する場合、彼らは彼らが恐れることを実行することによって彼らの敵に対抗する。惰弱型サディズムは彼らがびくついたりおびえたりしていないということを他者に伝えるために攻撃的な敵対行為を使う。これは彼らに、彼らの内的感情をコントロールし、実際にどのように感じているかの正確な反対を顕示するのを促すことを可能にする。彼らの振る舞いは対抗恐怖として記述しうるが、これは彼らの個人的な恐怖を征服することを可能にするのであり、偽の自信や落ち着きによって公衆に対し注意をそらしたり印象付けることに寄与する。惰弱型サディストは集中攻撃するためのスケープゴートを求めるのであるが、これは彼らの否定したい彼ら自身の中に存在する事柄そのものを攻撃することを可能にする。


関連項目
(省略)


参照
(省略)


外部リンク
(省略)

(Translated from the article "Sadistic personality disorder" on Wikipedia)

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