いわゆる「変容性内在化」に関する丸田俊彦と和田秀樹による説明なのだが、コフートのセオリーの文脈としてはどっちもそれらしいと言えばそれらしいのだが、以下に示すように両者はかなり言ってることが違う。あるいは、総体として複雑な概念に対して、切り口が違うだけでどちらかが間違っているというわけではないということもありうる。ネット上のテキストでは丸田派が多いのだろうか。
 私が'The restoration of the self'を購入して読んだときは、コフート自身による明確な定義付けの箇所はなく、「変容性内在化」とは、母親のリアルなイメージを換骨奪胎して(ある程度都合よく抽象化して)子供が取り入れる、みたいな理解だったので、丸田側なのだろうか。
 初めに「変容性内在化」が説明された『自己の分析』は邦訳を図書館で借りて読んで、複雑な上に訳文に閉口したイメージ(今読むとまた違った印象が得られるかもしれないが)。しかもコフートはその後(双子転移の取り扱いを含め)生涯をかけて自説をゆっくり修正・整理していったはずなので、その加減もある。
 もともと簡潔な定義があるわけではないのなら、解釈の余地として、和田説もありうるのかもしれないが。

『コフート理論とその周辺』 丸田俊彦 p111
 Transmuting Internalization:変容性内在化
 Kohutの用語。理想化された自己-対象idealized self-objectが内在化されて精神的構造となる過程。われわれが口にする異種タンパク(たとえば牛肉)が体内で消化、同化されて血となり肉となるように、自己対象が内在化される過程において(自己-対象がそのままの形で内在化されるのではなく)変容をとげるところから、変容性内在化と呼ばれる。すなわち理想化された対象に対する幻滅(それは多くの場合理想化された対象に対する正しい現実的認識でもある)がわずかずつ進み、最適量のフラストレーションoptimal frustrationが持続すると、理想化された自己-対象へのlibido投資investmentが撤回され、非人格化された特定の機能が内在化されることになる。この過程が自我理想を生み、超自我に理想化を行う特性idealizing qualityを与えるため、内在化された自己評価調節機能は安定し、自己は心的緊張の調節装置となる。Kohutはこの変容性内在化が正常発達過程として起こるばかりでなく、精神分析の治療過程としても見られると主張する。
『〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析』 和田秀樹 p141-142
 (注:フロイトの超自我に対して)一方、コフートのいう理想化自己対象とは、あくまでも外にあって自分の一部として体験される対象であり、心の中に取り込まれて完全に住み込むものではないのです。しかし理想化自己対象がそばにいなくても、その自己対象との関係がしっかりしたものであれば、ある程度は代わりとして心の中にいてくれます。ですから、ここではコフートは「変容性内在化」ということばを使っています。変容性とは完全には住み着かないという意味です。しかし、多少は内在化するので、自己対象がいつもそばにいなくても何とかやってはいけるのですが、あまり相手がそばにいないと、自己が不安定になったり、ばらばらになってしまうと考えます。あるいは非常に不安なときなどは、自己対象を求めてしまうというわけです。

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CIMG3501.jpg
 今年は参道の屋台が復活していた。

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 今年の後半くらいから大きめのアップデートのたびにCentOS7がトラブる。
 10月にはCentOS7上のChromeの更新に付随してOS自体の入れ直しにまで至ったが、今日のカーネルを含めたアップデートではPython3.8を要求され、普通には入らないのでRedHat用ので代用して入れた(ネット上に使える旨の情報があったから出来たのだが)。こういう変則的な行為を強いられるようになると、OSもかなり末期だ。
 サポートが2024年までのCentOS7に先んじて、CnetOS8は今年いっぱいでサポートを終了する。CentOS8はCentOS streamというローリングリリース方式のものに吸収されるようだが、必ずしも前評判がよろしくなく、CentOSの創設者であるGregory Kurtzeが後継としてRocky Linuxという別のディストリビューションを用意するなど、分裂の様相を呈している。このあたり、かなりげんなりする。
 CentOS7とデュアルブートしているMX Linuxがまずまずなので、すでに主にそちらでLinux機を起動するようになってから久しい。私のLinux機のストレージでCentOS7が専有しているのは40GBに過ぎないので、このまま塩漬けのようにしてしまう案もありうるが、なんだかんだ気になってアップデートしてまたトラブルが起こりその度時間が取られるみたいなことは避けたく、来年あたりどこかの時点で思い切って初期化してしまうことになるかもしれない。
 ただLinux機をデュアルブートにしているのはバックアップ用などの意図があってのことなので、40GBのスペースにはMX Linuxと同じDebianベースのUBUNTUでも入れようか(そのほうが覚えることが少なくて楽?)。
 まだ何も決めていないが、いずれにせよ面倒だなぁ...。

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 コフート関連の日本人の研究者のネット上にある論文等を読んだりしていた。
 Overt&CovertのNPDの話や、森田正馬が扱った対人恐怖症に対する自己愛の関連付けなど、微妙な話題が多かった。森田正馬が傑出した人物であることは間違いないが、全知全能なわけでもないので、間違うことはあるだろう。
 Overt&Covertは無自覚型と過剰警戒型と言い換えてもいいだろうが、私は傷の様相あるいは程度による違いから来ているのではないかと憶測したりする。両者とも心のコアの弱さは本質として似ているのだが、Overtはそれに一応わりとちゃんとした発達上のシールドが付いているので社交性は阻害されないが、Covertはそのシールドすらないので自己として社会から距離をとらざるをえない感じ、だと思うがどうだろう。

