Net Lifeのブログ記事

 イーロン・マスクが推すので、Grok3 betaに質問してみた。
 以下がその質問と回答。

Why isn't Complex PTSD included in DSM?

Complex Post-Traumatic Stress Disorder (C-PTSD) isn't included in the Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (DSM), currently in its fifth edition (DSM-5, with the text revision DSM-5-TR released in 2022), because the American Psychiatric Association (APA), which oversees the DSM, has not recognized it as a distinct diagnosis separate from Post-Traumatic Stress Disorder (PTSD). Here's why this decision has held, based on the available evidence and debates:
One key reason is the overlap between C-PTSD symptoms and those already captured under PTSD in the DSM-5. When the DSM-5 was developed, the PTSD criteria were expanded to include symptoms like negative alterations in cognition and mood (e.g., persistent shame or distorted self-blame) and a dissociative subtype, which many argued already encompassed much of what C-PTSD describes. A 2012 review by Resick and colleagues, cited by the National Center for PTSD, found that 92% of individuals meeting C-PTSD criteria also met DSM-5 PTSD criteria, suggesting insufficient evidence to justify a separate diagnosis at the time. The APA leaned on this, prioritizing diagnostic parsimony--keeping the system streamlined rather than adding overlapping categories.
Another factor is historical and procedural. C-PTSD, first proposed by Judith Herman in 1992, emerged relatively late compared to PTSD, which entered the DSM-III in 1980. When the DSM-IV was being drafted, a field trial led by Bessel van der Kolk supported a related concept, Disorders of Extreme Stress Not Otherwise Specified (DESNOS), to address chronic trauma's effects--like emotional dysregulation, identity issues, and relational difficulties. Despite a 19-to-2 vote in favor by the PTSD working group, the APA excluded it from the DSM-IV in 1994 without consulting the group, a move van der Kolk called a "tragic exclusion." This set a precedent, and by DSM-5's development, the focus shifted to refining PTSD rather than carving out C-PTSD, partly due to lingering skepticism about its distinctiveness.
There's also a practical angle: research and validation. While the World Health Organization's International Classification of Diseases (ICD-11) embraced C-PTSD in 2018 as a sibling diagnosis to PTSD--requiring PTSD's core symptoms (re-experiencing, avoidance, hyperarousal) plus disturbances in self-organization (affect dysregulation, negative self-concept, interpersonal problems)--the DSM process demands rigorous empirical backing. Some argue the evidence for C-PTSD as a standalone entity was historically thin or muddled by varying definitions, like DESNOS or the ICD-10's Enduring Personality Change After Catastrophic Experience (EPCACE). The DSM-5 committee, aiming for clinical utility and consensus, didn't see enough to break from PTSD's broader umbrella.
Critics, however, point to potential biases or systemic issues. Trauma experts like van der Kolk argue the DSM's reluctance reflects a failure to fully grasp chronic, interpersonal trauma's unique impact--say, childhood abuse versus a single combat event. Some suggest economic or political pressures play a role: recognizing C-PTSD could disrupt existing diagnostic categories (e.g., borderline personality disorder, often linked to trauma) or challenge funding models tied to established diagnoses. These claims, echoed in posts on X, lack hard proof but fuel suspicion about the APA's motives.
So, it's a mix of scientific caution (overlap with PTSD, need for more distinct evidence), historical momentum (past exclusions shaping present choices), and possibly unspoken priorities (simplicity over complexity). Meanwhile, clinicians often still use C-PTSD informally, and the ICD-11's adoption keeps the debate alive--future DSM revisions might yet shift if research or pressure mounts. What do you think about this divide? Does it match what you've seen or read elsewhere?

