2009年6月アーカイブ

 英語版Wikipediaの"Otto F. Kernberg"の項目の拙訳です。今のところ、日本語版Wikipediaにはオットー・F・カーンバーグに関する独立したページはありません。今回は分量がかなりなので目次を訳しましたが、注記、一般参照、外部リンクについてはいつものように訳を省略しています。
 元の英文記事がそこそこ長文で複数人で編集されたせいか、Wikiにありがちなことではありますが、やや錯綜していました。まったく同じタイトルの項目(3と6)があったり、冗語のような箇所が幾つかあったりもしました。
 日本語で対応する用語が発見できなかった"object relations dyads"は「対象関係対(つい)」と訳しています。


オットー・F・カーンバーグ

オットー・F・カーンバーグは精神分析医でありウェイル・コーネル医科大学の教授である。彼は、境界性人格構造や自己愛病理に関する精神分析理論によって非常に広く知られている。また、彼の仕事は戦後の自我心理学(これは主に米英で発達した)とクライン派の対象関係論(これは主に大陸欧州と北アフリカで発達した)統合の中心であり続けた。彼の統合的な文章は、おそらく現代の精神分析医達の間で最も広く受け入れられている理論である、現代対象関係論の発展の中心だった。

ウィーン生まれであり、カーンバーグと家族は1939年にナチスドイツから逃れて、チリに移住した。彼は生物学と医学を学び、後に精神医学と精神分析学をチリの精神分析学会に学んだ。彼はロックフェラー財団の研究奨励制度によって、ジョン・ホプキンス病院でジェローム・フランクに精神療法の研究で師事するため、1959年に初めてアメリカ合衆国に来た。1961年に彼はC.F.メニンガー記念病院に参加し(後に所長になった)アメリカ合衆国に移住した。精神分析者のためのトピカ研究所の精神分析者達を指導・教育していて、メニンガー基金による精神療法研究プロジェクトの責任者だった。1973年に彼は、ニューヨーク州精神医学研究所の一般臨床サービスの責任者となるため、ニューヨークに移転した。1974年にコロンビア大学の内・外科医のカレッジで精神科の教授に任命され、精神分析の教育及び研究のためのコロンビア大学センターで精神分析医を教育・指導していた。1976年にコーネル大学の精神科教授と、ニューヨーク・コーネル病院医療センターの人格障害研究所所長に任命された。彼は1997年から2001年まで国際精神分析学会の会長だった。

彼の主な貢献は、自己愛と対象関係論及び人格障害の領域に存している。彼は構造的構成と重篤性の度合いに沿って人格障害を調整するための新しく有用な枠組みを開発した。彼は1972年にニューヨーク精神分析学会のハインツ・ハートマン賞を、1975年のエドワード・A・ストリーカー賞をペンシルベニア病院研究所から、1981年に精神分析医学協会のジョージ・E・ダニエルズ・メリット賞を、授与された。


≪目次≫
1.転移焦点化精神療法
1.1適合する患者
1.2TFPの終着点
1.3治療の焦点
1.4治療手順
1.4.1契約
1.4.2治療経過
1.5診断の詳細
1.6変異のメカニズム
2.自己愛理論とH・コフートとの論争
3.カーンバーグの発達モデル
4.自己愛の理論
4.1自己愛の類型
4.1.1健全な大人の自己愛
4.1.2健全な子供の自己愛
4.1.3病的な自己愛
5.カーンバーグvs.コフート
5.1自己愛性人格と境界性人格の関係
5.2健全な自己愛vs.病的な自己愛
5.3自己愛的理想化と誇大自己の関係
5.4精神分析の技法と自己愛的転移
5.4.1オットー・カーンバーグによる病的自己愛に関する分析的立場
5.4.2ハインツ・コフートによる病的自己愛に関する分析的立場
5.4.3ハインツ・コフートとオットー・F・カーンバーグにより考察されたアプローチ
5.4.4統合関係的アプローチ
6.カーンバーグの発達モデル
6.1初めの数ヶ月
6.2発達上の課題
6.2.1第一の発達上の課題:自己と他者の精神上の明確化
6.2.2第二の発達上の課題:スプリッティングの克服
6.3発達段階
7.カーンバーグの欲動に関する見解
8.注記
8.1一般参照
9.外部リンク


1.転移焦点化精神療法

オットー・カーンバーグは、転移焦点化精神療法(TFP)として知られる、精神分析的精神療法の集中的な形式をデザインしたが、これは境界性人格構造の患者により向いているとされる。境界性人格構造の患者は情動と思考においていわゆる「スプリット」を経験すると言われ、治療の意図された狙いには自己と対象の表象に分裂した部分を統合することに焦点が当てられている。

TFPは、一週間に最大3回45分~50分のセッションを必要とする、境界性人格構造(BPO)の患者に向けて特にデザインされた、精神分析的精神療法の強力な形式だ。それは、その個人が情動の込められた自己と特定の他者の和解に至っていない矛盾する内的表象を抱えているものと見なす。これらの矛盾した内的対象関係に対する防衛は同一性拡散と呼ばれ、他者や自己との関係を阻害する原因となる。自己や他者や関連する情動に対する歪んだ知覚は、セラピストとの関係の中に出現する(転移)時治療の焦点となる。これらの歪んだ知覚に対する無矛盾な解釈は変異のメカニズムと考察されている。

1.1適合する患者

カーンバーグはTFPを特に境界性人格構造の患者のためにデザインした。彼によれば、これらの患者は自我拡散や原始的防衛操作及び不安定な現実検討能力に苦しんでいる。

自我拡散は病的な対象関係の結果なのであり、矛盾的な性格特性や、自己と非常に理想化されるか価値を引き下げられるかした対象との関係の不連続を含んでいる。しばしばBPO患者により使用される防衛操作は、スプリッティング、否認、投影性同一視、原初的な価値の引き下げ/理想化、全能感、である。現実検討能力は、人の自己と対象の知覚を変容させる原初的防衛機制から否定的な影響を受けている。

1.2TFPの終着点

TFPの主たる終着点は、より良い行動制御、強化された情動規制、より親密で満足の行く人間関係、人生の目標を追求する能力である。これは、統合された自他表象の発展、原初的防衛操作の修正及び患者の内的表象世界の断片化を永続させる自我拡散の解決、を通して達成されると信じられている。これをするために、患者によって情動の込められた従前の人間関係の内的表象は、セラピストがセラピー上の関係において気付くものとして、即ちこれは転移のことであるが、一貫して解釈される。明確化や対立や解釈のテクニックは発展する患者とセラピストの間の転移関係の内に使われる。

1.3治療の焦点

他の多くのBPOへの治療法とは異なる、TFPの際だった特徴は、BPOの症状の根拠をなす特有の心的構造の着想にある。BPO患者は心の基礎的な分裂に苦しんでいる。自己と他者の相貌は防衛的に『すべて善』か『すべて悪』の表象に分割される。この内的分裂は、患者の、他者や一般的な周囲の状況を経験する方法を決定する。治療の目標は分割された自己と対象の表象を統合することにある。

