愛着理論で言われる愛着形成の臨界期は生後半年から2歳位までらしいが、もっと広く見て、子供というものは、人間の精神や知性や認知などの基礎部分を築くためのかけがえのない時間を生きている存在だと言っていいだろうと思う。例えば母語の獲得などもそうで、先月だか寄り道的に読んだスティーブン・ピンカー『言語を生みだす本能』では、クレオールとピジンの比較をしながら、言語の習得の場合の臨界期について叙述していた。ピジンのように臨界期を過ぎてからの言語の習得は、相当な努力をしても、ぎこちないものにならざるを得ないようだった(あぁ、やっぱり...)。

 つまり、話は大雑把には単純なのだ。人間の神経系をつなぐシナプスは生後数ヶ月から猛烈に発達し始め、様々な情報を過剰に取り込んでゆくが、同時進行的に思春期の前くらいまで「刈り込み」のようなことも行われる。必要な情報と不必要な情報の取捨選択が並行して行われるわけだが、刈り込まれてシナプスの総量は思春期頃には落ち着き、低い第二のピークである25才頃を境に死ぬまで漸減してゆくことになる。そのように乳幼児期から思春期前期にかけて、意識的にか無意識的にか、試行錯誤しながら形成された神経系が、その人のその後の精神生活の基礎をなすと考えるのが普通だろうと思う。
 これは愛着パターンの愛着スタイルへの変化時期にも対応するだろう。神経系発達過程については愛着理論の岡田尊司も言及していた。
 必ずしも臨界期について述べているわけではないが、トラウマ派の著作として、数年前に邦訳で読んだ、ベッセル・ヴァン・デア・コーク の『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』も紹介しておく。
 よく大の大人の精神的な悩みを解くのに子供時代の話をするのはバカげていると主張する人がいるものだが、上記のように、もし傷が早期に形成されてしまえば基礎部分の不具合で後々までタタリがあるというわけなので、そのような作業が発生する場合があるのは別に異常ではない。さらに早期の傷が本人には自覚されていないケースも少なくないので、自分はまったく良好に育ったと思い込んでいても、詮索してみるとかなりの偏りが発見される場合もあるだろう。その上でのケースバイケースではあろう。
 以前のエントリーのPete Walkerが、「希望」としていた、成人後の心的努力による神経系の新生や上書き作用は、ピジン話者の生涯続くぎこちなさの中に、その儚さが象徴されているような気がする。過大な期待は持つべきではないかもしれない。ただ、根治ではなく、眼の前の社会や現実への適応のための細かい努力として捉えるなら意味があるのだろうか。

 Elan Golombの『Trapped in the Mirror』は現在終盤の17章あたりをノロノロ読んでいるのだが、これは1992年の出版で、アリス・ミラーの次の世代くらいのかなり昔の本であった。だから今から見て理論的に整理されてないと言うか、Elan個人の傾向も多少ある気がするが、あちこち話が飛んでノイジーに感じられるのだと思う。原因論についても理論的解釈についても治療論についてもほとんど踏み込んでいない。しかし内容が空疎なわけでは多分なく、多数のエピソードとその背後のElanによる意味付けに価値があるのだろうし、いずれにせよ手探り時代にはこういった冗漫さは避けられなかったと思う。それで最近、彼女の2015年出版の新しめの本を購入した。Elan Golomb『Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction』だが、乗りかかった船と言うか、Elanの考えがその後どうなったか知りたいと思う。双方出版に20年以上ものラグがあるが、彼女の著作は基本的にこの二冊だけのようだ。

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 信頼すべき(?)Pete Walkerが著書内で勧めていたElan Golomb「Trapped in the Mirror」を今月23日に購入し少しずつ読み始めたのだが、個人的に非常に興味があるテーマ(自己愛)であるにもかかわらず、私の英語力とElan Golombのやや癖のある文体と他に日本語の書籍を読みたかったせいでのろのろとしか進めていない。
 「病的な」自己愛がいったいどこから生じるのかは重要な論点なのだが(自己愛そのものは誰にでもある)、Elan Golombは冒頭付近で親も病的なナルシシストでその非共感的な育児法が原因だと主張していて、彼女は後天的な意味での世代間転移を強く見ている論者なのかもしれない、と私はいまのところ思っている。今後の展開次第と言うか、まだ進捗が10%程度なのでどうとも言えない。
 コフートも非共感的な母親を出していたような気がする。怪我をした男の子の血が衣服に付着した兄/弟(無傷)の方だけを病院に連れて行った母親の事例を記述していたと思う。見捨てられた方が歪んだ形で誇大自己を発展させる。
 病的なナルシシストといえば、ウィニコットの「偽りの自己」論というのがあるのだが、それとの関係も気になる。最近邦訳(原書は2013年出版)で読んだスーザン・フォワードは「偽りの自己」論は時代遅れとして、脳血流のスキャン画像で説明しようとしていた。

