読書メモのブログ記事

・エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』 東京創元社

 ルネサンスは地中海貿易でいち早く豊かになったイタリアから欧州に広がったわけだが、さらなる資本主義の進行により教会が腐敗しその反動としてルターやカルヴァンが登場してプロテスタントが生まれた。欧州の人々は経済・社会的な地殻変動によってしばらく生き方の方向性を見失ったが、かなりの勢力が新たな帰属先としてプロテスタント信仰と資本主義的な価値観が絡み合ったような社会システムを構築し普及させていった。ある意味なんでもないような過程であるが、フロムはサディズムやマゾヒズムといった概念を駆使してこれに対し独自の説明を展開する。
 歴史のはざまに落ち込み方向性を見失った人々に対して、フロムは、何かに従う(マゾヒズム)のではなく自発的に生きることを要求するのだが、無謀な飛躍を含むというかより強い言葉を使えば欺瞞のようなものを感じざるを得ない。人はそんなに強くないし、未来や合理性に関し十分に予見的でもない。
 当たり前だが、なにか(価値観や関係性や集団)に従おうとするのはそれだけでは別にマゾヒズムではない。たとえば、見知らぬ土地に旅行に行って不案内だからとガイドを雇ったとして、情報の真偽は確かめようがないけれどお金も払ってるし大体ガイドの言うことに従うのが普通だと思われるが、もちろんこれもマゾヒズムではない。歴史の変動期に翻弄された人々は、このような見知らぬ土地に迷い込んだ人に似ているだろう。
 たとえば、現代的な愛着理論の被虐待児に対する観察で、健全な愛着を得られなかった乳幼児たちは、本来愛着的なシチュエーションであっても無反応か無秩序な反応をする。このような事態は自発的に生きるための方向性を(ほとんど半永久的に)失わせる。愛着対象を内在化できている健康な幼児は、自分のある種の行為が親から愛される行為であることを知って、そのことが彼らの自発性に実効的な形式を与えてゆく。
 つまり自発性は、当人が無意識だとしても、程よい母親(とのコミュニケーション)によって早期に刻み込まれたある方向付けが大部を占める。そして、その方向づけが後に実際に社会的な果実を当人にもたらすならば、その人はそのままスムーズに人生を歩めていると見なせるだろう。歴史的な変動期には、この人生早期の方向付けと自立後の現実との間にズレが生じやすくなる。しかしながら、これはフロムが「自動人形」として描くような、心の基礎部分が壊れたような、病的な状態でないことは言うまでもない。そこまでサシが深く重篤であるためには、上述のように早期の愛着獲得に失敗している必要がある。当時の大衆層がみんなそのように病的な心的基礎を持っていたとは思えない。フロムのある種の無分別がこの辺りに隠れていると思われるが、また、個人の病理に関する知識を集団に当てはめるために生じる齟齬の一種だとも言えるかもしれない。
 歴史の転換点では人々の古いやり方が壊滅し、跳び移る石が必要になるわけだが、いつでも都合よく願望に叶うものが見つかるわけではないだろうし、状況は様々だ。プロテスタントとナチズムの同次元での対比はその意味でもかなりの違和感を残す。
 本書のおおまかな主題はナチズム成立の原因を探ることにあると思われるが、宗教改革前後の大衆の中世カトリックからプロテスタントへの乗り換えが前半に描かれ、大きな伏線となっている。同様の依存の移行として大衆のナチズムへの傾倒があったと言いたいわけである。ただ、カトリック国のイタリアでも類似のファシズムは台頭したし、日本でも伝統的な天皇を中心とした独特なファシズムかそれに近いものが現れた。フロムは、当時の資本主義の先進国に対し共通して一歩か半歩遅れを取っていたこれらの国々を相互に比較するようなことはしていない。
 不満を持った社会階層や国民が団結したりその代表者が攻撃的(サディズム的!?)になることは、私にはちっとも不思議じゃない。かなり当たり前の反応である。にも拘らず、フロムは何か、不当にも降って湧いた奇異な事態であるかのようにこれを叙述するような感じがある。
 フロムの考える自由は、深刻な社会変化に対して十分なレジリエンスを発揮できるほどに愛着関係に恵まれた個人の生き方を遠いモデルにしているようにも思われる。そういう人は、社会や身の回りに根底的な変化が生じても、相当な程度適応する力があるわけだが、誰でもそのように高度なレジリエンスを持ち合わせているわけではもちろんないし、乳幼児期までに培われている可能性が高く、大人になってからそれを獲得するのはかなり難しいことのように思われる。

 フロムは(社会的に成功した)芸術家を自発性を発揮する羨望すべき存在として提示するが、留保したいところだ。内的な自発性と外的な成功の法則があらかじめ合致しているような人が世の中にいるとしても、その人物がこの世界を生み出したのでないとすれば、機序の本体は必ず現実の側にある。彼はたまたま自己中心の夢から醒めないままでいられているに過ぎない。仮に一生涯醒めないままでいられるケースがあったとしても、中間をゴールと取り違えたままでい続けることであり、それはそれで一つの悲劇かもしれない。
 しかも実際の芸術家は需要に合わせるため秘密裏に様々な調整をしているに違いなく、それは水鳥の水面下の足掻きのようなものだと思われる。
 芸術家の自発性というものは、理想的な成熟による自己確立とは別のものであるように、私には思われる。
 ただフロムは称揚しながらも、これを子供の自発性の美しさと併置してもおり、どこかでは未熟なものと分かっているのかもしれない。むしろ内面と外界のずれにどう対峙するかが成熟した自発性の領分であろう。

 名著と言われる本書を読みながら、この作品がどうしてそのような強い力を読者に及ぼすことができるのか、原因を考えないではいられなかった。エーリッヒ・フロムは、この著作において、自発性というものを肯定するモチーフを徹底的に強調しその上に論を展開している。人の自発性を(極端なほどに)強調するということは、読者に対してどうしたって各々の「いま、ここ」を意識させることになる。読めば読むほど、外部に制限されない生の自己というものを読者自身に突きつける。このことが、いわゆるマインドフルネスと同じ効果をもたらすのではないかと思われるのである。禅もある種のマインドフルネスである。外的な刺激や束縛を忘れて、本来の自分というものをひととときでも取り戻す。
 そういうわけで、本書の内容であるナチズムの原因や成立についての説明がどこまで厳密なものであるかはさておき、読者に対してメンタル的にポジティヴな効果をもたらす可能性があり、そのことが読後感をいやが上にも爽快なものにする直接の原因になっているのではないかと思われるのだ。
 ただ、現実的には、人は自発的でばかりもいられない。土日の坐禅会でリフレッシュしたサラリーマンが月曜からはまた会社でもがくことになるように、この本を読み終えてしばらくはその薬効に与るとしても、読者は共同性から逃れられない現実に帰っていかなければならない。


CIMG3653.jpgp.21
『本書で提出した立場は、フロイトの考えとはちがっている。フロイトは歴史というものを、社会的には規定されない心理的な要素の結果であると説明したが、われわれはそれに強く反対する。また、社会過程における動的な要素の一つである人間的な要素の役割を無視するような理論にも、強く反対する。』
※フロイトがそんな極端な立場だっただろうか?

