2013年12月アーカイブ

 ずいぶんまえ、斎藤学(精神科医)と大江健三郎が同席した何かのシンポジウムの中継で、共依存の超克について斎藤があれこれ述べたあとに、大江が「共依存でも別にいいじゃないですか」みたいなことを発言したのを覚えている。斎藤はそれで黙ってしまった。私は必ずしも大江が素晴らしい小説家だとは思っていないが、この発言には曖昧に賛同したい気もある。
 大江は治癒する見込みの無い障害を持つ息子の光さんのことを念頭に共依存を「肯定」したのかもしれないが、ある程度なら、誰にでも当てはまることのようにも思える。パーソナリティーの偏りを多少矯正することすら難しい現状で、人はおろせぬ重荷とともにどこか共依存(でなければ何らかの嗜癖)的な部分を引きずって生きていかざるをえないかもしれない。
 しかし、その上で私が留保したいと思ったのは、共依存でいいじゃないかと開き直ってしまう態度だった。治る見込みが無いから短絡的に共依存的帰結を肯定するのではなく、共依存を「乗り越えようとしていること」が重要だと思うのだ。結果的に乗り越えられなくったっていいけども、開き直ることによって捨て去るものがあるような気がする。大江は言及しなかっただけで必ずしもそれまで否定したわけではないかもしれないが。
 どこか不格好で日々葛藤に苛まれても、なんとかその関係の中で生きてゆくしかない面があるということはその通りだろうが、往々にしてより弱いものにしわ寄せが行くということは共依存の内部においても例外ではないと思う。妥協が必要だとしても、十全な状況だと過信すべきでもまたない。

 近親姦の被害にあった子は自己評価が低いと言われるが、昨日SM関係の個人ブログを見ていて、近親姦の告白(むろん作り話かもしれない)をしている自称マゾヒスト的な女性(twitterのフォロワーが1万人以上いてわりと有名みたいだ)がいて印象に残った。いくらか家庭の事情みたいなものを書いていて、より細かい生い立ちを訊いてみたい気もしたが、なんとなく空想が勝手に広がっていかないでもなかった。<基調として非共感的な父親。実母との死別(そう書いてあったわけではないが)のあとの父の若い後妻との再婚。>著しく低い自己評価と刹那主義の兆候がどこから来たのか、もし話がある程度本当なら、彼女は彼女なりの妥協点を見つけて生きているといえばそうのなかもしれない。しかしもうちょっとましな方法が決してないとは言えない...。

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 先日一部紹介した中野良平の論文「神経症的結婚」の元ネタの邦訳であるユルク・ヴィリィ「夫婦関係の精神分析」がアマゾンにあったのでさっき注文したのだけど、年内に届くのかな?「自己愛的共謀」は互いが独立した自我や尊厳を持つ個人であることに耐えられない親近集団が陥る倒錯世界だ。誰かあるいは一人を除く他の者が、自我を消さねば関係が安定しない。
 これはいわゆるSMの世界に似てもいるのかなと思い、「愛好者の方々」のそれっぽい(写真添付などがあってマニア作家さんの創作じゃない感じの)ブログを見たりしていたのだが、なかなか示唆に富むような気もした。「良好」な関係を維持するために、必要以上にパートナーと親しくなりたくない、と述懐するマゾヒストの女性の発言が印象に残った。あくまで恋人ではなくただ物として扱われたいのだそうだ...。
 SM系のファッションが全般に身体を過剰に物に近付けようと(フェティシズム)しているように見えるのも同様の理由からかもしれない。
 そこにはサディストやマゾヒストがいるのではなく、ただ未熟な自己愛をもてあます自我の弱い人々がいるだけ、ということになるかどうか分からない。いわゆるサドマゾ的な世界には本当のAlgolagnia(DNAエラー説があるようだ)のような人々はあんまりいないのではないかと前から思ったりしている。まあそう詳しくもないしよく分からないのだけれど。彼らの何割かは、実はただ「他者愛」に耐えられない人たちなのではないかと夢想したりしている。

 虐待でも差別でも何かの犯罪の被害者でも、あるいは事故に巻き込まれるなど何らかの不運をこうむった人もそうかもしれないが、不当な外的な力によって人生に負の影響を与えられた人々が被害者意識ゆえに自己愛をたくましくするという事があるように思う。実際にそれが誰もが同情する社会的にも許されないような災難であるとすると、自己愛の過剰分をもが黙認され当人を堕落させることにもなりかねない。
 そのような被害者たちの甘い陶酔を覚まさせるには?

