Net Lifeのブログ記事

 昨今NYTのHiroko Tabuchi のツイートが炸裂してて、まとめて一気に読んでた。この人はだいぶ前からリストに入れていてかなりな人だとは分かっていたのでそこまで驚かないんだけど、仲間の朝日新聞が慰安婦問題ではしごを外したせいか多少の焦りが出ている感じかもしれない。
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我々が『性奴隷制』によって意味しているものについて日本に混乱があります。慰安所を経営することそのものがひとつの性奴隷制の行いなのです。

 Tabuchi氏が、慰安婦問題をどう捉えているかは全体に必ずしも明確ではないのだけど、ある程度はっきり述べたと思える箇所が上の引用だと思う。慰安所が日本式のもののみを指しているのか、世界中にあった公娼制度全般を指したものなのか不明だが、仮に後者だとするとある種の理想主義としてそれなりに筋は通る。しかし、前者だとすると(たぶん前者なのだとは思うが)、なぜ日本式の慰安所だけが奴隷制なのかという厳密かつ込み入った議論になっていくだろうと思う。
 しかしおそらくそんなことの説明はNYTは永久にしないのではないかと、Tabuchi氏の「わかってない」多量のツイートを読みながら思わざるを得なかった。本気で日本の過去の慰安婦制度が奴隷制だとNYTが思うなら(すでに世界中の歴史家の定説だみたいなことも書いてたが)、論点を整理してなぜそうなのかテキパキ解説すればいいだけのことである。しかし実際に彼らがやっているのは、一方のサイドの証言や解釈のみに依拠してレッテルを貼ることである。
 思想的な理由なのか、商業的な理由なのか、政治的な理由なのかしらないが、別の目的を持っていると考えても、そう見当外れではないように思う。
 NYTが朝日新聞のように誤りを認めることもないと思う。

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 先日、ニコニコ生放送で選挙公示前の党首討論会なるものが開かれ、一説には累計140万人もの人々が視聴したらしいのだが、開始直後からサーバが重かったり、司会者が党首同士の自由討論部分をぶつ切りにしたり、ネットに具わる双方向性を軽視していたりで、やや微妙な印象も持った。しかし初期の試みとしてそれなりに意義深いという感じはした。(何年か前にストリーミング同時接続数の技術的な限界についてちょっとだけ読んだ記憶があるが、これほどの数の同時視聴をどのように実現しているのか不思議だ。擬似的な同時性なのかもしれないけど。)
 国内配信ポータルとしては、『ニコニコ』のみが国民的な水準において広く認知されつつあることに、漠然とした不安を覚える。親会社であるドワンゴの大株主はエイベックスらしいので、ライバルのソニー辺りが対抗ポータルを立ち上げればいいのにとも思うのだが。確かに、UstreamやJustin.tv、StickamにFC2、YouTubeLiveあるいはTwitcastingのようなものまで含めれば、ライヴストリーミングに関して、すでにそれなりに多様なオプションが揃っていると言いうるのかもしれないが、国家単位その他で利害がぶつかるような話題において、アメリカの私企業群が公正に差配する保証はない。
 今日築かれつつあるニコ生の国内的な独占情況に関して、不公正への危惧が湧く。
 ツイッター登場の頃がひとつの転換期だったと思うのだけど、『本物』たちがこぞってネットに参入してくると、それまでネットに逃げ込んでいた半端者たちは一瞬で表舞台から駆逐された。逆に、旧メディアが何らかの事情で飼っていた偽者をネット側があばきだすというケースもあったかもしれない。そういう既存メディアとネットメディアの相互作用は新しくよいものだったけれど、古い勢力への反動でありながらもその領野で突出して膨れ上がってくる者があるとすると、今度はその内部において退廃の花が咲き始めるかもしれない。
 ニコ生公式放送の番組表にざっと目を通すと、地上波TVの劣化版みたいな、あるいはほとんど同じような番組が増えてきたような気もする。ある種の退行?いろんな意味で、ニコ生には同じ分野における直接的な対抗勢力が必要であるように思われる。
 それ自体が虚構とまで言われることもあったネット世界も、もはや少なからずが実社会とがっちり結びついてしまった感があり、それは多分いいことなんだろうけど、なんだかちょっと寂しくもある。これからもどんどん根なしの情報は迫害(!?)されていくことだろう。本ブログもどうしたものか。ただ、充分に洗練された虚構はネットの芸術や芸能として生き残るかもしれないけれど。

