読書メモのブログ記事

CIMG3597.jpg・エーリッヒ・フロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)

 加藤諦三がカレン・ホーナイと並んでよく引用するエーリッヒ・フロムなのだが、どちらも新フロイト派ということで、加藤諦三もおそらくそういう方向性なのだろう。エーリッヒ・フロムはネタ元として、さすがに加藤諦三の受け売り的な感じとは一味も二味も違う。

 愛は、配慮、責任、尊重、知から成っている(そうあるべき)と序盤に定義づけそれに基づいて話が進むことにはなるのだが、その前に、フロムが本書で言いたいことをぎゅっと要約したようなパラケルススの言葉が、目次のすぐあとに引用されているのを見逃してはならない。

『愛するということ』p.5
 何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。(中略)ある者に、より多くの知がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。(中略)すべての果実はイチゴと同じ時期に実ると思いこんでいる者は、ブドウについて何ひとつ知らないのである。
 パラケルスス〔一六世紀の医学者、神秘思想家、錬金術師〕
 他者を尊重しない、押し付けがましい、独りよがりな、あるいは杓子定規な、愛情関係が破綻に陥る運命の途上にあることはその通りだろう。しかし同時に、これは大なり小なり誰もが日常に身覚えのある破綻でもあるはずなのであり、人はこの種の無知から逃れられず、間違い続ける存在なのだと思われもする。
『愛するということ』p.84
 この段階にいたってはじめて、母性愛は大変な難行となる。つまり、徹底した利他主義、すなわちすべてを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力が求められる。多くの母親が母性愛というつとめに失敗するのもこの段階である。ナルシシズム傾向の強い母親、支配的な母親、所有欲の強い母親が「愛情深い」母親でいられるのは、子どもが小さいうちだけである。ほんとうに愛情深い女性、すなわち受けとるよりも与えることにより大きな幸せを感じ、自分の存在にしっかり根を下ろしている女性だけが、子どもが離れていく段階になっても愛情深い母親でいられるのだ。
 NPD親は自己の延長物として子に決定的に主体性が生じない形でなら愛情深さを維持するので、フロムの言い方には留保が必要な気がする。私はこのブログで何度も書いているがナルシシストが他者愛を全く持たないとするような考えは正しくないと思っている。彼ら自身がfull-fledgedな自己から追放されて発育しており、それはもちろん言い換えれば偽りの自己(解離)で生きているということなのだが、彼らの歪んだ期待と欲望の地平に沿った生き方をし続けるなら他者への愛情は持続する。一方主体性が生じてしまった子は彼らの憎悪する現実世界という「異界」の住人として同様に憎悪されることになる。だから、NPD親は成長する子が主体性を持たないように多様かつ能動的に働きかける。それは愛する対象を失いたくないという一般的な欲求によく似ている。
 自他の区別の曖昧さの中で、イニシアティヴを奪い合うというのがNPDの対他関係における基本把握なのだと思う。だから、どうしても人間関係の中での主体性のありかが鍵になってくる。

 フロムは本書終盤で社会的変化が個人に与えた影響を強調する。蔓延する資本主義という疫病が本来健全だったはずの人々を機能不全に追いやったかのような説明が(マルクスを引用しながら)続く。まさに新フロイト派の面目躍如たる箇所なのかもしれないが、そうではなく、機能不全な人々は古くからたくさんおり、それを陰に陽に補助していた古い相互配慮的な社会システムが資本主義によって取り払われて、彼らの不全なありのままの姿が露出したのだと、私は思うのだ。両論は似ているようでまるで違う。
 昔の社会は経済活動をも含んだ全体を人治的な素朴なヒューマニズムで覆っており、そのことは例えば機能不全の家庭に育ったあきらかに未熟な人々にも居場所を鷹揚に与えている面があったと思われる。しかし、資本主義の進行により、経済合理性の追求がそのような前時代的ヒューマニズムを無駄なものとして労働現場等から取り去っていった。このある種の後退はその時点において社会内に影の領域を創造した。本来は失った代わりとなる明かりがなにか必要だったが、当面後回しにされざるをえない。そして、おそらくは前世紀の中葉あたりから、先進諸国では労働者のストレス障害や鬱病が社会問題として認識されるようになり始め、彼らへの福利厚生が企業や組織にとって当たり前になるごく最近まで、その影の領域に落ちたおびただしい犠牲者たちは黙殺されることとなった、のだと思う。