 こないだ久しぶりに傘をなくした。しかしどこでなくしたかまったくわからない。こんなことは私としてはあんまりない。どうなってんだ?
 不全感甚だし。

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CIMG1601.jpg 1.今日のカトリック河原町教会の全景。クリスマス限定の看板には「御降誕祭」と書いてあった。 向かって右にある地下のネットカフェの入口が視覚的に目立っていた。土地区画的には不格好だが、あるいは単に教会の副業なのかよく分からない。
CIMG1602.jpg 2.看板中央の聖家族の絵はヨセフがわりと強調的に描かれていた。教会のHPを見ると中にヨセフがイエスを抱いている像があるようだ。マリア像の方は単独。過去に看板の汚れかと思っていた星の流線が気になったが、東方の三博士が見たのは流れ星?その方向にずっと輝いていたのではなく、星そのものが動いて彼らをベツレヘムまで導いたという意味なのだろうか。それとも月が一緒に追いかけてくるみたいな感じの...。
CIMG1603.jpg 3.河原町教会向かって左に隣接するサンパウロ京都書店。ドアの向こうの左側空間には本棚が並んでいたが店主含め人がいたし、本を写しても仕方ないのでこちら側。右端のマリアはまあまあ美しかったけど(マリアが美女である必要は別にないのかもしれないけど)、キリスト教は偶像否定のはずだが、現実に存在した人物を造形化したから偶像ではないというロジックみたいだ。
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 このブログ上部に設置していたAMAZONの広告バナーをやめ、自作のCGI(作成時間45分)をインラインフレームで呼び出すことで、今日の日付を表示するようにした。
 曜日、月、日、年の順番で表示されます(日本時間です)。
 うまくいくかな?

追記(2013/12/21)
 なんかシンプルすぎて寂しいので、サイドバーにAMAZONの検索ボックス追加した。ほとんど広告効果ないけども。気分だけ。

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 美女がナルシシストであるとは限らないのは言うまでもないが、この種の区別がなかなかつきづらい人がいるかもしれないということにふと気付いた。自他の区別が弱いタイプと言い換えることができるかもしれないのだが、自分が羨望する他者は必ず自己に陶酔していると考えてしまう。なぜなら自分の判断基準に「普遍性」を認めてしまって、相手も自分と同じ価値観を有しているから得意満面に違いない、と頭から決めてかかってしまうのだ。むしろこのような人のほうがナルシシストであるおそれがあるかもしれないわけだが、ただ他にも色々可能性があるだろうからたぶんこれだけでは難しいが...。
 世間で日常的に使われるナルシシストという単語と、最近このブログでよく出しているナルシシストは微妙にニュアンスが違うかもしれない。私が問題にしているのはパーソナリティーとしてのナルシシストです。

 この冬初の風邪を(またしても)引いているが、昨夜タウリン3000㎎とかいうドリンクを飲んで寝たらほとんど咳が収まった。ビタミンCのやつもよかったのか。
 今はあたためたカモミールティーを飲んでいる。カモミールも風邪に効くらしい。

 ダブルバインドとかコケットリーみたいな矛盾した状況からの脱出法について考えたりするが、よく分からない。最初から「関わらない」ってことがいいのかもしれないが、現実にはそうも言ってられない場合も多いかもしれない。ではどうするのが正しい対処法なのか?それを乗り越えられるほど「強く」なれ?うーん、弱みというのは必ずどこかにはあるもので...。

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精神の科学 第七巻 p137.jpg
精神の科学 第七巻 p137より抜粋
 前回のエントリーがまた変な感じになってしまったが、岩波の『精神の科学 第七巻』を読んでいた。その中の、病者同士がカップルになったり家族を構成することで発生する悪循環について述べた中野良平の論文「神経症的結婚」を読んでいて(ほとんどJürg Willi という精神科医の著作を中野がまとめただけみたいな感じだが、日本の学者ではそういうのはよくある)、いろいろ思い返されるというか、考えさせられてしまった。
 今で言う「共依存」みたいなことの分析で、フロイト的解釈の線に従っていてかなり古いのだが、相当に的確な叙述があるように思えた。抜粋した右図は自己愛的夫婦の悪循環を表していて、ナルシシスト同士の男女が主と従の機能に分かれて一体化し、まるで閉じられた一個の回路のように、自己愛的小宇宙を構築しながら内部に葛藤を再生産している様を表している。
 カップルだけでなく親子の場合もある。『この種の母親は子供を自分自身の一部としてしか認識していない。子供の自律性が育ち、自分で話し歩くことを学び主導権を発展させ、母親から離れていこうとすると、子供が自分自身を固有の自己として感じられないようにするために戦略をめぐらせる。~(p134)』
 口唇期から始まるフロイトの発達理論の前段階に自己愛の項目を設けて各段階ごとに悪循環を解説しているが、自己愛以外の項目はやや微妙かもしれない。あるいは肛門期よりあとはトーンダウンしてぼやけていく感じもなくはない。
 力ある古い本により、雷撃に撃たれることがある。理論の新旧は問題ではなく、その時代に生きた人々の現実が封じ込められているから強いのだと思う。
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 やるせない感じでもやもや感(性的な意味ではない)がどうにもならないのだが、ブログに書いても仕方ない。
 のりこえねば。