 表面的に正気と狂気の境目を判断するだけなら、自己愛に限らず、現実検討能力の概念を援用するのがもっとも実用的な気がする。DSMなど専門家向けの様々な診断基準には一般人は深入りしないほうがいいかもしれない。あれは全体を知らないと対象領域そのものの位置づけができない。多分。

 本質と関係ないことだが、Elan Golombが引用している有名なマリー・アントワネットの「ケーキを食べればいいじゃない」はWikipediaによると当人の発言ではないようだ。


追記1(2021/03/01):
 うろ覚えだった箇所を訂正。
 コフートの事例は「自己の修復」内のM氏です。確かめると兄か弟かは不明だったので訂正。この出来事だけが原因なのではなく、母親の非共感性を象徴しているという扱いだと思います。


追記2(2021/03/05):
CIMG3345.jpg 自己愛関連の参考書のひとつとして読んだ、岡野憲一郎「自己愛的(ナル)な人たち」内で紹介されていた田房永子(漫画家)のプチ・ブームが私の中で始まっている。和書の多くを図書館に頼っているのだが、AMAZONの田房氏の著作に対するレビューも面白い。本来の読書の軸はあくまでElan Golombなのだけど、これのため速度は更に落ちている。
 私はNPDっぽい人を、便宜上、外弁慶型と内弁慶型に分けたりすることがあるのだが、田房氏の(著作内で描かれている)母親(像)は外弁慶的な面が比較的残っている人のような感じで、ある意味屈折の度合いが弱く、子供を破壊するような統制に発展しない分まだ救いがあるような印象も持った。社会的な挫折が運命づけられているとも言えるほぼすべてのナルシシストたちは、少なからず内弁慶的な面を持つようになると思うが、そちらのほうがより毒性が強いかもしれない。
 田房永子は、自分の母娘関係を描いたものが主要作品となり、漫画家としてそれ以外の分野への展開が可能かどうかわからない。商業的に厳しいかもしれない。
 自己愛的な母親に育てられるというのはCPTSDの典型的な成り立ちのひとつなのだが、やや他罰的な田房氏はPete WalkerのCPTSD4分類(Fight-Flight-Freeze-Fawn)でいうとFight型になるのだろうか?しかし今のところそこまで深刻な感じはしていない。図書館で予約している「キレる私をやめたい」を読んでから判断したい。


追記3(2021/03/16):
CIMG3351.jpg 図書館での予約の順番が回ってきて、田房永子の「キレる私をやめたい」を読んだが、彼女にはある程度の他罰傾向はあるのかもしれないが、ゲシュタルト・セラピーなるもので短期かつ劇的に改善したらしく、ある意味その程度だとも言えるのかもしれない。作中で紹介されているゲシュタルト・セラピーのコア概念である「今ここにいる」はまさにマインドフルネスそのもので(別に禅や森田療法から入っても似たようなことで)、特筆すべき何かという感じはしなかった。CPTSDとして捉えた場合、フラッシュバックがどこで起きるかみたいなことに注目したいわけだが、トリガーをめぐる過去や内面に関する詮索はあまりなく行動化の描写が優先される(漫画の性質上仕方ないのかも)感じでいまいちよくわからなかった。作中に登場する岡田法悦氏の「心-状況」の対立図式的な説明は、よくある共感性をめぐる議論とほとんど相似である。
 過干渉が親の中での何かに対する怯えから来ているのではないかとの田房氏の主張が印象に残った。何かとは、他者性みたいなことだろうか。