追記(2022/09/12):
 資本主義が、科学・医療技術の発展を伴い、人口増加に寄与したことは事実であろう。むしろ、昔なら死んでいたはずの「弱い子」を延命させたために問題が生じた可能性もある。このことは岡田尊司もどこかで書いていた気がする。
 いずれにせよ資本主義を害悪とみなす視点は単純すぎる。

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CIMG3592.jpg 加藤諦三の新し目の本(加藤諦三『愛されなかった時どう生きるか』PHP文庫)の図書館予約の順番が回ってきたので、このところわりと集中して読んでいたのだが、面白かったと言うべきか、単に考えさせられたと言うべきか、いずれにせよ出会えてよかったとは思った。
 「愛されないことを恐れるな」が著作最後の小見出し。愛されなかった現実に直面せよとのこと。本当の自分の発見?しかし、一般的な意味での愛することの機能不全は、完全な無能力を意味しはしない。恩着せがましい贈与にも、親の愛が全く含まれていなかった可能性は低いだろう。
 少しだけ愛されたのだ。愛されなかったのではない。直視すべき現実があるとすればそのことだ。親離れするのに、現実に対応しない断念まで持つ必要はないはずだ。
 極論を言えば、妄想を伴うような重度のNPD親が主観的には子を愛していた場合、壊滅的に機能不全だったとしても愛はあったのだ。愛する対象が現実の子とはかけ離れたイメージで捉えられていたとしても、何かを育て愛そうとしていることは子に伝わる。そして、その何かがおそらく自分を指しているらしいことも。
 もちろん、加藤氏を「愛さなかった」親の現実検討能力の毀損が、そこまで重篤だったとは思えない。
 健常者の愛でも、それが他者同士のコミュニケーションである以上、現実的・結果的に有効でない行為を全く含まないことは考えにくい(ウィニコット等はむしろ多少のズレは歓迎している)。そして、彼らが「自分は親に愛された」と言う場合に、それらの有効ではなかった細かな行為を厳格に排除しているとは考えにくい。彼らは無効だったことも含めた全体を指して「自分は親に愛された」と認識しているのだ。
 子の情緒的・人格的な発達にあからさまな不具合が出て、その人生に何らかの具体的な破綻をもたらしている場合、常識的な意味で、彼らは「愛されなかった」と言い出しうるかもしれないが、概念のしきいや因果関係は依然として曖昧かつ相対的なものである。
 望んだ相互理解の可能性が諦め切れないために、愛情飢餓が肥大し、畢竟親の愛を全否定するような行為は、それ自体が幼稚なスプリッティングの表れである。メンタルヘルス系でよく言及される毒親との断絶も似ていて、相当以上の喪失を覚悟した上でやる最終手段であって、安易にやるべきことではない。当人の幼児性こそがそのような蛮勇を許しているのかもしれないからだ。

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 エーリッヒ・フロムの『生きるということ』を読んでるが、「持つ」と「ある」の対比を非常にノイジーなやりかたで論述している。しかし、彼が言う「持つ」人というのは、要は、(モノや他者に承認を求めるような)「偽りの自己」が優勢な人のことだと思う。愛着理論で言えば非安定型に多いかもしれない。エーリッヒ・フロムはドナルド・ウィニコットより4歳若いだけのようで、同時代の読者として前者を選んだ人は遠回りを強いられたことと思う。
 これまで私はエーリッヒ・フロムはたぶん『破壊』しか読んだことがなく、ヒトラーの精神分析パートが微妙というか荒唐無稽な感じで、あまり印象は良くなかった。エーリッヒ・フロムは加藤諦三の元ネタみたいなので今回図書館で借りてみている。


追記(2022/07/25):
 偽りの自己による「持つこと」は自己目的化された所有欲であり拡大欲である。それら病的な欲望を取り去るのに「持つこと」それ自体を取り去ってしまおうとするのは、多くの場合、行き過ぎた反動である。「持つこと」にも疎外されたものとそうでないものとがあり、健全な所有をも否定する態度になれば別の倒錯が含意されはじめる。俗世の全財産を捨てる仏教の出家者のような緊急避難的な行動を一般化するのにも似ている。