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「確かに私もこの何年か自分では 受け止めきれないほど多くのストーカー などのつきまといに複数あっており、最初は 怒っていました。でも相手は私が怒ったり 怯えたりすることで興奮するらしいのです。そして対決しようとした結果逆に相手を 喜ばせることになってしまいました。つまり その人たちは悪い交流で快楽を得ようと する人たちなのです。それにまんまとはまっ てしまいました。その結果異常な数の人たち に追われ私こそがうつになると思いました。何度かもう逃げきれないと死を覚悟した こともあります。それは今でもです。そこで何 ヶ月も思考して考え出したのが反応しない 練習でした。相手の怒りへの誘惑に乗らない 悪質な誘惑に乗らないという態度です。そして今では相手の行為に対して困ること はあっても怒りは不思議と出てこなくなり ました。困ったなくらいです。」

 今年に入った辺りから視聴していた匿名自称カウンセラーの500本以上ある動画のうちの一つなのだが、この人自身に統合失調症の兆候が出ているかもしれない、と思わせる箇所に遭遇。もちろん、上記引用に述べられている事が本当にあったのかもしれないし、また、ごく一時的に精神的な揺らぎが大きくなっただけかもしれないけれど。
 この動画だけだとわからないが、ある程度数を視聴すると、本人がカウンセラーながら長期に亘り親子関係に起因する問題を抱えている感じがあって、なおかつよくある毒親との断絶を推奨する系なので、私としては相変わらず安直な親子断絶は副作用があるのではないかと思わざるを得ない。このブログに少なくとも2008年にスーザン・フォワードの『毒になる親』のレビューをした時から何度か書いていると思う。
 機能不全の親でもほとんどの場合「いいこと」もしており、断絶や一括否定が危険なのは、健全な要素まで付随的に切り捨ててしまうことになりかねないためだ。機能不全に起因するトラブルや対立が高じている時は悪循環にのみ注目し「いいこともしてもらった」や「(機能不全でも)善意は含まれていた」とは思いづらい。また、ごく幼少期によくしてもらったことは無意識であるため気づきづらいところもある。だから、今の思い込みによって行き過ぎた断念を持ってしまうと、囚われている苦痛から自由になることはあるかもしれないが、弱い自己の基礎にわざわざ新たなヒビを入れることにもなりかねない。
 健全な思春期の反抗の根底にはより強固な信頼関係があるが、機能不全の場合はその基本的な信頼は曖昧になっている。断絶は、善意の兆しをも一括りにして『すべてを捨てるか?』という激烈な問いがまとわりつく運命にある。
 私は、毒親であれ健全な親であれ客観視できるようになることが子どもの成熟だと思っているが、機能不全の親子の入り混じるような状態から境界を作ることは最低限のスタートラインに着くために必要だとしても、本来それは白黒思考の硬直した境界であってはいけない。それはまた別の思い込みでしかないからだ。バランスの取れた常識や正しい知識からの視座によるものでなければならない。
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 Shahida Arabiに関連して「補足的ナルシシスト」という概念を思い出し、その発案者であるユルク・ヴィリィについて改めてネット検索していたら、たまたまYoutubeで以下の加藤諦三という人の動画を見つけました。
 加藤諦三氏は精神科医でも臨床心理学者でもないけれど、よくメンタルヘルスに関する発言をされている方のようです。著書でユルク・ヴィリィについても言及されているようです。動画では、彼がナルシシズムというものがなぜ重要な問題なのかを説明しているのですが、通して視聴して、私的に大きな問題を感じなかったのでメモ代わりに紹介します。初心者向け。
 集団ナルシシズムとヒューマニズムの対立は、ぼんやり私も考えていたことで、動画内で明示的に説明されたので多少驚きました。ただ、同時に、ナルシシズムもヒューマニズムの一部だとも言えると思っていたので、このあたりは難しいです。加害者側にもヒューマニズムがあるというか、人間はそんなふうに不完全な生き物なのだ、と言ってしまえなくもない。


追記(2022/06/11):
 空いた時間に加藤氏の上掲以外の動画も視聴しているのだが、微妙。
 加藤諦三氏は、長年人生相談番組をやってこられた社会学者だそうで、社会心理学系の限界みたいなものも感じる。夫の暴力に悩んでいる妻が文句を言いながらも別れようとしないのは問題解決の努力を怠っている、というような主張など、聴いていてクラクラした。表面だけ取れば間違ってはいないかもしれないが、これはおそらくは「共依存」の問題であり、言葉は運良くなにかのきっかけにはなるかもしれないが、相談者の心には届かないかもしれない。
 専門家でもないのに、見ず知らずの他人の相談に大量に乗れる人というのは、ある種の誇大感の持ち主かもしれない。


