以前も書いたけど、京都の人は他人が邪魔なときに、その人に向かって細かく空咳をして散らそうとする習性があるように思う。特に中高年に多い(というか中高年のみ?)。
 聞えよがしの咳払い(「エヘン!」)とはまったく異なる。
 他人に向かって咳をするのはよくないことです。


 暇なときに段落単位でちびちび読むことにしている"Object Relations Theory and Clinical Psychoanalysis"だが、序文やらなんやらは終わって一応本文には入っているのだが、のっけからスプリッティングで、医師に対する態度が極端から極端へ変化する患者が登場。解離とは違うので、+から-に振れても記憶は保たれていることが強調され、そのことは一般的な解釈なのだが、私は前にも書いたがスプリッティングはまた別の様態の記憶の不具合を含むのではないかという疑問を持っているので、何か手掛かりがないか多少期待しながら読み進めたい。私の疑問は、肯定的な評価をしている時に、過去に正反対の評価をしていたこと自体は憶えていても、正反対の評価を生み出していた内的・感情的な源みたいなものの記憶を忘れているのではないか、みたいなモチーフ。
 そのあたりはもはや「記憶」からアプローチすべきじゃないってだけかもしれないな。
 非常にのろのろ進んでゆく予定。であるがゆえのメモ。


 "either"は条件文においては「どちらか一方の」という意味しかもたない。"provided that~"は「~という条件において」という条件文(節)である。したがって、一般的に"either"には「どちらも」の意味も「どちらか一方の」の意味もあるため、日米和親条約は二つの解釈がありえる曖昧な文面なのであり、日本側はそこでうまく騙されたという説は、間違いではないかと思う。つまり、あれは一義的な英文なのである、たぶん。
 条約の原本かドラフトみたいなものがオランダ語でそこからの和訳が間違った(蘭学者はたくさんいたはずだが...)という情報もあるみたいだが、つきあわせて相手側の英語版を確認しないわけがないならそこでも間違ったことになり、むしろさらに不可解な気がしてくる。

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 WikipediaのIsolationを訳した影響か、このところ記憶の中に埋もれていた自尊心をくじくような出来事が時々蘇ってきて、慙愧に堪えない。
 しかし、これはたぶんいいことだ(フロイトの徹底操作みたいなもの)。
 それと、あの中に出てくる単純な情緒構造の人というのは、今となっては発達障害概念で説明がある程度つくかもしれず、精神療法側からのみ押して行っても狭いような。そうでなくても、私は最近、いわゆるナントカ人格障害の基盤に、無名の発達障害的なものが関与をしているのではないか、みたいなイメージに蝕まれていて、仮にそこまで直截じゃないとしても科学の進歩によって個々の脆弱性の器質的な正体が露わになればいいなぁ、と思ったりする。治せるわけではないとしても。


 このところまた風邪である。


 Alex Jonesは現代ネットが祭り上げた一つの極だろうと思う。日本のネットを振り返るともっとも有名になった部類でも異次元的に小粒だ。
 直接話法により負のストロングワードを多用する手法とか、(うわべだけだとしても)品性を気にするメディアが忌避するやりかただと思う。「彼の『~』という主張は許せない」とかの『~』の部分にことさら激しい表現を選び更にカメラ目線でそこだけ執拗に繰り返したりする。その『~』の部分をAlex Jonesが吠えている時に視聴を始めた人はぎょっとするに違いないが、一応あとにつじつま合わせの文章が続くのではあるが。人の興味をひくための(比較的下品な)テクニックであろうか。
 しかしトランプ政権がそこまで激しいカタストロフィを招くでもなく、一定の安定を得始めている感じで、騒ぐネタに困っている感がある。大統領選挙中・前は再生回数が優に100万を超えるような動画が多々あったが、最近はLive録画の数万がほとんどで、ハリケーン物等でいくつか10万超えていた程度。最近の北朝鮮関連も再生数で特筆すべき興味を持たれているわけではないのがわかる。