この分裂は文字通り、自己と対象の表象の善なる部分を支配し制御し破壊する可能性のある、攻撃的衝動に対する防衛である。自己と対象の表象における善なる部分は分割することによって守ることを試みられる。

BPOは情動的なものが込められた人間関係の体験(それは時を経てその人の心に累積的に内面化され彼または彼女の精神構造に『対象関係対』として構築される)に起因するだろう。

精神発達の過程では、これらの分離された二者はより成熟した柔軟な自他の感覚を伴い統合された全体へとまとめられる。

1.4治療手順

1.4.1契約

治療は治療契約の作成により始まるが、それはすべての患者に適応される一般的なガイドラインと、治療過程を妨害するかもしれない個別の患者の問題領域より作成された特別項目から成っている。契約にはセラピストの責任も含まれている。患者とセラピストは治療が進展する以前に治療契約の内容について合意をしなければならない。

1.4.2治療経過

TFPは以下の3つのステップから成っている。
・(a)転移における個別の内的対象関係の診断的記述
・(b)転移における自己と対象の表象の合致、転移・逆転移における彼らの振るまい、に関する診断的詳細
・(c)自己と他者が統合された感覚(自我拡散を解決する)をもたらす、分裂した自己表象の統合

治療の最初の年においては、TFPは以下の問題階層に焦点を合わせる。
・自殺的、自己破壊的行動の封じ込め
・治療を破壊する多様な方法
・優勢な対象関係パターン(未統合または未分化である自他の情動・表象からより首尾一貫した全体へ)の同定及び要約

1.5診断の詳細

精神療法上の関係においては、転移によって自己と対象の表象が活性化される。治療の途上において、投影や同一化が働き、すなわち、価値の引き下げられた自己表象がセラピストに投影され、また一方で患者は危機的な対象表象を同一視する。これらのプロセスは普通怒りや恐怖といった情動体験とつながっている。転移によって活性化されるだろう自己-対象による表象の例を以下に述べた。

・自己 対象
・コントロールされ怒る子供 コントロールする親
・望まれぬ放任された子 自己陶酔的な親
・障害のある子供 軽蔑する親
・嫌がらせの犠牲者 サディスティックな攻撃者
・剥奪された子供 自己中心的な親
・性的に興奮する子 去勢する親
・扶養され満足する子 溺愛し賞賛する親

転移から浮かび上がってくる情報は、2つの理由により、その人の内的世界への直接的な接近手段を供給する。第1の理由は、共有する現実に対する矛盾した知覚をすぐに議論の俎上に載せることが出来ることから、それがセラピストと患者双方により同時に観察されうること。第2の理由は、共有している現実に対する知覚は情動を伴うのに対して、歴史的題材に関する議論は知的質を持ち得てはしも、だからこそあまり参考にならないこと。

分裂した自己表象の解釈的統合
TFPは精神療法セッションにおける解釈の役割を強調する。自他の表象の分裂が治療を通し演じきられるので、セラピストは、断片化した自他の感覚による継続的分裂を下支えしている原因(恐怖や不安)を患者が理解するのを手助けする。この理解には治療上の関係内での強い情動経験を伴う。この理解と情動経験の結合は、分裂した表象の統合や、患者のアイデンティティーと他者の経験が統合された感覚の創出を導く。それ故、精神構造の統合はBPO症状の低減をもたらしうる。

1.6変異のメカニズム

TFPにおいて仮定された変異のメカニズムは、カーンバーグの発達に基礎を置く境界性人格構造の理論に由来しているが、自他における未統合で未分化な情動と表象に関して概念化されたものだ。自と他の表象の一部は対をなしていて、対象関係対と呼ばれる心的単位内の情動に結びついている。これらの対は精神構造の要素である。境界性病理では、内的な対象関係対の欠落は、否定的表象が自と他(全面的な善か悪として見られる人々)の理想化された肯定的表象からすっかり分離され隔離されているような、『分裂』した精神構造に該当する。推定されているTFP治療患者の全体的な変異のメカニズムとは、これらの分極した情動の諸状態や自他表象をより首尾一貫した全体へと統合することなのだ。

2.自己愛理論とH・コフートとの論争

オットー・カーンバーグは自己愛には3つのタイプがあると述べている。つまり、健全な大人の自己愛、健全な子供の自己愛、病的な自己愛、である。病的な自己愛は、自己の病的構造におけるリビドー備給として定義され、自己愛性人格障害が全体の中で最も重度なのだが、更に3つのタイプ(幼児的自己評価規範への退行、対象の自己愛的選択、自己愛性人格障害)に分けられる。未だに、自己愛はオットー・カーンバーグとハインツ・コフートの間の不調和の大きな源であり続けている。両者とも、自己愛的、境界的、精神病的な患者に焦点を当てているのだが、その焦点と彼らの理論と治療の内容は相当に違ってきた。彼らの主要な相違点は、自己愛性と境界性の人格、正常と異常の自己愛、自己愛的理想化と誇大自己に関する着想、同じく精神分析手法と自己愛転移、の間の関係についての概念化に対する反応の上に現れる。

3.カーンバーグの発達モデル

他の主要なカーンバーグの貢献は彼の発達モデルである。このモデルの中で彼は人が達成しなければならない3つの発達上の課題を記述している。ある発達上の課題を達成することに失敗した場合、これはある精神病理を発展させる高危険に対応する。最初の発達課題に失敗することによって、それは自己と他者の精神的な明確化のことなのだが、多様な精神病を発展させる高危険が生じる。2番目の課題(スプリッティングの克服)が達成されないと、境界性人格障害を発展させる高危険が生じる。

4.自己愛の理論

カーンバーグによると、自己とは複数の自己表象から成る精神内部の構造のことだ。それは善と悪の自己イメージを統合しているような現実的な自己である。すなわち、自己はリビドーと攻撃性の備給された要素が組み合わさった構造を構成する。カーンバーグは通常の自己愛を自己のリビドー備給として定義した。しかしながら、この自己のリビドー備給が、単にリビドーエネルギーの本能的源から生じているわけではないことは、強調される必要がある。それどころか、自我-超自我-イドといった、自他の精神内部の構造間の諸関係に由来するのだ。

4.1自己愛の類型

4.1.1健全な大人の自己愛

これは普通の自己構造に基礎を置く普通の自己評価のことである。この人は、摂取された対象表象の全体を持ち、安定的な対象関係と強固な道徳体系を持つ。超自我は十分に発達し他と区別されている。

4.1.2健全な子供の自己愛

自己評価の規範は年齢にみあった満足を通して生起するが、それは子供の健全な価値・要求・禁止の体系を含み意味する。

4.1.3病的な自己愛

3つの亜型
・幼児的自己評価規範への退行。理想自我は子供のような欲求や価値および禁止により支配されている。自己評価の規範は、大人の生活では廃棄されるような幼児的快楽に対する表出や防衛に過剰に依存している。これは最も軽度な病的自己愛のタイプだ。
・自己愛的対象選択。このタイプは初めのものよりは深刻だがより稀である。幼児的自己の表象は対象に投影され、その同じ対象を通して同一化される。それ故、リビドー連合が生じ、そこでは自己と他者の機能が入れ替わる。
・自己愛性人格障害。このタイプは健全な大人の自己愛とも健全な子供の自己愛への退行とも違う。最も重篤なタイプであり精神分析療法に適している。