追記2(2022/06/13):
 近くの図書館にあった加藤諦三氏の本を借りて読んでみたのだが、曖昧な根拠からの強すぎる断定や、次元の混同、過剰あるいは軽率な一般化、などが広汎に見られるかなりな代物だった。ただ1994年に以前書いたものをまとめたような出版だったので、その頃の日本ではパーソナリティ障害とかアスペルガー症候群とか愛着理論、あるいは複雑性PTSDなどの概念はほぼ知られていなかったと思われるから、絶対的に武器が足りなかった時代かもしれない。
 現代的には気恥ずかしくて誰も使わない「男とは~」「女とは~」といった類の大きな主語が頻出し、男女関係にまつわる些末あるいは卑近な例からの、過剰な一般化が繰り返され、考察とも言えないような散漫かつ軽薄なドグマが展開される。
 先約のある新し目の本も予約したが、順番が回ってくるのはやや先になりそう。

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 私は昔、(諸事情により)多少メンタルヘルス系の書籍を読み溜めた頃に、ネット上にことさら偏った人物を見つけようとしていた時期があった。今はもうネット情報の断片性や不効率性に気づいて新規開拓はほぼやめてしまったのだが、まだpeercastが動画配信の中心だったような時期に、ひとりの統合失調症の診断を受けているという女性の動画でいわゆる「言葉のサラダ」「観念奔逸」のような症状を見て驚き感銘を受けたことがある。本に書いてあったのはこれのことか、というわけである。その女性は数年後にはかなり回復して、ツイッターか何かで理解者と結婚したらしいあるいは子供もできたというような情報を知ったのだが、年月を経ても大抵はあまり変化のない病者たちの中で、症状的にも社会的にもかなりの改善を達成したらしい特筆すべき人物として彼女を記憶していた。
 しかし、今年ルータ及びOSのポート開放ができるようになった関係で(前はマンション内の別スペースにフロアを一括して処理するルータがありそこから各戸にLANケーブルだけが敷かれる方式だったためポート開放は不可能だった)、多分10年前後の時を経てふたたび彼女の配信を視聴したのだが、浮気配信のような内容で非常にがっかりした。確かに、明らかに安定的に普通に会話できていたし統合失調症の症状的にはあの頃と比べるべくもないのだが、見れない間私が夢想していたのとは違い、ちっとも安定していない現実がそこにはあった。視聴者から注目されたいために浮気中継をしている感じもなくはなく、配信依存のような側面も危惧した。
 常識的には彼女はそれなりに円満たるべき環境にあったはずだが、やはりなにか過剰なものを背負っているということであろうか。


追記1(2020/05/03):
 ベイトソンのダブルバインド仮説は流行らないが、統合失調症者は意識の枠組みにおいてどこか二律背反的な構造を予感させる。何かが予めせめぎ合っている。集中力がないとか飽きっぽいとかいうのとは違う。深みにある矛盾によって土台そのものがねじれている。寛解しても(or薬で症状を抑えても)必ずしもそこから自由になり切れない場合があるのかもしれない。

 フロイトは一人の患者も治せなかったと言われるが、3つくらいのパターンが挙げられていたような気がする。①そのまま治らなかった ②一旦治ったように見えたがしばらくして再発した ③当初の症状は治ったが(反動と思われる)別の症状が発生した


追記2(2020/05/23):
 流行らないと言えば一昔前までの書籍には「プレコックス感」なるものが記述されていたが、ほとんど死語になったような気がしないでもない。要は統合失調症者から受けるいわく言い難い印象のことなのだが、追記1前段に示したような内実だったのか、あるいはもっと別のことを意味していたのか今となってはよく分からない。
 精神医療が独占していた病者たちの実像がネットによって暴露されて、彼らをことさら神秘めかす行為が野放しでいられなくなった面もあるのかもしれない。

