思いつくままのブログ記事

 日本のバレエ団がスヴェトラーナ・ザハロワをプリンシパルに呼んだなにかの舞台のDVDで、ザハロワ以外のバレリーナは全員日本人だったのだが、観るのが途中で辛くなったことがあった。彼らはほとんど別の生き物だった。ザハロワの周りで手脚の短い別の生き物が終始じたばたしているような感じだった。
 また、ザハロワの熱烈なファンなのか、観客のひとりの男性が、彼女が見せ場でポーズやターンを決めるたびに、異様な熱意をもってブラボーを叫ぶのもきつかった。単に彼の声量が突出していたというだけでなく、一貫して非常に個人的に興奮されていた。
 それ以外の観客はおとなしかったのだけれど、むしろほとんど緊張しているというか取って付けたような反応。
 それで「日本人にはバレエは合わない」などと誰だかに軽はずみに断言した記憶がある。やや言い過ぎだったと今では思うが(いちおう日本人でも国際的に活躍している人はいるようなので)、しかしある絶対的な限界を示している気がしたことは確かだった。

 今月1日に行われたローザンヌ国際バレエコンクールで日本の高校生が1位と2位を独占した直後なのにあれだが、ニュースを見て少し複雑な気持ちになったので。

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 BPD方面の掲示板を見ていて、書き込みが生々しく、反省というか自分の認識をやや改めていた。
 やはり弱者同士が深く支えあうというのは美しい光景のようでかなり危険だ。なまじっか相手の気持が分かってしまうから、共感できるという意味ではどうしても引き寄せられてしまうが、羅針盤のない船の平和のようなもので、あとから大変なことになる。
 親子なら共依存もある程度仕方ないで済む場合もあるだろう。あるいは「育て直し」が功を奏する可能性すらあるのかもしれない。しかし、カップルの場合は所詮他人なので、多少は相手の親役をやってあげることがあるにしても、状況が本質的に異なる。双方が病んでいて悪循環の「純度」が高まってしまうと(どちらも別れればいいはずなのに別れられない)、エスカレーションが相当なことになるようだ。
 病者側の未熟さをやすやすとカバーしてなお余りあるような、経済的にもメンタル的にも知的にも強い健康優良児みたいなのと付き合うなら、共依存状態を完全に避けられるのかもしれない。しかし普通ですら難しいのにそういう少数の強者がわざわざ病んだ者をまじめな交際相手に選ぶとは思えないし、あってももはや保護者みたいな状態であり、成熟を前提とする感情の部分で相当通じ合わないだろう。
 掲示板の書き込みでは、多くの人が互いに傷つきながら関係を保ったり断ったりしているようだった。

 「BPDは内省できない」みたいなパートナーの方の述懐があって印象に残った。BPDのすべてが内省が苦手かどうかは症状の軽重や個性の関係もあると思うので留保するとしても、傾向として、自我や自尊感情や現実検討能力が弱いと自分というものの輪郭がはっきりしなくなると思われ、内省しようにもできなくなるのではないかと思われる。これは逆に誇大感によって自己の輪郭がなくなるNPD(不健全なナルシシスト)もその傾向があるのではないかと思う。
 内省ができているうちは、仮に悩んでいるとしても、ある程度自他の区別が適正に保たれている兆候かもしれない。内省ができず、手っ取り早く合致する解答をどこかに探すように、自分について「他人の頭で考える」しかないようだと好ましくない状況かもしれない。いろんな知識や考えを仕入れることはもちろん大切だが、それだけで自分が解決されることはないのだから。
 私は、弱い自我を強くすべきみたいなことをこのブログで書くが、これはわがままになるみたいな意味ではない。自他の区別がありながらも共感性を失わず比較的安定した自我のことを強い自我として指している。いわゆる自我脆弱や自我拡散に陥らない強い自我のこと。関連書籍に出てくる内容を私なりに噛み砕いて書いてるつもりだが、やや誤解を生むかもしれないと気付いたので。しなやかで強い自我。