 コフートの、カルチャースクールか何かの先生になって誇大感を癒していた症例は、読んだ当時も全く訴求しなかったが、あれが代償行為による解決だったのかもしれない。代償はある行為に対する過剰で不自然な意味づけを前提とするため、危険性をはらんでいる。それにあれは治療上の変容性内在化の失敗のはてだったような。
 ほどよく恵まれた子供は適切な愛に包まれながら現実への健全な幻滅の過程をたどることができる。つまり幼稚な誇大感を無理なくスムーズに脱ぎ捨ててゆくことができる。誇大感を代償行為によってごまかそうとするのではなく、やはり、そのように誇大感そのものの縮小を目指すことが本筋であるはずだ。
 インナーチャイルドを操作するような場合も、いつかの自分に振り向けられた誤った育児法を否定して理想モデルとすげ替えるよりも、その時の喪失によって持ち越された誇大感を、健康な自己愛によって今からでも当たり前の幻滅へと導いてやることのほうが本質的だと思われる。

 代償行為による解決は危うい。たいていどこかに無理が出る。飛行機遊び(実際に操縦する)にのめり込んで子供も家庭も放置してしまう父親がエラン・ゴロムの書籍に出てきたっけ。

 人は自ら祝福しつつ幻滅することができるはずだ。

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CIMG3463.jpg 偽りの自己をめぐってスターンの名前が出てきたので、以前から気になっていたこともあり、京都市図書館にあるものを借りて読んでいた。『乳児の対人世界<理論編・臨床編>』『母親になるということ』。読んでいる最中はあれこれ思うこともあったのだが、今日3冊めを読み終えて本は返却してきて、読後感が複雑すぎて軽率になにか言いたくないという感じが強い。
 批判対象とする人物の主張をスターンが誤解している面があるのではないかという危惧が終始あった。対象関係論が乳児の自他の未分状態を強調していて実際の観察された乳児に想定される自己感の兆候と矛盾すると言うが、対象関係論は完全に自他不分明な錯乱状態を乳児に想定しているわけではない。いわば自己の前駆体のようなものを、スターンのようには自己の中に含めないだけで、対象関係論者が、誰でも見ればわかる乳児の自己の兆候をすべて無視しているとすることは想定しづらい。ウィニコットが、乳児が自分の全能感を支え演出していたのが実は母親だったのだと気づく(脱錯覚)段階に注目するように、乳児に自己感があったとしてもそれは同時に自他の不分明さをいまだ含んでいる非現実的な自己なのである。したがって、現実には自己感と不分明さは必ずしも対立しておらず、むしろそれら自体が混じりあいながら併存していると思われる。
 ただ、スターン自体の印象が悪いわけでは全然ない。乳児の不分明さよりも自己(感)を主軸に発達の歴史を追ったほうが説明の仕方としてうまく整理がつく面があることは明らかで、伝統的な理論の中にそういう意味でのやや大きめの間隙が埋め込まれていたことは否めない。伝統的な理論は乳児ならではの不分明さに主軸を置くような傾向が確かにあり、そのことは発達論的な分析や観察のハードルを徒に上げた。スターンの思想は、分からないことより分かることから積み上げていくようなやり方で、実際主義的な清潔さがある。
 偽りの自己論に戻るが、ウィニコットは『本当の自己は、個人の精神機構がありさえすればあらわれてくるものであり、感覚運動系の活動の総和以上の意味はないのである。』(「情緒発達の精神分析理論」 p182)と述べている。スターンが述べる本当の自己は、否定された自己のことであり、感覚機構による私的自己とも分けて考えており、両人はほとんど根底から違うことを言っていると言っていいと私には思われた。
 あと、必ずしも外傷の時期にこだわらないスターンと現代的なトラウマ派との近親性も感じた。


追記(2021/10/14):
 なんと書名を誤記していたので訂正しました。「対人関係」→「対人世界」。私のIMEで「対人」と打つと「対人関係」と予測変換されて、そのまま決定して気付かなかったための事故でした。あしからず。

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 英語版Wikipediaの"True self and false self"の拙和訳です。今のところ日本語版には対応項目はありません。
 サム・ヴァクニンは、私が去年だかに自己愛を直接主題にした一般向けの英書を探していたとき、ピート・ウォーカーの紹介していたエラン・ゴロムとどちらを読むか迷った人物で、やはり相当独特な人のよう。それと、ヴァクニンの項の最初のセンテンスはソースの英文から主部・述部がありません。書き込み者がピリオドとカンマを間違えたのかな、と思ったりしましたが、破綻したまま訳しました。


本当の自己と偽りの自己

 本当の自己(現実の自己、真正の自己、オリジナルの自己、傷つきやすい自己とも)と偽りの自己(偽の自己、理想化された自己、表面的な自己、擬制的な自己とも)は、そもそも1960年にドナルド・ウィニコットによって精神分析に導入された心理学的な概念である[1]。ウィニコットは、本当の自己を、自発的で真正な経験および本物の自己で生きているという感覚に基づく、自己の感覚を叙述するのに使った[2]。ウィニコットは偽りの自己については、反対に、防衛的な見せかけであると見なしたが[1]、この極端な場合には、あたかも本物であるかのような外面の背後で、その保持者は自発性を欠いて死んだようなあるいは虚ろな感覚の状態となる[1]。