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 最近Shahida Arabi本の他にSam Vakninの"Malignant Self-love"も買ったのだが、Sam Vakninがハインツ・コフートを"Franz Kohut"と誤記していて、序盤からとても読む気が失せる。Kindleで検索すると本書内に3箇所この名前が出現している。コフートのミドルネームかなんかかと思ってネット検索するが何も出てこないし、おそらく単純な間違いだと思う。Franz Kafka?
 本書はKindle表記で697ページもある。うげぇ...。

Pathological narcissism was first described in detail by Freud in his essay "On Narcissism" (1914). Other major contributors to the study of narcissism are: Melanie Klein, Karen Horney, Franz Kohut, Otto Kernberg, Theodore Millon, Elsa Roningstam, J.G. Gunderson, and Robert Hare.

(赤字purplebaby)
Vaknin, Sam. Malignant Self-love: Narcissism Revisited (FULL TEXT, 10th edition, 2015) (p.2). Narcissus Publications. Kindle 版.
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Shahida Arabi.PNG 5月22日ころにAmazonで、Shahida Arabiの"Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself"を買ったのに付随して、Twitterで彼女のアカウントを新しいリストに入れたところ、数日後になぜかブロックされているのを発見した。リプライやリツイートなど、Shahida Arabiに対してリストに入れる以外の行動は一切していないので、原因がよくわからない。新たにリストを作る時に一瞬公開設定にしたため通知が行ってしまい、当人がそのリスト名を気に入らなかったたため起こったことかもしれない、と今は思ったりしている。
 いずれにせよ上掲の書物をのろのろ読み始めているのだが、ブロックされた件もあって、ナルシシストの被害者を自称する彼女自身が過剰な自己中心性を負っているような印象を持ち始めている。

Growing up with a narcissistic parent and witnessing narcissistic abuse was the precursor to the destructive, toxic relationships I had with narcissists - from friends to relationship partners to acquaintances to co-workers.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.18). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

I refocused on the people who validated me and wanted me to rise rather than fall.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.26). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

 私のブログ的には、ナルシシストの子供がナルシシストになるというのは全く不思議なことではないので(偽りの自己を発展させた親の機能不全により子もまた偽りの自己を発展させるというような機序になるだろうか)、それ自体としては特筆すべきでもないのだが、これは、比較的攻撃的(or反撃的)なタイプがNPD被害者グループで統率的な役割を担ったケースなのかもしれないと思い始めている。彼女はブログやネットコミュニティを媒介して支持を得ていったようで、彼女も引用しているPete WalkerのC-PTSD四分類を利用して説明するなら、余力のあるFight型がその思想のもとに互助グループ内の他の被害タイプをも説得し束ねていった、ようなイメージを思い描いている。
 追記予定。


追記(2022/06/24):
 Kindleでは他の読者がハイライトした箇所が表示されるのだが、以下の箇所では1915人もの読者がハイライトしている。

The narcissist does not feel empathy for others; he or she makes connections with other people for one purpose and one purpose only: narcissistic supply. Narcissistic supply is the attention and admiration of the people the narcissist collects as trophies. It is anything that gives the narcissist a "hit" of praise, or even an emotional reaction to their ploys. They need these sources of supply because they suffer from perpetual boredom, emotional shallowness and the inability to authentically and emotionally connect to others who do have empathy.

Arabi, Shahida. Becoming the Narcissist's Nightmare: How to Devalue and Discard the Narcissist While Supplying Yourself (p.51). SCW Archer Publishing. Kindle 版.

 著者が自分を被害者としてナルシシストを悪魔化している風情のある本書ではあるのだが、ここではナルシシストを共感というものがまったく欠如している存在として強調している。しかしこれは必ずしも正確ではない。DSM-5のSECTION IIIで紹介されている次元モデルのNPDにおける共感性の説明では以下のように書かれている。
3. Empathy: Impaired ability to recognize or identify with the feelings and needs of others; excessively attuned to reactions of others, but only if perceived as relevant to self;over- or underestimate of own effects on others.