 アマゾンの「配達中メール」が文字化けしていたのでソースを調べたら、文字コードの宣言がUTF-8なのに中身はJIS(ISO-2022-JP)だった。


 江戸時代、日本の開国は日米和親条約内での'either'の誤訳によってなされた。本来日本側の意図としては両政府の意思がそろった場合のみ下田にアメリカ領事館がおけるようにするつもりだった。しかし'either of the two Governments'にしてしまったのでどちらか一方がそう思えばできることになってしまった。

Treaty of Kanagawa
ARTICLE XI.
There shall be appointed, by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda, at any time after the expiration of eighteen months from the date of the signing of this treaty, provided that either of the two Governments deem such arrangement necessary.

https://en.wikisource.org/wiki/Treaty_of_Kanagawa

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 二条駅近くにあるライフは、従業員が売れ残りの割引弁当を狙っていてやや特異だ。以前から少し印象に残っている細身初老の男性従業員が、今日、不自然に私の前に割り込んできて(こちらは弁当を買う気はなかったので、位置的に後ろから左に回り込めばいいだけで競うような体勢で取る必要はどこにもなかった)目当てだったらしい弁当をそそくさとレジに持って行った。やや呆気にとられたわけだが、その従業員は現場責任者っぽい風体なので、野卑なふるまいを同僚は注意できないのかもしれない。割引弁当を購入している従業員自体は以前もライフで見かけたことはあるのだが一応客に邪魔にならないようにしていたと思う。
 帰り際、私の視界を横切って行った彼は上機嫌であった。
 もし今度遭遇する機会があったら人物として少し気を付けてみようと思っている。

 英語のWEBプログラミングの入門書を最近読んでいるのだが、アマゾンで非常に評価が高かったわりにはあんまよくない。それでユーザー評価の内容を読み返していたのだが、軒並み短い賛辞がついた五つ星なのだけれど、プログラマっぽい人の評価は具体的な間違いを指摘していたりしてあまり高くなかった。
 入門書ゆえに初心者が無分別に高評価をつけるようなことだったのかもしれない。

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 Wikipedia英語版Isolation (psychology)の項目の本文だけの和訳です。現在読んでいる本に出てきた(スプリッティングとかかわっている)のと、日本語版の項目がなかったのでぼんやり訳してみました。参照は省略で元ページからたどってください。


隔離

隔離(独:Isolierung)は、ジグムント・フロイトによって最初に提案された精神分析理論での防衛機制の一つである。この概念は、抑圧に関連しているが、いくつかのやり方で区別される。これは、不快なあるいは脅威となる認知と、他の思念や感情との間における、ギャップの生成に関連する心的プロセスとして特徴づけられる。他の思念との連想的結合を最小化することにより、脅威となる認知が、より少ない頻度で思い出されて、自尊心や自己概念にあまり影響を与えないようになる。フロイトはこの概念を、一連の思考を始めてから続けて別の主題を考えようとする前に少し間を置く人物の例によって説明した。彼の理論では、インターバルを挟むことによってその人は、『他の思念への連想的接触につながる印象や行動についての彼の思念が彼に許容しがたいことを象徴的に理解されるようにして』いる、と説明した。有害な思念に対する防衛として、隔離は、再発して自己概念を損なう可能性のあるこれらの認知を許容することを自己に避けさせる。


証拠
広範な研究が、人々は心理的に隔離することにより脅威に対して彼ら自身を防衛する、という結論を支持している。抑圧者が、性急な浅いあるいは最小限の仕方で情報を加工することが示されてきた。ネガティヴな情報が提示されるとき、彼らはその衝撃を極小化するために自発的な幸福な思考や感覚をしばしば生成する。抑鬱的な人々は、善かれ悪しかれ、さらに徹底的に情報を加工する。この高次の加工は類似の情報への強い連想的つながりを作り出す。ある抑鬱者が有害な認知を避けようとする場合、しばしば、悪影響を与える何か他の思考をする。隔離が、社会的脅威に対する敏感さを促進し、社会的つながりの更新を刺激することは、人間および動物の研究による証拠が示すところである。