カーンバーグの見方では、自己愛性人格は、健全な大人の自己愛から区別され、健全な子供の自己愛に向けられる固着あるいは退行からも区別される。発達の原初的段階での固着や特定の精神内部の構造の発達の欠落では、自己愛性人格の特徴を説明するのに十分ではない。それらの特徴(自我と超自我構造の病的な区別と統合の過程を通しての)は病的な対象関係の結果なのだ。病的自己愛は単なる自己の内でのリビドー備給なのではなく、病的で未発達な自己の構造の内でのものなのだ。この病的構造は早期の自己と他者のイメージに対する防衛(それらはリビドー的あるいは攻撃的な備給である)を表出する。精神分析のプロセスは原初的対象関係、衝突と防衛(それらは対象が安定する前の発達段階では典型的である)を明るみに出す。

5.カーンバーグvs.コフート

オットー・カーンバーグとハインツ・コフートは、過去と現在の精神分析理論に顕著な影響を与えてきた二人の理論家であると考えられる。二人とも、分析的治療には合わないという風に考えられていた患者の観察と治療に焦点を当てた。彼らの主たる業績の殆どが、自己愛性か境界性か精神病の病理を持つ人達に関係している。今なお、これらの障害の原因、精神構造、治療法、に関する彼らの見取り図は大幅に違っている。全体として見ると、コフートは、根本的にジグムント・フロイトの仮説的諸概念から出発した自己に関する理論家と見なされ、主に人々の自己組織化や自己表現への欲求に焦点を当てた。カーンバーグは対照的に、フロイト派のメタ心理学への忠誠を残し、人々による愛憎を巡る苦闘に関してより力を注いだ。彼らの主たる違いを以下に要約する。

5.1自己愛性人格と境界性人格の関係

この二人の理論家の主要な不一致の1つは、自己愛性・境界性人格障害内の概念化を中心に展開している。カーンバーグによれば、自己愛的な人の防衛構造が境界性の人のそれとよく似ているのは、スプリッティングや投影性同一視のような防衛を見る時にそれが明白になるのだが、前者が境界性人格構造に基礎を置くからなのだ。彼は、彼/彼女の感情や欲求に対して無関心でうわべだけで(冷淡に)子供を扱う母親代理の重大な役割を強調することにより、これらの人々への阻害の起源としての環境要因と体質的要因を識別する。コフートは他方、境界性人格を自己愛性人格とはすっかり違ったもので、分析的治療から受けられる利益も少ないと見ている。同様に、自己愛性人格はより回復力に富む自己によって特徴付けられるので、分析により適している。コフートによれば、環境だけがこれらの人々の苦しみの主たる原因である。更には、双方が自己愛性人格の理論化において「誇大自己」の概念に焦点を当てるのだが、彼らは異なった説明をそれに与えている。コフートにとって「誇大自己」は「原初的で『正常な』自己の固着」の反映であり、一方カーンバーグにとってはそれは病的な発達なのであり健全な自己愛とは違うのだ。コフートにとって治療は主に患者の自己愛的な欲求や希望、転移のプロセス中で露呈するを要求を促進させることに中心を置くべきものである。カーンバーグにとっては、治療の目的には患者が彼/彼女の内的な断片化した世界を統合するのを手助けするために対立の戦略が用いられるべきなのだ。

5.2健全な自己愛vs.病的な自己愛

コフートとカーンバーグ間の主たる議論の1つは健全と病的な自己愛に関するものだ。前述のように、コフートは自己愛性人格が発達停止に苦しめられていると仮定する。特に、彼はこのタイプの人格は、親の環境下での子供時代の発達においてなお満足を与えられなかったところの、順応性のある自己愛的な希望や要求や対象を、映し出していると仮定する。ここにおいて、誇大自己は健全な自己と成るべき見込みの原初的形式以上のものではない。このことが起こらなかった時に病的自己愛が出現するのだ。病的自己愛に対する彼の説明では、どのようにこの障害が発達するかの原因を規定するためにリビドー的力や備給に注意が支払われている。彼にとってこの攻撃衝動はリビドー衝動に関して第2番目に重要なものなのであり、凡庸な攻撃性と自己愛的憤怒を区別すべきである理由なのだ。前者は、彼によるなら、現実的なゴールに向かう場合の妨害物を消すための適応であるのに対し、後者は自己愛的な傷に対する強力な反応である。カーンバーグは、しかしながら、コフートの着想を攻撃性の力を重視しないものだと見なしている。彼は、自己愛的振る舞いが攻撃衝動がその中心的役割を担うような病的発達の結果であると提案することによって、フロイト派の概念化をより支持する。彼は、自己愛は全体に見てリビドー衝動から分けて考えることが出来ない強い攻撃衝動を含んでいると述べている。「各自の内的対象関係の発達をリビドー的・攻撃的衝動の双方の肢に関係づけることなしに、健全あるいは病的な自己愛の変遷を学ぶことは出来ない」と彼が言うように。

5.3自己愛的理想化と誇大自己の関係

コフートは、転移を発展させる能力を欠いていて幾らかの患者は分析できなかったと示唆した、古典的なフロイトの考え方から離れた。彼は、自己愛患者は転移を出現させる能力があるがこれらは他の患者(神経症のような)とやや違うのだと主張した。彼は3つのタイプに分けたのだが、すなわち理想化、鏡、双子転移である。彼のカーンバーグとの議論は殆ど理想化転移に関係していて、コフートによると、健全な発達における原初レベルでの固着と関係している。それでもカーンバーグは理想化転移は、転移において誇大自己の実質的な駆り立てに対する反応として形成されたところの、理想化の病的な型以上ではないと信じた。

5.4精神分析の技法と自己愛的転移

オットー・F・カーンバーグとハインツ・コフートは、分析者の役割と同様に分析のプロセスを、まったく違う観点から尊重した。

5.4.1オットー・カーンバーグによる病的自己愛に関する分析的立場

カーンバーグは、転移の中に現れる誇大自己と理想化の防衛的機能に関する方法論的で永続的な解釈を求めた。『重度人格障害 ~精神療法の方策』(ニュー・ヘイブン:イェール大学出版局)。分析者の役割は、特に対立的なプロセスにおいては、自己愛者の病的構造を修正するため、補助的と言うよりはむしろ中立的であるべきである。「分析者は、これらのケースの個別的な転移の質に焦点を当て続け、一貫して患者の全能的支配と価値の引き下げへの努力に対抗しなければならない」自己愛的現象の攻撃的解釈に対するこの伝統的な強調は、フロイト初期に分析不能だった自己愛神経症と、分析過程で最も強情な抵抗を起こす自己愛的防衛、に対する見方に由来し完全に一致している。