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 私の唯美主義の正体は結局は「人嫌い」なので、本当の唯美主義とは土台においてやや違うものかもしれない。真に美的なものが人の世にありえないために(!?)、はぐれた美意識が超越的になっているということなのであって、私に特に何か偏愛する美的世界があるというわけではないのだ。つまり現実から虚空に逃れようとする美意識の不定形のベクトルがあるだけなのだと思う。
 子供の頃の芸能人への低評価については、音楽教師の母がしばしば彼らをまるで害虫かなにかのように(ちょっと言い過ぎか)見なしていたということの影響もある気がする。ただ、そういう母への反発もないことはなかったのだが。
 自然の美しさというものもあるわけだが、それもどこか人を通して成立している感覚であるかもしれない。山や海が美しいと思うのは、どこか社会やそれを分かち合う他者を想定しているからありうるのではないだろうか?絶海の孤島に慣れたロビンソンクルーソーは、海をいちいち美しいとは思わなくなるのではないか。
 美がどこにもありえなければ美に飢えるので、唯美主義的にならざるを得ない。
 我ながら、なんだこれは。
 たとえば現実に絶望した革命家の脳裏には甘く美しいユートピアのイメージが刻まれているもののような気がするが...、私のはもっと不定形でむしろ反思想的だ。
 『人間は恋と革命のために生まれて来たのだ』太宰治
 この太宰の言う「恋」や「革命」の意味内容もたぶん空疎だ(ファンに怒られるかもしれないが)。

 中学生の時にクラスメイトのひとりが「アイドルになる」ために東京へ転校していったことがあった。彼女はクラス内でも真ん中くらいの容貌だったと思う。特に歌やダンスがうまいわけでもなかった。教師から彼女の転校を知らされたあと、驚いているはずのクラスメイトの誰もが奇妙に一切そのことに触れなかった。なんでこんなことを思い出したのか。彼女がアイドルになった形跡はない。
 別にアイドルになれなくても、人として幸福になっていればそれでいいわけだが。

 私は実は精神的なものの価値をそんなには高く捉えていない。すべてケミカルな反応だから精神など幻想なのだというのはヒッピー思想(ヒッピー文化には思想的バックボーンがあった。主に薬物使用による意識の変容を体験した人々が、昔ながらの精神と物質の対立において物質の側に素朴に勝利を与えた。村上龍もいちおうこの系譜だと思う。)だが、私は精神の本質が物質である(だろう)ことにヒッピーのようにはショックを受けないので、そんな程度で精神活動が無価値だと思ったりはしないが、『いくら話し合ったって無駄』という感じがどこかに強固にあることも確かなのだ。精神活動としてのコミュニケーションというものに対する信頼が普通よりやや低いかもしれない。やはり具体的に事態を動かせ(れ)ばそれなりにかなりのことが解決するものだと思う。
 では私は一体なににこだわっているというのだろう?

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 個人的にはめっきりネットの生放送を観なくなっているのだが、ネットのトラフィックを調査をしているsimilarweb.comのニコ生の統計を見ると、まったくの横ばいみたい。人が減ってる説は嘘かなぁ。

 フロイトは発達段階のモデルのなかでサディズムという語を大きく二回使っていると思う。ひとつは口唇期サディズムでもうひとつは肛門期サディズムだ。大人の性倒錯としての起源はどちらかと言うと肛門期サディズムにあるとされるかもしれない。口唇期サディズムの方は幼く反射的に過ぎて、支配―被支配の政治的側面がない。マゾヒズムはフロイト的には自己へ向かうサディズムとして捉えられ、大本でサディズムに統合される。
 私がフロイトの説明を信じているということでは必ずしもないが。

 私はどこか唯美主義的なところがあり、たぶんこれは色んな意味でよくない傾向だと自分で分かっているのだが、分かっていてもなおらない。芸能人の外見の美醜について点数をつけあうようなことを子供の頃だれでもするかもしれないが、私の与える数字だけがすべて異様に低くその場の雰囲気を壊したのを覚えている。