 NPDによる他者性(他者が意思や感情を持って生きているという基本的認識)の喪失への理解が私には難しい。

 BPDとNPDはとても近い関係にあると言われる(どっちも自我脆弱性とかが類似的に絡んでいる)。境界例は、大昔は今のクラスタB全体を含むようなものであったらしく(あるいは既存のカテゴリから外れた人の集積場所)、私も当初日本語の本だけ読んでた頃はあんまり区別がついていなかった。NPDは共感性が異様にない。BPDは他者を振り回すがそこまでの冷酷さはない。振り幅が大きいだけで時には非常に共感的だったりするのだと思う(たぶん)。NPDの非共感性は表面的に取り繕われているが一貫している。彼らには悪意や罪責感がそれがあるべき状況下でなかったりする。
 NPDでそれとして無害なのは社会的に相当成功したNPDだけではないか?彼らの幻想と現実がある程度は合致した稀な状態だから(あとよっぽど孤立しているか?)。カーンバーグだかが、職業的人格としての政治家とNPDの類似性を書いていたような記憶がある。NPDを無害化するために全員そういうポジションにつけるわけにも行かない。周囲は大変だ。


 RSSへのアクセスが妙に増えている(サーバとして借りてるから分かる)。一日50件くらいある。夏ころは30件だった。更新頻度を上げたからか?

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 私はたぶん涙もろい方ではないと思うのだが、美輪明宏がNHKで「ヨイトマケの唄」を実演していて泣いてしまったことがある。いつかの紅白歌合戦より随分前。「ヨイトマケの唄」は、敗戦後にひとりの母親が土方に混じって苦労して働く姿と、その息子である自分が勉強しエンジニアにまで成長する物語を歌っている。
 私が泣いたのは、字面で読み取れる、通りいっぺんの哀歌に揺さぶられたからではなかった。そうではなく、当時すでに老人だった美輪明宏が、奇妙に顔の左半分だけ女性の化粧をしたまま、仁王立ちのようにして「ヨイトマケの唄」を歌い切ったからに他ならなかった。
 普通に考えて、ヤクザな道にも進まず立派なエンジニアになった男性が、化粧をしている必要はまったくないに違いない。美輪が同性愛者であるから個人的な趣味としてそれがなされたのだろうか、あるいは母親の面影を一人二役で演出したのだろうか。もしかするとそうだったかもしれないが、私には別のことが思い浮かばれた。
 私が異形の美輪の向こうに見たのは、主人公の男性が持ち越したどうにもならない未成熟性の兆候に他ならなかった。良い母親が、あるいは豊かな母性が、ひとりの少年をつつがなく平凡なる「男」に押し上げるものかもしれない。母親に正しく愛された少年は思春期の入り口でいびつにたじろがない...。
 重労働が母親を時間的に少年から奪うだけでない。痛苦はどうしたって母を自己愛的にするだろう。破綻の寸前でかろうじて踏みとどまっても、エゴイズムの連鎖が家族に忍び寄る。
 「ヨイトマケの唄」の美談の背後には、ある黒い影が差し込んでいる。そう気付いてふと舞台の中央を見直すと、顔の半分だけ女の化粧をしたままの美輪が、げんこつを腰に当て、まるで開き直るように胸を張ってそれを歌っていた。


 あまり言われないことだが、第二次世界大戦中と直後には大量の(今で言う)PTSDが発生したと思う。PTSDのみならず、強度のストレスが加わった家庭は何らかの機能不全を起こす。それらの機能不全は、諸家庭成員にメンタルの変調をもたらす確率を中長期的に高めただろう。