5.4.2ハインツ・コフートによる病的自己愛に関する分析的立場

原始的誇大感や理想化を現実からの防衛的退却の表象として見る一方で、ハインツ・コフートは分析場面での自己愛的錯覚を発達上の重大な契機を確立しようとする患者の試みの表象として捉える。これらの自己愛的錯覚はそれ故自己の活性化への契機を与える。だから、ハインツ・コフートは治療における分析者の立場が十全な自己愛転移を、問題にする代わりに、励起するべきであるところに存すると主張する。これを確立するため、分析者は共感的理解を示せなければならないが、それには自己愛的錯覚に対する感受性と、彼らへ異議申し立てをしたりそれらが非現実であることを示唆したりのすべてのいかなる負担をも忌避することを必要とする。ハインツ・コフートは自己愛転移と自己-対象要求の概念を使う。彼はまた幼稚症と、分析者とその他の全員に対する過剰な要求であるように見えるものの重要性を強調する。放棄されるべき本能的希求というよりはむしろ、あたたかく受け入れ理解されるべき発達上の要求を彼らは見失っている。患者は、彼の発達の早期に何が失われたのかを他者から引き出そうとすることにより、自己治癒を手探りしている。ハインツ・コフートは、分析者がどのように彼が知っていると思っていようと、患者は彼が何を必要としているのかを知っていると感じている。彼は成熟におけるまた発達を通しての希望の重要性を強調する。自己の経験を活性化する理想と理想化への要求が持続してある。彼の自己愛患者との仕事の中において、ハインツ・コフートの精神分析的方法論の決定的特徴はだから共感的没入(あるいは代行的検討)となり、それ故彼は患者の身になって考えようとする。この見地は上記に議論したフロイト早期の自己愛的防衛の分析可能性に関する見地と好対照である。

5.4.3ハインツ・コフートとオットー・F・カーンバーグにより考察されたアプローチ

コフートとカーンバーグの両方は、互いのアプローチを逆効果だと見なしていた。コフートの視点からは、カーンバーグが勧める方法論的解釈アプローチは、自己愛的に弱い患者により攻撃として解釈され激しい自己愛的憤怒を生成する。カーンバーグはこれらの患者を治療するためにむしろこの方法論を勧めているので 自己心理学はカーンバーグをそれを治療する代わりに自己愛を創造していると見なしている。他方、カーンバーグは(より伝統的な視点から)コフートのアプローチは何ももたらさないと見ている。患者の錯覚に対する、それらが結局はひとりでに減退するのだという仮説を伴う、疑問を差し挟まない受容は患者の防衛との共謀を意味する。分析の過程はそれ故堕落し、分析者は有意義に患者を手助けしうる人物として出現することはない。

5.4.4統合関係的アプローチ

しかしながら、ミッチェルは カーンバーグとコフートの観点が双方つなげられた統合関係的アプローチを提案している。彼の意見によれば、「自己愛へのより伝統的なアプローチは、自己愛的錯覚が防衛的に使用される、重要な道筋を強調しはするが、それらの健康と創造性における、またある種の発達上不可欠な他者との関係性の確立における、役割を見落としている。発達停止アプローチ(コフート)は自己愛的錯覚の成長増進機能を強調した自己愛への考え方を生んだが、それらはしばしば被分析者と分析者を含む他の人々との現実的関与を収縮させ阻害する領域を見逃している。」とする。ミッチェルは「被分析者の錯覚をはっきりさせ抱擁することが一方で、それらが経験されうるより大きな背景の提供がもう一方であるような、微妙な弁証法」を勧める。

6.カーンバーグの発達モデル

カーンバーグの主要な貢献の1つは彼の発達モデルである。このモデルは主に、健全な関係を発達させるために完遂しなければならない発達上の諸課題の上に構築されている。各々の発達上の課題を完遂することは精神病理のレベルを表わしていて、それは見出しの発達諸段階を基にして叙述されている。更に、彼の発達モデルはカーンバーグの、フロイトとは違う、欲動に関する見方を含み込んでいる。カーンバーグは明らかにメラニー・クライン、彼女のモデルは主に妄想-分裂ポジションと抑鬱ポジションに頼っている、に触発された。カーンバーグの着想に関するより詳細な情報はコーエン・Mによる最近の出版物の中に見付けることが出来る。

6.1初めの数ヶ月

カーンバーグは幼児に関して、彼の人生の最初の数ヶ月においては、この経験の感情価を土台とする経験を整理しようと苦闘するものとして見ている。幼児は2つの異なった情動状況の間を行ったり来たりする。ひとつ目の状況は快楽と喜びによって特徴付けられ、もう一つの状況は不快と痛みや苛立ちのことだ。どの状況にあるかに拘わらず自他の間では区別されていない。

6.2発達上の課題

6.2.1第一の発達上の課題:自己と他者の精神上の明確化

最初の発達上の課題は、自己であるものと他者であるものの区別を付ける能力を具現化する。この課題が達成されないと、自身の経験と他者の経験の区別が付けられないから、分離され区別された依拠しうる自己の感覚を発達させ得ない。この失敗は、すべての精神病状況への主要な前触れとなると仮定されている。統合失調症の諸症状(幻覚、妄想、断片化)においては、私達は、内的と外的世界、自身の経験と他者の経験、自身の心と他者の心、を区別する能力が欠落しているのを見ることが出来る。

6.2.2第二の発達上の課題:スプリッティングの克服

第二の発達上の課題はスプリッティングの克服だ。第一の発達上の課題が達成された時、人は自己イメージと対象イメージの区別が出来るようになる。しかしながら、これらのイメージは情動的には分離されているに止まる。愛すべき自己のイメージや善き対象のイメージは肯定的情動により纏まっている。憎むべき自己のイメージと悪い苛立たせる対象のイメージは否定的または攻撃的情動により纏まっている。善なるものは悪なるものと区別されている。この発達上の課題が達成されると、子供が対象を『全体』として見ることが出来るので、子供が対象を善でも悪でもあるものとして理解しうることを意味する。対象を『全体』として見ることの次に、子供は自己を、愛するものと憎むもの、同時に善でも悪でもあるものと見なす必要がある。この第二の発達上の課題に失敗すると、これは境界性人格(対象と自己が善でも悪でもあると見られない、何かが善あるいはそれは悪であり、双方の情動は同一対象に同時に内在し得ない、ことを意味する)をもたらす。

6.3発達段階

カーンバーグの自己と対象の発達モデルは、内的対象関係の成長単位描く5つのステージに基礎を置くが、そのうちの幾つかは早い段階の間に起こり始める。ステージは静的なものではなく流動的なものだ。

ステージ1(0から1ヶ月):健全な自閉
このステージは、自己と対象の表象が区別されないものとして特徴付けられる。このステージはマーラー、パイン、バーグマンの自閉概念と同じである。