DSM-5 (p.767)

 またハーバード大学医学部マクリーン病院のアリエル・バスキン・サマーズらは以下のように叙述している。
Across the three case studies, it is easy to focus on the difficulty these patients have connecting to others and the clear examples of their deficient displays of empathy. It seems hard to say that any of these individuals are "lacking empathy" or are even "unwilling" to engage in empathic processing; yet, each of these individuals are classic examples of pathological narcissism.

Arielle Baskin-Sommers et al. "Empathy in Narcissistic Personality Disorder: From Clinical and Empirical Perspectives" (p.10)

 NPDは相手が自分の延長と感じられる場合やそうすべき社会的責務や価値が伴うような場合に共感性を発揮する。要は共感を選別的にしかできない傾向があるのだ。彼らの狭く歪んでしまった共感性が、かろうじてその制約された領域には残存しているとも言える。深刻な先天障害のように人間的な共感性をすべて失ってしまっているわけではないのだ。彼らは心のない悪魔ではない。

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 エラン・ゴロムの"Unloved Again"は、去年、最終章(第七章)だけ逐語訳的にみっちり読んで、それ以外は目次を確認しながらかなりの流し読みみたいな感じだった。その心残りがあり、先月下旬辺りから逐語訳的に第一章からゆっくり読みなおし始めた。現在第三章に入っている。と言っても症例集的な第一章の終わりまでで全体の40%もあるので、去年既読の最終章とあわせれば量的に2/3近く読了した(このKindle本はページ表記がない)。
 気がついたことを追記していく予定。


追記(2022/04/18):
 ずっと不思議に思っていることに「子供は親から愛されたがる」という普遍的現象がある。このありふれたモチーフへの肯定的な言及はいくらでもあるに違いないが、それが破壊的結果をもたらす場合があることは、問題意識を持つ人以外にはあまり顧慮されないかもしれない。このモチーフを医療少年院に勤めていた岡田尊司も、また相互に関係ない、自己愛者を主題とするエラン・ゴロムも著作で繰り返す。子は、大人になっても、親から愛されようとして生きてゆく。それは、いい意味でも悪い意味でも人格のコアを形成している。自己愛的な親に「愛されよう」として、子は時に取り返しのつかない破壊的な選択をしてしまう。


追記2(2022/04/19):

Grown children seek the internal "parent's" love by following its advice, which may include acting and feeling inadequate the way their parent labeled them. The adults' feelings for the hurtful "parent" are often powerfully positive but also suspiciously full of longing. They have the longing of a starving person looking for something to eat. Their state of emotional need is connected to the love-emptiness of their childhood. Sometimes they claim to hate their parents but unconsciously seek their love.

(Golomb, Elan. Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction . iUniverse. Kindle 版. 位置No.1773)

A person has the potential for new attitudes and attractions but lacks understanding of the childhood trauma that leads to their repetition. Attempting not to feel the early pain is like placing a huge weight against the fulcrum of change. Change depends on becoming conscious of what hurt you and then making a different choice.

(Golomb, Elan. Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction . iUniverse. Kindle 版. 位置No.1815)

 結局、徹底操作(フロイト)的なものが魔法の杖との主張。そんなもので、特定の発達段階に一回的にしか形成されない愛着スタイルが基礎から変わるとは思えない。


追記3:(2022/05/07):
 6日に"Unloved Again"一応読了。

 エラン・ゴロム博士のロジックの大まかな建て付け。
1.大人になってからも続く(あるいは一生続くかもしれない)自己愛的な親からの影響を断ち切らなければならない
2.そのためには自己の歴史の、無意識下に隠された負の部分について、意識化しなければならない
3.本当の自己を回復させるにあたって、育った家族や社会の寄与は期待しえない
4.自然との触れ合いや、性的パートナーとの相互的なヒーリングに希望がある