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OPA

 IE11でMT4が復活してからとりとめもないことばっかり書いてるが、きわめて弱小ブログなのでそう迷惑もかからないであろう。

 河原町OPA(ファッションビル)の店員て、店舗を横断するようなシフトしてるのかな。そんなことってありうるのか?たまたま似たような時間帯に連日行ったのだが、エスカレーター横のとあるカジュアルジュエリーの店員が、OPAに行くたびに違う。人物が違うだけでなく店の制服を着てるときもあればデギンスみたいなまったく自由っぽい服装の時もある。アルバイトの販売員の時は私服ということなのだろうか。しかし、デギンスの店員が、彼女しか店舗にいないのに、ふらふら持ち場を離れているケースを見かけた。
 帰りに、どこかの店の従業員かアルバイトがOPAに徒歩で出勤してきて通用口から入っていくのを見かけた。普段着としては少し異様なほど着飾っていて、要はあのまま店に出るということなのかもしれないが、通勤服としては勇気というかプロ意識というかあれだ。付加価値の高い(高級)服飾方面はある種の女の子たちにはあこがれの職業なんだろうが、なかなかつぶしが利かなそうではある。
 カジュアルジュエリーの店は私が見かけた範囲ではお客がいたためしがないので、カジュアルジュエリーの商売の仕方ってなんだろうと帰ってググっていたら、有名タレントやモデルで人寄せをしているようだ。店のブログでは根本弥生て人が来た時は京都店でも行列をなしていたようだ。さらにHPには新店舗を出すとかグループとしてもわりと元気っぽく、なんか微妙な感じがしないでもなかった。おそらく商品の原価は。
 OPAはセクシーランジェリーが並んでいる2階フロアに銀行ATMを置くのはやめてほしい。!?


 またナルシシストの話だが、彼らは誇大感を維持する目的で、ひいては眼前の状況の意味を都合よく変容させるために、事実の一部分を無視することがある。あるいは誰でも簡単に推測できるはずの文脈を斟酌しない。事実を無視する場合も文脈を斟酌しない場合も、まるでうっかり気づかなかったかのように、あるいはもともと興味がなかったかのように振る舞う。そしてその不備や矛盾を指摘されると話題を変える。これら一連の処理は、往々にして無意識に入りきらないようなグレーゾーンで行われるかもしれない。
 まぁ、これもDistortionと言えばDistortionであるな。
 誇大自己の中身はガラス細工。

 変動はあるもののわりと体調よく嬉しい。頭痛がほぼ出なくなってきた。
 そういえば、「肝機能低下時の頭痛」もきわめて一般的な症状であるのに、ずっと知らなかったことだ。

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 私はこの1・2年音楽を聴くといえば、「エレンの歌3番」か「マタイ受難曲」で全体の半分は占めているのではないかというほどにこの二曲を好んで聴いているのだが、昨日極私的に衝撃的なことがあった。
 それは「マタイ受難曲」において、私の最もお気に入りの冒頭のコーラスで、少年の合唱だと思い込んでいたパートが、実は成人女性の合唱だったことが判明したのである。右のYOUTUBE動画の3分7秒付近で画面が切り替わるのだが、観ていた私はそれが分かった瞬間呆然としてしまった。少年の声と成人女性の声を、CDやMP3再生において完全に取り違えて聴き続けてきたことが分かった瞬間であった。
 馬耳にも、ほどがある。

JSP入門048.jpg また、このところサイト管理でいろいろあったので、今日Javascriptの本を一冊(ポケットリファレンス)買って帰ってきたのだが、本は横に置きながら何となくJavascriptの気になることをネット検索し始めたら「関数はHEADタグ内に書くべき(orできれば書いたほうがいい)」という記述を発見。それは何となくうろ覚えに知っていたようないないような曖昧な感じで、しかしそういえば最近私が右往左往しているところの自作スクリプトは、いまさら見返すまでもなく、HEADタグ内ではなくBODYタグ内に件の関数が書いてあったはず。
 ちょうど購入してきたポケットリファレンスをひっくり返して調べてみるものの、そのことはどこにも書かれておらず、以前から手持ちの入門書である『JavaScriptプログラミング入門 大津真』の方を探してみたらなんとP94にちゃんと書いてあったのである。
 致命的な間違いではないから動くことには動いていたのだろうが、まれにブラウザの読み込み中のマークがいつまでも消えない症状が出ていた原因は、これであった可能性が高い。なぜなら直してから当該症状を一切見ていないからである。