ステージ2(2ヶ月から6~8ヶ月):健全な共生関係
このステージの初めには子供は対立する感情価を統合できない。リビドー的備給および攻撃的備給をされた表象は『善き』自己-対象の表象と『悪しき』自己-対象の表象に厳密に分けられる。

ステージ3(6~8ヶ月から18~36ヶ月):自己の対象関係からの区別
このステージでは、『善』の自己-対象の表象が『善』の自己と『善』の対象に区別され、直後に『悪』の自己-対象表象が『悪』の自己と『悪』の対象に区別される。子供の自己と他者の区別の失敗は精神病的人格構造をもたらし、第一の発達上の課題の達成に失敗しステージ2にはまり込む。このステージでは自己と他者の区別が起こるが、善および悪の自己および対象の表象は、母との理想的で善い関係を悪い自己表象や悪い母の表象の汚染から守るため、スプリッティングのメカニズムを通じて厳しく分けられる。

ステージ4(36ヶ月以上でエディプス期を経る):自己表象と対象表象の統合
このステージでは、『善(リビドー備給された)』と『悪(攻撃的備給された)』の自己と対象の表象ははっきりした自己システムと全体的な対象表象に統合される。肯定的と否定的特徴の両方を含む自己と他者の可能性が理解されうる。これに失敗すると境界性人格構造を残し、第二の発達上の課題の達成に失敗しステージ3にはまり込む。その結果、善き自己と対象は、善と悪の分裂によりもたらされる攻撃性からなお防御されなければならない。

ステージ5:超自我と自我の統合の強化
このステージでは、自我、超自我およびイドははっきりとした精神内部の構造に統合される。

すべての発達上の課題の完遂に成功すると、子供は神経症的人格構造を発達させるが、それは最も強い人格構造なのである。

7.カーンバーグの欲動に関する見解

フロイトの観点とは違って、カーンバーグによると欲動は生まれつきのものではない。リビドーと攻撃の衝動は他者との相互作用の経験により時を経て発達し形成される。子供の善と悪の情動はリビドーと攻撃の衝動の内に形成され固められる。善は、快い他者との相互作用として、時を経て快楽追求的(リビドー的)な衝動に固まる。同じように悪は、他者との不満足で苛立たしい相互作用として、破壊的(攻撃的)な衝動に時を経て固まる。

8.注記
(省略)

8.1一般参照
(省略)

9.外部リンク
(省略)

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太宰治生誕百年
NHK 「絶望するな ダザイがいる」
 ちょうど今日で太宰治の生誕100年であるらしく、このところNHKやら大手新聞社やらのマスコミが色々なキャンペーンをしているようだ。
 太宰治は、要は境界例というか、今で言う人格障害のクラスタB系だったのだと思うけど、長い間、その種の人々の迷いや悩みや苦しみみたいなものを細やかに身をもって代弁してきたのだろうと思う。不幸な共感者達は内面宇宙の北極星のように太宰を捉えていたかもしれない。
 しかし、精神医療はもはやかなりの程度境界例を理解してしまったから、幾冊も文芸小説を読む暇があったらメンタルヘルス系の良書をただ一冊読む方がよほど有効かもしれない。また今やネットコミュニティを探せば幾らでもその種の「同類」と出会えるだろう。境界例がどのようなものであるかということや、現に少なからぬ規模の人々がそれに苦しんでいるのだということは、ほとんど常識に属するような知識になったと言っても過言ではない。
 NHKが番組タイトルとする「絶望するな、ダザイがいる」といった軽薄な言葉で蒙昧なる人々に無意味な迂回を強いようとするやり方は俗悪そのものだ。太宰の生涯は夥しい悲劇の内のただ一例に過ぎない。その作品ももはや「現役」ではないのであり、ただ古典として鑑賞すべき域に入っていると私は思う。
 もう太宰に頼らなくても、より正確で直接的な契機が現代社会には存在する。
 しかし、その上でなお今に生きる名も無き人々の前にそれぞれのあり方での困難が横たわっている。
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 英語版Wikipedia内の"Dysthymia"の項目の和訳です。外部リンクや補足・参照等の訳は省略しています。ディスチミア自体の訳語としては「気分変調症」があります。広義における鬱病の一種であるようです。"Dysthymic Disorder"とほぼ同義に捉えられているようです。
 近年、雅子妃を巡る一連の報道で「ディスチミア親和型鬱病」なる用語が新型(!)鬱病の名として流布しました。現代の日本の若者に特徴的な鬱病なんだそうですが、ディスチミアという言葉自体は少なくとも古代ギリシャからあるようです。無論、日本の学者(樽味伸)が言い出したのは、あくまで「~親和型」なのでディスチミアそのものとは違うのでしょうが、何を意味してるのかいまいちはっきりしません。単にある種のパーソナリティー障害に伴う抑鬱状態(or軽度鬱病)を表現しているだけなのではないかという疑念を、私は初めて用語を知った時から持っているのですが、まだあんまり払拭されません。
 まあ、そのことはどうあれ、以下が「ディスチミア」単独の説明になります。


ディスチミア

ディスチミアは慢性気分障害のことであり、鬱病の範囲に入るものである。慢性鬱病の一つと考えられているが、大鬱病に比べて重篤性は低い。この障害は慢性的であり、長く続く病気である。

ディスチミアは軽度鬱病の一つのタイプである。ハーバード保健出版局は、「ギリシャ語であるディスチミアは『心の悪い状態』や『不機嫌』を意味している。臨床的鬱病の二つの根本形式の内の一つとして、それは通常大鬱病より少ないか軽い症状を持つが、より長く続く。」と述べている。ハーバード保健出版局は、「少なくともディスチミア患者の3/4は慢性的な身体疾患か、不安障害や薬物嗜癖またはアルコール依存症のような他の精神障害も持っている。」と言っている。プライマリケアジャーナルは「人口の約3%がディスチミアに罹っており重大な機能障害と関連している。」と述べている。ハーバード保健出版局は「ディスチミアの人々の家族の鬱病率はこの早発型障害の50%に当たる。」また「ディスチミアの人々のほとんどは自分が最初に鬱病になったのがいつなのか正確に言えない。」と言っている。

1.症状

ディスチミアは、大鬱病に特徴的な症状の多くを共有する、慢性(長く残る)型の鬱病である。しかしながら、これらの症状はどちらかというと軽い傾向にあるが、激しく変動する。診断されるには、右の症状の内2つ以上を、少なくとも2年間に亘ってそうでない日より多くまた日の殆どにおいて、大人が経験していなければならない。

・絶望感
・不眠または過眠
・集中力欠乏あるいは決断の困難
・低活力あるいは疲労
・低い自己評価
・乏しい食欲か過食
※これらの症状は『躁病、軽躁病、双極性障害に一般的に関連する混合エピソード』によるものを除く(もしこれらのエピソードを経験しているなら、気分循環症かもしれない)。

ディスチミアの人々は大鬱病に発展する可能性を平均よりかなり高く持っている。流動的症状の激しさは大鬱病の十全なエピソードを誘発しうる。よくあるような低調な気分の感じを伴って激しいエピソードがあるので、この状況は時々「二重鬱」と呼ばれる。