 焦っている人に「焦るな」とアドバイスするのはどの程度効果があることなのだろう。

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 ずいぶんまえ、斎藤学(精神科医)と大江健三郎が同席した何かのシンポジウムの中継で、共依存の超克について斎藤があれこれ述べたあとに、大江が「共依存でも別にいいじゃないですか」みたいなことを発言したのを覚えている。斎藤はそれで黙ってしまった。私は必ずしも大江が素晴らしい小説家だとは思っていないが、この発言には曖昧に賛同したい気もある。
 大江は治癒する見込みの無い障害を持つ息子の光さんのことを念頭に共依存を「肯定」したのかもしれないが、ある程度なら、誰にでも当てはまることのようにも思える。パーソナリティーの偏りを多少矯正することすら難しい現状で、人はおろせぬ重荷とともにどこか共依存(でなければ何らかの嗜癖)的な部分を引きずって生きていかざるをえないかもしれない。
 しかし、その上で私が留保したいと思ったのは、共依存でいいじゃないかと開き直ってしまう態度だった。治る見込みが無いから短絡的に共依存的帰結を肯定するのではなく、共依存を「乗り越えようとしていること」が重要だと思うのだ。結果的に乗り越えられなくったっていいけども、開き直ることによって捨て去るものがあるような気がする。大江は言及しなかっただけで必ずしもそれまで否定したわけではないかもしれないが。
 どこか不格好で日々葛藤に苛まれても、なんとかその関係の中で生きてゆくしかない面があるということはその通りだろうが、往々にしてより弱いものにしわ寄せが行くということは共依存の内部においても例外ではないと思う。妥協が必要だとしても、十全な状況だと過信すべきでもまたない。

 近親姦の被害にあった子は自己評価が低いと言われるが、昨日SM関係の個人ブログを見ていて、近親姦の告白(むろん作り話かもしれない)をしている自称マゾヒスト的な女性(twitterのフォロワーが1万人以上いてわりと有名みたいだ)がいて印象に残った。いくらか家庭の事情みたいなものを書いていて、より細かい生い立ちを訊いてみたい気もしたが、なんとなく空想が勝手に広がっていかないでもなかった。<基調として非共感的な父親。実母との死別(そう書いてあったわけではないが)のあとの父の若い後妻との再婚。>著しく低い自己評価と刹那主義の兆候がどこから来たのか、もし話がある程度本当なら、彼女は彼女なりの妥協点を見つけて生きているといえばそうのなかもしれない。しかしもうちょっとましな方法が決してないとは言えない...。

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 先日一部紹介した中野良平の論文「神経症的結婚」の元ネタの邦訳であるユルク・ヴィリィ「夫婦関係の精神分析」がアマゾンにあったのでさっき注文したのだけど、年内に届くのかな?「自己愛的共謀」は互いが独立した自我や尊厳を持つ個人であることに耐えられない親近集団が陥る倒錯世界だ。誰かあるいは一人を除く他の者が、自我を消さねば関係が安定しない。
 これはいわゆるSMの世界に似てもいるのかなと思い、「愛好者の方々」のそれっぽい(写真添付などがあってマニア作家さんの創作じゃない感じの)ブログを見たりしていたのだが、なかなか示唆に富むような気もした。「良好」な関係を維持するために、必要以上にパートナーと親しくなりたくない、と述懐するマゾヒストの女性の発言が印象に残った。あくまで恋人ではなくただ物として扱われたいのだそうだ...。
 SM系のファッションが全般に身体を過剰に物に近付けようと(フェティシズム)しているように見えるのも同様の理由からかもしれない。
 そこにはサディストやマゾヒストがいるのではなく、ただ未熟な自己愛をもてあます自我の弱い人々がいるだけ、ということになるかどうか分からない。いわゆるサドマゾ的な世界には本当のAlgolagnia(DNAエラー説があるようだ)のような人々はあんまりいないのではないかと前から思ったりしている。まあそう詳しくもないしよく分からないのだけれど。彼らの何割かは、実はただ「他者愛」に耐えられない人たちなのではないかと夢想したりしている。

 虐待でも差別でも何かの犯罪の被害者でも、あるいは事故に巻き込まれるなど何らかの不運をこうむった人もそうかもしれないが、不当な外的な力によって人生に負の影響を与えられた人々が被害者意識ゆえに自己愛をたくましくするという事があるように思う。実際にそれが誰もが同情する社会的にも許されないような災難であるとすると、自己愛の過剰分をもが黙認され当人を堕落させることにもなりかねない。
 そのような被害者たちの甘い陶酔を覚まさせるには?