 この概念はしばしばナルシシズムとのつながりにおいて使用される。


目次
1 特徴
2 先駆者たち
3 後の展開
3.1 コフート
3.2 ローウェン
3.3 マスターソン
3.4 サイミントン
3.5 ヴァクニン
3.6 ミラー
3.7 オーバック:偽りの身体
3.8 ユング派のペルソナ
3.9 スターンの三分割自己
4 批判
5 文学作品の例
6 関連項目
7 参照
8 参考文献
9 外部リンク


特徴
 ウィニコットは、本当の自己が、血流や肺呼吸などの(ウィニコットがただ存在していると呼んだ)、生きていることの経験をしている早い段階の乳児期に根ざしていると考えた[3]。これにより、赤ん坊は現実感覚の、あるいは人生が生きるに値するという感覚の、経験を作り出す。赤ん坊の自発的で非言語的なジェスチャーは、本能的感覚から派生するが[4]、親に反応されることで本当の自己の発展継続の基礎となる。

 しかしながら、ウィニコットが程よき養育(完璧である必要はない[5])と注意深く書き記したものが実行されなかった場合、幼児の自発性は、親の願望や期待に従う必要に侵される危険にさらされる[6]。ウィニコットの業績は、彼が偽りの自己と呼んだものの創造であるかもしれないが、それは『自分の存在の根源につながる本来の自己の感覚を覆ったりそれに相反しても、他者の期待が最重要になりえる』ような状態である[7]。彼が危険視したのは、『偽りの自己を通して、幼児は偽りの人間関係を築き、取り入れにより本物であるかのような見かけを獲得しさえしている』が[8]、実際には、独立しているように見える外見の背後に味気ない虚無を隠蔽しているに過ぎないということだった[9]。

 この危険は、赤ん坊が母親あるいは両親に調子を合わせなければならない場合(その逆ではなく)に特に顕著で、非人格的つまり人格的でなく自然的でもない基礎上に、対象の解離した認識のようなものを構築することになる[10]。しかし、このような病的な偽りの自己が、生気のない模倣に与して本当の自己の自発的な行為を抑えるとしても、それにもかかわらず、ウィニコットは、隠された本当の自己そのものが搾取されるという全滅的な経験のような、より悪い事態を防ぐために、それが致命的に重要であると考えた[3]。


先駆者たち
 ウィニコットが偽りの自己という概念を生み出すために頼ったものが精神分析理論の中に多くあった。ヘレーネ・ドイッチュは、現実の人間関係の代わりに擬制的な人間関係を持つところの「かのような」人格について述べていた[11]。ウィニコットの分析者だったジョアン・リヴィエールは、ナルシシストの仮装(表面的な同意に隠された支配のための捉えにくい秘密の苦闘)の概念を探求していた[12]。フロイトの、自我が同一化の産物であるとする後期の理論では[13]、自我を偽りの自己と見なしているだけに近かった[14]。一方、ウィニコットの本当/偽りの区別は、マイケル・バリントの「基本的欠陥」やロナルド・フェアバーンの「妥協した自我」の概念と比較されてもいる[15]。

 エーリッヒ・フロムはその著書『自由の恐怖』の中で、本来の自己と擬制的な自己を区別しており、擬制的な自己の非真実性は自由の孤独から逃れるための手段だとしている[16]。一方、ずっと以前に、キルケゴールのような実存主義者は、「人が本当の自己でいようと意志することは、実に絶望の反対である」―絶望とはつまり「自分以外の者であることを」選ぶこと、だと主張していた[17]。

 カレン・ホーニーは、1950年に出版した『神経症と人間の成長』の中で、自己改善の観点から「本当の自己」と「偽の自己」という自身のアイデアに基礎を置いたが、これを現実の自己と理想の自己として説明していて、現実の自己は今の自分の在り方であり、理想の自己はなれるかもしれない在り方が対応する[18]。(カレン・ホーニー§自己の理論も参照)。)


後の展開
 20世紀後半、ウィニコットの思想は、精神分析の内外におけるさまざまな文脈で拡張され、応用されてきた。

コフート
主要記事:ハインツ・コフート
 コフートは、ナルシシズムの研究においてウィニコットの業績を拡大させ[19]、ナルシシストたちを彼らの傷ついた内的自己を守るための防御的な鎧を発展させているものと見なした[20]。彼はナルシシズムについて、自らの自発的な創造性を犠牲にして外部の人格に同一化することで一貫性を獲得する場合よりも、自己の傷ついた残余に同一化する方がより病的でないと考えた[21]。

ローウェン
主要記事:アレクサンダー・ローウェン
 アレクサンダー・ローウェンは、ナルシシストは本当の自己と偽りの(あるいは表面的な)自己を持つものとして識別した。偽りの自己は、世界に提示される自己だが、表面上に留まる。これは、外見やイメージの背後にある本当の自己とは対照的をなす。本当の自己とは感情を持つ自己のことだが、ナルシシストにおいて感情を持つ自己は隠され、否認されなければならない。表面的な自己が服従と同調を示すため、内なる本当の自己は反発と怒りを持つ。この潜在的な反発と怒りは、その人の中の生命力の表出なので、決して完全に抑え込むことはできない。しかし、否認されているために、直接的にそれを表現することができない。代わりに、それはナルシシストの行動の中に現れる。また、誤った力ともなりうる[22]。

マスターソン
主要記事:ジェームズ・F・マスターソン
 ジェームス・F・マスターソンは、すべての人格障害は、人の2つの自己の間の葛藤が決定的に関係していると主張した。つまりそれは、幼児が母親を喜ばせるために作り上げた偽りの自己と、本当の自己のことである。人格障害の精神療法は、その人を本当の自分と再び連絡させようとする試みなのである[23]。