ディスチミアは慢性障害なので、もし仮に診断が存在するなら、そう診断されるまでしばしば何年にも亘って症状が経験されているかもしれない。結果として、彼らは鬱病が彼らの個性の一部だと信じる傾向がある。これは、それ以降、その症状に関して医師や家族や友達と話し合うことすらしない患者に通じるかもしれない。

ディスチミアは、大鬱病に似て、家族に及ぶ傾向がある。男性より女性の方が2~3倍よく起こる。幾らかの患者は慢性的なストレスの下にあると記述している。診断を受けた人を治療する際、彼らが普段から高いストレスの下にあるかどうか、あるいは、ディスチミアが標準的な環境で彼らに更なる心理的ストレスを与える原因になるかどうか、見分けるのがしばしば困難である。

2.診断基準

アメリカ精神医学界が出版する『精神障害の診断と統計の手引き(DSM)』は、気分変調障害(Dysthymic disorder)の特徴を明らかにしている。本質的な症状としては、少なくとも2年に亘り日の殆どで抑鬱を感じていることを必要とするが、大鬱病に必要とされる基準は除かれている。低活力、睡眠や食欲における障害、低い自己評価は同様に典型的に臨床像の一因となる。患者はしばしば診断以前多年に亘ってディスチミアを経験している。彼らの周囲の人々は患者が『単なる気分屋』だと信じるようになっている。以下の診断基準に留意してください。

①2年以上の期間の大部分で、またその一日の殆どにおいて、患者が抑鬱であると報告するか、他人に抑鬱であると見られている。
②抑鬱状態にある時二つ以上該当する。
 1.食欲の増減
 2.睡眠の増減
 3.疲労または低活力
 4.貧しい自己像
 5.集中力と決断力の減退
 6.絶望や悲観の感覚
 7.過度の筋肉痛、特に上背と足について
③この2年間で上記の症状が2ヶ月以上連続して不在ではないこと。
④このシンドロームの最初の2年間で、患者は大鬱病エピソードを持たない。
⑤躁病、軽躁病または混合エピソードを持っていない。
⑥気分循環性障害の診断基準を満たしていない。
⑦その障害がもっぱら(統合失調症や妄想性障害のような)慢性精神病の文脈において成立しているわけではない。
⑧症状が大方において一般身体疾患や処方薬を含む薬物使用に直接の原因を持たない。
⑨大鬱病とは対照的に、これらの症状は必ずしも臨床的に顕著な苦痛または、社会的、職業的、学術的、あるいは他の主要な機能分野においての障害を生じないかもしれない(APA, 2000)。ディスチミアに苦しむ人々は普通は日常生活(通常は確証をもたらすような下記の個別の日常作業による)にうまく対処する能力がある。
※幼児や思春期青年においては気分が過敏になり易いので、継続期間は、大人が診断のために2年を要するのとは異なって、少なくとも一年でなければならない。

3.治療

3.1薬物治療

大鬱病と違って、薬物治療はただ最後の手段であるべきだ。代わりに、患者がその性質を理解することでディスチミアへの対処法を学ぶといったようなことも含めて、精神療法に治療は主として基礎を置かれるべきである。

もし薬物治療が必要だと判断された場合、この障害に対して最も一般的に処方される抗鬱剤は選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)であり、これにはフルオキセチン(プロザック)、セルトラリン(ゾロフト)、バロキセチン(パキシル)、そしてシタロプラム(セレクサ)が挙げられる。SSRIは入手が簡単で古いタイプの抗鬱剤より比較的安全である。他に挙げられる新しい抗鬱剤は、ブプロピオン(ウェルバトリン)、ベンラファクシン(エフェクサー)、ミルタザピン(レメロン)、デュロキセチン(シンバルタ)、である。

しばしば違った二つの抗鬱剤が一緒に処方されたり、医師が抗鬱剤と組み合わせて気分安定剤や抗不安剤を処方するかもしれない。

3.2薬物の副作用

SSRIの幾つかの副作用としては、『性機能不全、むかつき...下痢、眠気や不眠、短期記憶の喪失、震え』がある。抗鬱剤は時々患者に効かない場合もある。そのような場合は古めの抗鬱剤、三環系抗鬱剤やMAOI、を試しうる。三環系抗鬱剤はより効果が強いが、悪効果も持っている。三環系抗鬱剤の副作用は、『体重増、口の渇き、視界不良、性機能不全、低血圧』である。

3.3精神療法

薬物療法と精神療法のコンビネーションが最高の改善をもたらす可能性があることは、幾つかの証拠が示している。その人にとって助けになる精神療法のタイプは、ストレスのたまる出来事の性質、家族やその他社会的な支援の利用可能性、個人的な好き嫌いなど、多数の要因に依拠する。セラピーは鬱病に関する教育を含む。サポートは必要不可欠だ。認知行動療法は分析し、誤った自己批判的な思考パターンを是正し、気分障害者が一般に経験する認識のゆがみを正すのを助けるよう設計されている。精神力動的、内省重視あるいは人間関係の精神療法は、重要な人間関係内での対立を整理し、症状の背後の歴史の探索に役立ちうる。

(Translated from the article "Dysthymia" on Wikipedia)

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 英語版Wikipediaの"Splitting(psychology)"の項目の和訳です。今のところ日本語版Wikipediaには当該項目はありません。目次と参照は割愛。Splittingという単語は「分裂」等と訳される場合もあるようですが、いかにも多義的な日常語なので使用せず、そのままカタカナ表記しました。


スプリッティング

スプリッティングは、純粋に極端に思考することとして説明されうる。例えば、善と悪、強力であることと無防備、等々。スプリッティングは発達段階の一つとして及び防衛機制の一つとして理解されている。

スプリッティングはピエール・ジャネによって初めて叙述された。彼はこの用語をその著書『心理自動現象』の中で新作した。ジグムント・フロイトもまたこの着想を説明しようと努力したが、後に娘のアンナ・フロイトによってより明確に定義づけられた。

1.発達段階としてのスプリッティング

1.1メラニー・クライン

彼女の対象関係論において、メラニークラインは子供は二つの原初的欲動を携えて生まれると述べた。つまり愛と憎しみである。すべての人類は人生を通じて両方の欲動を建設的な社会関係に統合すべく悪戦苦闘するが、幼児期の発達における一つの重要なステップはこれら二つの欲動に対する緩やかな脱二極化である。クラインによれば、このステップは妄想-分裂ポジションと呼ばれている。
〔訳註:妄想-分裂ポジションはむしろ分化を示す段階なので少しおかしい箇所かもしれません。ここの表現は以後の版で是正されてます。〕

スプリッティングは子供が好むもの(善、満足を与える対象)と憎むもの(悪、フラストレーションの対象)の区分けを言い表している。クラインはこれらを「よい乳房と悪い乳房」と呼んでいる。それらの乳房は一人の母親に帰属しているのだから実際には統合されているのにもかかわらず、子供は、乳房を単に異なる別々のものとしてでなく、反対物として見る。子供が対象が同時に善と悪になり得ることを学ぶ時、彼または彼女は次の段階である抑鬱ポジションに進むことになる。