追記4(2021/03/23):
 上記いまいち感について自分なりに解説。
 Pete Walkerのやり方だと、フラッシュバックからの詮索で過去のトラウマ的状況を特定してそれにGrieving(嘆きや怒り)を付与しインナーチャイルドを再生するみたいな流れで、フラッシュバックがあるとむしろ問題となる過去をたぐり寄せるチャンスだくらいの捉え方だと思う。フロイトっぽく言えばそこから徹底操作が始まるわけだが、田房氏の自己否定的なストレスからの暴発の描写で物足りなく感じたのは、要はその手順が始まらなかったからだと思われる。しかし、他の著作を含み合わせれば、彼女は詮索以降の作業をすでに別の機会にやっていたかもしれない。個人の体験を一般化するときは警戒が必要だ。
 自己愛的な母親が子に自己否定を強いるのはよくあるけれど、Pete Walkerはその種のストレスに対する防衛のタイプとして4Fs(Fight-Flight-Freeze-Fawn)を設定している。この分類は微妙な面があり、4つが単なる同次元のバリエーションというわけではなく、Freeze型が他より重い症状のように叙述されていたりした。Fight型は自己愛的な表れとされるので、母親も自己愛的な場合、(病的)自己愛の転移が世代間で成就した恐れがある。


追記5(2021/04/09):

If a person treats his child as an extension of himself, the child does not feel like a person and the narcissistic problem passes on to the next generation.

Elan Golomb. Trapped in the Mirror (p.165). William Morrow. Kindle 版.

 私訳:『我が子を自分の延長として扱えば、その子は一人の人間としての感覚を持てず、自己愛の問題が次の世代へと受け継がれる。』

 Elanは繰り返し親から子への病的自己愛の伝染を主張する。
 「Trapped in the Mirror」はやや重いというか暗い雰囲気の作品である。彼女の比較的単純な主張に沿って、紙幅を圧倒するように彼女自身の親族を含めた非常に多くのネガティヴな事例や出来事が提示されるのだが、(恣意的に)切り取られたそれらは何らかのさらなる背景があるに違いなく、またそれぞれ明快な解決に至るわけでもないので、読むに伴ってどうしても暗い澱のようなものを印象に残す。
 久しぶりの再会でElanが長く連絡を取らなかったといって頬を叩き、彼女が大学を卒業したときにもなぜか叩くおば(父親の姉妹で本人は教育機会に恵まれなかったらしい)が異様な印象を残す。作中頻出する父親も奇妙な自己愛的な人で、Elanが親族ネットワーク上の病的自己愛の伝播に固執する理由が伝わってくる。

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 Amazonで一年以上前に買ったPete Walkerの「Complex PTSD: From Surviving to Thriving: A GUIDE AND MAP FOR RECOVERING FROM CHILDHOOD TRAUMA 」だが、概説にあたる第一部(全体の前1/3まで)はすぐに読んでかなりいい本だとは思ったものの、構成的に第二部が同趣旨の掘り下げだということで、なんとなく訝って長いことうっちゃっていた。
 去年末から今年1月末あたりまでの読書の仏教ブームが頓挫したような感じになったため、それを補うような感じで本書の続きの第二部をそろそろと読み進め始めたのだが、思いのほかというか、読み始めると極めて面白く一日10ページ前後をほぼコンスタントに読み進めて昨日の20日には全335ページを読了してしまった。
 Pete Walkerも本文中に何度か言っていることだが、CPTSDと愛着障害は内容として双方がかなりオーバーラップしている。私としては、これに旧来の対象関係論の一部を加えて、それらは全てほぼ同じことを問題にしていると言っていいのではないかと思ったりした。
 いったい何にそんなに感銘を受けたのかは、個人的な事柄とつながるので詳述するつもりはないが、どこかの出版社がぜひ邦訳を出すべきだ。というか、本書は2013年の出版なのですでに邦訳が出ていないことがおかしい。
 ただ、ネックはいくつか予想はできる。日本でCPTSDの概念がこれまで全く広まっていなかったこと。Pete Walkerが医師ではないこと(彼は日本で言えば心理療法士にあたると思う)。もう一つは僅かではあるがキリスト教的な風情が漂っているということだ。例えば、