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 土日に少しだけメラニー・クラインを読み返していたのだが、改めて不思議な感じがした。彼女はある種の天才型だったのだろうけど、はっきり言って今となっては間違っていると思われる断定に満ちている。早期の母子関係(対象関係)に種々の病因をかなり安易に還元してしまう姿勢や、高級な感情を乳児の中に見出そうとする解釈的転倒、あるいは人の生物としての先天性を過大視するような放言がちりばめられている。
 しかし、赤ん坊と母親の乳房とのコミュニケーションに対する(少し過剰なほどの?)重要視は、フロイトにはなかったものであり、現代においてなお威力を保ち続ける。フロイト理論(エディプスは所詮男である)の男性中心主義や性欲中心主義に対する反発がありつつ、動物のインプリンティングもヒントにしたのかもしれないが、人が生まれて出会う最初の親しき「物体」としての母親の乳房(or哺乳瓶)に注目したことはたしかにあるコアを捉えている可能性がある。フロイトが口唇期に与えた解釈以上のミステリアスな関係がそこに「いかにもありそう」なのだから。
 クラインを母とする対象関係論は、(発達)コミュニケーション論と言い換えうるかもしれない。クラインは、おそらくは彼女が思っていた以上の、広大な地平を切り拓いた。

 昨日夜中に「チーズフォンデュパン」を食べたら胃が動き出したのか目が覚めてそのまま今朝午前3時過ぎまで眠れなかった。暇なのでCGIサイトに変更を加えたりしていたが、起きたらひどい頭痛で、これは例によって肝機能が低下してる兆候というか、てことはまだあんまり本調子じゃないようだ。ただ精神的にはわりと上向きかもしれないが。
 チーズフォンデュパンと普通のチーズパンの違いについてはよくわからなかった。

 CGIサイトの方は新しいのを投入した状態でもう少し様子を見ることにした。自分ではこれではダメなんじゃないかと思ったのだが、投入した1日のアフィリエイトのクリックデータがなぜか突出して多かったことに気づいた。普段よりクリックが多かっただけでなく、売上もなぜか7千円くらいもあった。むろん全くの偶然なのかもしれないわけだが。??
 ほんとは利用者の人に意見を訊いたら手っ取り早いのだろうけど、こっちは趣味レベルで出来る範囲でスクリプトを書いているだけなので、仮に「あれやって、これやって」と言われてもたぶん対応できない。だから、どうしても訊くのが億劫なのだ...。

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 このサーバの別ドメインのCGIを久方ぶりにバージョンアップしようとしたら、なかなか思ったように動作せず、試行錯誤を繰り返していたのだけど、ようやくうまく行った感じ。

 Javascriptによるカウントダウン処理を実装した複数のページで、ページ自体をリロードしてもそのままカウントダウンを引き継げるようにしたかったのだが、Javascript側からCookieを利用するやり方しか思いつかなかったので(他にやり方あるのかな?)なんとかそれでやってみた。しかしきわめて動作が不安定。普通Cookieには幾種類か簡単な情報が記録できるわけだが、その内のPath指定で、ブラウザが、例えば「/abc」と「/abcd」の区別がつかないらしいことが分かった。これはCookieの「仕様上」そうらしい。なんじゃそらだが、要はこれにハマっていたようだ。
 上の階層にPathを指定し内容の記述で対象を仕分けることでたぶん解決。分かればあとは簡単?しばらく様子見ないと自信が持てないけれど、今日はここまで。続きは未定。

 あとIEだけCookie処理が他のブラウザと違うような気もしたが、深追いしなかった。

【追記】2013/12/02
 結局、様子見たあと本格投入見送った。元に戻した。やっぱり本来Javascriptで全部(特にソート処理自体)書くのが正しいのか。Perl+Cookieでやるとカウントの遷移はできてもあれこれ派生的な問題が起こる。プログラミングはやりはじめると際限なくなって怖い。向こう岸まで泳ぎ切ったような人はなんでも出来て楽しいんだろうなぁ。

【追記2】2013/12/03
 ページリロード時にデータ取得の空振りがないように、せめてもの改良した。まだ気に食わないところがあるが、ブラウザを閉じないとタブを閉じただけでは一時cookieが消えないのは一般的な仕様なので、タブ消しから再びページに復帰してカウンターがリセットされないのは今のやり方では仕方ない。
 際限ないのでこれで一旦収めたい。バグ出ないでくれぇ。

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