読書メモのブログ記事

 『トニー谷、ざんす(村松 友視)』を読んだのだが、期待したものと違った。
 私は主にトニー谷の生い立ちに興味あったのだが、著者が眠たげな芸人論を長々展開して紙幅を浪費したりして、継父による虐待に関することなどほとんど何も分からなかった。その他においてもWikipediaのトニー谷のページのほうが詳しいくらいだ。こんなぼんやりした随想めいたものに対して、取材及び出版の機会が与えられたり原稿料が発生していた時代があったのだと、なんだか遠い別の星を観るような思いがした。奥さんへの取材の時などもっといろいろなことが聴けたはずではないのか。
 社会常識に優越する欲望の肯定とか散乱する興味のベクトルとかは、例えばある種の発達障害にありがちな特性かもしれないが、そういう視角においても有意義だと思われる踏み込んだ情報はなかった。ダンスのセンスはあるがスポーツの運動神経はなかったという奥さんの述懐が多少気にかかったくらい。

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img433.jpg 祭司ロドリゴが、転向した師のフェレイラと再会し日本語で会話するシーンで、小学生くらいの頃にやはり一度は「沈黙」を読んだことを思い出した。そのシーンで抱いた不自然さの感覚が蘇ってきた。しかしもちろん、ポルトガルからやってきて日本に潜入するロドリゴがたいした障壁もなく日本語(しかも長崎弁)を理解する「感じ」で最初から描かれており、かといって日本語のまれな熟達者という説明があるわけでもなく、さらに後半では幕府が彼のために用意する通訳が登場するのだが、錯綜しているように見える設定の辻褄は読者の想像のうちに合わせてくれということなのかもしれないけど、ここは多少なりとも忍耐を要求すると思う。

 ロドリゴが踏み絵を踏んだのは、おもには、彼への連帯責任のような形で拷問にあわされている信徒たちを祈りでは救えない(神は沈黙していて奇跡を起こさない)と断念したからであり、この断念が「奇跡の不存在」の確信を意味するわけでは全然ないとしても、彼の信仰からある一般的な無邪気さを切除するかもしれない。しかし、迫害と殉教者に満ちたキリスト教の長い歴史から見て、この断念はどの程度の「負い目」だろうか。

 眼の前の踏み絵が、(聖画として)異教徒が作ったまがいものであり、しかるにそれを踏んで信徒たちを救うことはキリスト教的な倫理にまったく整合し、ロドリゴの信仰における元々の立場にもなんらの異変が生じているわけではないとしても、現に「それ」を踏んでしまった事実の生々しさが彼の宗教的な純粋さをいやらしく腐食させ、戻れない孤独に陥れてゆく。
 一昨年のクリスマスにも書いたけど、キリスト教は偶像崇拝の否定について一定の欺瞞というべきか自己矛盾を抱えていると思う。そしてそれは、(キリスト教だけがどうとかいう問題ではなく)人間の抽象化能力の限界みたいなものと関係しているかもしれない。母子像やイコンやロザリオに本質的な意味があるわけではない、と宗教者がいくら説いたところで、人々はそれを求め愛着しようとする。そのぬぐいがたい物体性への希求みたいなものが、それを理論的に乗り越え得たように思い過ごしている誰かにおいてすら、逆流し、たとえば「踏んだ足」に心身症のような痛みを生じさせるかもしれない。

 いわゆる、日本に入ってくる様々な宗教が奇妙な「日本化」を遂げて変質してしまう、というテーマも伏流のようにして主張されるのだが、海にしつらえた杭にキリスト教徒たちを縛り付けて潮の満ち引きで衰弱死(水死?)させる処刑方法にもその意志が象徴されていると思う。
 自然が、人による超越的な措定をすべてかき消してしまう。
 言葉が自然を乗り越えない。
 たぶん、日本人の自然への畏怖は、自然に対する感謝と裏腹だ。だから単に自然に超越性を認めて怯えているのではなく、ある倫理性を帯びている。もっと言えば、そこからの自動的な恩恵がなくなった時日本人の精神性に根底的な変化が訪れうるのではないかと思うが、幸か不幸か日本の風土はかなり恵まれている。