 エラン・ゴロムの著作には、彼女の夫らしき人物は出てくるのだが、自分たちの子供の話は一切出てこない。機能不全の家庭に育った者同士が結婚した場合、無理に子供を持たない方がいい場合も多いのかもしれないが、回復の達成度としての印象は薄くなる。傷を負ったカップルによる相互ヒーリングがどれほどうまくいったとしても、そこから適切で現実的な養育能力が体得されることはありえないかもしれないが。
 人は、大人になっても、知らず親の影響下で物事を判断しており(主体がないという意味ではない)、あらかじめ無意識的に方向性のようなものが定められている。この刻み込まれた方向性が現実に対して適応的なら、実際に踏み出しても、当人は影響をことさら意識しないしする必要もない。その方向性ではうまく行かない、あるいは行きそうにもない時にこそ、意識化されることになる。
 なんとか心の安定を保つために、成熟を放棄するのもひとつの知恵ではあるだろうが、やむを得ない犠牲と言っていいかどうかはわからない。
 エラン・ゴロムは、実社会への適応というものを、必ずしも肯定的に見ていない。彼女にとって社会は窮屈で不自由で不自然な何かなのだ。私には、これが幼い誇大自己の温存のように思われてならなかった。社会から距離を取り、自分と似た傷を持つパートナーとの空想的自由に逃げ込むことは、本質的な治癒を意味しているだろうか。

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 いわゆる「変容性内在化」に関する丸田俊彦と和田秀樹による説明なのだが、コフートのセオリーの文脈としてはどっちもそれらしいと言えばそれらしいのだが、以下に示すように両者はかなり言ってることが違う。あるいは、総体として複雑な概念に対して、切り口が違うだけでどちらかが間違っているというわけではないということもありうる。ネット上のテキストでは丸田派が多いのだろうか。
 私が'The restoration of the self'を購入して読んだときは、コフート自身による明確な定義付けの箇所はなく、「変容性内在化」とは、母親のリアルなイメージを換骨奪胎して(ある程度都合よく抽象化して)子供が取り入れる、みたいな理解だったので、丸田側なのだろうか。
 初めに「変容性内在化」が説明された『自己の分析』は邦訳を図書館で借りて読んで、複雑な上に訳文に閉口したイメージ(今読むとまた違った印象が得られるかもしれないが)。しかもコフートはその後(双子転移の取り扱いを含め)生涯をかけて自説をゆっくり修正・整理していったはずなので、その加減もある。
 もともと簡潔な定義があるわけではないのなら、解釈の余地として、和田説もありうるのかもしれないが。

『コフート理論とその周辺』 丸田俊彦 p111
 Transmuting Internalization:変容性内在化
 Kohutの用語。理想化された自己-対象idealized self-objectが内在化されて精神的構造となる過程。われわれが口にする異種タンパク(たとえば牛肉)が体内で消化、同化されて血となり肉となるように、自己対象が内在化される過程において(自己-対象がそのままの形で内在化されるのではなく)変容をとげるところから、変容性内在化と呼ばれる。すなわち理想化された対象に対する幻滅(それは多くの場合理想化された対象に対する正しい現実的認識でもある)がわずかずつ進み、最適量のフラストレーションoptimal frustrationが持続すると、理想化された自己-対象へのlibido投資investmentが撤回され、非人格化された特定の機能が内在化されることになる。この過程が自我理想を生み、超自我に理想化を行う特性idealizing qualityを与えるため、内在化された自己評価調節機能は安定し、自己は心的緊張の調節装置となる。Kohutはこの変容性内在化が正常発達過程として起こるばかりでなく、精神分析の治療過程としても見られると主張する。
『〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析』 和田秀樹 p141-142
 (purplebaby注:フロイトの超自我に対して)一方、コフートのいう理想化自己対象とは、あくまでも外にあって自分の一部として体験される対象であり、心の中に取り込まれて完全に住み込むものではないのです。しかし理想化自己対象がそばにいなくても、その自己対象との関係がしっかりしたものであれば、ある程度は代わりとして心の中にいてくれます。ですから、ここではコフートは「変容性内在化」ということばを使っています。変容性とは完全には住み着かないという意味です。しかし、多少は内在化するので、自己対象がいつもそばにいなくても何とかやってはいけるのですが、あまり相手がそばにいないと、自己が不安定になったり、ばらばらになってしまうと考えます。あるいは非常に不安なときなどは、自己対象を求めてしまうというわけです。