p.53
『近代的な意味での自由はなかったが、中世の人間は孤独ではなく、孤立してはいなかった。生まれたときからすでに明確な固定した地位をもち、人間は全体の構造のなかに根をおろしていた。こうして、人生の意味は疑う余地のない、また疑う必要もないものであった。人間はその社会的役割と一致していた。かれは百姓であり、職人であり、騎士であって、偶然そのような職業をもつことになった個人とは考えられなかった。社会的秩序は自然的秩序と考えられ、社会的秩序のなかではっきりした役割を果せば、安定感と帰属感とがあたえられた。そこには競争はほとんどみられなかった。ひとは生まれながら一定の経済的地位におかれ、それによって、伝統的に定められた生活程度は保証されたが、同時に、より高い上層階級の人間にたいする経済的義務は果たさなければならなかった。しかしこのような社会的地位の限界を破らないかぎり、自由に独創的な仕事をすることも、感情的に自由な生活をすることも許されていた。いろいろな生活様式をあれこれと自由に選ぶという、近代的な意味での個人主義(しかしこの選択の自由は非常に抽象的なものであるが)は存在しなかったが、実際生活における具体的な個人主義は大いに存在していた。』
※しかしながら、有能とはいえない職人の分不相応な自負心のようなものも想起させる。人々が共通の基準では試されなかった時代だったかもしれないが、そういう状況下で見出された個人主義は現代から見れば幻影のようなものかもしれない。個人としての夢の中に居られた時代だったのだ。

p.93
『ひとは自分が自らの主人であるとは考えてはならない、とかれは教える。』
※カルヴァンの教えだが、腐敗した教会を介さずに、神に直接対峙して自己否定する態度はルターと共通している。

p.97
『カルヴィニストはまったく素朴に、自分たちは選ばれたものであり、他のものはすべて神によって罰に決定された人間であると考えた。』
※しかし人に対してはこのような尊大さが共存する。ルターの権威主義とも通底するが、ある種の差別感情が宗教改革の原動力だったことは否めないようだ。ルターは大衆というものを相当嫌悪したようだ。

p.138
(資本主義がプロテスタンティズムの精神をさらに発展させた文脈で)
『財産や社会的名声をほとんどもたない人間にとっては、家族が個人的威光を与える源であった。そこでは個人は「なんらかのもの」と感ずることができた。かれは妻や子供をしたがえ、舞台の中心となることができた。そして単純にも自分の役割を自然の権利と考えていた。かれは社会的世界では無に等しいが、家庭では国王であった。家族のほかに、国家的な誇り(ヨーロッパではしばしば階級的誇り)がまた重要な意味をあたえた。個人的には無に等しくても、自分の属している集団が、同じような他のしゅうだんよりも優れていると感ずることができれば、それを誇ることができた。』
※図らずもナルシシストの説明とほぼ同じだが、私的に実在する具体的な人物を想起した。

p.164
『かれは彼女なしには、―あるいはすくなくとも、かれの掌中にあって頼りない存在と思われるような人間なしには生きていけない。ただこの関係が破れそうなときにだけ、愛の感情があらわれる。他のばあいには、サディズム的人間は、かれが支配していると感じている人間だけをきわめてはっきりと「愛し」ている。』
※これもナルシシストの説明である。

p.170
『マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれることである。』
※自由の重荷というより現実の重荷ではないか。

p.175
『サディズム的衝動の本質はなんであろうか。ここでもまた、他人に苦痛をあたえようという願望が本質なのではない。サディズムの形にはさまざまなものが観察できるが、それはただ一つの本質的な衝動にまでさかのぼることができる。すなわち他人を完全に支配しようとすること、かれをわれわれの意志にたいして無力な対象とすること、かれの絶対的支配者となること、かれの神となり、思うままにかれをあやつることである。かれを絶滅させ、彼を奴隷にするのは、この目的のための手段である。その最もきびしい目標はかれを悩ませることである。なぜなら他人を支配する力として、他人に苦痛をあたえ、自己防禦できないものに苦悩をしのばせる以上のことはないからである。他人(あるいは他の生物)を完全に支配することの快楽、これがサディズム的衝動の本質である。』
※素行障害の少年の小動物への嗜癖的な殺傷や、サイコパスの起こす快楽的な犯罪など、サディズムが必ずしも社会関係としての支配を求めているわけではないケースは多々ある。口唇期サディズム。

p.192
『またかれらは、依存しているという事実を全然意識しないこともよくある。たとえこのような依存をぼんやりと意識しているとしても、かれらが依存している人間や力は曖昧なままになっていることが多い。この力に結びつくはっきりしたイメージはない。その本質的な性質は、ある人間を保護し、助け、発展させ、彼らとともにあり、彼らを孤独にしないような働きをするところにある。このような声質を持つ「X」を魔術的な助け手と呼ぶことができよう。』
※カレンホーナイが著書「自己分析」の中で『魔術的救助』とか『魔術的援助』と呼んだものと類似だが、出版はフロムのほうが一年早いようだ。こういう表現の仕方の起源が他にある可能性もあるが未知。現実世界から漏れ出した自己愛の痕跡かもしれない。養育過程になんらかの深い欠損がある場合、こういう心理は簡単に克服できるようなものではない。

p.233
『ナチズムの諸原理にたいしてどんなに反対していようとも、もしかれが孤独であることと、ドイツに属しているという感情をもつことと、どちらか選ばなければならないとすれば、多くのひとびとは後者を選ぶであろう。』
※ドイツ人フロムは本書執筆時(1941)にはアメリカに移住してすでに何年も経っている。現実にはナチズムに対して明確な否定的意識を持っていたドイツ人はごく少数だったろう。

p.234
『下層中産階級の社会的性格が労働者階級のものとことなっていたといっても、それはこの性格構造が労働者階級のうちには存在しないということではない。しかしそれは下層中産階級に典型的なものであって、労働者階級ではこの同じ性格構造を同じように明瞭に示したものは、ほんの少数であった。』
※なんとも妖しい言い回しである。ある社会的階級に顕著な特徴が別の階級にあまり見られないことは当たり前で、ほとんどトートロジーのようなものである可能性もある。また精神に内在化したものではなく、単にある階級に共通する外的な条件を反映したものにすぎない可能性もあるだろう。

p.244
『サディズムは他人にたいして、多かれ少なかれ破壊性と混合した絶対的な支配力をめざすものと理解され、マゾヒズムは自己を一つの圧倒的に強い力のうちに解消し、その力の強さと栄光に参加することをめざすものと理解される。サディズム的傾向もマゾヒズム的傾向もともに、孤立した個人が独り立ちできない無能力と、この孤独を克服するために共棲的関係を求める欲求とから生ずる。』
※幼児性が残存したものであることは疑いがないとは思う。

p.245
『ゲッペルスは、サディズム的人間が自己の対象に依存するさまを正確に描いている。すなわち、サディズム的人間は他のだれかに対して力をもたないかぎり、どんなに弱く空虚に感ずるか、またこの支配力がどんなにかれに新しい力をあたえるかを描いている。「ひとはときに深い意気消沈にとらえられることがある。ひとは再び大衆の前にでるときにのみそれを克服することができる。民衆はわれわれの力の源泉である」。』
※これも自己愛で説明したほうが早いが、権力者等に付随して起こりうる一般的な現象でありナチスに特有なものでもなんでもない。