サイミントン
主要記事:ネヴィル・サイミントン
 サイミントンは、人の行動の源を扱うために、ウィニコットの本当の自己と偽りの自己の対比を発展させ、行動の自律的な源と不整合な源を対比させた-後者は外的な影響や圧力の内面化から引き出される[24]。例えば、親が子供の業績を通して自らを褒め称える夢は、行動の風変わりで不整合な源として内面化されることがある[25]。しかしながらサイミントンは、ウィニコットが見落としているものとして、人が偽りの自己や自己愛的な仮面のために自律的な自己を放棄する時の、意図的な要素を強調した[26]。

ヴァクニン
 自らナルシシストであると告白した作家サム・ヴァクニンのこの病の知名度を上げるという個人的使命として書かれたものの一部として[27]。ヴァクニンは、ナルシシズムにおける偽りの自己の役割を強調している。偽りの自己は、ナルシシストの本当の自己に取って代わるが、自己転嫁する全能感を原因とする苦痛や自己愛損傷から彼を防御することを目的とする。ナルシシストは、彼の偽りの自己を本物であるかのように見せかけ、他人にそのお喋りを肯定するよう要求するが、同時に不完全な本当の自己を覆い隠し続けている[28]。
 ヴァクニンの考えでは、ナルシシストにとって偽りの自己は荒廃した機能不全の本当の自己よりもはるかに重要であり、精神分析医とは対照的に、彼は治療を通して本当の自己を蘇らせる能力を信じていない[29]。

ミラー
主要記事:アリス・ミラー(心理学者)
 アリス・ミラーは、子供や患者は偽りの自己の背後で待たされ本当の自己がちっとも形成されていない可能性があり[30]、結果として、本当の自己を解放するということは、ウィニコットの蝶が繭から出てくるイメージのようには単純でない、と慎重に警告している[31]。しかし、本当の自己が発達しえたなら、偽りの自己の中身のない誇大さが自律的な活力の新しい感覚に移行する可能性があると、彼女は考えた[32]。

オーバック:偽りの身体
主要記事:スージー・オーバック
 スージー・オーバックは偽りの自己を、自己のある側面が、他の側面や自己の全部の潜在性を犠牲にして(親の圧力下で)過剰に発達することであって、それにより、その人自身から自然に表出するものへの持続的な不信を生み出していると考えた[33]。オーバックは、環境的な失敗がどのように心と体の内的な分裂につながるかというウィニコットの説明を拡張して[34]、偽りの身体(偽られた自分の身体感覚)というアイデアを包含するようにした[35]。オーバックは特に女性の偽りの身体を、真正や信頼の内的感覚を犠牲にした、他者との同一視に基づいて構築されていると見なした[36]。治療の過程で偽りの身体感覚という一枚岩を壊すことで、患者の中に一連の(しばしば痛みを伴うとしても)真正な身体感覚を表出させることができる[37]。

ユング派のペルソナ
主要記事:カール・ユング
 ユング派はユングのペルソナ概念とウィニコットの偽りの自己との重なりを探ってきたが[38]、類似性に注意を払いつつも、最も硬直した防衛的ペルソナだけが偽りの自己の病的状態に似ていると考えている[39]。

スターンの三分割自己
主要記事:ダニエル・スターン(心理学者)
 ダニエル・スターンは、ウィニコットの「存在し続けている」という感覚が、前言語的な自己として核を構成していると考えた[40]。彼はまた、偽りの自己の感覚を強化するために(本当の自己を言語的に不透明化し否定された状態にしておく)、言語がどのように使用されうるかを探った[41]。しかし彼は最終的に、社会的自己、私的自己、否認された自己の3つの区分を提案した[42]。


批判
 ネヴィル・サイミントンは、ウィニコットが偽りの自己に対する洞察と自我・イドの理論とを統合することに失敗したと批判した[43]。同様に、ジーン・バートランド・ポンタリスのような大陸の分析家は、本当/偽りの自己を臨床的な区別としては利用しているが、その理論的地位については留保している[44]。

 哲学者のミシェル・フーコーは、自己は構築物であるという反本質主義の理由から、本当の自己という概念をより広く問題にしている。つまり、自己は主観化のプロセスや自己形成の美学を通して進化させなければならないものであり、単に発見されるのを待っているものではない[45]。曰く「我々は芸術作品として我々自身を創造しなければならない」[46]。


文学作品の例
 『嵐が丘』は、本当の自己が既成概念を打ち破ろうと奮闘するという観点で解釈されている[47]。『I Never Promised You a Rose Garden』という小説では、ヒロインは自分のうわべの性格を「見せかけ」の単なるお化けと見なし、その裏に本当の自己を常により完璧に隠している[48]。
 シルビア・プラスの詩は、本当の自己と偽りの自己の対立という観点から解釈されている[49]。


関連項目
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参照
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参考文献
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外部リンク
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(Translated from the article "True self and false self" on Wikipedia)

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 英語版Wikipediaの"Narcissistic parent"の項目の拙和訳です。今のところ日本語版には対応項目はありません。例によって「関連項目」以下は省略していますが、あまりに素っ気ないので英語版へのリンクを張っておきました。