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CIMG3463.jpg 偽りの自己をめぐってスターンの名前が出てきたので、以前から気になっていたこともあり、京都市図書館にあるものを借りて読んでいた。『乳児の対人世界<理論編・臨床編>』『母親になるということ』。読んでいる最中はあれこれ思うこともあったのだが、今日3冊めを読み終えて本は返却してきて、読後感が複雑すぎて軽率になにか言いたくないという感じが強い。
 批判対象とする人物の主張をスターンが誤解している面があるのではないかという危惧が終始あった。対象関係論が乳児の自他の未分状態を強調していて実際の観察された乳児に想定される自己感の兆候と矛盾すると言うが、対象関係論は完全に自他不分明な錯乱状態を乳児に想定しているわけではない。いわば自己の前駆体のようなものを、スターンのようには自己の中に含めないだけで、対象関係論者が、誰でも見ればわかる乳児の自己の兆候をすべて無視しているとすることは想定しづらい。ウィニコットが、乳児が自分の全能感を支え演出していたのが実は母親だったのだと気づく(脱錯覚)段階に注目するように、乳児に自己感があったとしてもそれは同時に自他の不分明さをいまだ含んでいる非現実的な自己なのである。したがって、現実には自己感と不分明さは必ずしも対立しておらず、むしろそれら自体が混じりあいながら併存していると思われる。
 ただ、スターン自体の印象が悪いわけでは全然ない。乳児の不分明さよりも自己(感)を主軸に発達の歴史を追ったほうが説明の仕方としてうまく整理がつく面があることは明らかで、伝統的な理論の中にそういう意味でのやや大きめの間隙が埋め込まれていたことは否めない。伝統的な理論は乳児ならではの不分明さに主軸を置くような傾向が確かにあり、そのことは発達論的な分析や観察のハードルを徒に上げた。スターンの思想は、分からないことより分かることから積み上げていくようなやり方で、実際主義的な清潔さがある。
 偽りの自己論に戻るが、ウィニコットは『本当の自己は、個人の精神機構がありさえすればあらわれてくるものであり、感覚運動系の活動の総和以上の意味はないのである。』(「情緒発達の精神分析理論」 p182)と述べている。スターンが述べる本当の自己は、否定された自己のことであり、感覚機構による私的自己とも分けて考えており、両人はほとんど根底から違うことを言っていると言っていいと私には思われた。
 あと、必ずしも外傷の時期にこだわらないスターンと現代的なトラウマ派との近親性も感じた。


追記(2021/10/14):
 なんと書名を誤記していたので訂正しました。「対人関係」→「対人世界」。私のIMEで「対人」と打つと「対人関係」と予測変換されて、そのまま決定して気付かなかったための事故でした。あしからず。

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 信頼すべき(?)Pete Walkerが著書内で勧めていたElan Golomb「Trapped in the Mirror」を今月23日に購入し少しずつ読み始めたのだが、個人的に非常に興味があるテーマ(自己愛)であるにもかかわらず、私の英語力とElan Golombのやや癖のある文体と他に日本語の書籍を読みたかったせいでのろのろとしか進めていない。
 「病的な」自己愛がいったいどこから生じるのかは重要な論点なのだが(自己愛そのものは誰にでもある)、Elan Golombは冒頭付近で親も病的なナルシシストでその非共感的な育児法が原因だと主張していて、彼女は後天的な意味での世代間転移を強く見ている論者なのかもしれない、と私はいまのところ思っている。今後の展開次第と言うか、まだ進捗が10%程度なのでどうとも言えない。
 コフートも非共感的な母親を出していたような気がする。怪我をした男の子の血が衣服に付着した兄/弟(無傷)の方だけを病院に連れて行った母親の事例を記述していたと思う。見捨てられた方が歪んだ形で誇大自己を発展させる。
 病的なナルシシストといえば、ウィニコットの「偽りの自己」論というのがあるのだが、それとの関係も気になる。最近邦訳(原書は2013年出版)で読んだスーザン・フォワードは「偽りの自己」論は時代遅れとして、脳血流のスキャン画像で説明しようとしていた。

 表面的に正気と狂気の境目を判断するだけなら、自己愛に限らず、現実検討能力の概念を援用するのがもっとも実用的な気がする。DSMなど専門家向けの様々な診断基準には一般人は深入りしないほうがいいかもしれない。あれは全体を知らないと対象領域そのものの位置づけができない。多分。

 本質と関係ないことだが、Elan Golombが引用している有名なマリー・アントワネットの「ケーキを食べればいいじゃない」はWikipediaによると当人の発言ではないようだ。