ある研究によると、人々がよくないフィードバックに直面しても、彼らがそのフィードバックをパフォーマンスの標準から隔離しておきうる限り、自身のパフォーマンスに対し依然として満足したままだったことが示された。研究者たちは、パフォーマンスの前および後(フィードバックの前でも、パフォーマンスおよびフィードバックの後でもない)に標準を提示した。早く標準を知らされた人々は他と同様にそれを思い出したが、単純にそれを無視した。彼らは、自尊心への脅威を最小化するため、なんとかして自身のフィードバックを標準から隔離した。標準を後から知らされた人々は、基準と比較して不成功を避けることができなかったため、自身のパフォーマンスにより満足しなかった。この形の隔離は矮小化と呼ばれてきた。

他の顕著な隔離の型は『時間的括弧化』と呼ばれ、これは、現在の自己へのインパクトを効果的に取り除くため、失敗や欠点がその過去の中に埋もれ去っていると知覚する。このタイプの過去に対する隔離は、宗教的転換や、『再生』体験、ある種の薬物依存矯正プログラム、また法システム内で違反者記録を廃棄することなどの中に見られうる。これらの社会的に受け入れられた行為は、少なくともある程度の事例においては、隔離を社会的に許容されたものにしている。またそれらの行為は過去の出来事から来るストレスを和らげるようだ。自尊心の低い人々は、過去の失敗を述べるとき、しばしば時間的括弧化を使う。認知に運ばれて来ようとするあらゆる悪事を自身から隔離することによって、彼らはそれが自らの現在の状態や人間関係とは関係がないと強く主張する。


影響
習慣的な抑圧者はそうでない人々に比べて不幸な記憶をより少なく持っているように見られてきたが、この違いは二次的連想の中にある。抑圧者に対する調査によると、彼らは悪い記憶に対して同じように強いネガティヴ反応を持っているが、それらの記憶は、非抑圧者と同じ程度には、他のネガティヴな感情を呼び起こさないのだ。「より複雑でない情緒構造」というフレーズが、この現象を叙述するために作られた。抑圧者は他の人と同じように悪い記憶を持っているが、それらは記憶の中で比較的隔離されているので、それらによってあまり困らせられたりしないのだ。最近の研究では、隔離は、苦痛を伴う認知に対するより効果的で重要な防衛機制の一つであるとの合意がなされている。これは、現実への欺きを必要としない対処メカニズムであり、いくつかの代替物(否認、昇華、投影、等)よりも妥当な役割を果たす。隔離の説明のため、完全に具体的なものとして捉えられるよう、さらなる研究が求められる。


参照
(省略)

(Translated from the article "Isolation (psychology)" on Wikipedia)

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 最近のWin10がパーツの変更に関して寛容になっているとの情報に影響を受けて、交換可能なマザーボードを予備で買っておこうかと一旦ネット注文したのだが、どうもさらに調べてみると様々な声があり、最終的な代金の支払いを躊躇している。代金を払わずに5日経てば自動キャンセルになるみたいだ。
 冷やかしみたいなことになるとお店に申し訳ないけれど、どうにも情報がはっきりしない。


追記【2017/08/25】:
 現在のマザーボードが動かなくなって新しいマザーボードに取り替えた場合に、もしWin10の認証が通らなくなってしまったら、Linux機にしてそれまでの部品を流用する形にしようと思う。
 というわけで、注文していた予備マザーボードのための代金を今日支払った。
 どうなることやら。