「パードレ、お前らのためにな、お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。見い。血がまた流れよる。何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる」
『沈黙』(p211 新潮文庫)

遠藤周作


追記(2015/12/27):

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
JHON 1:1

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 私はモノアミン仮説(いわゆる鬱病のセロトニン仮説などを含む)を元来あんまり信じていない。理由は単純で、精神疾患によって神経伝達物質の多寡が仮に特徴的にあるのだとしても、それはある種の表象であり根本原因ではないのではないと思うからである。例えば、ここに汗をかいている人がいるとして、なぜ汗をかいているのかは極めて多様な原因が推測される。お腹が痛いというのでもまぁ同様である。それらは仮に病によるものだとしてもその「症状」でしかないだろう。
 統合失調症患者のドーパミンの分泌が特徴的に過剰であるとする説も、モノアミン仮説の一種なのだが、その程度のドーパミンは健常者でも普通に分泌される時があるのに、別に誰も統合失調症のようにはならないのであり、それでドーパミンを統合失調症の限定的な原因物質とするようなことを言われても、なんというかファナティックな情熱にでも頼らなければそんなものなかなか認めがたい。
 しかし日本でも、NHKや朝日新聞やタレント精神科医などがこのモノアミン仮説を盛んに広めてきた。私はどこかで嘘っぽいなぁと思いながらも、個人的にハードな反証があるわけでもないので、個別の事実としては話半分的に受け入れたりしながら、微妙な距離をとってきたと思う。以前このブログで懐疑論者の著作を紹介したこともあったが、私個人として否定論者として完成された認識を持っていたというわけでは必ずしもない。
 で、モノアミン仮説の斜陽というか、最近さすがにうるさく聞かなくなってきたなと感じていて、逆にどういう成り行きがその後生じていたのか知りたくなって、多少ネットで検索していた。それっぽいとされていたのが京都市図書館ネットワークにもあったので以下の2冊を借りて読んでみた。

・『クレイジー・ライク・アメリカ』イーサン・ウォッターズ
・『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』ロバート・ウィタカー

 『クレイジー・ライク・アメリカ』、要は精神医学の比較文化学(!)なのだが、それが人類にとってあまりにも未開な分野すぎて、何かにつけアメリカをモデル化したがる日本を含める後進国(アメリカの文化的ストーカー?)全般に対する気持ち悪さを素朴に表明してるだけのように、思えてくる感じ「も」あった。アフリカの呪術的な現象を短絡的に統合失調症として話を進めたり、拒食症に過剰な実体性を見ている感じがあったりと、なかなか微妙な面もある気がしたが、基本的に不真面目な本というわけではなく、香港やアフリカや日本の精神医療の実態の(アメリカへの)追尾性について縷々述べている。
 肝心のモノアミン仮説の虚構性については後半にちょろっと出てくるだけなのだが、それなりにまとまっている。該当箇所の一部を抜粋してアップしておく。(画像のp280冒頭に『モノアミンはセロトニンのサブグループ』という表現がありますが、本当はセロトニンが属するサブグループと言いたかったのではないかと思います。モノアミン類は、神経伝達物質の3つあるサブグループのうちのひとつで、セロトニンはさらにそのモノアミン類に属しています。原文にどう書いてあるのか不明だけど、あの訳文を読み流すと意味が通らないかも。)