1.2オットー・カーンバーグ

オットー・カーンバーグの発達モデルにおいては、スプリッティングの克服は同様に発達上の重要な課題だ。子供は愛と憎しみの感情を統合することを学ばねばならない。カーンバーグはスプリッティングに関して子供の発達段階を三つの違った段階に区別した。

第一段階:子供が自己と対象を経験せず、異なった実体としての善悪も経験しない。
第二段階:善と悪は異なって見られている。なぜなら自己とそれ以外の間の境界線がすでに安定してあり、他者はその行為によってすべて善かすべて悪として見られる。これは、他者を悪として考えることが自己をも悪であると含意することを意味する。だから保護者は、自己もまた善と見なされるのだから、善と捉えた方がよい。
第三段階:スプリッティングは消滅し、自己と他者は善と悪の両方の性質を持つとして見なされうる。他者に対して憎悪に満ちた考えを持つことは、自己がすべて憎むべきものであることを意味しないし、他者がすべて憎むべきものであることをも意味しない。

2.防衛機制としてのスプリッティング

もしこの発達上の課題を完遂できなかった場合、境界性の病理が発達しうる。境界性人格障害は自己と他者双方の善悪のイメージを統合できない。カーンバーグは、境界性人格障害に苦しむ人々は「悪しき表象」が「善き表象」を圧倒しているのだとも述べている。これは、人間関係の親和的側面である優しさと相容れない、邪悪さや暴力の性質の内において愛や性欲を経験させる。これらの人々は、自己と他者の境界が確固としないため、親しい関係の内に溶け込んだ激しい不安に苦しんでいる。自他間の優しさに満ちた瞬間は、他者の内に自己が消失することを意味する。これは激しい不安を誘発する。この不安に打ち克つため、他者は極悪人に仕立て上げられる。他者に不安の責任が負わされるので、そうなり得る。しかしながら、もし他者が悪人に見られているならば、自己もまた悪たらざるを得ない。自己を全面的な悪と見ることは耐え難いので、反対へ切り替えられる。自己が善なら他者もまた善だ。もし他者が全面的な善で自己も全面的な善なら、どこに自己が始まり終わるというのか?激しい不安が結果なのであり、この循環はそれ自体反復する。

自己愛性人格障害を診断される人々もまた主要な防衛機制としてスプリッティングを使う。彼らはこれを自己評価の保持のために使う。自己を純粋な善、他者を純粋な悪と見ることによってこれを行う。スプリッティングの使用は、価値引き下げや理想化や否定といった、他の防衛機制の使用を暗示する。

スプリッティングは、彼または彼女が欲求を満足させるかあるいは頓挫させるかによって、一人の人を時を異にして全面的な善とも全面的な悪とも見なしうるので、人間関係の不安定をもたらす。これ(および類似の自己の経験の揺らぎ)は混沌とした不安定な人間関係パターン、同一性拡散や気分変動につながる。結局、セラピストもまたスプリッティングの犠牲となり得るのであって、治療過程はこれらの揺らぎに非常に妨げられうる。治療結果への負の影響を踏み越えるために、セラピストによる不断の解釈が必要とされる

(Translated from the article "Splitting (psychology)" on Wikipedia)

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『妄想はどのようにして立ち上がるか』 P. ガレティ (著), D. ヘムズレイ (著), 丹野 義彦 (翻訳)

 全体に明晰でよくまとまっているとは思うのだが、何か微妙な読後感の著作である。
 妄想における正常と異常の境界は明確な形で存在し得るのか。本書導入部には、そのような素朴且つ本質的な問いが打ち出され検討されている。健常者も早とちりをするし錯覚や誤った思い込みをするときもあるがそれは「妄想」なのか。科学のパラダイムも時代とともに変化する。(例えば過去において癩病の感染力に関してそれが非常に強いものであると長らく誤解されていたように)後に否定された過去の科学的パラダイムは「妄想」だったか。また病的な妄想が、完全な否定はしえないという意味において必ずしも「誤った信念」とは言い切れない場合がある等と主張する。その他、ヤスパース、マレン、オルトマンス、等の歴史的定義を引用してそれぞれその不備を訴え、異常-正常の二者択一的思考を捨てよと方向付けている。主張自体は特に目新しくはないかもしれないが、これはこれで分かりやすくまとまっていた。
 途中、「確証バイアス」や「潜在抑止効果」および「ブロッキング効果」等の話もあるのだが、語彙の紹介にとどめておく。

ビ-ズ玉課題の2つの瓶
ビーズ玉課題における指標の平均値と決定までの採取数
 後半の山場というか本書全体の核心ともなっているのが、ベイズ統計学の応用としての「確率推論課題」である。と書くとしかつめらしいが、何のことはないビーズ玉を利用した簡易な実験のことなのだが(二つの瓶からビーズをそれぞれある順に取り出してゆき、どちらの瓶から取り出しているか当てさせる)、ここから興味深い結果が引き出されている。つまり、妄想を持つ統合失調症者は「結論への性急な飛躍(jumping to conclusion)」の特徴を示し、統合失調症とは別の疾病単位である妄想性障害者にも似たような形で「結論への性急な飛躍」の特徴が見られると言うのである。このことにより著者は症状としての妄想が「結論への性急な飛躍」と強い因果関係にあると述べている。統合失調症者でも妄想を持たないタイプについては、訳者らが過去に行った研究において極端な推論をしないことが明らかにされているようだ。
 また妄想を持つ群が反証効果によって易々と自己の確信を訂正することから、従来言われてきた「訂正不能性」を妄想の代表的特徴から棄却する。
 私は「結論への性急な飛躍」と妄想との強い相関は(妄想の定義の同義反復的な面すらあるわけで)、まったくその通りに違いないと納得したのだが、「訂正不能性」の否定または軽視についてはやや違和感を覚えた。妄想者は少なくとも自分が拘っている妄想の本質に関しては強く訂正を拒絶するはずでそのことは無視しようがない。この実験で否定されているのは、推論から生まれた信念に対する妄想者の一般的な訂正不能性であるにすぎない。統合失調症者の自我脆弱性からいって表層的な確信が易々と瓦解し得てしまうのはむしろ自然なことだ。
 ところで後書きによると、この本の原著は東京大学の大学院でテキストとして使用されていたらしく、その意味でやや珍しかった。

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 日本語版のWikipediaに「投影性同一視」の項目がなかったので、Wikipedia英語版の当該項目の記事を本文のみざっと訳出してみました。「投影性同一視」は対象関係論のみならず現代的な人格障害の説明においても重要な概念だと思われます。Wikipediaはリンク元を示せば記事利用に関してはわりと鷹揚な態度をとっているところみたいなので著作権的には恐らく大丈夫のはず。本来クラインによると早期の母子関係に投影性同一視の起源があるわけですが、それについてはあまり述べられていません。投影同一化とも。