p.248
『自分の目的はドイツの繁栄だけでなく、文明一般の最良の利益に奉仕しているのだというヒットラーの確信は、この数年来あらゆる新聞読者に周知のことであった。』
※ポツダム宣言では日本が「世界征服」を企んでいたことになっているのだが、多分知っている日本人は殆どいない。現実はせいぜい大東亜共栄圏の構築であろうか。ただこの記述は「我が闘争」からのようなので事実であろう。合理化された誇大感として捉えればどうということもない。

p.253
『サド・マゾヒズム的性格に典型的な、強者にたいする愛と無力者にたいする憎悪は、ヒットラーやかれの追随者の非常に多くの政治的行動を説明する。』
※このサド・マゾヒズム的性格という謎めいた語彙はナルシシストにきわめてスムーズに置き換えられる。

p.267
『近代人にたいする自由の二面性を論じたとき、現代において、個人の孤独と無力を増大させている経済的諸条件を指摘した。すなわちその心理的結果を論じて、この無力は権威主義的性格にみられる一種の逃避を導くか、あるいは孤独となった個人が自動人形となり、自我を失い、しかも同時に意識的には自分は自由であり、自分にのみ従属していると考えるような強迫的な画一性に導くことを示した。』
※小市民的な幸福を全否定しているようにも読める。フロムの傲慢さが垣間見える。

p.269
『他方、子どもは教育の早い時期に、まったく「自分のもの」でない感情をもつように教えられる。とくに他人を好むこと、無批判に親しそうにすること、またほほえむことを教えられる。』
※本書でかなりぞっとした箇所。大丈夫ですかフロムさん?

p.279
『近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は両親の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。』
※フロムには共同性に対する過剰な潔癖症が表れる。ナチズムに対する反発が底流にあるのかもしれないが、もはや極論に近くなっている。

p.281
『風変わりにならず、他人の期待に順応することによって、自己の同一性についての懐疑は静められ、一種の安定感があたえられる。しかしその払う代価は高価である。自発性と個性を放棄することは生命力の妨げとなる。心理的に自動人形であることは、たとえ生物学的には生きていても、感情的、精神的には死を意味する。たとえ生の運動をおこなっているとしても、かれの生命はかれの手から砂のようにこぼれていく。』
※共同性によって独りでは決して得られないものが得られるわけだが、共同性にのみこまれてしまうかどうかは別の話だし、ほとんどの人は何らかの距離を取って生きているはずなのである。ペルソナ等。

p.286
『芸術家の地位は傷つきやすいものである。というのは、その個性や自発性が尊敬されるのは、じっさいには成功した芸術家だけであるから。もし作品が売れなければ、かれは隣人から奇人か「神経症患者」とみられる。芸術家のこのような事情は、歴史上の革命家の事情とにている。せいこうした革命家は経世家となり、失敗した革命家は罪人となる。』
※芸術家の恣意性は受け手の現実法則と合致した場合のみ価値を持つ。芸術家がこの世界の創造主である可能性はほぼゼロなので、それはなんらかの偶然かめぐり合わせによってもたらされるにすぎない。

p.288
『自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えたりすることを表現できなかったり、またその結果、他人や自分自身にたいしてにせの自我をあらわさなければならなかったりすることが、劣等感や弱小感の根源である。気がついていようといまいと、自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え、感じ、話すことほど、誇りと幸福をあたえるものはない。』
※一面的な真実を誇張している感じで、アジテーションに近いと言わざるをえない。あるいはフロムの感情が上滑りしている。

p.289
『もし個人が自発的な活動によって自我を実現し、自分自身を外界に関係づけるならば、かれは孤立した原子ではなくなる。すなわち、かれと外界とは構成された一つの全体の部分となる。かれは正当な地位を獲得し、それによって自分自身や人生の意味についての疑いが消滅する。この疑いは分離と生の妨害から生まれたものであるが、強迫的にでも自動的にでもなく、自発的に生きることができるとき、この疑いは消失する、彼は自分自身を活動的創造的な個人と感じ、人生の意味がただ一つあること、それは生きる行為そのものであることをみとめる。』
※自発性と社会の要請との辻褄が合った場合に自我が実現されるという話で、今方向性を見失っている人には目を醒ますような効果があるかもしれないが、一般論としては偏りすぎている。なぜなら外界を説得するプロセスには自発性を超えたものがつきまとうに決まっているのだから。

p.290
『自我の独自性はけっして平等の原理と矛盾しない。人間は生まれつき平等であるという命題の意味は、人間はすべて同じ根本的な人間性をあたえられ、人間存在の根本的運命を分有し、すべて同じように、自由と幸福とを求める譲渡すべからざる要求をもっているということである。』
※少し孟子を思い出す。先月ロバート・ヘアを含むサイコパス関連の書籍を続けて三冊読んだのだが、サイコパスは共通して前頭下部領域の脳の機能が著しい低位状態にあることが科学的に判明しているらしい。そのようなサイコパスだけでなく、はたして人間がすべて同じ根本的な人間性をあたえられているかどうかについて同意しかねる。

p.293
『しかし生命にたいして決定的に対立するファシストの「理想」のようなものについてはどうであろうか。あるひとびとが、他のひとびとが本当の理想にしたがっているのと同じような熱心さで、いつわりの理想にしたがっているという事実は、どのように理解できるだろうか。』
※誘導的な問いかけ方。人が生命に決定的に対立しているのに人が気づかないわけがないのだ。米国にいて祖国ドイツを眺めるフロムとは、別の条件下に(社会的・経済的に困窮したドイツ)、当時のドイツ国民はいたはずなのである。

p.296
『もしアナーキーということが、個人がどのような権威も認めないということを意味するのであれば、その答は合理的権威と非合理的権威との差別について語ったことにみいだされる筈である。合理的権威は―真の理想のように―個人の成長と発展という目標をもっている。それゆえそれは、原則として個人やかれの現実の目標と対立することはなく、かれの病的な目標と衝突するのである。』
※愛着対象を内在化できなかった個体は生きるまともな方向性を持てない。なぜなら何が合理的な目標なのかを判断する土台すらないからだ。あるいは合理性そのものが断片化したり歪んだりしている。また、特に病的な偏りがない場合でも、何が合理的な目標であるかは一般的にあらかじめ分からないことが多いだろう。

p.302
『人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろかれが大きな機械の歯車、自動人形になってしまったという事実、かれの生活が空虚になりその意味を失ってしまったという事実である。』
※欧州人が使役・搾取してきた奴隷たちはどうだったのか。また、一方で、制約的な状況下の他者が自動人形に見えてしまう人の脆弱性(or誇大感)もありえる。