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 以前YouTubeで投稿動画のコメント欄に、「YouTubeは地域指定で『アメリカ合衆国』の項目を設けるべき」というようなことを英語で書き込んだら、そのコメントが名前やタイムスタンプまで含めて根こそぎ削除されるということがあった。ご丁寧に、私の意見に賛同してくれたチュニジア人(?)のコメントまで一緒に消されていた。動画投稿者による削除などではないことは一目瞭然。アメリカ合衆国こそが全世界を支配していてほとんど全世界と同義なのだと信じるYouTube管理者の逆鱗にでも触れたのだろうか。
 なんだったのだろう、あれは??

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 しばらく前だが、所謂まとめサイトのようなところで、2ちゃんねるに書いた自分のレスが肯定的に転載されているのを発見して気分を悪くしたことがある。そういう場合気を良くする人もあるだろうが、私の場合ちょっとそんな感じにはなれなかった。恬然として恥じぬブログ主宰者の軽薄さに思いを致しつつ、なんでわざわざこんなところで自分のレスを読み返さねばならないのかとげんなりしたわけである。
 2ちゃんねるは板ごとに、クッキー作出時において書き込み者に著作権をある程度放棄させる内容の承諾をさせているわけだが、あれは法的に有効かどうかは不明だ。仮に有効だとしたら、この種のまとめサイト等に対する追及権を制限されることになると思われるが、何だか不当だ。
 いや、実はこんなことは最早どうでもいいと言えばどうでもいいのだ。なぜなら閲覧も書き込みも一貫して逓減してきているのであって、時々ホスト規制の巻き添えを食らうようになったこともあり、一頃に比べて2ちゃんねるからは大幅に遠ざかってしまっている。まとめサイトに関しては便利は便利で定期的に見るが、掲示板を直接閲覧しない傾向に拍車を掛けてもいる。
 以前の私の場合、何か有用な情報を得るとか誰かとコミュニケーションをとるためではなく、ある種のChaosを求めに行っていた面が強いのだが、2ちゃんねるは何だかChaoticじゃなくなってきてから久しい。それには様々な次元による色んな理由があるだろうが特に分析はしないでおく。

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 秋葉原の通り魔事件の現場からのテレビ中継で画面に映りこむ野次馬のふざけた態度に怒っている人が、YouTubeやその他掲示板にいる。テレビ局が中継映像に与えている意味に反する態度を彼らが取っているから腹が立つのだろう。野次馬はエキストラじゃないのだからテレビ局の意図を斟酌する立場にない。従って個人として彼らが事件の被害者に対して冒涜的な考えを持っているとは限らない。

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 先月末の元TBSアナウンサー川田亜子さんの「自殺」に関してネットのイエロージャーナリズムを中心に真偽不明のきな臭い話が出てきているようだが、私が興味を持ったのは川田さんの死後2日に登場して日刊スポーツにその相談内容を喋ったというカウンセラー氏である。彼が正式の精神科医か心療内科医なら刑法第134条第1項の、精神保健福祉士なら精神保健福祉士法第40条の守秘義務に違反している恐れが強いと思うのだが、臨床心理士かその他民間カウンセラーなのだろうか。臨床心理士の場合は努力規定に過ぎないが日本臨床心理士会倫理綱領があり、それには抵触していると思う。従ってよほどの魯鈍でないなら、この人物はおそらくは占い師とかそんな類に属する「自称」カウンセラーなのではないかと思う。記事の内容を見ても言ってることがいわゆる専門家的でない気がするのだが。

