前回'aim-inhibition'項目の短い文章の和訳に思いの外手こずって、何度も書きなおしてしまった。
動物行動学者のローレンツが、「攻撃しないことが愛情対象であるということ」みたいなことを書いてたと思うけど、そのことを人間に置き換えたという意味においても'aim-inhibition'の価値は重い。しかし人間の場合動物よりもっと高度で、言語的意識も絡むのであり、そういう面では'aim-inhibition'は弁証法の「止揚」にも似ている。
内的に未成熟な親は悲劇を生みがちで、人生上のストレスの掛かる地点で適切に'aim-inhibition'できるかどうかが岐路になると思われる。相手が一人の他者であり、物でも道具でもペットでも自分でもないということ。
『沈黙』観に行かないとなぁ。あんまり気乗りしていない理由は以前観たメル・ギブソンの『パッション』の見せ場(?)であるイエスのムチ打ち長回しシーンの通俗感というかアメリカ映画の払底感というか「こんなことして客寄せしてなんになんの?」みたいな落胆が記憶の隅に残っているからということもあると思う。スコセッシは芸術家としてのレベルがもう少し上のはずだが、時代の流れで、拷問シーンで過度にセンセーショナリズムを追ってるとかだとやだなぁ。
いちおうまだ猶予はあるはず...。
最近またきなこヨーグルト食べまくり。
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