p.306
『社会的性格は個人のもっている特性のうちから、あるものを抜きだしたもので、一つの集団の大部分の成員がもっている性格構造の本質的な中核であり、その集団に共同の基本的経験と生活様式の結果発達したものである。』
※或る社会階層の成員に共通した特性が見い出だせることはあるだろうが、その特徴は個人として自己のごく一部あるいはペルソナに相当している可能性が低くない。ペルソナをその人の性格構造の本質とするのは誤りだと思うが、影響がより深く浸透しているケースもあるだろうし、そういう意味での識別が必要な気がする。

p.310
『思想が強力なものとなりうるのは、それがある一定の社会的性格にいちじるしくみられる、ある特殊な人間的欲求に応える限りにおいてである。』
※ドイツの中流下層階級はナチズムに対してまず感応したのではなく、当時の困窮した社会状況にまず感応したのだ。その土壌からナチスが生まれた。第一義的に、ナチズムは社会状況の派生物にすぎない。

p.318
『それゆえ、われわれはつぎのような事実に到達する。すなわち、性格の発達は基本的な生活条件によって形成され、生物学的な固定した人間性というものは存在しないが、人間性はそれ自身一つの力学をもっていて、社会過程の進化における積極的な要因を形成している。』
※本書に限らずエーリッヒ・フロムは、人の性格形成に関して、先天的要因や乳幼児期(臨界期)の対象関係の影響にあまり立ち入らない。社会心理学者だからといって、人を主語にする場合に、それらに言及しないでは済まないはずだ。

p.320
『愛、保護、知識、物質的事物など、ひとがえたいと思うすべてのことを、自分以外の外部のものから受動的に受けとろうとする願望は、他人にたいするかれの経験の反作用として、子どもの性格のうちに発達する。もし他人との経験から恐怖心が生まれ、自己の強さの感情が弱められるならば、もし創意と自信とが麻痺させられるならば、もし敵意が発達しそしてそれが抑圧されるならば、またもし同時に、父か母が、絶対服従という条件のもとで、愛情や保護をあたえるならば、これら一連のことがらは、積極的に問題を解決する態度を失わせ、かれのすべてのエネルギーは、かれのあらゆる願望を思いがけなく実現させてくれる、外的な力を求めるようになる。』
※おそらく本書ではここが最も親子関係に接近した箇所であるが、この程度である。いわゆる魔術的援助(あるいはフロムの言うマゾヒズム)の説明でもあるが、これが当時のドイツの中流下層階級にきわめて特徴的だったためナチズムへの盲従につながっていくという理路が本書の基本骨格である。いやぁ、えーと。

p.322
『ヨーロッパの下層中産階級に典型的にみられる肛門的性格が、幼児時代の排泄と結びついた特殊な経験によって生まれると考えるかぎり、なぜある特殊な階級にだけ肛門的性格がみられるのか、ほとんど理解できなくなる。しかし、肛門的性格を、性格構造に根ざした外界との経験から生まれてくる対人関係の一形式と考えるならば、下層中産階級の偏狭とか孤独とか敵意とかいう生活様式全体が、なぜこのような性格構造を発達させたかを理解する鍵をつかむことができるのである。』
※ナチス台頭を準備したインフレで、ドイツの下層中産階級は経済・社会的に困窮したので、偏狭だったり孤独だったり敵意を持ったりしたとしても特に不思議ではない。外的な環境への適応が或る階層に属する各人に恒常的に内在化されたもののように叙述するのは適切ではない。言うまでもないが、特定の階級にだけ肛門期的性格が見られるというようなことはない。

p.326
『人間は外界の変化にたいして、自分自身を変化させることによって対処し、そしてこれらの心理的要因が、こんどは逆に、経済的社会的な過程の形成を助長する。』
※一般論としてはおっしゃるとおりです。

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神経症的傾向に伴う2つの特徴
1.目標追求に伴う無分別性
2.神経症的傾向を現すまいとして起こった不安の反動であること

クレアの強迫的傾向
1.自分の願望や欲求を強迫的に控えめにする
2.自分のことは他人のことほど考慮しない
3.他人に卓越しようとする強迫的欲求(防衛的な高慢さ)

神経症的傾向の分類
1.愛情と承認への神経症的欲求
2.自分の人生を引き受けてくれる相手がほしいという神経症的欲求(マゾヒズム?)
3.生活領域を制限しようとする神経症的傾向(ミニマリズム)
4.権力への神経症的欲求
4a.論理的・推理的に割り切ることによって自他を制御しようとする神経症的欲求
4b.意志力の全能を信じようとする神経症的欲求
5.人を利用し、人に勝つためには手段を選ばないという神経症的欲求
6.社会的に認められ、名声を博したいとの神経症的欲求
7.自己を称賛されたい神経症的欲求(自己愛)
8.個人的業績への神経症的野心
9.自立と独立への神経症的欲求(何人の助けも不要)
10.完全で非の打ち所のない状態への神経症的欲求


神経症的傾向の自己イメージ3様
1.卓越した理知
2.(受動的)愛の優越
3.完全なる自律・自足

同居する自己イメージの矛盾や相反が神経症的「症状」を生む。

歪んだまま自己正当化(二次的防衛)が始まる。

「分析操作というものは一歩一歩悪循環をときほぐすことにある。」p.81

精神分析過程の三段階
1.神経症的傾向の認識
2.その原因、顕現状態、結果の発見
3.その神経症的傾向とその人のパーソナリティの他の部分との相互関係、特に他の神経症的諸傾向との関係の発見

すぐに(パーソナリティの)変化を積極的に受け入れられるとは限らない。p.84


追記(2022/10/08):

患者に対決をせまる主な任務の三項目 p.95
1.できるだけ徹底的にかつ明けっぴろげに自己表現をすること
2.自己の無意識的欲動とそれが彼の人生におよぼす影響を知ること
3.彼と彼の周囲の外界との関係を乱すような性格傾向を改造する能力を成長させること

「自由連想からは自分が耐えられることしか掴まない」p.193

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《症例クレア》

「最近の一連の連想を概観すると、彼女は殆どの出来事の重点が予期しない援助や贈り物におかれていることを知って驚愕したのである。」p.217

「クレアがこの時期に発見したことで最も重要なことは、次にのべるようなことがらに対する強い反抗があるのに気づいたことである。すなわち自分自身の人生を歩むこと、自分自身の感情を味わうこと、自分自身の思考を思考すること、自分自身の興味・計画をもつこと、要約すれば自分自身であり、自分自身の中に権威を見出すこと、などに彼女は反抗したのであった。この発見が彼女のほかの発見と違うところは、それが全く感情を伴った洞察である、ということであった。」p.239

「今やっと彼女にわかったことは、前夜の自分の反応は実は彼との約束がふいになってがっかりしたためにおこったのではなく、彼が彼女の感情を無視したというその冷淡無情さに起因していることであった。」p.222

「たしかに彼女は自分の不幸を誇張したが、苦境を訴える人もなく、電話をかける相手たるピーターもいなかった。全人類の中で自分が一番哀れだと感じるだけで、援助がやってくると信じるほど彼女はもう非理性的ではなかった。」p.243

魔術的救助。p.243

「そこで問題は結局、一人でいられないという一般的なことではなく、排斥されることへの神経過敏さであることがわかったのである。」p.251-252

「このことと関連してクレアが思い出したのは、母と兄との緊密な結びつきであり、この結びつきから彼女はしめ出されていた。母や兄の目から見れば自分は厄介者にすぎない、というふうに彼女が感じさせられたいろいろの事件が浮かびあがってきた。」p.252