I want God's love, grace and blessing.
(p.314)
のような箇所での「神」は一般的な日本人が想定する多神教的な(あるいは自然信仰的な)神とは意味が違う。こういう箇所は訳しづらいか、直訳したとしても伝わらない。本書は大まかに心的断絶のためのテクニックを伝授している面があるので、内的な孤独に耐える決意をする個人と一神教による超越神という組み合わせは非常に相性がよくしっくり来る。例えばこの「神」を大黒様とかに読み替えると、たぶん意味をなさないだろう。
 しかしそれでも邦訳を出版すべきだと思う。Pete Walker自身がCPTSDであるとの前提で話が進んでおり、その上で彼が(心理療法士として)診ているクライエントの諸事例が交差する、CPTSDの生々しさが理解できるだろう。

 Pete Walkerの本を読み進めながら、この時間がずっと続けばいいと思うような感じがあった。しかし終わりは来てしまった。実社会の普通の人々はPete Walkerとはかけ離れた視座で行動し生きている。また、Pete Walker自体も本当は個別の読者のことなど知らないから、彼は読者各々にとっての理解者と言うより、一般論として問題を認識している人と表現したほうがいいかもしれない。無論、そういう人物がこの世界のどこかにいると思うだけで随分違うことだが、読書の魔法から醒めるとそこには荒涼とした現実が広がっている。

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 私はたぶん仏教徒ではないと思うのだが、去年末からずっと仏教関係の本を断続的に読んでいる。
 きっかけはどの時点に取るかで難しいが、もともと英語圏の新し目のメンタルヘルス本に「マインドフルネス」という概念が頻出して、それが仏教あるいはヨガから来ていると知ったこと。その後、私的・岡田尊司ブームのときに森田療法が紹介されていてそのベースが禅であることを思い出させられたこと。自分の本棚を見ると岩波文庫のスッタニパータがあったのでふと読み返したこと、等が挙げられる。
 仏教は托鉢を経済的基礎としていて、このことが共同体により事後的に与えられる「無償の愛」の反復のようにも見えるが、これは様々な意味で微妙な側面を持つと思う。たいていの宗教組織が寄付により成り立っているとしても、現世を拒絶しながら自己の再構築を目指す仏教を支えているのが現世側だということは原初的な欺瞞のようにも思える。修行者個人の(対象関係の)傷は共同体の気まぐれな施しからは修復できないかもしれない。ブッダは王子なので、乞食姿で近所を通りかかられればなにか寄贈しなければならないと沿道の人は(ある種の恐怖心から)思うかもしれない。もしそうなら与えられた粥には身分差別による反動が含みこまれている。
 生後すぐに実母と死別したとされるブッダは、対象関係(or愛着スタイル)が壊れている可能性が低くない。


 仏教は親子の情愛を軽蔑している面があると思う。
「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かなものは悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
(ダンマパタ 第五章六十二 )


 他に修業によって恐怖が克服されるとも記述される。

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
(ダンマパタ 第十章一二九 )


 対象関係あるいは愛着スタイルの世代間転移を想起させる。

しかしこの世でその愛執を捨てて、移りかわる生存に対する愛執を離れたならば、その人はもはや輪廻しない。その人には愛執が存在しないからである。
(ウダーナヴァルガ 第三章十三 )


 かなりの極論である。

それ故に、愛するものをつくってはならぬ。愛するものであるということはわざわいである。愛するものも憎むものも存在しない人々には、わずらいの絆は存在しない。
(ウダーナヴァルガ 第五章八 )


追記(2021/02/21):
 その後、維摩経(およびその参考書)とか読んだりしていたのだが、大乗仏教あるいは日本仏教に対する懸念が湧いてきて、仏教ブームは先月末には一旦休み。
 そのうちまた興味が向くかもしれない。

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CIMG3321.jpg

 今年は参道沿いの屋台がコロナによる自粛で一つもありませんでした。

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Kyoto City Library info.PNG
 京都市図書館の年末の最終開館日は通常より早く閉まるのだが、京都市図書館のWEBサイトにある、個別の図書館のトップページにも開館日カレンダーにも、その旨全く表記されないので注意が必要だ。開館時間変更の情報を当該WEBサイトから知るには、全体のトップページにある「京都市図書館からのお知らせ」内の「年末年始の休館のお知らせ」の項目をクリックし、その文中から、『なお,12月28日(月曜日)の開館時間は午前9時30分から午後5時までです。』の但し書きを見つけ出さねばならない(普通の平日は午後7時まで)。開館時間の変更は休館に関する事柄であるかどうかも微妙だが、私のように、個別の開館日カレンダーで28日まで休館ではないことを確認した後では、「年末年始の休館のお知らせ」に最終日の開館時間の変更が記されていると推測するのは多少なりともより困難になると言っていいと思う(ちなみに実際に図書館に行くと貼ってある「紙」の開館日カレンダーには変更が記されていました)。