 こないだ久しぶりに傘をなくした。しかしどこでなくしたかまったくわからない。こんなことは私としてはあんまりない。どうなってんだ?
 不全感甚だし。

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 美女がナルシシストであるとは限らないのは言うまでもないが、この種の区別がなかなかつきづらい人がいるかもしれないということにふと気付いた。自他の区別が弱いタイプと言い換えることができるかもしれないのだが、自分が羨望する他者は必ず自己に陶酔していると考えてしまう。なぜなら自分の判断基準に「普遍性」を認めてしまって、相手も自分と同じ価値観を有しているから得意満面に違いない、と頭から決めてかかってしまうのだ。むしろこのような人のほうがナルシシストであるおそれがあるかもしれないわけだが、ただ他にも色々可能性があるだろうからたぶんこれだけでは難しいが...。
 世間で日常的に使われるナルシシストという単語と、最近このブログでよく出しているナルシシストは微妙にニュアンスが違うかもしれない。私が問題にしているのはパーソナリティーとしてのナルシシストです。

 この冬初の風邪を(またしても)引いているが、昨夜タウリン3000㎎とかいうドリンクを飲んで寝たらほとんど咳が収まった。ビタミンCのやつもよかったのか。
 今はあたためたカモミールティーを飲んでいる。カモミールも風邪に効くらしい。

 ダブルバインドとかコケットリーみたいな矛盾した状況からの脱出法について考えたりするが、よく分からない。最初から「関わらない」ってことがいいのかもしれないが、現実にはそうも言ってられない場合も多いかもしれない。ではどうするのが正しい対処法なのか?それを乗り越えられるほど「強く」なれ?うーん、弱みというのは必ずどこかにはあるもので...。

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 やるせない感じでもやもや感(性的な意味ではない)がどうにもならないのだが、ブログに書いても仕方ない。
 のりこえねば。

 NPDによる他者性(他者が意思や感情を持って生きているという基本的認識)の喪失への理解が私には難しい。

 BPDとNPDはとても近い関係にあると言われる(どっちも自我脆弱性とかが類似的に絡んでいる)。境界例は、大昔は今のクラスタB全体を含むようなものであったらしく(あるいは既存のカテゴリから外れた人の集積場所)、私も当初日本語の本だけ読んでた頃はあんまり区別がついていなかった。NPDは共感性が異様にない。BPDは他者を振り回すがそこまでの冷酷さはない。振り幅が大きいだけで時には非常に共感的だったりするのだと思う(たぶん)。NPDの非共感性は表面的に取り繕われているが一貫している。彼らには悪意や罪責感がそれがあるべき状況下でなかったりする。
 NPDでそれとして無害なのは社会的に相当成功したNPDだけではないか?彼らの幻想と現実がある程度は合致した稀な状態だから(あとよっぽど孤立しているか?)。カーンバーグだかが、職業的人格としての政治家とNPDの類似性を書いていたような記憶がある。NPDを無害化するために全員そういうポジションにつけるわけにも行かない。周囲は大変だ。


 RSSへのアクセスが妙に増えている(サーバとして借りてるから分かる)。一日50件くらいある。夏ころは30件だった。更新頻度を上げたからか?