「もし彼女が、魔術的援助願望を彼女の依存性に結びつけて考えることなく、この両者が相互に不可欠の要素であることを知りえなかったなら、この魔術的援助願望を徹底的に克服することはできなかったであろう。」p.270

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「抵抗の背後にある欲動の発達をとがめてはならない。この欲動が擁護しようとしている神経症的傾向はほかの人生対処法が全部失敗に終わったとき、彼にひとつの生きる手段を与えてくれたものなのである。」p.297

「どんな抵抗でもあるていど強くなると、現実的にそれは分析の限界へと変貌する。」p.298

「今日の社会では、経済的に独立している人は象牙の塔にたやすく引きこもれる。ところが資力の貧しい人はよほどほかの欲求を最小限にきりつめないと、世間から身をひくことができない。ある人は威光や権力を鼻にかけるのが許されるような環境で育っているが、しかしまた別の人は無から出発したけれども外的環境を心にくいまでに利用して、ついには威光、権力などの目標を意のままにするであろう。」p.301

「重症の神経症は体にきつい鎧を着たように力一杯活動的な対人関係をもつのを邪魔する。そのため人生に対する怒りが発現してくるが、これはニイチェが人生羨望といったように、のけものにされているということに対する深い怒りである。自分に対しても人に対しても、敵意や軽蔑が非常につよい場合は、むちゃくちゃになるのが一番気持ちにぴったりする仕返しの方法である。だから人生の与えてくれるものすべてに対して"ノー"ということがのけものにされているものとしては唯一の自己表現方法なのである。」p.302
※ネット検索ではニーチェの「人生羨望」なる語はヒットしない。

「(自己分析の試みに際して伴う)もうひとつの偏向は、特殊な現在の障害を幼少期のある特定の経験そのままの繰り返しであるとみなす根づよい傾向である。自分を理解しようと思えば、自分の成長に作用した要因の理解が必要なことはいうまでもない。性格形成に及ぼす幼少期経験の影響は、フロイドの主要な発見のひとつである。しかし現在の性格形成に寄与しているのは、いつでもわれわれの幼少期の経験の総和である。従って現在のあるひとつの障害と幼少期のあるひとつの経験との関係だけを抜き出して解明したところで無駄なことである。現在の特性は現在の性格に内在する諸要因の全体的相互作用の現れとしてのみ理解できるものである。」p.308

「(先天的な素質による分析の限界に関して)或いは多かれ少なかれ意識的に決心するのは、次のようなことである。人間関係の問題は―そのあるものについては彼は自覚し理解しているが―彼のエネルギーにとって非常な負担であること、しかも平和な生活を送る唯一の方法、創造力を保つ唯一の方法は、人から遠ざかること、人や物への欲求を最小限に制限すること、そして欲求の最小限化という状況下なら、何とか生存をつづけうるということ、などである。」p.311
※本原書は1942年に出版されたが、ほぼ社会的ひきこもりのような概念である。あるいはシゾイド。日本では一時マスコミや斎藤環によって、引きこもりが日本特有の現象であるかのように喧伝されたが、虚偽である。

「完全な分析などというものはない。」p.315

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《訳者あとがき》
「ホルネイはフロイドを否定したのではなくて、ただ修正しただけだといっているが、フロイド分析学にとっては根本的な本能論や人格構造論(イド、自我、超自我)を斥けている。ホルネイによれば、人間を動かすものはフロイドのいうように性欲と攻撃欲ではなくて、安定感への欲求であるという。安定感への欲求は何に由来するのか。子供は親からかまってもらえないと不安を感じる。これをホルネイは根源的不安(basic anxiety)と名づけた。根源的不安は具体的には孤独感や無力感、或いは絶望感として感じられる。」p.318-319
※訳者あとがきは多数の雑な例がホーナイの主張を補強する(つもりの)ものとして出されていて怪しいのだが、さすがにこの箇所はそのまま受け取っても構わないだろう。


追記2(2022/10/09):
 読みながらメモしていったのでエントリーは複数回に分かれている。現在の精神医療では薬物治療にシフトしていて、精神分析的手法はあまり取らなくなっていると思われるが、無意味でもないと思ってまとめてみた。
 本書は基本的にクレアの症例のみを主軸として内容を展開している。恋人との何気ない行き違いから、自分の性格的傾向の自覚、そして、育った家庭において兄と密着した母により常に蔑ろにされていたことに、クレアの自己分析は行き着く。敗北主義的な傾向すらあり過剰に依頼心の強かったクレアは、分析によって過去の自分を脱却し立派に自己主張ができるようになったと述べられているわけだが、劇的変化の過程や機序はちゃんとは描かれていないと言っていいと思う。一応「真我を回復する」というモチーフは提示されるものの、偽りの自己の一般的なしつこさを念頭に置くとき、(分析への)抵抗の弱さにも違和感を持つし、クレアはとにかく自己分析をして好くなったのだ、と受け取るしかないという感じになってしまう。別言すれば、本当にこれで一件落着したのか疑いが残るわけなのである。
 クレアが行ったのは、ホーナイの治療過程での補助付きの自己分析だと思われ、通常の対面分析にかなり近い自己分析ということになり、その点注意が必要だ。クレアが純粋に単独で行った自己分析をホーナイがあとから聴いたという感じではない。むしろ主治医の誘導あるいは指導でゆるく守られた中での自己分析であると思われる。

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CIMG3597.jpg・エーリッヒ・フロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)

 加藤諦三がカレン・ホーナイと並んでよく引用するエーリッヒ・フロムなのだが、どちらも新フロイト派ということで、加藤諦三もおそらくそういう方向性なのだろう。エーリッヒ・フロムはネタ元として、さすがに加藤諦三の受け売り的な感じとは一味も二味も違う。

 愛は、配慮、責任、尊重、知から成っている(そうあるべき)と序盤に定義づけそれに基づいて話が進むことにはなるのだが、その前に、フロムが本書で言いたいことをぎゅっと要約したようなパラケルススの言葉が、目次のすぐあとに引用されているのを見逃してはならない。