 いやぁ。
 入金確認メールのあとに店側からキャンセルメールが来た。
 なんと向こうが冷やかしだった。

(前略)
ご注文頂いておりますこちらの商品につきまして、
本日メーカー・代理店から報告頂きまして、
在庫完売・終息となったとの事でございました。

大変申し訳ございませんが、
商品のご用意が出来ない状況でございますため
今回のご注文につきましてはキャンセル対応とさせて頂きました。

既にご入金いただきました金額については
ご返金にて対応させて頂きます。
下記の項目をご記入の上、こちらのアドレスまでご返信にて御指示ください。

◆ご返金金額 ¥xxxx

■入金時のお振込み手数料 ¥

■金融機関名
■支店名(振り仮名【カタカナ】もお願い致します。)
■科目(普通口座など)
■口座番号
■お名前(振り仮名【カタカナ】もお願い致します。)

返金処理は経理を通して行われ、
数日内に処理完了いたします。

せっかくのご注文で大変残念な状況ではございますが、
何卒ご理解頂きますようお願い申し上げます。

この度はご利用誠に有難うございました。

 うーん、もう一度よく考えよう。

 先ほどドスパラで同じ商品を注文し直した(在庫有りになっていた)。ついでなので新しいマウスも注文しといた。
 さきほど注文確定メールが来た。
 今度こそ届くかもしれない。


追記2(2017/08/26):
 ドスパラから出荷メールが来たので大丈夫だろう。
 ダイソーの300円マウスのホイールが利かなくなった。殆ど使ってないのに異様に脆い。新マウス注文しておいてよかった。


追記3(2017/08/27):
 ダイソーの300円マウスは朝方にはなぜか正常っぽく動作するようになり、高温に弱い商品or個体だった可能性がある。京都の夏はダイソーの設計思想から逸脱した環境だったのかもしれない。

 昔の領収書を確かめたら、このデスクトップPCのマザーボードは7年半程使用しており、それなりの年月が経っている。真夏に二回起こっただけの熱暴走に対して、電源ユニットを交換し予備のマザーボードを購入するのは、それだけ見ればやや過剰反応かも知れないが、パソコン自体がそこそこ古いのである。

 私のCPUクーラーのリテンションパーツがプッシュピンでマザーボードに留めてあり、交換時にどうやって外すのかと不思議に思って情報を探していたら、Youtubeに似たような状況の動画が上がっていた。カメラの位置が分かりにくいが、なんのことはない中のピンを押し込んで外すということなのだと思う。これでは(取付部が甘くなるとクーラーの振動を増幅するようになるはずで)現実にはピンの再利用はできないと思うのだがどんなものなのだろうか。私はまったく破壊しない方法が知りたかったのだが。

 朝9時からヤマトが届けてくれたマウスだが、Linuxだとホイールボタンの通常機能が利かないみたい。そんなに使わないけどちょっと残念。Linux猛者ならこれも割り当てられるのだろうが、私には(少なくとも今のところは)無理かも。
 マザーボードの方は保証期間確認後物置に直行。

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 私はWin7のDSP版からWin10に無償アップグレードしているのですが、パーツ変更した場合のマイクロソフトの認証の振る舞いについて、はっきりした情報があまりないので、何か気付いたときにここにメモしていきます。

 マイクロソフトはDSP販売のバンドル部品が何であるかの記録を持たないために、OS初回認証時の構成ハードウェアを基準としてその後の再認証の判断をしているようだ。この基準内容が結局リテール版と同等なものかどうかがよくわからない。

【マイクロソフト公式】
・ハードウェア構成の変更後に Windows 10 のライセンス認証をもう一度行う
https://support.microsoft.com/ja-jp/help/20530/windows-10-reactivating-after-hardware-change

使用しているデバイスが結果の一覧で見つからない場合は、デバイスの Windows 10 デジタル ライセンスにリンクしたアカウントと同じ Microsoft アカウントを使用してサインインしていることを確認します。

正しい Microsoft アカウントを使用してサインインしていて、Windows のライセンス認証をもう一度行うことができない場合は、他に以下の理由が考えられます。