 『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』は、これでもかこれでもかという感じでモノアミン仮説(あるいは精神の化学的解釈全般)の否定につながる論文を紹介し続けるような本で、興味が無い人は相当きついとは思われるのだけど、私は約540ページを約2日で読み通しました。特に著者が「本気」だと思うのは、よく探したというか、列挙されてる研究のほとんどがちゃんとした素性のものであるということで、製薬会社の資金によらず、NIMH(アメリカ国立精神衛生研究所)などからの公的資金によって書かれた論文や、ハーバードのような名の通った大学で行われた研究を中心に、彼の論拠となるものを拾いだしている点にある。
 しかし、この辺り、著者に致命的な落ち度があるとすれば、モノアミン仮説「肯定」論者の論文や研究をほぼまったく紹介していないということがあると思われる。モノアミン仮説を否定している論文の信頼性を高めるだけでは、この戦いにおいては、必ずしも十分ではないかもしれない。
 まず鬱病者のセロトニン分泌が健常者よりも少ないという前提そのものを論拠を示して否定しているのだが、仮にセロトニンの再取り込みを遮断しても、受容体が鈍麻して生体反応(ホメオスタシス)として人体がバランスを取ろうとしてしまうのであり必ずしも目的の効果が得られない上に、投薬が長期化した場合に生体そのものが変化して離脱(薬をやめること)が極めて危険になる場合があると主張する。確かに筋の通った話で、SSRIに「適応」してしまった体からそれを奪うと、急に後ろからはしごを外すようなもので、当たり前の処理すら薬なしでできなくなっている体を地面に叩き落とすことになるだろう。また症状が良くなったとされる率もプラセボの場合とほとんど変わらないという主張も、従来から言われているが、典拠を示して繰り返している。
 ADHDの原因が先天異常であるというのは実は必ずしもはっきりしていないとの主張や、長期投薬者が短命であるとの主張も印象深い。精神薬の効果を疑問視させる様々な動きについて年表のようにまとめている箇所があるのでアップする
 こういう問題に膨大な労力と知力を傾ける著者の激しい情熱のありかがどこにあるのか不思議に感じるところもないではない。正義心とかジャーナリスト魂とかあるかもしれないが、正直この手の本における製薬会社陰謀論はもはやほとんど陳腐化しているモチーフでしかないと思う。それくらい有り触れているのだし、これだけの知力のあるジャーナリストがとらわれるにしては単純すぎる。この著者は言い尽くされている地平をさらに厳しく掘り下げるような努力をこの著作でしているのだ。
 ある統合失調症と診断された若い女性が、たまたま通い始めたキリスト教会のメンターのような男性と出会い(のちに結婚)離脱に成功する逸話が著者の内的な核心だったかもしれない。女性はその男性に「自分を統合失調症だと思ってはならない」と言われて雷に打たれる。そして医師の処方による薬のカクテルの摂取を一切やめる決意をする。離脱後ダイエットに成功した彼女の容姿を、著者がとても美しいと唐突に褒める箇所がある。比較的テクニカルな内容の本書で著者の感情的な部分が吐露されているこのような部分に本心が宿っていると捉えるのは深読みだろうか。キリスト教の自然主義的な側面というべきか、薬によって歪められないありのままこそが神に与えられた人間の本来の状態であり美でありうるということかもしれない。

 日本で反精神医学というと、精神医学の科学的な無根拠性をさかしらに指弾しているだけというようなイメージもなくはない(なにもないところに手探りの努力を積み重ねているだけだからそんなもんあるわけない)。しかし本場の反精神医学には、それとはまた次元を隔て、キリスト教の人間把握を精神医学が提供しようとするそれに対し優越させようとする原初的な情熱が働いている面があるような気がする。
 一般の人々は単純な答えを欲する。あるいは単純な答えがどこかにあると思い込みたい、そのほうが安心だから。しかし現実にはないのだ。製薬会社はそれらのことをよく知った上で倫理的に綱渡りのようなマーケティングを日々しているのだと思う。製薬会社のグラクソ・スミスクラインはパキシルの服用等による自殺率の上昇に関して以下のように述べている