『愛するということ』p.5
 何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。(中略)ある者に、より多くの知がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。(中略)すべての果実はイチゴと同じ時期に実ると思いこんでいる者は、ブドウについて何ひとつ知らないのである。
 パラケルスス〔一六世紀の医学者、神秘思想家、錬金術師〕
 他者を尊重しない、押し付けがましい、独りよがりな、あるいは杓子定規な、愛情関係が破綻に陥る運命の途上にあることはその通りだろう。しかし同時に、これは大なり小なり誰もが日常に身覚えのある破綻でもあるはずなのであり、人はこの種の無知から逃れられず、間違い続ける存在なのだと思われもする。
『愛するということ』p.84
 この段階にいたってはじめて、母性愛は大変な難行となる。つまり、徹底した利他主義、すなわちすべてを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力が求められる。多くの母親が母性愛というつとめに失敗するのもこの段階である。ナルシシズム傾向の強い母親、支配的な母親、所有欲の強い母親が「愛情深い」母親でいられるのは、子どもが小さいうちだけである。ほんとうに愛情深い女性、すなわち受けとるよりも与えることにより大きな幸せを感じ、自分の存在にしっかり根を下ろしている女性だけが、子どもが離れていく段階になっても愛情深い母親でいられるのだ。
 NPD親は自己の延長物として子に決定的に主体性が生じない形でなら愛情深さを維持するので、フロムの言い方には留保が必要な気がする。私はこのブログで何度も書いているがナルシシストが他者愛を全く持たないとするような考えは正しくないと思っている。彼ら自身がfull-fledgedな自己から追放されて発育しており、それはもちろん言い換えれば偽りの自己(解離)で生きているということなのだが、彼らの歪んだ期待と欲望の地平に沿った生き方をし続けるなら他者への愛情は持続する。一方主体性が生じてしまった子は彼らの憎悪する現実世界という「異界」の住人として同様に憎悪されることになる。だから、NPD親は成長する子が主体性を持たないように多様かつ能動的に働きかける。それは愛する対象を失いたくないという一般的な欲求によく似ている。
 自他の区別の曖昧さの中で、イニシアティヴを奪い合うというのがNPDの対他関係における基本把握なのだと思う。だから、どうしても人間関係の中での主体性のありかが鍵になってくる。

 フロムは本書終盤で社会的変化が個人に与えた影響を強調する。蔓延する資本主義という疫病が本来健全だったはずの人々を機能不全に追いやったかのような説明が(マルクスを引用しながら)続く。まさに新フロイト派の面目躍如たる箇所なのかもしれないが、そうではなく、機能不全な人々は古くからたくさんおり、それを陰に陽に補助していた古い相互配慮的な社会システムが資本主義によって取り払われて、彼らの不全なありのままの姿が露出したのだと、私は思うのだ。両論は似ているようでまるで違う。
 昔の社会は経済活動をも含んだ全体を人治的な素朴なヒューマニズムで覆っており、そのことは例えば機能不全の家庭に育ったあきらかに未熟な人々にも居場所を鷹揚に与えている面があったと思われる。しかし、資本主義の進行により、経済合理性の追求がそのような前時代的ヒューマニズムを無駄なものとして労働現場等から取り去っていった。このある種の後退はその時点において社会内に影の領域を創造した。本来は失った代わりとなる明かりがなにか必要だったが、当面後回しにされざるをえない。そして、おそらくは前世紀の中葉あたりから、先進諸国では労働者のストレス障害や鬱病が社会問題として認識されるようになり始め、彼らへの福利厚生が企業や組織にとって当たり前になるごく最近まで、その影の領域に落ちたおびただしい犠牲者たちは黙殺されることとなった、のだと思う。


追記(2022/09/12):
 資本主義が、科学・医療技術の発展を伴い、人口増加に寄与したことは事実であろう。むしろ、昔なら死んでいたはずの「弱い子」を延命させたために問題が生じた可能性もある。このことは岡田尊司もどこかで書いていた気がする。
 いずれにせよ資本主義を害悪とみなす視点は単純すぎる。

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CIMG3592.jpg 加藤諦三の新し目の本(加藤諦三『愛されなかった時どう生きるか』PHP文庫)の図書館予約の順番が回ってきたので、このところわりと集中して読んでいたのだが、面白かったと言うべきか、単に考えさせられたと言うべきか、いずれにせよ出会えてよかったとは思った。
 「愛されないことを恐れるな」が著作最後の小見出し。愛されなかった現実に直面せよとのこと。本当の自分の発見?しかし、一般的な意味での愛することの機能不全は、完全な無能力を意味しはしない。恩着せがましい贈与にも、親の愛が全く含まれていなかった可能性は低いだろう。
 少しだけ愛されたのだ。愛されなかったのではない。直視すべき現実があるとすればそのことだ。親離れするのに、現実に対応しない断念まで持つ必要はないはずだ。
 極論を言えば、妄想を伴うような重度のNPD親が主観的には子を愛していた場合、壊滅的に機能不全だったとしても愛はあったのだ。愛する対象が現実の子とはかけ離れたイメージで捉えられていたとしても、何かを育て愛そうとしていることは子に伝わる。そして、その何かがおそらく自分を指しているらしいことも。
 もちろん、加藤氏を「愛さなかった」親の現実検討能力の毀損が、そこまで重篤だったとは思えない。
 健常者の愛でも、それが他者同士のコミュニケーションである以上、現実的・結果的に有効でない行為を全く含まないことは考えにくい(ウィニコット等はむしろ多少のズレは歓迎している)。そして、彼らが「自分は親に愛された」と言う場合に、それらの有効ではなかった細かな行為を厳格に排除しているとは考えにくい。彼らは無効だったことも含めた全体を指して「自分は親に愛された」と認識しているのだ。
 子の情緒的・人格的な発達にあからさまな不具合が出て、その人生に何らかの具体的な破綻をもたらしている場合、常識的な意味で、彼らは「愛されなかった」と言い出しうるかもしれないが、概念のしきいや因果関係は依然として曖昧かつ相対的なものである。
 望んだ相互理解の可能性が諦め切れないために、愛情飢餓が肥大し、畢竟親の愛を全否定するような行為は、それ自体が幼稚なスプリッティングの表れである。メンタルヘルス系でよく言及される毒親との断絶も似ていて、相当以上の喪失を覚悟した上でやる最終手段であって、安易にやるべきことではない。当人の幼児性こそがそのような蛮勇を許しているのかもしれないからだ。

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 エーリッヒ・フロムの『生きるということ』を読んでるが、「持つ」と「ある」の対比を非常にノイジーなやりかたで論述している。しかし、彼が言う「持つ」人というのは、要は、(モノや他者に承認を求めるような)「偽りの自己」が優勢な人のことだと思う。愛着理論で言えば非安定型に多いかもしれない。エーリッヒ・フロムはドナルド・ウィニコットより4歳若いだけのようで、同時代の読者として前者を選んだ人は遠回りを強いられたことと思う。
 これまで私はエーリッヒ・フロムはたぶん『破壊』しか読んだことがなく、ヒトラーの精神分析パートが微妙というか荒唐無稽な感じで、あまり印象は良くなかった。エーリッヒ・フロムは加藤諦三の元ネタみたいなので今回図書館で借りてみている。


追記(2022/07/25):
 偽りの自己による「持つこと」は自己目的化された所有欲であり拡大欲である。それら病的な欲望を取り去るのに「持つこと」それ自体を取り去ってしまおうとするのは、多くの場合、行き過ぎた反動である。「持つこと」にも疎外されたものとそうでないものとがあり、健全な所有をも否定する態度になれば別の倒錯が含意されはじめる。俗世の全財産を捨てる仏教の出家者のような緊急避難的な行動を一般化するのにも似ている。

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 最近Shahida Arabi本の他にSam Vakninの"Malignant Self-love"も買ったのだが、Sam Vakninがハインツ・コフートを"Franz Kohut"と誤記していて、序盤からとても読む気が失せる。Kindleで検索すると本書内に3箇所この名前が出現している。コフートのミドルネームかなんかかと思ってネット検索するが何も出てこないし、おそらく単純な間違いだと思う。Franz Kafka?
 本書はKindle表記で697ページもある。うげぇ...。

Pathological narcissism was first described in detail by Freud in his essay "On Narcissism" (1914). Other major contributors to the study of narcissism are: Melanie Klein, Karen Horney, Franz Kohut, Otto Kernberg, Theodore Millon, Elsa Roningstam, J.G. Gunderson, and Robert Hare.