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 私はたぶん涙もろい方ではないと思うのだが、美輪明宏がNHKで「ヨイトマケの唄」を実演していて泣いてしまったことがある。いつかの紅白歌合戦より随分前。「ヨイトマケの唄」は、敗戦後にひとりの母親が土方に混じって苦労して働く姿と、その息子である自分が勉強しエンジニアにまで成長する物語を歌っている。
 私が泣いたのは、字面で読み取れる、通りいっぺんの哀歌に揺さぶられたからではなかった。そうではなく、当時すでに老人だった美輪明宏が、奇妙に顔の左半分だけ女性の化粧をしたまま、仁王立ちのようにして「ヨイトマケの唄」を歌い切ったからに他ならなかった。
 普通に考えて、ヤクザな道にも進まず立派なエンジニアになった男性が、化粧をしている必要はまったくないに違いない。美輪が同性愛者であるから個人的な趣味としてそれがなされたのだろうか、あるいは母親の面影を一人二役で演出したのだろうか。もしかするとそうだったかもしれないが、私には別のことが思い浮かばれた。
 私が異形の美輪の向こうに見たのは、主人公の男性が持ち越したどうにもならない未成熟性の兆候に他ならなかった。良い母親が、あるいは豊かな母性が、ひとりの少年をつつがなく平凡なる「男」に押し上げるものかもしれない。母親に正しく愛された少年は思春期の入り口でいびつにたじろがない...。
 重労働が母親を時間的に少年から奪うだけでない。痛苦はどうしたって母を自己愛的にするだろう。破綻の寸前でかろうじて踏みとどまっても、エゴイズムの連鎖が家族に忍び寄る。
 「ヨイトマケの唄」の美談の背後には、ある黒い影が差し込んでいる。そう気付いてふと舞台の中央を見直すと、顔の半分だけ女の化粧をしたままの美輪が、げんこつを腰に当て、まるで開き直るように胸を張ってそれを歌っていた。


 あまり言われないことだが、第二次世界大戦中と直後には大量の(今で言う)PTSDが発生したと思う。PTSDのみならず、強度のストレスが加わった家庭は何らかの機能不全を起こす。それらの機能不全は、諸家庭成員にメンタルの変調をもたらす確率を中長期的に高めただろう。

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 ネットの発達にともなって台頭してきた市民右翼(?)の一部が、京都市南区の勧進橋児童公園を50年にわたって不法使用していた朝鮮学校に対して異常なデモをし、京都地裁で敗訴するということがあった。

  私はいちおう京都市民なのだけれど、正直この事件まで勧進橋児童公園の存在自体知らなかった。南区は駅裏でそんなに行かないのである。この出来事を知って最初に思ったことは『そんなに長い間京都市行政はいったい何をしていたのか?』ということに他ならなかった。50年も違法状態をただ放置し続けた京都市行政こそが犯罪的だ。けれども、おそらく市の責任が問われることはないのだろう。

 他にも、慰安婦問題で出された「どうとでも取れる」文面の河野談話が今に禍根を残しているが、これも同様に、先送りやその場しのぎが問題を大きくした事例であるかもしれない。先送りが問題を大きくするということ自体は、多分だれでも分かる簡単なことだ。政治がその簡単なことを分かっていなかったとは安易に思えないが(韓国側の欺罔などなにか判断を歪める周辺事情があったことはあったのだろう)、少なくともプライオリティの比較衡量・差配において間違ったり、現に予想に反して問題が拡大している過程においてなお放置し続ける態度をとったりしたことが追い打ちをかけたかもしれない。

 日本の政治に非決定的な特質があるのだとすれば、それはどこから来たのだろう?ひとつには社会制度の根本である日本国憲法が、なかなか動かないということがあるもしれない。我が国は、両院2/3以上および国民投票での過半を必要とするような、容易に変更できない制度(硬性憲法と言うらしい)に従っている。憲法の高い硬度は当然に変化を嫌って、暴走を食い止める趣旨には効果的だが、改善を阻む壁としても効果的である。ただ、残念なことにと言うべきか、何度も憲法を修正しているアメリカ合衆国は、両院2/3でその後州議会で3/4を必要とするとされ、民主主義国家ではほとんど世界最硬度の改憲制度でありながら機能している。
 日本は戦後処理の過程で、アメリカ製憲法の維持について、なにか特殊な密約をさせられているのではないかと疑わなくもない。
 軽々に民族性を言う人もあるかもしれないが、例えば歴代の天下人(信長・秀吉・家康,etc)等が優柔不断だったとはとても思えない。敗戦後の落胆はたしかに国民的に尾を引く心的要素だったかも知れないが、もっと現実的な政治の異状が主たる要因だと思う。

 現行の日本国憲法が無効であると主張する人々がいる。京都から出ている参議院議員の西田昌司氏もそのようだが、敗戦憲法だからといって無効を唱えるのはみっともない。ここは日本の南北朝の収め方が良い手本になる。現憲法を有効としつつも、明治憲法の直接の世継ぎとして次の憲法を捉えれば良いのではないか。

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