川田アナ「報道志望」仕事に行き詰まり...(朝日新聞:日刊スポーツ)2008年05月29日
 26日に自殺した元TBSアナウンサーでフリーの川田亜子さん(享年29)が、亡くなる数日前にカウンセラーに悩みを打ち明けていたことが28日、分かった。川田アナが訪れたのは都内在住のカウンセラーA氏(38)で、主に仕事に対する行き詰まりを打ち明けたという。また、所属事務所はこの日までに川田アナの密葬を終えたことを発表した。
 川田アナが自分で調べて存在を知ったカウンセラーのA氏を訪ねたのは今月中旬。初対面で約40分のカウンセリングは、川田アナが悩みを打ち明けることに多くが費やされた。
 A氏 最初に孤独な感じですねと切り出すと「分かってもらえるんですね」とホッとした表情で答えていました。執筆業に転職しようか迷っていると。また「国(金沢)に帰りたい。その方が普通の幸せを得られるかも」とも言っていました。
 私が「もう少し頑張れば」と返すと、報道の仕事に携わることを希望し、昨年春フリーに転じたものの、思うようにならない現実を打ち明け始めたという。室内のテレビには数日前に発生した中国・四川大地震の悲惨な現場が映し出されていた。「私は9・11テロをテレビで見て、アナウンサーになろうって思ったんです。今なら、リポーターとして中国四川に飛んで、仕事の傍らでボランティア活動をしたいのに...」と、寂しそうに見つめていたという。
 A氏は多くの女性が悩んでいるだろう恋愛についても尋ねている。
 A氏 「結婚はいつできると思いますか? でも、特定の人はいないんです。私は本気になれないみたい」とは話していました。孤独さは感じましたが、失恋などに陥った雰囲気はなかった。思い返しても仕事への失望、絶望感はあったけど、恋愛問題が自殺の要因になったとは思えません。帰り際に「またうかがってもいいですか?」と尋ねられた。まだ、うつ病のレベルでもなかったし、自殺だなんて、今でも信じられないんです。
 川田アナの葬儀は遺族の強い希望でこの日までに密葬で営まれた。自分のブログにつらい心境を明かし続けた末に迎えた死の大きな要因に仕事があったようだ。

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 ネットラジオを聞いていてもブログを閲覧していてもちょくちょく出くわすのだが、自分が食事している様やその料理の画像等を他人に見せたがる人達がいる。無論メニューそのものが珍しかったり、作り方や値段などそれにまつわる有用な情報が付随しているのなら、そこまで違和感もないのだが、不特定の赤の他人にまったく何の変哲もない自分の食事風景や料理をただただ野放図に公開し続ける人がいる。ネットラジオだと敢えてマイクに向けてぺちゃぺちゃ音を立ててみせたりもする。
 侏儒らしい優越感がそこにあるのかもしれないが、それにしても、一体何なのだろう。むしろ惨めさを訴えているのか。

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 最近、有名な若い女性アナウンサーが自殺したとかで、ネット上にそれに対する意見なり感想なりが多く見受けられるようになっている。と言っても、一部他殺説等もあるようで事件自体まだよく分からないところもあるのだが、一般的には自殺だと思われている。
 様々な書き込みを眺めていて引っかかるのは、この自殺者の絶望というものを闇雲に軽蔑しようとする人々が存在することだ。つまり、どんな辛いことがあったか知らないが、世の中にはもっと辛い思いをしながらも必死に生きている人が多くいるに違いなく、「軽々しく」絶望するのは軽蔑されるべきことだという論旨。
 自殺したのがどちらかと言えば社会的に恵まれていると思われる元東京キーTV局のアナウンサーということで、あの書き込み者達は自己がやっかむ分野にのみ囚われて、人が様々な理由で自殺しうるということを忘れてしまっているのではないかと思うのだが。何もかも恵まれているのに自殺するなんて本人の考え方がどこかおかしいに違いない、というわけだ。仮に庶民の常識から見れば浮ついていると思えるような理由で自死を選んだのだとしても、当人が身をおく環境にあってみれば現に抜き差しならない状況だったのかもしれない。あるいは感情の落差ということもあるだろう。高所から平地に落ちれば怪我をする。平地に居続けている者は無論なんともあるはずがない。
 軽蔑すべき絶望など存在しないように私は思う。例えば当人が物事のネガティヴな側面にばかり注目して絶望していることは、ただ鬱病の発症によってそうなっているのかもしれない。あるいは、それが無知や勘違いによってもたらされた絶望だとしても、それらが自殺との関係において捉えられる時は軽蔑しても意味がない。人格に著しい偏りがあるような場合も、別にその人物を好きになる必要はないわけで、絶望していることそれ自体は軽蔑すべきではない。
 容易に共感できないからといって、その絶望が絶望でないわけではない。