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 コルベアが今ネット上で流行っているらしい"Pen-Pineapple-Apple-Pen"の「ネタ潰し」ネタをやっていたのだが、要はパントマイムっぽい元ネタに現実のペンやリンゴやパイナップルが欠けていて、小道具さんよろしくコルベアが街中探しまわってようやくそれらを持ってきたという設定で、オチとしてはペンが実際にはパイナップルには刺さらない(皮が固くて)、ということのようだ。

 私はそれよりも、日本人に対して何かが遅れたことを謝るコルベアを見て、真珠湾攻撃で日本側の宣戦布告が「遅れた」問題を隠喩的に想起してしまい、ややドキドキしてしまった。今更大昔に宣戦布告が遅れたことについて日本側から謝るのもおかしな気がするが、十分時間が経ったとも言え、天才的にうまく会話できる総理大臣がいれば記念的な首脳会談とかで(その逆鱗に!)触れてみてもいいかもしれない。しかし、当時の在米大使館員の怠慢説やそれ自体大本営の故意説など必ずしもディテールの決まっていない状態でなんらかの総括をするのは、国内向けとしても簡単ではないに違いない。
 一般のアメリカ人は当時の日本がアメリカを含む国々によってかなり厳しい資源封鎖をされていたという前提をまず知らないと思われるので、奇襲としての真珠湾攻撃に純粋な憎悪(藪から棒で不合理かつ卑劣かつ身の程知らずな...)を抱いている場合がほとんどだと思う。真珠湾攻撃をするに至った(せざるを得なかった)プロセスの日本側からの視点に興味のあるアメリカ人などほとんどいないだろうから(とは言えアカデミックな歴史書には書いてあるのかもしれない)、この辺りはなかなか越えられない高い壁だ。

 コルベアが最後に"I-- JUST MIME IT"と繰り返し言い訳して悔しがるのは、いつもアメリカを真似る日本人への当てこすりが含まれているかどうか。もしそうだとするとやや古い日本イメージかもしれない。

 私がめったにコメディアンで笑わないのは、こうやってあれこれ上の空に考えてしまうことも原因のひとつかもしれないが、根本的には、芸人が提供する笑いの本質が多くの場合差別だ、と信じているということがあると思う。コルベアは、差別主義者を差別するとかして(メタ差別)、そこのところをうまくオブラートに包んで提供している、かのようだ。

 どういうわけだかこのところの私は「差別」に関して意識が向かいがちなので、やや差し引いて考えるべきか。エマニュエル・トッドの「シャルリとは誰か?」でフランス人の屈折しまくった人種差別を読んでいる途中だが、私の興味が向かっているのは特に人種差別というわけではない。差別意識の遍在性みたいなこと。誰も差別から逃れられないみたいなこと。

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 ヒラリー・クリントンとドナルド・トランプ双方の発言内容が事実だったかどうか検証しているサイトがあるみたいで、以下factcheck.orgとpolitifact.comていうのがその二大巨頭らしいです。

・FactChecking the First Debate
http://www.factcheck.org/2016/09/factchecking-the-first-debate/

・Trump, Clinton debate fact-checks (a running collection)
http://www.politifact.com/truth-o-meter/article/2016/sep/27/trump-clinton-first-debate-fact-checks/

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 アメリカのケーブルテレビの人気番組「Last Week Tonight」の司会者でコメディアンのジョン・オリバーの英国訛りの発音がかなり聴き取れないので周辺から攻めたりしていたのだが、こないだ(6月5日)の番組内容が印象に残ったので紹介。