自己愛的な親

 自己愛的な親とは、ナルシシズムあるいは自己愛性人格障害に冒された親のことである。通常、自己愛的な親は独占的にそして所有物のように彼らの子供たちに接し、子供たちの主体性が育つことに脅かされている[1]。これは、子供が彼らの要求や要請を満たすためだけに存在していると考える親に伴う、自己愛的な愛着パターンをもたらす[2]。自己愛的な親はしばしば脅しや感情的な虐待によって自分の子供をコントロールしようとするものだ。自己愛的なしつけは子供たちの心理的発達(論理的思考や感情的、倫理的、社会的な行動あるいは態度)に不利な影響を与える[3]。親の期待を満足させるよう子を型に嵌めて操作するため、個人としての境界は頻繁に無視される[4]。
 自己愛的な人々は自尊心が低く、他人からの評価をコントロールしたいと思っている。そうしないと、責められ拒絶され、彼らの個人的な欠点が晒されることになると怖れているのだ。自己愛的な親は自己陶酔的で、しばしば誇大なレベルにまで達する。彼らはまた硬直的で子供を育てるのに必要な共感性に欠ける傾向がある[5]。


目次
1 特徴
2 ナルシシストの子供たち
2.1 短期的および長期的影響
2.2 メンタルヘルスへの影響
3 関連項目
4 参照
5 関連書籍
6 外部リンク


特徴
 ジークムント・フロイトの臨床研究で使われた自己愛という用語には、自己強化、自尊心、脆弱性、人々からの愛情を失うことや失敗に対する恐れ、防衛機制への依存、完璧主義、対人葛藤などの行動が含まれる[6]。
 自尊心を維持し、脆弱な本当の自己を守るために、ナルシシストは他者の行動、特に自分の延長とみなす子供の行動をコントロールしようとする[5]。それ故、自己愛的な親たちは、ファミリーイメージを維持したり、母や父に誇らせるための、「片想い」について言及することがある。彼らは、自分の子供が弱さを見せたり、大袈裟だったり、わがままだったり、期待に沿わなかったりするのを非難することもある。ナルシシストの子供たちは、特に人前においてや他人のために、自分の役割を果たしたり特技を披露することを学ぶ。彼らは概して、自分自身であることを愛されたり評価されていると感じた記憶があまりない。代わりに、彼らは愛と評価の経験を自己愛的な親の要求に従うことに結び付けている[7]。
 破壊的な自己愛的な親たちは、注目の的であることを一貫して必要としたり、誇張し、褒め言葉を求め、子供をこき下ろしたりするパターンを持っている[8]。非難や批判あるいは感情的な脅迫といった形での懲罰や、罪悪感を誘発しようとする試みは、親の望みや彼らの自己愛供給の必要に対する服従を確実なものとするために使われることがある[5]。


ナルシシストの子供たち
 ナルシシズムは世代をわたって展開する傾向があり、自己愛的な親はナルシシストや共同ナルシシストの子供を順に生み出す[9]。自信のある親あるいは程よい親は子の自律的な成長を認めることができるが、自己愛的な親はそうではなく自らのイメージを向上させるために子供を利用することがある[10]。自己高揚あるいは子供からミラーされ賛美されることに関心がある親は[11]、子に、親の感情的・知的要求のパペットのように感じさせているかもしれない[12]。
 自己愛的な親の子供たちは家庭内での支援に恵まれないことがある。親の行動を観察することで、子供はごまかしやあやまちが自分の欲しいものを手に入れるための効果的な戦略であることを学ぶ。また、子供は偽りの自己を発展させたり、自分の思い通りにするために攻撃や脅迫を使うことがある[13]。彼らは、友達や他の家族の行動を観察した場合に、むしろ反対の行動に注力することがある。自己愛的な親の子供が、他の家族において安全で本物の愛を経験したりその演じられている例を見たりすると、自分の人生と健全な家族の子供の人生の違いを識別したり違いに基づいて行動することがある。例えば、家庭での共感性の欠如や不安定さが、子供自身の共感性や尊重されたいという欲求を高めるかもしれない。同じように、家庭内での強烈な感情コントロールや境界の無視が、感情表現に対するその子の価値観や、彼らの他者に対する尊重の拡張欲求を高めるかもしれない。子は親の行動を観察しているが、多くの場合、同じような行動を取る側にいる。家庭に起因する苦痛や苦悩に代わるものが現れた場合に、子供はより快適で安全を誘発する行動に焦点を当てることを選ぶことができる[13]。
 自己愛的な子育てに共通するいくつかの問題は、適切で責任ある養育が欠如していることに起因している。これは、子供が虚無を感じたり、愛情関係に不安を感じたり、想像上の恐怖を発展させたり、他人を不信に思ったり、アイデンティティの衝突を経験したり、親とは別の存在に成長することができずに苦しんだりすることの原因となる[14]。
 その家族の傷つきやすく罪の意識に苛まれている子供は、親の欲求を満たすことを学び、親の希望に沿うことで愛を求めるかもしれない。親の「愛」を得ようとする中で、子供の正常な感情は無視され、否定され、最終的には抑圧されてしまう。罪悪感と羞恥が子供を発育遅滞に閉じ込める。攻撃的な衝動や怒りは、分裂し、正常な発達と統合されないことがある。一部の子供たちは防衛機制として偽りの自己を発達させ、人間関係において共依存に陥る。その子供の本当の自己に対する無意識の否認は、真正の自己を思い出させるどのようなものも恐れて、自己嫌悪のサイクルを永続化させることがある。[13]。
 また、自己愛的な子育ては、子供が被害者やいじめっ子のどちらかになったり、貧弱なあるいは過度に膨張したボディイメージを持ったり、薬物やアルコールを使用・乱用する傾向があったり、注目を集めるために(潜在的に有害な方法で)行動することにつながる[15]。