(赤字purplebaby)
Vaknin, Sam. Malignant Self-love: Narcissism Revisited (FULL TEXT, 10th edition, 2015) (p.2). Narcissus Publications. Kindle 版.
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Shahida Arabi.PNG 5月22日ころにAmazonで、Shahida Arabiの"Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself"を買ったのに付随して、Twitterで彼女のアカウントを新しいリストに入れたところ、数日後になぜかブロックされているのを発見した。リプライやリツイートなど、Shahida Arabiに対してリストに入れる以外の行動は一切していないので、原因がよくわからない。新たにリストを作る時に一瞬公開設定にしたため通知が行ってしまい、当人がそのリスト名を気に入らなかったたため起こったことかもしれない、と今は思ったりしている。
 いずれにせよ上掲の書物をのろのろ読み始めているのだが、ブロックされた件もあって、ナルシシストの被害者を自称する彼女自身が過剰な自己中心性を負っているような印象を持ち始めている。

Growing up with a narcissistic parent and witnessing narcissistic abuse was the precursor to the destructive, toxic relationships I had with narcissists - from friends to relationship partners to acquaintances to co-workers.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.18). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

I refocused on the people who validated me and wanted me to rise rather than fall.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.26). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

 私のブログ的には、ナルシシストの子供がナルシシストになるというのは全く不思議なことではないので(偽りの自己を発展させた親の機能不全により子もまた偽りの自己を発展させるというような機序になるだろうか)、それ自体としては特筆すべきでもないのだが、これは、比較的攻撃的(or反撃的)なタイプがNPD被害者グループで統率的な役割を担ったケースなのかもしれないと思い始めている。彼女はブログやネットコミュニティを媒介して支持を得ていったようで、彼女も引用しているPete WalkerのC-PTSD四分類を利用して説明するなら、余力のあるFight型がその思想のもとに互助グループ内の他の被害タイプをも説得し束ねていった、ようなイメージを思い描いている。
 追記予定。


追記(2022/06/24):
 Kindleでは他の読者がハイライトした箇所が表示されるのだが、以下の箇所では1915人もの読者がハイライトしている。

The narcissist does not feel empathy for others; he or she makes connections with other people for one purpose and one purpose only: narcissistic supply. Narcissistic supply is the attention and admiration of the people the narcissist collects as trophies. It is anything that gives the narcissist a "hit" of praise, or even an emotional reaction to their ploys. They need these sources of supply because they suffer from perpetual boredom, emotional shallowness and the inability to authentically and emotionally connect to others who do have empathy.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.51). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

 著者が自分を被害者としてナルシシストを悪魔化している風情のある本書ではあるのだが、ここではナルシシストを共感というものがまったく欠如している存在として強調している。しかしこれは必ずしも正確ではない。DSM-5のSECTION IIIで紹介されている次元モデルのNPDにおける共感性の説明では以下のように書かれている。
3. Empathy: Impaired ability to recognize or identify with the feelings and needs of others; excessively attuned to reactions of others, but only if perceived as relevant to self;over- or underestimate of own effects on others.

DSM-5 (p.767)

 またハーバード大学医学部マクリーン病院のアリエル・バスキン・サマーズらは以下のように叙述している。
Across the three case studies, it is easy to focus on the difficulty these patients have connecting to others and the clear examples of their deficient displays of empathy. It seems hard to say that any of these individuals are "lacking empathy" or are even "unwilling" to engage in empathic processing; yet, each of these individuals are classic examples of pathological narcissism.

Arielle Baskin-Sommers et al. "Empathy in Narcissistic Personality Disorder: From Clinical and Empirical Perspectives" (p.10)

 NPDは相手が自分の延長と感じられる場合やそうすべき社会的責務や価値が伴うような場合に共感性を発揮する。要は共感を選別的にしかできない傾向があるのだ。彼らの狭く歪んでしまった共感性が、かろうじてその制約された領域には残存しているとも言える。深刻な先天障害のように人間的な共感性をすべて失ってしまっているわけではないのだ。彼らは心のない悪魔ではない。

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 エラン・ゴロムの"Unloved Again"は、去年、最終章(第七章)だけ逐語訳的にみっちり読んで、それ以外は目次を確認しながらかなりの流し読みみたいな感じだった。その心残りがあり、先月下旬辺りから逐語訳的に第一章からゆっくり読みなおし始めた。現在第三章に入っている。と言っても症例集的な第一章の終わりまでで全体の40%もあるので、去年既読の最終章とあわせれば量的に2/3近く読了した(このKindle本はページ表記がない)。
 気がついたことを追記していく予定。


追記(2022/04/18):
 ずっと不思議に思っていることに「子供は親から愛されたがる」という普遍的現象がある。このありふれたモチーフへの肯定的な言及はいくらでもあるに違いないが、それが破壊的結果をもたらす場合があることは、問題意識を持つ人以外にはあまり顧慮されないかもしれない。このモチーフを医療少年院に勤めていた岡田尊司も、また相互に関係ない、自己愛者を主題とするエラン・ゴロムも著作で繰り返す。子は、大人になっても、親から愛されようとして生きてゆく。それは、いい意味でも悪い意味でも人格のコアを形成している。自己愛的な親に「愛されよう」として、子は時に取り返しのつかない破壊的な選択をしてしまう。


追記2(2022/04/19):

Grown children seek the internal "parent's" love by following its advice, which may include acting and feeling inadequate the way their parent labeled them. The adults' feelings for the hurtful "parent" are often powerfully positive but also suspiciously full of longing. They have the longing of a starving person looking for something to eat. Their state of emotional need is connected to the love-emptiness of their childhood. Sometimes they claim to hate their parents but unconsciously seek their love.

(Golomb, Elan. Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction . iUniverse. Kindle 版. 位置No.1773)

A person has the potential for new attitudes and attractions but lacks understanding of the childhood trauma that leads to their repetition. Attempting not to feel the early pain is like placing a huge weight against the fulcrum of change. Change depends on becoming conscious of what hurt you and then making a different choice.