・デバイスの Windows のエディションが、デジタル ライセンスにリンクした Windows のエディションと一致していない。
・ライセンス認証しているデバイスの種類が、デジタル ライセンスにリンクしたデバイスの種類と一致していない。
・Windows がそのデバイスで一度もライセンス認証されたことがない。
・デバイスで Windows のライセンス認証をもう一度行うことができる回数の上限に達している。
・デバイスに複数の管理者が存在し、そのデバイスで他の管理者が既に Windows をもう一度ライセンス認証した。
・デバイスが組織によって管理され、Windows のライセンス認証をもう一度行うオプションが無効化されている。


【マイクロソフト コミュニティ】
・Windows10 Creators update適用 した場合でのプロダクト認証について【Ver1703】
https://answers.microsoft.com/ja-jp/windows/forum/windows_10-windows_install/windows10-creators-update%E9%81%A9%E7%94%A8/44a38be4-7e4e-4a1a-8954-035fbac9aa9f?auth=1

Hebikuzure 返信日 5月 20, 2017
MVP コミュニティ モデレーター | 記事執筆者
現在の Windows 10 は Windows 7 からの無償アップグレード ライセンスということでしょうか?
であればこれはデジタルライセンスとして Microsoft アカウントと紐付けられていますので、ハードウエア変更後にライセンス認証されるかどうかは元の Windows 7 のライセンス次第です。
元のライセンスがリテール版などの別デバイスへ移管が可能ライセンスであれば、ハードウエア変更後も(手続きが必要になる場合はありますが)認証可能です。逆に元のライセンスが DSP 版など移管不可であれば、大幅なハードウエア変更で「別デバイス」と認識されれば、ライセンス認証はできません。
 上記断定口調の情報がかなり怪しい。バンドル部品を随伴しているかどうかの議論なしにDSP版が移管不可であるという主張は他に見かけない。
 コミュニティモデレーターとは何なのか?
https://answers.microsoft.com/ja-jp/page/faq#faqWhosWho1
コミュニティモデレーター
コミュニティには協力してくださるボランティアの方々がいます。 コミュニティモデレーターは質問に回答し、コミュニティを健全で楽しい状態に維持するようにします。 コミュニティモデレーターはコミュニティのメンバーですが、マイクロソフトの社員ではありません。 コミュニティに目覚しい貢献を行ったユーザーに、コミュニティモデレーターになるよう依頼が送られる可能性があります。


【メディア等】
・Windows 10に実装予定の新ライセンス認証機能を試す
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/topic/review/1008323.html

まず、メモリと一緒に購入したWindows 8.1 Pro 64bitのDSP版を用意。これを自作PCにインストールし、認証(アクティベート)。続いて、そのOSをWindows 10 Proに無償アップグレードし、さらにInsider Previewを使って、プレビュービルド14376に更新した。
以上の通り、Anniversary Updateからは、ライセンスの範囲内でシステムの構成を変更しても、ライセンスがMicrosoftアカウントに紐付けられることで、再度オンライン認証ができるようになる。
ちなみに、今回の検証では、最初システムSSDだけを取り替えて試していたのだが、4~5回変更しても、ライセンス認証は全く外れなかったことも参考までに書き添えておく。


【一般】
・Windows10でOSやハードディスクの内容はそのままマザーボードやCPUを交換してみた
http://www.solar-make.com/personal-computer/motherboard-replacement-win10/4311/

・【WinDowS10】ライセンス認証の方法をまとめてみたブログ:Package:OEM:DSP版の本性を暴いていく。 - Feltman Sachs
http://feltmansachs.com/2017/05/26/aame-mp/

・Windows7と違い、Windows10では、自作PCで、部品を交換すると認証通りませんよね
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10168953465

・【マザーボード交換】あぁ~!Windows10のライセンス認証ができねー【ライセンストラブル】
http://jisaka.blog.jp/archives/14639543.html

・Windows 7 の DSP版 についてです。
http://q.hatena.ne.jp/1260702528

以下の情報はXPについて私の環境での話です.おそらく7でも変わっていないと思いますが.
店頭でDSP版と同時購入したパーツが何であるかを,OSのアクティベーション時にマイクロソフト側ではチェックしていません.
初回アクティベーション時にハードウエアの構成情報がマイクロソフト側にわたり,その後に一定数のパーツを組み替えると,OS側がハードウエアが変わったと判断し,再アクティベーションを求めてくるだけです.