 現在アメリカ合衆国の家計の負債を合計すると12兆ドル(!)あるが、その不良債権化した一部が銀行から第三者の債権コレクターのような会社(Encore社等)に売られている。ただし、それらの債権には弁済されたものや倒産処理を通して無意味化した「ゾンビ債」のようなものも含まれる。で、コレクター会社は脅迫や侮辱や自殺教唆など違法な取り立てをするためにそれら手に入れた債務者リストの個人情報等を利用する一方で、地域によっては債権者が申し立てた場合債務者が出頭して支払わない意思表示をしなければ債権が有効化する裁判システムを利用して、それら地域でおびただしい数の訴えを起こしている(つまり会社側は裁判所に債務者が出頭しないことを期待している)。
 このような債権コレクター会社の運営には殆どの州で免許を必要としないため、オリバーはミシシッピー州でCARPという会社を50ドルを支払って実際に設立し、9千名分計1500万ドルの債権を6万ドルで買い占めた上ですべて債権放棄したようだ。
 オリバーは、これは(富豪オプラ・ウィンフリーの記録を超えて)テレビ史上最高額の無償供与であると主張している。


追記(2016/06/09):「ゾンビ債」の説明のところ等を訂正。勘違いしてた。ぼんやりした要約レベルでもちゃんとやろうと思うと大変だな。ディクテーションだともっとに違いないわけだが。うー。

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 なんかYahooメールの迷惑メールトラップに初めてかかったらしく、盛大に恥をかいてしまった。お昼頃の問い合わせのやりとりで先方がすでにメールは出したと即答してきたので(ちょっと怒ってる感じもした...)、向こうの送信済みフォルダにコピーとか物証があるのに違いないと思う。こちらとしては当時迷惑メールフォルダを一応は眼で確かめた上で来てないと判断していたので(受信箱にはもちろんない)それなりの自信があったのだが、思い込んでいた「向こうの出し忘れ」ではなかったことで、一挙崩壊。
 フェアに状況の蓋然性を考えて、こちらが確認の時に見落としたのではないかと思う、多分。
 Yahooメール使うのやめたいが、間の悪いことに先方のアカウントはメールアドレスを変更できないみたいだ。
 うー、やるせない。

追記(20160122):
 パスワード再発行してもらって(案の定迷惑メールに振り分けられた)、ようやく自分の収益確認できた。ずっとメール待っていてバカみたいだった。やりとりの相手はネット広告会社。
 このブログで時々やめたがっていた別ドメインの自作サイトをまだやっていて、というかPVはずっとゆっくり右肩上がりで昨日などは3万8千PVまで行ったのだが(ただユニークIPが比較的少なく、それは長居する人がリロードやサイト内移動するためだと思う)、今月は他の会社のも総計すると広告のあがりは月2万円ペースという感じ。12月はもう少し良かったみたいだけど、年明けは下がるものみたい(?)だ。いずれにせよお小遣いレベルといえばその通りだけど、2014年の夏頃は月3千5百円位とか書いていたので、それなりに成長して来たと言ってもいいのではないかと思う。しかしまだ時々やめたいけども。何度か書いてるけど、根本的に自分で好きなサイトじゃないのだ。自分で許せる風に改変できればいいのだが。
 今回のこのメールの件は、自分自身に対する不審のようなものが募って、思わぬ角度からなかなか深手の傷を負った気もする。確かめなかったのではなく、「確かめた上で」見過ごしたのだとすると、なお悪いからだ。

追記2(20160125):
 広告報酬の確定支払いに消費税が引かれていて、わりと驚いた。一体私は何を消費したのか?広告自体?
 しかし、あのなんちゃってサイトとの付き合い方にまた悩み始めてる。お遊びレベルのWEBプログラミングで、どこまでも行けるとは到底思えない。しかし人が増えてくると、なんとなくほったらかせない。ダメなところを直したくなる。と言うか、直せるのか?