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 さくらでブログを始めた途端の出来事。もしかしたらGWで人手が足りなかったのもあるかもしれないが、復旧まで二日も掛かったのは何か相当手間取ったのか。データのコピーだけでそんなに時間が掛かるとも思えない。うーむ。

http://info.sblo.jp/article/14626877.html
2008年05月04日
さくらのブログにおける長時間の停止に関するお詫び
お客様各位

平素より、さくらインターネットをご利用頂き、厚く御礼申し上げます。

5月2日早朝に発生致しました、さくらのブログに関する機器障害に伴い、復旧まで長時間にわたりブログが表示できない状態が続きました。ご利用のお客様には、多大なご迷惑をお掛け致しましたこと、深くお詫び申し上げます。

今回の障害について、お客様のブログ記事を格納するディスク装置の不具合が原因であり、当該装置の交換により復旧を致しております。
なおディスク装置については、ディスク本体の故障時でもサービスが停止することなく、データの安全性も保障される構成がなされておりましたが、今回は制御装置の故障により著しく速度が低下する状況となっておりました。
そのため、復旧作業については制御装置の交換を予定しておりましたが、交換直後のデータ消失に関するリスクを回避するために、最新状態データのコピー作業を行っており、復旧までに時間を要する状況となりました。

今後、原因の究明および復旧体制の検証を行い、再発防止に努めてまいります。

※調査報告につきましては、完了次第、当社ウェブサイトにおいて公表をさせて頂きます。

平成20年5月4日
さくらインターネット株式会社
代表取締役社長 兼 最高経営責任者
田中 邦裕

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 ネット上に幾つかそういう言説が出始めているのだけれど、どうも、先日長野で行われた聖火リレーにおいて発生した中国人による日本人への暴行に対し、警察が見て見ぬ振りをするなどの行動をとっていたようなのだ。以下これが事実だとして。
 警察が沿道の中国人の取る逸脱行動についてある程度黙認するようあらかじめ命令を受けていたのではないかと考えている人がいるようだ。またもう一方で、警官が結果的に少なすぎたため、日本人を殴っている中国人を一人でも捕まえれば彼ら全体を敵に回すことになり、そうなると現場の警官ではとても押さえ切れないようなので仕方なく放置したのだとする「不作為」説もある。
 私はどちらかというと前者の色合いが濃いのではないかと考えている。なぜなら、必要であるのなら事前にもっと警官を動員しておくことや中国人の数を見て後から増派するなど幾らも出来たはずだし(あるいは、敢えて不十分にしか動員しないことに政治的判断があったのかもしれないが)、武器だって一応携帯しているのにただその場の数と雰囲気に圧倒されてそのような重大な(治安の維持をある程度放棄するという)判断をするなどは幾らなんでも不自然であるように思えるからだ。政治判断によって事前にぬかりなく警官の意思統一がなされていたとする方が現実的だと思う。
 様々な理由によって現在の日本が国際的に強い立場の国ではありえないのだとしても、政治権力は自らの正義や良心を易々と売り渡す以外の方法で中国その他の国と付き合う方法を模索すべきだ。少なくとも自国民を自由に殴らせる以外の方法を模索すべきだと思う。

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