 私がこのトラップに引っかかったのは今回で二度目である。

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 今月初旬ころにダニエル・カーネマンの『ファースト&スロー』を読んでいたのだが、読後感が非常によろしくなかった。カーネマンの主張が説得的じゃないからなのだが、なにしろノーベル賞受賞者なので、権威と内容の曖昧さとの齟齬がストレスをいや増しにする。読み始めは、陳述記憶と非陳述記憶のメタファとして主張を展開しているのかな、とか思ったりもしていたのだが、なんか違う感じで、どんどん暴走的になってゆく感じだった。私は臨床心理学以外の心理学にはさらに詳しくないので、世界的な権威を背にして大著で真偽不明の暴論を押し込まれると、読者として情報の処理に困る。なにかおかしいと感じているのだが反論のための土台をもたないような状態にされるのだ。そのため、読み終えた後もフラッシュバックのようにムカムカ感に襲われ不愉快だった。
 しかしながら、ふと検索するとネットに、カーネマンの主張に対する専門的な批判は拍子抜けするほど容易に見つけることができた。すばらしいが、逆に言えば、ネットのない時代にこういう書物で権威的に暴論を押し込まれると一般人が抵抗するのは大変だったと思う。疑念に明瞭な形を与えるだけでも自分でかなりの勉強をしなければならないことになる。
 心理学の実験に高次の解釈を与えることは厳に慎むべきだと個人的に思うが、たいてい高名と言われる心理学者はその禁を犯している。例えば有名なセリグマンの犬の実験もあれが本当に何を意味しているのかについて、留保されるべきだ。あと、彼ら自身に「ある種の傾向」があるような気もしている。


追記(2020/12/31):
 うーん...。

(前略)経験という言葉は人間において最も十分なる意味を示しているものであると言えるのである。犬などが人から打たれて恐ろしいと思って逃げるのはそれは犬の経験であるが、こんな経験には反省が伴わないのである。したがって何の意味もない。人間の場合はこれに反して、もっともっと深広な意識の根底の上に立つ経験が可能になっているものである。
(鈴木大拙 「禅とは何か」 角川ソフィア文庫 p9 )

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 メンタライゼーション系の論文を読んでいて気になったので、短い上に本文だけですが英語版Wikipediaの"Psychic equivalence"の拙和訳です。


心的等価

 心的等価は 心の内容と外界の間に境界が引かれていない、つまり思ったことが自動的に真実になると仮定される、心の状態を表している。

目次
1 起源
2 後の人生で
3 関連項目
4 参照
5 外部リンク


起源
 心的等価は、内的・外的世界双方への反省であるメンタライゼーションの能力につながる、幼児期における原初的な心的状態である。例えば、心的等価モードでは、子供がクローゼットの中にモンスターがいると考えたなら、本当にクローゼットの中にモンスターがいるものと信じている。心的等価は、それ故、世界の具象的な理解の形式であり、代替となる観点への好奇心を全部ブロックしてしまう自己確信なのである。


後の人生で
 心的等価は、後の人生では、夢や妄想、またトラウマにおけるフラッシュバックの過程で再出現する。それは外的現実と心の内容との差異に対する自覚の一時的な喪失を伴う。PTSDにおいてはその人は(おそらく何年か後に)、適切な視座を完全に失って、元のトラウマ状況に実際に戻っていると確信する。

 防衛的な偽りの自己が心的等価の不安を防ぐために幼児期から構築されている場合、後の自己愛構造の崩壊は心的等価の迫真性による恐るべき衝撃の再現を導きうる。


関連項目
(省略)


参照
(省略)


外部リンク
(省略)

(Translated from the article "Psychic equivalence" on Wikipedia)

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 多分(遠いor近い?)将来にはミラーニューロンとかの自然科学の話とつながってくるのだろうが、メンタライゼーションは、私の主たる興味であるNPDの非共感性(ただ当人は他者の内面を自分に都合のいい想像で埋めてしまうので共感性が欠如しているという自覚はないと思うが)と地続きの概念でありネット上にもそのものズバリなテクストがある。