追記3(20160126):
Google Adsense(アドセンス)の消費税の取り扱いについて

 どうも去年の10月にネット広告まわりの税制が変わっていたようなのだが、まったく知らなかった。私が以前から利用しているところについては今でも特に明示的には消費税を取り立てていないように思う。調べると、今回申し込んだところ以外に、「リンクシェア」というところも消費税を改正前からとっているようだ。どの会社も流してる広告はそう代わり映えがしないように思うのだが、この違いがはっきりしない。
 一般論的には、取引ごと(相手が国内か国外か)で細かいことがあるみたいで、要は国内だけで回してる会社は消費税をかける方向性ということだろうか。利用者側としては広告会社選びの時に留意しておくしかないかもしれない。

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 上の動画は最近ヒットしているゲームのひとつらしい'Metal Gear Solid 5' のプレイ動画なのですが、メインキャラクターの一人Quietの造形的なモデルを務めたMs. Stefanie Joosten自身が当該ゲームをプレイしていて、本人を元とするキャクターと初めて遭遇し戦うくだりが面白かわいいです(動画の再生開始時刻を遭遇直前に合わせてあります)。
 Ms. Stefanie Joostenはオランダ出身のトライリンガルらしく日英蘭語ができるみたいで、動画全般を英語で進めて最後の方では流暢な日本語で丁寧な挨拶をしています。こういうのを観ると私としては英語学習意欲がいや増すわけでありますが、いやぁ、ホントまだまだだぁ!


追記(2015/11/10):
Stefanie Joosten Responds to Complaints About Quiet's Appearance (x-post from /mgg/)


追記2(2015/11/12):
 Stefanie JoostenとQuietは顔もそんなに似ていないが体つきはさらに似ていない。Quietが女性キャラクターとして性的特徴を誇張されていることがMGSのゲームとしての興を殺ぐという議論が激しいようだが、私の印象に残ったのは、男性への性的誇張が許されるのに女性に対するそれが許されないのはダブルスタンダードだ、という誰かの意見。
 エチケットをテーマとした9月の『NHK実践ビジネス英語』にも意味的に類縁する箇所を持つヴィニエットがあった気がするのだが、エレベーターの出入りでレディーファーストを心がけて睨まれる(女性を過度にか弱き存在として扱っているため)シチュエーションの提示や、性的な冗談を言ったあとに聞き手に混じっていた女性に謝ったりするのはむしろ差別だとする主張、など。
 この種の、弱者を特別扱いすることが差別であるという思想は、日本ではまだ必ずしも一般的ではないかもしれない。特別扱いはむしろ元の差別を温存し、さらに利権化したりする、やいなや。

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 今日NYT東京支局長のMartin Facklerがリツイートしていて眼に留まったのだが、Washington Post東京支局長のAnna Fifieldが日本の通りがかりのホルモン焼屋の看板の、おそらくは英語のおかしさ、をツイートしていた。それが下記。



 正直、私は一瞬何が奇異なのか意味が分からない感じがあったのだが、'Grilled Guts'でググってみたところその検索結果の少なさがわかって、遅ればせながらも察しがつき始めた。たぶん、なのだが、Gutsは単に解剖学的な内臓のことであり人間も動物も含めたかなり広い概念なのだ(だからホルモン焼屋の意図はある意味で全否定はされない)。で、本来英語で(動物の)臓物料理を言う時はOffalを使うのが一般的のようで検索してもいっぱい臓物料理のページや画像がヒットする。
 概念がより限定された一般的な単語があるのに、あえて無駄に広義の語彙を使用するとしたら、おそらくは「あまり」の部分に発言者の意図が込められていると思うのは確かに人情である。いや、何を言いたいかというと、Offalというわかりやすい一般的に臓物料理のために使われている単語があるのにあえて人間の内臓も含めるGutを使うことは、要は人肉食(cannibalism)を隠喩するのだ、おそらくは。
 近年中国の台頭により米メディアの東京支局員のレベル低下について云々言われる感じもあるが、この件を彼らの笑いのレベルとして眺めた場合、そんな気もしてくる。
 ちなみにこの直後にAnna Fifieldがツイートをしたのはなぜか(オリエンタリズムの象徴でもある)力士である。もちろん力士は大食いっぽい。



 いったい私が何を言おうとしているのか伝わってる自信がそうはないわけだが、まぁ、ただの思い過ごしかもしれないので、そっとしておこう。

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