※2011/4/15付けで最新版を訳し直しました。


投影性同一視

投影性同一視(PI)は、精神分析理論における対象関係学派のメラニー・クラインによって1946年に初めて紹介された用語である。それは「精神力動研究においてますます多く言及され」ており、特に「Bに帰属するのにBがアクセス出来ない感情を、代わりにAの内部に(単に外的にでなく)『投影』することで、Aが経験する」[1]状況に対して言及される概念である。

投影性同一視は、したがって、人が自我の防衛機制である投影に関与する場合の心理作用を示しているのだが、それは彼らの投影対象に対する振る舞いが、投影される思考や感情または行動を、件の人物の内部に精確に呼び起こすような方法による。

投影性同一視は、他者に関して虚偽を信じる人物が、その信念を実現すべく相手が行動を変更するように関係を持つところの、自己成就的予言である点において、単純な投影とは違う。相手は投影に影響されてあたかも彼あるいは彼女が事実実際に投影された考えや信念によって特徴付けられているかのように振る舞い始める。議論のあるところではあるが、これは一般に両当事者の自覚の外で起こる。

1.行動における投影性同一視

投影性同一視のひとつの例は、警察に迫害されているという妄想を発展させている妄想型統合失調症者のそれである。すなわち警察に怯える彼は警察官の周囲でコソコソまた不安気に行動し始めるが、それによって警官の嫌疑が増大し、彼を捕まえる理由が何かないかと探し始めることになる。

もっとも頻繁に投影されるのは、投影する人物が受け入れることができない(すなわち「私は間違った行動をしてしまった」や「私は~に対して性的感情を持っている」)ところの自身に関する、我慢出来ない、苦痛に満ちた、また危険な考えや信念である。あるいはそれは、同様に投影者には知ることが難しいような価値や評価のある考えかもしれない。投影性同一視は ごく早期のまたは原初的な心理作用であると見られていて、より原初的な防衛機制のひとつであると理解されている。けれども同様に、共感や洞察のようなより成熟した心理作用の基盤であるとも考えられている。

その著書「精神分析的診断」において、ナンシー・マクウィリアムズは、投影性同一視は投影(自らの感情や思考や動機を他人になすりつける)と摂取(他人の感情や動機や思考を取り込む)の要素を合成していると指摘している。投影性同一視は、ある意味、投影現実を作り出すことによって自己の投影を有効化している。

この防衛の利点とはこういう事である。投影される経験を他者の内に惹起することによって、人は投影内容が自己の経験の一部であるという現実をより回避できるのだ。例えば、セラピストに対して受け入れがたい性的感情を持つ精神療法患者は非常に誘惑的な態度で振舞うかもしれない。一旦セラピストが魅了され始めると、魅力に背くセラピスト側のあらゆる振る舞いは、患者がセラピストの感情や態度に焦点を絞るための手助けになるだろう。これは患者が彼あるいは彼女自身の性的衝動に注意を向けることを防ぎ止め、従ってそれらを自覚の外に追い出すであろう。

似たような防衛機能は、一方のパートナーが他方の投影された相貌を携えていて、「投影性同一視を通し関係の中で感情労働の分業が存在していた」[2]環境のように、日常のコミュニケーションで見られるかもしれない。その成り行きは「投影性同一視はしばしば傷ついたカップルの主要な苦悩である。各々は、相手の最も理想的な、恐ろしい、また原初的な相貌を双方の狂気を駆り立てるようなやり方で演ずる」[3]となる。 

2.精神療法における投影性同一視

また一方、転移・逆転移と同様に、投影性同一視は個人間の混乱の起源としてだけではなく、治療上の理解への潜在的キーとしても機能しうる。事実として精神力動的な研究では年月を経て次第に広範に認められるようになってきている。

従って例えば交流分析では、投影性同一視は「ある人の『大人』が閉鎖される時に催眠導入力を持つ」と見られうるが、投影者の筋書きによるドラマに受容者を引き入れることで、同じプロセスが等しく「もしセラピストの『大人』が損なわれてないならば非常に有用な情報を提供する」[4]
〔訳註:唐突に『大人』が出てくるが、交流分析で設定される3種の自我状態(親・大人・子供)のひとつで、客観視を旨とする状態。『大人』の閉鎖とは『子供』と『親』からブロックされた状態に陥ること。〕 

対象関係論でも同様に、投影性同一視が「感情的コミュニケーションの一形式として使われている」[5]ように見えるので、「投影性同一視は処理できない感情を無意識に取り除こうとするかもしれないが、感情を手助けする働きもする」ということを受け入れるようになった[6]。結果として、「患者自身の望まぬ相貌、著しくネガティヴな相貌の相当長い期間にわたる投影性同一視の容認と閉じ込め」[7]に対するセラピストの受容能力は有価値で本質的な治療資源であると考えられている。

3.さらなる展開と問題点

クライン初期の定式化にある深みの幾分かは、おそらくは必ずしもぴったり相応の形式でないとしても、後にコンセプトが発展させられた様式の多様さの中に見られうる。(『同一視について』(1955)内においてだが、クラインは別のありうべき投影性同一視の型をほのめかしている。つまり、目的が他の(通常は目上の)対象の身体に「居住すること」で幻想を代理的に実現しようとすることである場合)。

クライン派のW.R.ビオンは初期に通常の投影性同一視と「病的な投影性同一視....投影される部分が微細な諸断片へとバラバラに分解されたり、これら対象の内に投影される微細な諸断片がそれであるような」[8]の重要な区別を創出した。

「捕捉型投影性同一視...彼らがナポレオンであると信ずるような人の場合」が一方で、もう一方に「帰属型投影性同一視...(誰かに)取り込ませる、またある意味でその投影に『なる』」[9]を置く、別の区別も創出された。
〔訳註:acquisitiveを捕捉型、attributiveを帰属型としています。〕

さらにローゼンフェルドは3種の投影性同一視を識別した。彼は「コミュニケーションに対して使われる投影性同一視と自己の望ましくない部分を取り除くために使われる投影性同一視を区別した。彼は以下の第三番目の使用を加える...分析者の心身をコントロールしようとする(した)場合。[10]」オグデンにおいては四要素の区分を作る。つまり、「投影性同一視とは...同時に、防衛のひとつの型であり、コミュニケーションのひとつの様式であり、対象関係の原初的形式であり、心理的変容のひとつの経路である」[11]

上記定式化のほとんどは、相反しているというより、重複的あるいは補完的に見えるだろう。しかしながら、外部対象への投影性同一視に関してと「自己自身の心の諸部分への投影性同一視」[12]に関しての両方について考える人々と、そうしない人々の間に、より幅の広いまたおそらく相容れない裂け目があるように見える。「ここにおける核心問題は、実在する、投影の影響下にある外的他者が、この概念の本質的要素であるかどうかなのだ。英国のクライン派はNOと答え、アメリカの解釈者達はYESと答える」[13]

(Translated from the article "Projective identification" on Wikipedia at 15 April 2011)

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