・Affect regulation and mentalization in narcissistic personality disorder
https://www.researchgate.net/publication/283928025_Affect_regulation_and_mentalization_in_narcissistic_personality_disorder

・Mentalization-Based Treatment for Pathological Narcissism
https://www.researchgate.net/publication/340010181_Mentalization-Based_Treatment_for_Pathological_Narcissism

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CIMG3227.jpg 岡田尊司の著作を集中的に読んでいる。
 アタッチメント(愛着)は対象関係論でもよく出てくる話題だが、より推し進めて、アタッチメントを正常化することで様々な疾患が治ると主張する作家の代表格が京都医療少年院で診ておられた岡田尊司氏。
 少年院での治療費用は子供たちが支払うわけではもちろんないわけで、間接的ながらも「無償の愛」としての代理安全基地がまだ成り立つ時期である。岡田氏はこの「愛着アプローチ」が成人患者にも効くと主張しているのだが、その点、やや留保的な印象を持った。
 患者の主観的世界を一方的に受容する態度はコフートのやり方に似ている感じがした。同時に彼の変容性内在化に到達させ得なかった症例が思い出される。
 あと、本格的な精神病などでこのやり方で間に合う感じがあんまりしなかった。
 しかしながら、仮に劇的に効かなくとも、(家族関係を起源とする)問題の本質を大づかみするという意味で、「愛着アプローチ」は知っておいて損はないかも。回避性人格障害や境界性人格障害、自己愛性人格障害等がたびたび言及される。
 アタッチメントはその人物の幼児的全能感の保管庫のようなものだと思う。真の実態が幻想なのだとしても(!)、その幻想がないと大抵の人は前に進めない。


追記(2020/07/23):
 調べるとネット上には岡田氏への批判があって、さもありなんという感じなのだが、一応擁護のようなことをしておくと、「反応性愛着障害」や「脱抑制型対人交流障害」のような公的な愛着障害の概念を独自に敷衍していることは、彼自身が著作の中である程度説明している(少なくともそういう箇所がある)。もちろんそのような拡大が正しい行為かどうかは是非があるのだろうが、私は読み始めに手持ちのDSM5と比較し明らかな個人の主張と認識していたので、当初よりそういう立場・思想の人なのだろうという受け止めである。
 愛着対象の代理としてカウンセラーを据えるやりかたは、誰が考えても依存を生む。一生責任を持つような心構えを岡田氏は披露していたが、治療は経済行為でもあるのだから見方によっては白々しく感じなくもない。
 あと、こじれた親子関係を仲裁・適正化することが、彼の著作上に繰り出す症例のようにうまくいくのか相当訝しい。
 ただ、私は、岡田氏を詐欺師のように表現することには(今のところ)賛同しない。愛着の形成や様式あるいはその発展の仕方が人間の精神に致命的な影響を与えるという主張には、大づかみの論理的一貫性があると思うからだ。


追記2(2020/08/03):
CIMG3232.jpg 愛着理論の確立者であるボウルビィを読んだほうが早いかも(ただし訳はあまり良くない)。


追記3(2020/08/22):
 追い岡田尊司をしているのだが、『ADHDの正体』(p45下段真ん中)の記述が意味不明で、もとの論文に当たると、おそらく不注意型のパーセンテージのことを岡田氏が誤解されているのだと思う。全文を見れば結果をまとめた表があり、51.7%なのは子供時代もADHDだった大人ADHDが不注意型である割合であり、54.1%の方は子供時代にはADHDでなかった大人ADHDの中での不注意型の割合であると思われる。


追記4(2020/09/20):
 岡田氏の著作を第二波的に読んでいて、今図書館で予約してる「死に至る病」で7月から数えて18冊目になるのだが、未だに岡田氏の印象は微妙なままである。しかし刺激を受けるという次元ではポジティヴな印象を持っている。


追記5(2020/09/26):
 なんだかいつもとトーンが違う。

 自己肯定感を持ちなさい、などと、いい年になった人たちに臆面もなく言う専門家がいる。が、それは、育ち盛りのときに栄養が足りずに大きくなれなかった人に、背を伸ばしなさいと言っているようなものだ。
岡田尊司『死に至る病』(p20)

 

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