抗うつ薬と自殺との因果関係をはっきりさせることは極めて困難な問題です。先に述べたとおり、若い年代の患者さんでは抗うつ薬での治療中に自殺行動が起こるリスクが高まる可能性が示されていますが、うつ病という病気そのものに重大な自殺の危険性がある上、他の考えられる多くの要因が存在するためです。
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 ブルーバックスの『ロジックの世界』を読んでた(イラストだらけなので半分については「見た」かも)のだがちょっと感動した感。ゲーデル以降の事情も素人向けに書いてあってそれもかなりよかった。たとえば、直観主義のブラウワーなど排中律そのものを否定していて、¬¬p≠p(¬は否定の意味でふたつあるので二重否定なのだが、つまりブラウワーは二重否定が肯定に戻ることを認めない!)。排中律は背理法の根幹でもあるので背理法も認めないことになる。また、ファジーロジックという白黒つけない論理学も登場したりして(それは論理学の自己否定ではないのか)すばらしい。やはり現代論理学はロジックそのものの無根拠性を巡って右往左往しているのだとわかり、そのことがかなり嬉しい感じだった。
 論理学者が感覚や経験や観察や妥当性に再帰せざるを得ない様はそれとして誠実なものだ。
 しかし、もちろん、ハードな根拠はなくとも実用に堪えるのだから、あるいは文明をすら築いてきたのだから、「論理」はこれからも「有用」であり続けるに違いない。しかし論理的であることは絶対ではない。
 ただ私の長年の疑問である『ゲーデルの不完全性定理をそれ自体に適用するとどうなるのか?』に対する答えの糸口はなかった。入門書なのだから当たり前か。まぁ、仮にすで答えがあるとしても理解できないおそれがあるけども。

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精神の科学 第七巻 p137.jpg
精神の科学 第七巻 p137より抜粋
 前回のエントリーがまた変な感じになってしまったが、岩波の『精神の科学 第七巻』を読んでいた。その中の、病者同士がカップルになったり家族を構成することで発生する悪循環について述べた中野良平の論文「神経症的結婚」を読んでいて(ほとんどJürg Willi という精神科医の著作を中野がまとめただけみたいな感じだが、日本の学者ではそういうのはよくある)、いろいろ思い返されるというか、考えさせられてしまった。
 今で言う「共依存」みたいなことの分析で、フロイト的解釈の線に従っていてかなり古いのだが、相当に的確な叙述があるように思えた。抜粋した右図は自己愛的夫婦の悪循環を表していて、ナルシシスト同士の男女が主と従の機能に分かれて一体化し、まるで閉じられた一個の回路のように、自己愛的小宇宙を構築しながら内部に葛藤を再生産している様を表している。
 カップルだけでなく親子の場合もある。『この種の母親は子供を自分自身の一部としてしか認識していない。子供の自律性が育ち、自分で話し歩くことを学び主導権を発展させ、母親から離れていこうとすると、子供が自分自身を固有の自己として感じられないようにするために戦略をめぐらせる。~(p134)』
 口唇期から始まるフロイトの発達理論の前段階に自己愛の項目を設けて各段階ごとに悪循環を解説しているが、自己愛以外の項目はやや微妙かもしれない。あるいは肛門期よりあとはトーンダウンしてぼやけていく感じもなくはない。
 力ある古い本により、雷撃に撃たれることがある。理論の新旧は問題ではなく、その時代に生きた人々の現実が封じ込められているから強いのだと思う。
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・『狂気と正気のさじ加減―これでいいのか精神科医療』シドニー・ウォーカー