短期的および長期的影響
 子供たちは脆弱性を原因として、自己愛的な親の行動から極度の影響を受ける[16]。自己愛的な親は、子供を導いたり子供の人生上の第一の決定者であるという通常の役割をしばしば悪用し、過度に所有的で支配的になる。この所有性と過剰な支配はその子の力を奪う。親は子を単なる自分の延長と見なしている[17]。これは、子の想像力や好奇心レベルに影響を与えることがあり、彼らはしばしば外発的な動機付けのスタイルを発展させることになる。この高レベルの支配は、自己愛的な親が、彼らに対する子の依存を維持しなければならないためである可能性がある[17]。
 自己愛的な親はすぐに怒って[16]、子供を身体的・精神的な虐待を受ける危険にさらす[18]。怒りや罰を避けるため、虐待的な親の子供は、親の要求にことごとく応じる最終手段にしばしば助けを求める[19]。これは、子供の幸福感および自分で論理的な判断を下す能力の双方に影響を与えるが、彼らは大人になると自信や自分の人生をコントロールする能力をしばしば欠く。アイデンティティの危機、孤独感、自己表現に関する苦心なども、自己愛的な親に育てられた子供によく見られる[17]。大人になって自己を発見するのにもがくのは、子供の頃に経験した相当量の投影性同一視に原因がある[17]。親への行き過ぎた同一視のため、子は自分自身のアイデンティティを経験する機会を一度も得られないかもしれない。

メンタルヘルスへの影響
 研究によると、自己愛的な親の子は、養育者が自己愛的だと認識していない子供に比べて、成人期に鬱病になる率が有意に高く、自尊心が低いことが分かった[17]。親の子に対する共感の欠如がこれに寄与しており、子供の欲求はしばしば否定され、感情は抑制され、すべての情緒的幸福は無視される[17]。
 自己愛的な親の子供たちは、服従し同調するように教えられ、個人としての自分を見失うことになる。これは、子供が自分自身であることで親から評価されたり愛されたりした記憶をほとんど持たず、代わりに愛や評価を同調と結び付ける原因となりうる[17] 。子供は自己愛的な親と距離を取ることで利益を得ることができる。自己愛的な親の子供たちの中には、親との関係を毒性のものであると見なすようになった場合、思春期に家出を試みる者もいる[18]。


関連項目
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参照
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参考文献
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外部リンク
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(Translated from the article "Narcissistic parent" on Wikipedia)

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 以前、私がウィニコットの偽りの自己がうまく理解できなかったのは、支配-被支配関係の逆説性(支配する側も実は支配されている)にこだわったからだと思うが、その後、偽りの自己を生み出す状況がまったく不作為にも起こりうることが納得できて、理解はややましになったかと思う。
 しかし今になって、病的自己愛の世代間連鎖をめぐって、これは親も子も偽りの自己で生きているということなので、一周したような格好で支配-被支配関係が重要な要素でないわけではないと再び思い出すようになってきた。彼らは相互的に持ちつ持たれつのファンタジーを生きているからだ。
 私の間違いは、偽りの自己の発生と維持とをある程度混同していたことと、権力関係を偽りの自己の必要条件として過大評価したこと、に原因があったように思う。
 ただ、親側に作為なく子が偽りの自己を形成して、親がそれを本当の子だと誤認しているようなケースも気にかかる。

 Elan Golombが古い方の著作の最後の方で「私が47歳の時に~」とか言い始めて驚愕していた(ということはこの時点でそれ以上の年齢)。博士号も持ったカウンセラーなのに、中年以上になっても病的自己愛の親からの影響に悩んでいることになるわけで、落胆せざるを得なかった。しかもそれから23年後の著作(当人70歳以上?)でも、結論部で『別の生き方は見つからなかった』という趣旨のことを仄めかしており、もはや三つ子の魂百までの再確認か。
 ネット検索してみるのだが彼女の正確な年齢はよくわからない。


追記(2021/06/30):
 一般にNPD母は子に合わせることに何らかの支障がある。

 母親が自分とは非常に違った赤ん坊をもって見込みちがいをすることも本当におこる。赤ん坊が彼女よりもすばしっこかったりのろかったり、などである。このようにして、赤ん坊が求めているものと思ったことが実際はまちがっていたということがおこる。しかしながら、不健康や身のまわりからのストレスのために歪んでない限り、全体として母親は幼児の求めるものをかなりの確かさをもって知ろうとするし、さらに求められたものを好んで与えるのである。これが母親による育児のエッセンスである。
 "母親からうける育児"によって、幼児は独自の存在をもつことができ、存在の連続性とでも呼べるものを形成しはじめる。この存在の連続性を基礎にして、生得的な潜在力は次第におのおのの幼児のなかで芽を出しはじめる。育児が適切でないと存在の連続性を欠くために、幼児は真の意味での存在とはならない。その代わり、環境からの侵害に対する反応に根ざした人格をつくりあげるのである。
D・W・ウィニコット『情緒発達の精神分析理論』P54-55

 NPD母は基本的に侵入的でもある。

 母親は赤ん坊を彼女の個人的経験や感情に巻き込まない。彼女の赤ん坊は彼女が殺したくなるくらいまでに泣きわめくこともあるが、彼女はまったくいつもの配慮でもって赤ん坊を抱き上げ、復讐することはない―いや、したとしてもそれほどでもない。彼女は赤ん坊を彼女自身の衝動の犠牲者にすることを避けようとするのである。育児とは、治療することと同じで、個人の信頼度についての試練のようなものである。
北山修『錯覚と脱錯覚』P30引用 D・W・ウィニコット『子供と家族とまわりの世界』原書P87