追記1(2021/03/01):
 うろ覚えだった箇所を訂正。
 コフートの事例は「自己の修復」内のM氏です。確かめると兄か弟かは不明だったので訂正。この出来事だけが原因なのではなく、母親の非共感性を象徴しているという扱いだと思います。


追記2(2021/03/05):
CIMG3345.jpg 自己愛関連の参考書のひとつとして読んだ、岡野憲一郎「自己愛的(ナル)な人たち」内で紹介されていた田房永子(漫画家)のプチ・ブームが私の中で始まっている。和書の多くを図書館に頼っているのだが、AMAZONの田房氏の著作に対するレビューも面白い。本来の読書の軸はあくまでElan Golombなのだけど、これのため速度は更に落ちている。
 私はNPDっぽい人を、便宜上、外弁慶型と内弁慶型に分けたりすることがあるのだが、田房氏の(著作内で描かれている)母親(像)は外弁慶的な面が比較的残っている人のような感じで、ある意味屈折の度合いが弱く、子供を破壊するような統制に発展しない分まだ救いがあるような印象も持った。社会的な挫折が運命づけられているとも言えるほぼすべてのナルシシストたちは、少なからず内弁慶的な面を持つようになると思うが、そちらのほうがより毒性が強いかもしれない。
 田房永子は、自分の母娘関係を描いたものが主要作品となり、漫画家としてそれ以外の分野への展開が可能かどうかわからない。商業的に厳しいかもしれない。
 自己愛的な母親に育てられるというのはCPTSDの典型的な成り立ちのひとつなのだが、やや他罰的な田房氏はPete WalkerのCPTSD4分類(Fight-Flight-Freeze-Fawn)でいうとFight型になるのだろうか?しかし今のところそこまで深刻な感じはしていない。図書館で予約している「キレる私をやめたい」を読んでから判断したい。


追記3(2021/03/16):
CIMG3351.jpg 図書館での予約の順番が回ってきて、田房永子の「キレる私をやめたい」を読んだが、彼女にはある程度の他罰傾向はあるのかもしれないが、ゲシュタルト・セラピーなるもので短期かつ劇的に改善したらしく、ある意味その程度だとも言えるのかもしれない。作中で紹介されているゲシュタルト・セラピーのコア概念である「今ここにいる」はまさにマインドフルネスそのもので(別に禅や森田療法から入っても似たようなことで)、特筆すべき何かという感じはしなかった。CPTSDとして捉えた場合、フラッシュバックがどこで起きるかみたいなことに注目したいわけだが、トリガーをめぐる過去や内面に関する詮索はあまりなく行動化の描写が優先される(漫画の性質上仕方ないのかも)感じでいまいちよくわからなかった。作中に登場する岡田法悦氏の「心-状況」の対立図式的な説明は、よくある共感性をめぐる議論とほとんど相似である。
 過干渉が親の中での何かに対する怯えから来ているのではないかとの田房氏の主張が印象に残った。何かとは、他者性みたいなことだろうか。


追記4(2021/03/23):
 上記いまいち感について自分なりに解説。
 Pete Walkerのやり方だと、フラッシュバックからの詮索で過去のトラウマ的状況を特定してそれにGrieving(嘆きや怒り)を付与しインナーチャイルドを再生するみたいな流れで、フラッシュバックがあるとむしろ問題となる過去をたぐり寄せるチャンスだくらいの捉え方だと思う。フロイトっぽく言えばそこから徹底操作が始まるわけだが、田房氏の自己否定的なストレスからの暴発の描写で物足りなく感じたのは、要はその手順が始まらなかったからだと思われる。しかし、他の著作を含み合わせれば、彼女は詮索以降の作業をすでに別の機会にやっていたかもしれない。個人の体験を一般化するときは警戒が必要だ。
 自己愛的な母親が子に自己否定を強いるのはよくあるけれど、Pete Walkerはその種のストレスに対する防衛のタイプとして4Fs(Fight-Flight-Freeze-Fawn)を設定している。この分類は微妙な面があり、4つが単なる同次元のバリエーションというわけではなく、Freeze型が他より重い症状のように叙述されていたりした。Fight型は自己愛的な表れとされるので、母親も自己愛的な場合、(病的)自己愛の転移が世代間で成就した恐れがある。


追記5(2021/04/09):

If a person treats his child as an extension of himself, the child does not feel like a person and the narcissistic problem passes on to the next generation.