 どちらかというと神経医学畑と思われる著者が、精神疾患あるいは今やその診断の聖典と化している嫌いもあるDSMの「虚構性」を暴く目的で、精神科における誤診の実例をかなり多く紹介している。脳腫瘍、内耳異常、チフス、カルシウム欠乏あるいは鉄分欠乏に、蟯虫、梅毒、向精神薬そのものの副作用、一酸化炭素中毒や鉛中毒、甲状腺障害に副腎皮質障害など、一旦は鬱病や統合失調症やADHDや様々な人格障害と診断された人々の、真の(生理学的)病巣が探り当てられる過程が、ある意味劇的に解説されている。
 しかし、どれだけ誤診の例を挙げても、すべての精神疾患が必ず別の何らかの生理学的な病理の表現に過ぎない、と言うことはできるはずもない。ヒポコンデリーが、実は何らかの未発見の疾患であるかもしれないと長々ほのめかす態度なども、かなり誠実ではない。ネガティヴな親子関係が精神の病理に結びつかないなどの主張でも、いくつかの個別の調査を傍証として出しているに過ぎないが、ホスピタリズムや家族・双子研究など環境因に関する決定的な調査は幾らでもあるのに、それらにまったく触れないのも同様であろう。
 フロイトが創設した精神療法が仮説の体系であり、厳しく言えば無根拠であることは、別段新しい認識でも特権的な理解でもない。自然科学によっては精神疾患そのものの物質的説明ができていない以上、症状に対して手探りでノウハウを蓄積するしかなく、種々の理論がそれらを仮説的に解釈し体系化したものでしかないということは、おそらくは衆知のきわめて凡庸な認識である。
 本書を通読して推し量られる著者の立場は、煎じ詰めれば、厳密な科学として無根拠だから「心の病は存在しえない(に違いない)」というロジックの上にあるのであろう。しかし、そのような限定はそれ自体がみっともない現実逃避である。反精神医学には、レインの実存主義からサズ等の自由主義へ流れるイデオロギー系譜があるようだ。本書にも、自由主義の悪い面と言うべきか、特有の器量の小ささや視野の狭さが端々に見て取られるようで、多少印象深かった。