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 愛着理論で言われる愛着形成の臨界期は生後半年から2歳位までらしいが、もっと広く見て、子供というものは、人間の精神や知性や認知などの基礎部分を築くためのかけがえのない時間を生きている存在だと言っていいだろうと思う。例えば母語の獲得などもそうで、先月だか寄り道的に読んだスティーブン・ピンカー『言語を生みだす本能』では、クレオールとピジンの比較をしながら、言語の習得の場合の臨界期について叙述していた。ピジンのように臨界期を過ぎてからの言語の習得は、相当な努力をしても、ぎこちないものにならざるを得ないようだった(あぁ、やっぱり...)。

 つまり、話は大雑把には単純なのだ。人間の神経系をつなぐシナプスは生後数ヶ月から猛烈に発達し始め、様々な情報を過剰に取り込んでゆくが、同時進行的に思春期の前くらいまで「刈り込み」のようなことも行われる。必要な情報と不必要な情報の取捨選択が並行して行われるわけだが、刈り込まれてシナプスの総量は思春期頃には落ち着き、低い第二のピークである25才頃を境に死ぬまで漸減してゆくことになる。そのように乳幼児期から思春期前期にかけて、意識的にか無意識的にか、試行錯誤しながら形成された神経系が、その人のその後の精神生活の基礎をなすと考えるのが普通だろうと思う。
 これは愛着パターンの愛着スタイルへの変化時期にも対応するだろう。神経系発達過程については愛着理論の岡田尊司も言及していた。
 必ずしも臨界期について述べているわけではないが、トラウマ派の著作として、数年前に邦訳で読んだ、ベッセル・ヴァン・デア・コーク の『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』も紹介しておく。
 よく大の大人の精神的な悩みを解くのに子供時代の話をするのはバカげていると主張する人がいるものだが、上記のように、もし傷が早期に形成されてしまえば基礎部分の不具合で後々までタタリがあるというわけなので、そのような作業が発生する場合があるのは別に異常ではない。さらに早期の傷が本人には自覚されていないケースも少なくないので、自分はまったく良好に育ったと思い込んでいても、詮索してみるとかなりの偏りが発見される場合もあるだろう。その上でのケースバイケースではあろう。
 以前のエントリーのPete Walkerが、「希望」としていた、成人後の心的努力による神経系の新生や上書き作用は、ピジン話者の生涯続くぎこちなさの中に、その儚さが象徴されているような気がする。過大な期待は持つべきではないかもしれない。ただ、根治ではなく、眼の前の社会や現実への適応のための細かい努力として捉えるなら意味があるのだろうか。

 Elan Golombの『Trapped in the Mirror』は現在終盤の17章あたりをノロノロ読んでいるのだが、これは1992年の出版で、アリス・ミラーの次の世代くらいのかなり昔の本であった。だから今から見て理論的に整理されてないと言うか、Elan個人の傾向も多少ある気がするが、あちこち話が飛んでノイジーに感じられるのだと思う。原因論についても理論的解釈についても治療論についてもほとんど踏み込んでいない。しかし内容が空疎なわけでは多分なく、多数のエピソードとその背後のElanによる意味付けに価値があるのだろうし、いずれにせよ手探り時代にはこういった冗漫さは避けられなかったと思う。それで最近、彼女の2015年出版の新しめの本を購入した。Elan Golomb『Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction』だが、乗りかかった船と言うか、Elanの考えがその後どうなったか知りたいと思う。双方出版に20年以上ものラグがあるが、彼女の著作は基本的にこの二冊だけのようだ。

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 信頼すべき(?)Pete Walkerが著書内で勧めていたElan Golomb「Trapped in the Mirror」を今月23日に購入し少しずつ読み始めたのだが、個人的に非常に興味があるテーマ(自己愛)であるにもかかわらず、私の英語力とElan Golombのやや癖のある文体と他に日本語の書籍を読みたかったせいでのろのろとしか進めていない。
 「病的な」自己愛がいったいどこから生じるのかは重要な論点なのだが(自己愛そのものは誰にでもある)、Elan Golombは冒頭付近で親も病的なナルシシストでその非共感的な育児法が原因だと主張していて、彼女は後天的な意味での世代間転移を強く見ている論者なのかもしれない、と私はいまのところ思っている。今後の展開次第と言うか、まだ進捗が10%程度なのでどうとも言えない。
 コフートも非共感的な母親を出していたような気がする。怪我をした男の子の血が衣服に付着した兄/弟(無傷)の方だけを病院に連れて行った母親の事例を記述していたと思う。見捨てられた方が歪んだ形で誇大自己を発展させる。
 病的なナルシシストといえば、ウィニコットの「偽りの自己」論というのがあるのだが、それとの関係も気になる。最近邦訳(原書は2013年出版)で読んだスーザン・フォワードは「偽りの自己」論は時代遅れとして、脳血流のスキャン画像で説明しようとしていた。

 表面的に正気と狂気の境目を判断するだけなら、自己愛に限らず、現実検討能力の概念を援用するのがもっとも実用的な気がする。DSMなど専門家向けの様々な診断基準には一般人は深入りしないほうがいいかもしれない。あれは全体を知らないと対象領域そのものの位置づけができない。多分。

 本質と関係ないことだが、Elan Golombが引用している有名なマリー・アントワネットの「ケーキを食べればいいじゃない」はWikipediaによると当人の発言ではないようだ。