Elan Golomb. Trapped in the Mirror (p.165). William Morrow. Kindle 版.

 私訳:『我が子を自分の延長として扱えば、その子は一人の人間としての感覚を持てず、自己愛の問題が次の世代へと受け継がれる。』

 Elanは繰り返し親から子への病的自己愛の伝染を主張する。
 「Trapped in the Mirror」はやや重いというか暗い雰囲気の作品である。彼女の比較的単純な主張に沿って、紙幅を圧倒するように彼女自身の親族を含めた非常に多くのネガティヴな事例や出来事が提示されるのだが、(恣意的に)切り取られたそれらは何らかのさらなる背景があるに違いなく、またそれぞれ明快な解決に至るわけでもないので、読むに伴ってどうしても暗い澱のようなものを印象に残す。
 久しぶりの再会でElanが長く連絡を取らなかったといって頬を叩き、彼女が大学を卒業したときにもなぜか叩くおば(父親の姉妹で本人は教育機会に恵まれなかったらしい)が異様な印象を残す。作中頻出する父親も奇妙な自己愛的な人で、Elanが親族ネットワーク上の病的自己愛の伝播に固執する理由が伝わってくる。

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 Amazonで一年以上前に買ったPete Walkerの「Complex PTSD: From Surviving to Thriving: A GUIDE AND MAP FOR RECOVERING FROM CHILDHOOD TRAUMA 」だが、概説にあたる第一部(全体の前1/3まで)はすぐに読んでかなりいい本だとは思ったものの、構成的に第二部が同趣旨の掘り下げだということで、なんとなく訝って長いことうっちゃっていた。
 去年末から今年1月末あたりまでの読書の仏教ブームが頓挫したような感じになったため、それを補うような感じで本書の続きの第二部をそろそろと読み進め始めたのだが、思いのほかというか、読み始めると極めて面白く一日10ページ前後をほぼコンスタントに読み進めて昨日の20日には全335ページを読了してしまった。
 Pete Walkerも本文中に何度か言っていることだが、CPTSDと愛着障害は内容として双方がかなりオーバーラップしている。私としては、これに旧来の対象関係論の一部を加えて、それらは全てほぼ同じことを問題にしていると言っていいのではないかと思ったりした。
 いったい何にそんなに感銘を受けたのかは、個人的な事柄とつながるので詳述するつもりはないが、どこかの出版社がぜひ邦訳を出すべきだ。というか、本書は2013年の出版なのですでに邦訳が出ていないことがおかしい。
 ただ、ネックはいくつか予想はできる。日本でCPTSDの概念がこれまで全く広まっていなかったこと。Pete Walkerが医師ではないこと(彼は日本で言えば心理療法士にあたると思う)。もう一つは僅かではあるがキリスト教的な風情が漂っているということだ。例えば、

I want God's love, grace and blessing.
(p.314)
のような箇所での「神」は一般的な日本人が想定する多神教的な(あるいは自然信仰的な)神とは意味が違う。こういう箇所は訳しづらいか、直訳したとしても伝わらない。本書は大まかに心的断絶のためのテクニックを伝授している面があるので、内的な孤独に耐える決意をする個人と一神教による超越神という組み合わせは非常に相性がよくしっくり来る。例えばこの「神」を大黒様とかに読み替えると、たぶん意味をなさないだろう。
 しかしそれでも邦訳を出版すべきだと思う。Pete Walker自身がCPTSDであるとの前提で話が進んでおり、その上で彼が(心理療法士として)診ているクライエントの諸事例が交差する、CPTSDの生々しさが理解できるだろう。

 Pete Walkerの本を読み進めながら、この時間がずっと続けばいいと思うような感じがあった。しかし終わりは来てしまった。実社会の普通の人々はPete Walkerとはかけ離れた視座で行動し生きている。また、Pete Walker自体も本当は個別の読者のことなど知らないから、彼は読者各々にとっての理解者と言うより、一般論として問題を認識している人と表現したほうがいいかもしれない。無論、そういう人物がこの世界のどこかにいると思うだけで随分違うことだが、読書の魔法から醒めるとそこには荒涼とした現実が広がっている。

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