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『児童虐待―現場からの提言』 川崎 二三彦

 よくある「しつけと虐待の境界線は何か?」という問いが、本書においてまたしても提示されているわけだが、問い自体の有効性または有用性に疑問を持たざるをえない。むろん著者が言うように、しつけと虐待の境界が問題になるのは、ひとつにはしつけの手段にある程度の暴力が含まれる習俗が存在しているからなのであって、もし仮に、しつけからその種の暴力的要素を一切取り除いてしまえるなら、境界は苦もなくかなりはっきりしたものにできるのかもしれない。暴力が僅かでもあれば虐待。しかしながら、世上にこびりつく通念を覆して、しつけから一切の暴力的要素を排除することが当然で十全に正しいことだと、誰が「証明」しうるだろう。
 子供へのしつけに含まれることのある体罰が、時に常軌を逸した暴力に発展してしまうことの原因を、しつけと虐待の区別が普遍的に確定されていないことに求めるのは合理的ではない。確かに客観的で厳密な区別の方法がどこかにあってそれが社会内に充分に広まっていれば、ある種の安全弁のように作用することが期待できるかもしれない。しかし、これは現にあるいは将来においても決して確定され得ないものであるに違いないのだ。例えるなら、「男は何歳からおじさんか?」「女は何歳からおばさんか?」という類の妥当性を巡る問いの非確定性と同種のものである。厳密で限定された答えなどあるわけがない。
 法的な観点からは、民法822条第一項の親権者による懲戒権がどういう幅を持つのかという問題になるが、本書にも触れられている。基本的な前提として過去の衆議院の特別委員会での法務省民事局長の答弁が紹介されていて、掻い摘んで挙げれば、1)民法上の親権者による懲戒には(場合によっては)体罰が含まれること、2)懲戒権の限界は社会常識によって決められるべきであること、3)懲戒権自体の存在は正当なしつけのために必要であること、が行政により公式に是認されている。かなり大枠的で非限定的な答弁である。実際に裁判所にゆだねられる虐待事件では、すでに重大な結果を招いていて刑法犯として扱われるケースがほとんどであるらしく、従って、判例に当たっても細かい具体的な区別方法が提示されているなどはまず期待できないわけだが、仮に提示されるとしても、その事件にのみ通用する判断にしかなりえないのではないかと思う。
 まず子供達を助け出すことが重要であるのは当然であり関連諸制度も主にそこに力点を置くのだが、それと同時に親(加害者)の側に対する治療や教育の重要性を著者が訴えていて、強く共感せざるを得なかった。つまり、児童虐待問題の本質は(社会の大状況等は横に置くとして)、極端で異常な認識や判断に妥当性を感じてしまっている加害者側の、病的な現実検討能力の低下あるいは元からの低水準にこそあるはずなのだ。
 先日NHKで、トイレット・トレーニング期以前への退行だと思われる「ためし行動」の反復にとまどい逆上して、わが子を重篤な状態に陥れてしまった母親のケースが紹介されていた。施設からの帰還後部屋の中で自由に排便してしまう子供への理解は、母親が「ためし行動」がどういうものであるかという知識を多少なりとも持ちえていたならば、ずいぶん違ったものになったかもしれない。いくつも問題を抱える人物だとしても、知識によって母親がさほどの暴力を行使しなかった可能性が大いにありうる。上記リンクのカーンバーグの定義では必ずしも強調しないが、現実を理解するための知識もまた、現実検討能力の一部であるだろう。
 しつけによく似た行動として家庭教育がある。以前に民放のニュース番組で夫の隠し撮りとして紹介されていた、それが何かも理解できていない幼女に数学の因数分解の問題を解かせて解けないと(解けるわけがないのだが)激しい懲罰を加える母親は、虐待をしているという自覚を持っていない。客観的にはただ攻撃を加え続けるための大義名分として出来るはずのない因数分解をさせているに過ぎないのだとしても、彼女の主観としては早期教育をその子の将来のためにむしろ母親としての使命感によって行っているという自己認識なのである。ここには、因数分解の妥当な習得年齢や、現実のわが子の発達状況、適切な懲罰の質や程度、等々に関して、現実検討能力の病的な低下が認められるものと思う。対話によって母親の認識のディテールを細かく吟味してゆけば、必ずいくつもの異常や矛盾点を指摘しうるだろう。
 同様に、しつけと虐待の厳密な区別は演繹的な措定としては不可能でも、個別事例において、常識や論理的整合性等を梃子として帰納的に逸脱や背理を見いだしてゆくことはできるだろう。つまり、加害者に何らかの自己矛盾が生じているはずなのである。
 児童虐待が起こるとき、加害者が先立って異常な状態にあるということこそが、もっと顧みられなければならない。しつけと信じて過剰な攻撃を繰り返す人々は、少なくともしつけと虐待の「個人的」区別に関してまともな妥当感覚を失う程度には、すでに異常な状態に陥っていると捉えられるべきだ。むろん児童虐待の内的起源はしつけと虐待の無分別化以外にもいくつもあるとしても、それらそれぞれが何らかの形で同様の妥当感覚の異状(=現実検討能力の低下)を来たしているものと断じていい。この普通でない状態にある加害者達をもし実行前に治療的に救済できるならば、虐待が発生しないで済む確率が飛躍的に高まることは疑いがないだろう。主に虐待の行為面に対処しようとするだけの現在の行政の姿勢よりも、直接原因に働きかけるという意味において、これははるかに本質的で有効な方法論であると私は思う。予備群を自発的に育児トレーニングやカウンセリング等に向かわせることに加え、少なくとも一度でも虐待を行ったと判断された親等には、一般の精神疾患者が受けているような、医師による本格的な治療プログラムを受ける義務を強制的に課すべきなのだ。(今も一応は児童虐待防止法第11条の「児童虐待を行った保護者に対する指導等」に指導を受ける義務が明記されてはいるのだが、指導を受けるかどうかは実質的には本人の意思しだいである。拒絶した場合に知事から勧告が行くことになっているのだが、知事勧告を拒否しても特に罰則はないし、現に実効性がないので勧告が発行された実績がこれまでほとんどないらしい。また「指導」の名が示すとおり内容としても加害者の病巣に深く立ち入ろうとするものではなく、あくまで虐待行動を表面的に矯正するトレーニングでしかないようだ。)