追記1(2021/03/01):
 うろ覚えだった箇所を訂正。
 コフートの事例は「自己の修復」内のM氏です。確かめると兄か弟かは不明だったので訂正。この出来事だけが原因なのではなく、母親の非共感性を象徴しているという扱いだと思います。


追記2(2021/03/05):
CIMG3345.jpg 自己愛関連の参考書のひとつとして読んだ、岡野憲一郎「自己愛的(ナル)な人たち」内で紹介されていた田房永子(漫画家)のプチ・ブームが私の中で始まっている。和書の多くを図書館に頼っているのだが、AMAZONの田房氏の著作に対するレビューも面白い。本来の読書の軸はあくまでElan Golombなのだけど、これのため速度は更に落ちている。
 私はNPDっぽい人を、便宜上、外弁慶型と内弁慶型に分けたりすることがあるのだが、田房氏の(著作内で描かれている)母親(像)は外弁慶的な面が比較的残っている人のような感じで、ある意味屈折の度合いが弱く、子供を破壊するような統制に発展しない分まだ救いがあるような印象も持った。社会的な挫折が運命づけられているとも言えるほぼすべてのナルシシストたちは、少なからず内弁慶的な面を持つようになると思うが、そちらのほうがより毒性が強いかもしれない。
 田房永子は、自分の母娘関係を描いたものが主要作品となり、漫画家としてそれ以外の分野への展開が可能かどうかわからない。商業的に厳しいかもしれない。
 自己愛的な母親に育てられるというのはCPTSDの典型的な成り立ちのひとつなのだが、やや他罰的な田房氏はPete WalkerのCPTSD4分類(Fight-Flight-Freeze-Fawn)でいうとFight型になるのだろうか?しかし今のところそこまで深刻な感じはしていない。図書館で予約している「キレる私をやめたい」を読んでから判断したい。


追記3(2021/03/16):
CIMG3351.jpg 図書館での予約の順番が回ってきて、田房永子の「キレる私をやめたい」を読んだが、彼女にはある程度の他罰傾向はあるのかもしれないが、ゲシュタルト・セラピーなるもので短期かつ劇的に改善したらしく、ある意味その程度だとも言えるのかもしれない。作中で紹介されているゲシュタルト・セラピーのコア概念である「今ここにいる」はまさにマインドフルネスそのもので(別に禅や森田療法から入っても似たようなことで)、特筆すべき何かという感じはしなかった。CPTSDとして捉えた場合、フラッシュバックがどこで起きるかみたいなことに注目したいわけだが、トリガーをめぐる過去や内面に関する詮索はあまりなく行動化の描写が優先される(漫画の性質上仕方ないのかも)感じでいまいちよくわからなかった。作中に登場する岡田法悦氏の「心-状況」の対立図式的な説明は、よくある共感性をめぐる議論とほとんど相似である。
 過干渉が親の中での何かに対する怯えから来ているのではないかとの田房氏の主張が印象に残った。何かとは、他者性みたいなことだろうか。


追記4(2021/03/23):
 上記いまいち感について自分なりに解説。
 Pete Walkerのやり方だと、フラッシュバックからの詮索で過去のトラウマ的状況を特定してそれにGrieving(嘆きや怒り)を付与しインナーチャイルドを再生するみたいな流れで、フラッシュバックがあるとむしろ問題となる過去をたぐり寄せるチャンスだくらいの捉え方だと思う。フロイトっぽく言えばそこから徹底操作が始まるわけだが、田房氏の自己否定的なストレスからの暴発の描写で物足りなく感じたのは、要はその手順が始まらなかったからだと思われる。しかし、他の著作を含み合わせれば、彼女は詮索以降の作業をすでに別の機会にやっていたかもしれない。個人の体験を一般化するときは警戒が必要だ。
 自己愛的な母親が子に自己否定を強いるのはよくあるけれど、Pete Walkerはその種のストレスに対する防衛のタイプとして4Fs(Fight-Flight-Freeze-Fawn)を設定している。この分類は微妙な面があり、4つが単なる同次元のバリエーションというわけではなく、Freeze型が他より重い症状のように叙述されていたりした。Fight型は自己愛的な表れとされるので、母親も自己愛的な場合、(病的)自己愛の転移が世代間で成就した恐れがある。


追記5(2021/04/09):

If a person treats his child as an extension of himself, the child does not feel like a person and the narcissistic problem passes on to the next generation.

Elan Golomb. Trapped in the Mirror (p.165). William Morrow. Kindle 版.

 私訳:『我が子を自分の延長として扱えば、その子は一人の人間としての感覚を持てず、自己愛の問題が次の世代へと受け継がれる。』

 Elanは繰り返し親から子への病的自己愛の伝染を主張する。
 「Trapped in the Mirror」はやや重いというか暗い雰囲気の作品である。彼女の比較的単純な主張に沿って、紙幅を圧倒するように彼女自身の親族を含めた非常に多くのネガティヴな事例や出来事が提示されるのだが、(恣意的に)切り取られたそれらは何らかのさらなる背景があるに違いなく、またそれぞれ明快な解決に至るわけでもないので、読むに伴ってどうしても暗い澱のようなものを印象に残す。
 久しぶりの再会でElanが長く連絡を取らなかったといって頬を叩き、彼女が大学を卒業したときにもなぜか叩くおば(父親の姉妹で本人は教育機会に恵まれなかったらしい)が異様な印象を残す。作中頻出する父親も奇妙な自己愛的な人で、Elanが親族ネットワーク上の病的自己愛の伝播に固執する理由が伝わってくる。

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