(Golomb, Elan. Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction . iUniverse. Kindle 版. 位置No.1815)

 結局、徹底操作(フロイト)的なものが魔法の杖との主張。そんなもので、特定の発達段階に一回的にしか形成されない愛着スタイルが基礎から変わるとは思えない。


追記3:(2022/05/07):
 6日に"Unloved Again"一応読了。

 エラン・ゴロム博士のロジックの大まかな建て付け。
1.大人になってからも続く(あるいは一生続くかもしれない)自己愛的な親からの影響を断ち切らなければならない
2.そのためには自己の歴史の、無意識下に隠された負の部分について、意識化しなければならない
3.本当の自己を回復させるにあたって、育った家族や社会の寄与は期待しえない
4.自然との触れ合いや、性的パートナーとの相互的なヒーリングに希望がある

 エラン・ゴロムの著作には、彼女の夫らしき人物は出てくるのだが、自分たちの子供の話は一切出てこない。機能不全の家庭に育った者同士が結婚した場合、無理に子供を持たない方がいい場合も多いのかもしれないが、回復の達成度としての印象は薄くなる。傷を負ったカップルによる相互ヒーリングがどれほどうまくいったとしても、そこから適切で現実的な養育能力が体得されることはありえないかもしれないが。
 人は、大人になっても、知らず親の影響下で物事を判断しており(主体がないという意味ではない)、あらかじめ無意識的に方向性のようなものが定められている。この刻み込まれた方向性が現実に対して適応的なら、実際に踏み出しても、当人は影響をことさら意識しないしする必要もない。その方向性ではうまく行かない、あるいは行きそうにもない時にこそ、意識化されることになる。
 なんとか心の安定を保つために、成熟を放棄するのもひとつの知恵ではあるだろうが、やむを得ない犠牲と言っていいかどうかはわからない。
 エラン・ゴロムは、実社会への適応というものを、必ずしも肯定的に見ていない。彼女にとって社会は窮屈で不自由で不自然な何かなのだ。私には、これが幼い誇大自己の温存のように思われてならなかった。社会から距離を取り、自分と似た傷を持つパートナーとの空想的自由に逃げ込むことは、本質的な治癒を意味しているだろうか。

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 いわゆる「変容性内在化」に関する丸田俊彦と和田秀樹による説明なのだが、コフートのセオリーの文脈としてはどっちもそれらしいと言えばそれらしいのだが、以下に示すように両者はかなり言ってることが違う。あるいは、総体として複雑な概念に対して、切り口が違うだけでどちらかが間違っているというわけではないということもありうる。ネット上のテキストでは丸田派が多いのだろうか。
 私が'The restoration of the self'を購入して読んだときは、コフート自身による明確な定義付けの箇所はなく、「変容性内在化」とは、母親のリアルなイメージを換骨奪胎して(ある程度都合よく抽象化して)子供が取り入れる、みたいな理解だったので、丸田側なのだろうか。
 初めに「変容性内在化」が説明された『自己の分析』は邦訳を図書館で借りて読んで、複雑な上に訳文に閉口したイメージ(今読むとまた違った印象が得られるかもしれないが)。しかもコフートはその後(双子転移の取り扱いを含め)生涯をかけて自説をゆっくり修正・整理していったはずなので、その加減もある。
 もともと簡潔な定義があるわけではないのなら、解釈の余地として、和田説もありうるのかもしれないが。

『コフート理論とその周辺』 丸田俊彦 p111
 Transmuting Internalization:変容性内在化
 Kohutの用語。理想化された自己-対象idealized self-objectが内在化されて精神的構造となる過程。われわれが口にする異種タンパク(たとえば牛肉)が体内で消化、同化されて血となり肉となるように、自己対象が内在化される過程において(自己-対象がそのままの形で内在化されるのではなく)変容をとげるところから、変容性内在化と呼ばれる。すなわち理想化された対象に対する幻滅(それは多くの場合理想化された対象に対する正しい現実的認識でもある)がわずかずつ進み、最適量のフラストレーションoptimal frustrationが持続すると、理想化された自己-対象へのlibido投資investmentが撤回され、非人格化された特定の機能が内在化されることになる。この過程が自我理想を生み、超自我に理想化を行う特性idealizing qualityを与えるため、内在化された自己評価調節機能は安定し、自己は心的緊張の調節装置となる。Kohutはこの変容性内在化が正常発達過程として起こるばかりでなく、精神分析の治療過程としても見られると主張する。
『〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析』 和田秀樹 p141-142
 (purplebaby注:フロイトの超自我に対して)一方、コフートのいう理想化自己対象とは、あくまでも外にあって自分の一部として体験される対象であり、心の中に取り込まれて完全に住み込むものではないのです。しかし理想化自己対象がそばにいなくても、その自己対象との関係がしっかりしたものであれば、ある程度は代わりとして心の中にいてくれます。ですから、ここではコフートは「変容性内在化」ということばを使っています。変容性とは完全には住み着かないという意味です。しかし、多少は内在化するので、自己対象がいつもそばにいなくても何とかやってはいけるのですが、あまり相手がそばにいないと、自己が不安定になったり、ばらばらになってしまうと考えます。あるいは非常に不安なときなどは、自己対象を求めてしまうというわけです。

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CIMG3463.jpg 偽りの自己をめぐってスターンの名前が出てきたので、以前から気になっていたこともあり、京都市図書館にあるものを借りて読んでいた。『乳児の対人世界<理論編・臨床編>』『母親になるということ』。読んでいる最中はあれこれ思うこともあったのだが、今日3冊めを読み終えて本は返却してきて、読後感が複雑すぎて軽率になにか言いたくないという感じが強い。
 批判対象とする人物の主張をスターンが誤解している面があるのではないかという危惧が終始あった。対象関係論が乳児の自他の未分状態を強調していて実際の観察された乳児に想定される自己感の兆候と矛盾すると言うが、対象関係論は完全に自他不分明な錯乱状態を乳児に想定しているわけではない。いわば自己の前駆体のようなものを、スターンのようには自己の中に含めないだけで、対象関係論者が、誰でも見ればわかる乳児の自己の兆候をすべて無視しているとすることは想定しづらい。ウィニコットが、乳児が自分の全能感を支え演出していたのが実は母親だったのだと気づく(脱錯覚)段階に注目するように、乳児に自己感があったとしてもそれは同時に自他の不分明さをいまだ含んでいる非現実的な自己なのである。したがって、現実には自己感と不分明さは必ずしも対立しておらず、むしろそれら自体が混じりあいながら併存していると思われる。
 ただ、スターン自体の印象が悪いわけでは全然ない。乳児の不分明さよりも自己(感)を主軸に発達の歴史を追ったほうが説明の仕方としてうまく整理がつく面があることは明らかで、伝統的な理論の中にそういう意味でのやや大きめの間隙が埋め込まれていたことは否めない。伝統的な理論は乳児ならではの不分明さに主軸を置くような傾向が確かにあり、そのことは発達論的な分析や観察のハードルを徒に上げた。スターンの思想は、分からないことより分かることから積み上げていくようなやり方で、実際主義的な清潔さがある。
 偽りの自己論に戻るが、ウィニコットは『本当の自己は、個人の精神機構がありさえすればあらわれてくるものであり、感覚運動系の活動の総和以上の意味はないのである。』(「情緒発達の精神分析理論」 p182)と述べている。スターンが述べる本当の自己は、否定された自己のことであり、感覚機構による私的自己とも分けて考えており、両人はほとんど根底から違うことを言っていると言っていいと私には思われた。
 あと、必ずしも外傷の時期にこだわらないスターンと現代的なトラウマ派との近親性も感じた。


追記(2021/10/14):
 なんと書名を誤記していたので訂正しました。「対人関係」→「対人世界」。私のIMEで「対人」と打つと「対人関係」と予測変換されて、そのまま決定して気付かなかったための事故でした。あしからず。

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