 昨今マスコミが児童虐待のニュースをよく流すみたいだが、虐待が増えているのか、マスコミのさじ加減が変わったのか、どうにも計りかねる。正確な数字を知りたければ、厚労省による統計発表を待つべきなのかもしれないが(1)。他にも、10歳に満たない児童の自殺に関してマスコミはまず報道しないと思うのだが(実際には少数だが大体毎年起きているはずだ。厚生官吏が専門雑誌で細かい数字を出していたのを読んだ記憶がある。)、こないだ何かのTVニュースでこの種の自殺を報道していたので、かなり珍しい感じがした。社会福祉の範疇になる印象的なニュースを恣意的に多く流して、マスコミが左派民主党政権に助力しようとしている(orさせられてる)のではないか、という空想を持たなくもない。

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『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』ジル ドゥルーズ,フェリックス ガタリ

 古典『アンチ・オイディプス』において、その共同の執筆者であるドゥルーズ&ガタリは、既存の社会的価値を解体する資本主義の営為というものに対して、個人の思考を滅裂化する分裂症の病態をオーバーラップさせるモチーフを執拗に繰り返しているのだが、邦訳で(副題にもschizophrénieの訳語として)使われているこの「分裂症」という言葉が何を意味しているのかは多少曖昧である。通常schizophrénieというと現在の日本では「統合失調症」のことを指すはずだ。しばらく前まではブロイラー論文に対する訳語の「精神分裂病」で表していて(本書邦訳の出版年はこの時代に該当する)、更に昔、最初に疾病単位として確立したクレペリンへの訳語としての「早発性痴呆症」という呼び名もあるが、これはほとんど使用されないのではないかと思う。ちなみに、日本で何年か前に精神分裂病から統合失調症に呼称が変わったわけだが、これは主に多重人格等の解離性障害との混同を避けるためであった。いずれにせよ、いわゆる統合失調症を指す用語としては「分裂症」という呼び名はさほど聞かない。
 訳者がこのようなやや耳慣れない表現を訳語として使っているのはなぜなのか、訳者あとがきを読んでも書いてないわけだが、本来の統合失調症(邦訳出版当時は精神分裂病)とは敢えて意味のニュアンスを違えたかったからではないかとも思うのだが。というのも、本書内で「分裂症」と表現されているものは、おそらくは、主に破瓜型統合失調症のことであろうと思う。それに対するものとして提出されている「パラノイア」とはだいたい妄想性障害周辺を指しているものではないかと憶測される。しかし本来、統合失調症に厳しく対立する概念としてパラノイアがあるわけではないのだ。妄想性障害のみを指す場合もあるとは思うが、統合失調症に含まれる代表的なサブカテゴリに妄想型統合失調症があるのであって、より不完全なものは妄想性障害や妄想性人格障害として、それら異常で体系化された妄想を持つ疾病群をひとくくりとして「パラノイア」と呼ぶことは普通にある(1)。したがって、最初からパラノイア(の一部)を含んでいるはずの精神分裂病をパラノイアと対立させてしまうと当然矛盾が生じてしまうので、あえてずらした「分裂症」という表現を使って暗に破瓜型方面だけに意味を制限しようとしているのではないかと思うのだが。
 仏語原文の表現がどうなっているのかも気になるが、少なくともschizophrénieは、専門でない辞書的な意味として(つまり日常語的な使用法として)は、確かに破瓜型的な意味だけを担う場合があるようだ。しかしこれはかなり俗な使い方であり、厳密な議論には向かないはずだ。共同執筆者のガタリは精神科医なのにこのような使い方を許すものだろうか?それと別の視点としては、ややマイナーなのだけれど、既存の統合失調症のサブカテゴリの幾つかが不適切なもので、それらは本来別々に独立した疾病単位として扱われるべきものだと主張する学者が一応いるにはいたとは思う。その点でガタリの立場を調べる必要があるかもしれないわけだが、しかしいずれにせよクレペリンの3類型(破瓜・緊張・妄想)から始まって、現在に至り、DSMでもICDでもおおっぴらな基準においてそのような立場はとられていない。ガタリは現に妄想型は統合失調症に含まない別個の疾病だとする立場なのだろうか?
 ただ、いわゆるこの「スキゾ-パラノ」の通俗的な対立図式をよりすっきり「破瓜型-妄想型」と言い換えたとしても、なお私には違和感が残る。極端に脆弱化した自我というものが、破瓜型のように無抵抗にバラバラに散乱・壊滅してしまっているか、妄想型のように異常な妄想を発展させることによって辛うじてつなぎとめられた状態であるか、は、ある程度表層的な差異でしかないと思っているからだ。単純な対立概念として扱えるものかどうかはなはだ疑問なのだ。
 更には、人間の社会集団の歴史上でのダイナミズムを説明するのに、個人にまつわる精神疾患を持ち出すことが適切な行為であるのかどうか。