・マザーボード交換によるライセンスへの影響について
http://bbs.kakaku.com/bbs/-/SortID=19654620/

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 パソコンの電源ユニットの熱暴走のような状態を体験した。
 エアコンをつけずに(窓は開放し扇風機をつけていた)パソコンで外国のストリーミングを流してほったらかしていたのだが、しばらくほかの作業をしてから戻ってみると、ファンの音がすさまじくうるさいことになっておりケースを触るととんでもなく熱い。部屋にかすかに漂う薬品臭。HWMonitorで確認するとCPU温度が60度を超えている(高いと言えば高いがCPUの耐熱は70℃までなのである意味微妙な高さ)。そのままケースのふたを開けると、案の定CPUファンは狂ったように猛烈に回転しているのだが、電源ファンが停止していた。電源ユニットも強い熱源だからファンが停止すると排熱されずにどんどん熱がこもるのは必定だ。その熱がケースに伝わっていたのだと思えた。
 一度パソコンを終了させてエアコンをつけるなどしてからケース内の埃掃除などをし(といっても定期的に掃除しているのでさほど汚れてもいなかった)、再起動してみると、何事もなく立ち上がった。電源ファンもちゃんと回りだした。
 実は同様のことがその後もう一度あった。
 どちらの案件でも、シャットダウンしてしばらくするとすべて何事もなく復活するので電源ユニット自体が不可逆的に故障したために熱暴走した感じでもない。むしろ熱と高負荷で電源ファンが緊急停止している感じが濃い。ファンは本来の目的が排熱なのにより熱を持っているときに停止するのはきわめて不合理だが、仮に所定の動作だとして、その理由を考えていた。もしかしたら、これは発火対策なのではないか、というのが今のところの私の仮説である。つまり想定している上限の温度を超えた場合に発火している恐れがあるので、その状態でファンを回してしまうと外にどんどん火の粉を飛ばして延焼を促進する可能性が出てくる。一般に高温のままファンを止めてしまうと、パソコン内のコンデンサを傷めひいてはマザーボードが壊れてしまうわけだが、火事を起こすよりよりはいい(!!)。あくまで仮説であるが。
 その後、高温&高負荷にならないよう意図して気を付けだしてからは一度も同様のトラブルが起こっておらず、Windows上のモニタリングソフト類で確認しても異常な数値は出ていない。実は慌てて新しい電源ユニットを購入したのだが、これでは取り替えるタイミングが難しい。様子見すべきか。
 しかし妙に不安だ。


追記(2017/08/23):
 熱とコンデンサについて調べていたら奥が深すぎる。

・電解コンデンサ寿命について
https://www.cosel.co.jp/technical/qanda/a0023.html

・電解コンデンサの寿命
http://kojo-seiko.co.jp/technology/011.html

・コンデンサの寿命について
https://en.nc-net.com/knowledge/morilog/detail/5369/

 マザーボード上のコンデンサを目視してみたが液漏れはおろか膨らんでるのも一つもなかった。ただ電源ユニット内部まではわからない。朝から何をやっているのかという感じだが。

 結局、火災を恐れて、新しい電源ユニットに交換した。主電源コネクタの接合部が硬くて取り外すときにマイナスドライバーでこじ開けたら、プラスチックの角をいくらか掻き壊してしまった。あぁ、もし次の取り換えがあるとしたら、さらに大変そう...。
 平行するようにOS画面上のカーソルが挙動不審になり、マザーボードがいかれたかと一瞬悪く想像したが、マウス自体の故障で事なきを得た(ダイソーの300円マウスに差し替えるとちゃんと動作した)。偶然にも(!?)まったく同時的にメインマウスの寿命が来たようだ...。
 電源ユニットを交換しただけなのに、HWMonitorの数値を見てると筐体内の温度がわずかに下がったような気がする。もともとの性能差なのか、同じ電力を供給するにも古いユニットは変換効率が落ちていてより発熱するということもあるかもしれない。
 パソコンは時間が経ってくると部品やアクセサリに故障や不具合が様々襲ってきて大変けど、たぶんマザーボードやストレージだと、より致命的な意味を持つ。
 えーと、データ類のバックアップとかいつしたっけ?