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 この一箇月位でデリダばかり10冊近く読んだりしていたのだが、ブログに書くことも特にはまとまらない。途中ちらと、デリダの個人史を引き合いに「音声中心主義批判」批判をしてみようかとも思ったのだが、軽率な感じがしてそれ以上の気乗りがしなかった。
 今はデリダシリーズが立ち消えて、3月末のシュレーバーつながりで岸田秀訳『魂の殺害者』を読んでいるのだが、これがまた遅々として進まない。少し読んでは立ち止まり、また少し読んでは立ち止まり。出版の時代がやや古いわけだし、原著者がレイン派ぽいのも微妙。しかし書物自体に地力みたいなものがあり、確かに何かを探り当ててはいるのだ。

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 有名な『シュレーバー回想録』を図書館で借りてざっとだけれど読んでみた。フロイトと同時代に生きたパラノイア患者シュレーバー自身による回想録である。幻聴(小破裂音)や幻覚(身体部位の変容感覚)、言語新作(神による根源言語)、観念奔逸(思念の洪水)、考想吹入(神との交信)など症状の表出と思われる生々しい述懐が延々続くのだが、全体のプロットとしては神と自分との特別な関係性の告白という体なのだろう。パラノイアの症状としてなお全般に受身というか、いわゆる被影響体験の傾向が強いタイプだと感じた。発病前のシュレーバーが知識階層に属していたことが構築された妄想体系の複雑化の昂進に一定の寄与をしていると思われる...。
 この狂気の回想録に関して、私はここで要約する気はないし分析や論評もしないので、本の内容に興味のある方は自分で読むなり解説等をネット検索してもらった方がいい。やや離れて、少し副次的な雑感のようなものを書いておきたい。
 私はネットの個人放送とかがわりと好きで、サイトの閲覧などしながらBGM代わりにそれらを垂れ流していることが多い。日常では出会えない色んなキャラクターというかパーソナリティーの人がいて面白いからなのだが、どちらかと言うとより偏りの強い人物に興味が行く嫌いがあった。放送者の意図に沿った楽しみ方をしていることはあまりなく、主にその(やや偏った)人物像や個性の淵源についてあれこれ考えながら聞いたり見たりしていた。一部のブログの閲覧やRSS取得に関してもそれと似たところがある。
 だが、今回目の当たりにした「シュレーバー症例」の困難さと複雑さのインパクトによって、そういった私のこれまでの志向性が変わりそうな気配。シュレーバーのような「本格的」な病人に比べれば、単に表象として過度の陰謀論者だったり熱烈なオカルト好きだったりなど、まったくもって取るに足らない。放送者やブロガーの中には精神科の通院者もいるだろうが、フロイトやラカンですらシュレーバーに立ち向かって(分析的な意味においては)確たる成果を挙げられないのだから、素人でしかもより断片的な情報しかない状況下では、単に際限ない解釈の堂々巡りに陥らざるを得ない。
 人物観察を遊び気分ですべきではないと気付いたと言うべきか、もはや私自身が遊びに収まる次元に飽き足らなくなってきたとも言えるかもしれない。

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