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CIMG2569.jpg Kernberg, Otto F. "Object Relations Theory and Clinical Psychoanalysis"のペーパーバック版がアマゾンでめちゃ安だったので衝動買い。今日届いた。kindle版に付属する辞書機能はなんだかんだで便利で、紙の本だとそれが利用できないわけだけれど、何とかちびちび読んでゆく予定。英語をやってる人で常にちびちび読み継ぐ原書を持つようにしている人は少なからずいると思うけど私もそのタイプ。こないだ先代をエピローグまで読み切ってしまったのでこちらに鞍替え予定。
 写真のもう一方の本は図書館で借りているD.W.ウィニコット 『情緒発達の精神分析理論』で私の対象関係論ばやりが明瞭。意欲問題がらみで、ウィニコットの素朴な『偽りの自己』『本当の自己』が印象に残る。『偽りの自己』とは他者への服従により形成されている自己のことでこの割合が多いと病的ということのよう。大人の社会は固定化した主従関係やあるいは互いに服従しあっているような場合もあり、さらには支配している側が必ずしも自由とは言えないこともありそうで単純ではない気もするが、幼少の自己の形成期としてはエッセンシャルな作用をもたらす。治療後50歳でようやく自分の人生のスタートラインに立ったとする女性患者の症例など。

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 人の意欲というものがどのように発しているのか、私は不思議に思ってきた。意欲の類型的な表象というものがあるなら、それはたぶん、人々が何かを反復しようとしているということに他ならない。それは親のイメージを今度は自分に当てはめようとする反復かもしれないし、彼らの果たされなかった願望を今度は自分が身代わりとなって果たそうとする反復かもしれない。親(役)からの影響が薄ければ(イマーゴ獲得の失敗,イマーゴ自体の歪み、etc)、第三者あるいは第三者が願望する何者かのイメージを自分の身の上に反復しようとするかもしれない(これはより表層的な生き方になるかもしれない)。
 いずれにせよたいていの人は何かを反復しようとしていて、しかし新たな現実の前にすんなりとはいかず、何らかの工夫や迂回を強いられることになり七転八倒するのが常かもしれない。
 コフートの言うSelfの病理は適切なイマーゴの受容に失敗したところから発する空虚であり無気力であるとされると思う。上述の表層的な生き方のパターンは、意識が虚無に支配されているとしても、まだ意欲そのものは保持されている。Selfの破綻はより重くなると(e.g.X氏の症例)、意欲から理想や野心が失われて(つまり抽象化された方向性が失われ)獣的になっていくと思うが、ほとんどの人はそれほど単純ではいられないため、うずまきのようにして意欲そのものが失われてしまうと思われる。
 私の疑問のモチーフとしては、何もないところから意欲は形式を得られるのか、ということである。逆に言えば、人々が反復しようとしているものがどうしてもそのような形式でなければならないことの内実は何なのかということである。それは人生をかけた錯誤であるのかどうか。

It is easy to see against this background that the psychology of the self provides us now with the means of explaining a related fact which, to my mind, has hitherto been unexplained, even though it has, I believe, been recognized by analysts for a long time. Some people can live fulfilling, creative lives, despite the presence of serious neurotic conflict-- even, sometimes, despite the presence of a near-crippling neurotic disease. And, in the obverse, there are others, who despite the absence of neurotic conflict, are not protected against succumbing to the feeling of the meaninglessness of their existence, including, in the field of psychopathology proper, of succumbing to the agony of the hopelessness and lethargy of pervasive empty depression-- specifically, as I said before, of certain depressions of later middle life.

Kohut, Heinz. The Restoration of the Self (pp.241-242). University of Chicago Press. Kindle 版.
As I said earlier when discussing the significance of the depressions of later middle age (cf. p. 241, above)-- but this crucial point bears repetition-- there are, on the one hand, many people with poorly constituted selves who, despite the absence of symptoms, inhibitions, and disabling conflicts, lead joyless and fruitless lives and curse their existence. And there are, on the other hand, those with firm, well-defined selves who, despite serious neurotic disturbance-- and yes, occasionally even despite their psychotic (or borderline) personalities6-- are leading worthwhile lives and are blessed with a sense of fulfillment and joy.

Kohut, Heinz. The Restoration of the Self (pp.281-282). University of Chicago Press. Kindle 版.
※コフートの'borderline'は現代的なBPDとはかなりニュアンスが違うので注意。


追記(2017/08/08):
 オオカミに育てられたオオカミ少女のイマーゴは親オオカミだったのだろうか。それともイマーゴ自体が喪失された状態だったのだろうか。


追記2(2017/08/12):
 「親族」を「親(役)」に、「他者」を「第三者」に書き直した。血がつながっていない養父母とかでもイマーゴになりうるので表現に苦慮していた。またイマーゴの取り込みは自己と対象の融合状態で実現するので、その外側という意味で「他者」と書いていて分かりにくかった。「第三者」ならましなのではないかと思いついたので訂正してみた。

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 人間あんまり自分の間違いに注目しすぎないほうが精神衛生上いいとは思うのだが、特に強い間違いというのは、何か別のストレスがかかっている状況で起こることが多いような気がする。あっぷあっぷというかそんな感じの時期に、ほとんど根底的な次元から間違えてしまう、といったようなこと。
 体力的な負荷をかけると、四則演算のような単純な計算でもミスが発生・増加するというような調査があったような気がするし、鬱病の発症でIQが低下するといったような情報も耳にしたような気がする。
 しかし...。
 私はあるストレスのかかった悪い時期にどこか意図的に錯誤するというようなことがあった気がする。きわめて投げやりの高じた状態というか、錯誤を許す錯誤。表現しづらい。
 錯誤は、直接の被害が特にないとしても、自分への理解者を遠ざける効果をもたらすと思う。なんであれ整合的にふるまえていれば、他者の理解につながるのだ。
 錯誤は孤独なのである。


 ホントはコフートの悪文について書こうと思っていたのだが気が乗らない。英語なのに主語と述語が異様に離れているとか、なんでもかんでも一文にまとめようとしすぎるとか、挿入句が多用されるばかりでなく多次元の入れ子構造になることも珍しくないとか、諸々そういったことなのだが、著者が意識の流れをそのまま垂れ流すような書き方というか、そこからコフートの過剰な自己中心性と彼のフロイト派からの離反にまでつなげてみようと思ったのだが、今書いたからもういい。


追記(2017/08/18):
 錯誤の孤独というのは、現実をうまく捉えられないことの暗闇にはまり込むことなのだろう。人は結局、否が応でも生の現実に依拠せざるをえない。交通事故のよく起こる交差点で「みんなが間違えている」ことは、本質的な慰めにはならない。たしかに人が錯誤すること自体の現実性というものがあるとしても、それは行為の主体から次元をずらした別の認識にすぎない。何らかの規則性(と思しきもの)が発見されたとしても同様である。
 ひいては、同じ宗教に入ったり何かのコンサートで幻想を共有したりすることも、本来、各人の孤独の証明にすぎないかもしれない。「みんな現実がわからない」と同調してみてもそんなものは理解ではない。
 常に現実に正対しうる者だけが。しかし、これだと最終的にカントの「物自体」の超越性みたいな話になってしまうかもしれない。もともと誰も群盲以上にはなれないって?

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