読書メモのブログ記事

1)自己と非自己を区別する
2)知覚と刺激の外的起源と内的起源を区別する
3)自己自身の情緒と行動と思考内容を普通の社会的規範から現実的に評価する

<カーンバーグ「内的世界と外的現実」(文化書房博文社)p20より>

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『毒になる親』 スーザン フォワード
 劇薬は、重病人に対して使うべきものである。
 本書が薦める親との訣別は、よくある思春期の自立の物語をただ遅れてやり直すのとは違う、より根底的な次元における悲しい別れである。それは、最初から親でも子でもなかったことを納得する作業なのであり、これからについても親でも子でもないという永久的な断念を持つことなのである。だから、独立した自我を持つ存在として親との関係を再構成するといった幸福な自立の過程などではなく、独立した自我を持つために親との関係をすべて断ち切ってしまうというある意味で短絡的な自立方法を、この本は主題としていることになる。
 私は読みながら、このような極端な方法が、親の永続的過干渉やアルコール中毒、あるいは近親相姦といった誰が見ても明らかに深刻な問題を含んだ親子関係に対してならそれなりに有効に機能するような感じはしたが、果たしてどの程度の悲劇を背負った人から適用し始めるべきものかよく分からない気がした。あるいは著しく扶養者としての能力に欠けた親に対して持つべき断念の境界線というものをどこに設けるべきなのかよく分からない気がした。蚊に刺されて痒いからといってその腕を切り落とすバカもいまい。断念を持つべき基準というものを著者は具体的に示すべきだ。
 もうひとつ気になったのは、責任論に関してだ。本書では、大人になってからの自滅的な行為は自己の責任であり子供時代は全面的に庇護されるべき立場なのだから親の責任なのだという主張がなされていた。これもまたあまりに単純な分け方で違和感を持った。過去と現在の関係は因果関係そのものである。近親相姦経験者が大人になって鬱病になり自傷行為を繰り返したとして、それがまったく本人の責任ではないとは無論思わないが、元となる悲劇が存しなければ鬱病にもならなかったであろうに、著者には自由意志に対する過信があるのではないかと思えてならなかった。一般論として、自傷行為を回避する大人なりの知恵というものは確かにあるべきだが、それも万能なものなどあるはずがなく、こういった制約的な局面で人間の意志力を過大評価するのは木を見て森を見ない態度だと思う。もとより意志を超えた負の力に彼らは苦しんでいるのだ。
 本書を通読して印象深かったのは、決定論と自由意志論の昔ながらの対立が非常に生々しい形でここに表出しているということだ。言うまでもなく、この対立に統一を与えることは誰にとっても簡単なものではない。もしも完全に決定論に立つなら、「毒になる親」の行為も大過去により決定されているはずで、ある意味で彼らの責任を問うことそれ自体が空しい所業に他ならないとなるかもしれない。完全な自由意志論に立つことは困難だと思うが、大幅なる意志の自由を認める立場なら、人は何につけ大体は「そうでない」選択をなしえることになる。これが「責任」の根拠ともなる。しかし、本書に示される現実的な人間関係を前に、どちらの立場がより正しいのか私には判断がつかない。あるいは両者を折衷するとしてどのような割合で折衷するのが正しいのかも分からない。

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『刑法 第5版』 板倉 宏
 分かり易い表現による丁寧な解説の刑法入門書で、かなりお勧めです。このところずっとこれを読み続けていました。より深い議論は個別の専門書に譲るとしても、法学初心者が最初に刑法を学ぶ場合に特別な知識を前提としなくても地道に読んでいけば刑法全体の枠組みを一通り理解できるようになる本だと思います。
 これまで読んできた幾つかの法学の本と違い、冗語の蔓延やでたらめに打たれた句読点、修飾語と被修飾語の摩訶不思議な位置関係等にも苦しめられることなく、そのまま普通の日本語として読むことが出来る本でした。当たり前ですが、日本語が不自由でない法学者もいるのですね。良書。

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 このところ少し続けて法律の本を読んでいるわけだが、自分の力量にあった参考書を探し出すというのはやはりなかなか骨が折れることのようだ。民法基本判例集は読んで字のごとく判例集そのままの内容であり、解説はそう親切ではなくカタカナ表記の古い判例も読み辛かった。新会社法の方は巻末の改正点一覧を別途スキャンしておいたが、全般に今の私のレベルではそう役にも立たない感じ。畢竟、飛ばし読み、拾い読み。

・『民法基本判例集 第2版』 遠藤 浩 (編集), 川井 健 (編集)
『一問一答 新・会社法』 相澤 哲

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『文体練習』 レーモン クノー
 面白かったし、なんというか癒されもしたが、内容としては文学的な意味での「文体」と言うよりもただ文章の型のバリエーションを追っている感じで、半分くらいは純然たる言葉遊びの文例でしかない。語彙選択や語順、あるいは物語の展開の仕方にまつわる作文術の秘蹟の伝授を期待すると肩透かしの感もあろうかと思う。
 しかし当たり前のことを敢えてつぶさに再確認してゆくことで得られる安寧の感覚というものもあろうが、この本の読後感にもその種の心地よさを認めることが出来ると思う。

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 何なのだろう。さほど金にならない書籍執筆には労力を掛けたくないということであろうか、それとも元々国語能力が低いのか、あるいは法学を勉強しているうちにその能力を失っていくといもいうのであろうか。法律系の資格予備校が出版している参考書類に比べてもかなり質が低い。
 
『日本国憲法 第3版』 松井茂記
 主に大学の法学部生のための教科書として書かれてあるらしいのだが、これ以上律儀に読み進めるのは時間の無駄であると思い、半分ほどで諦める。
 以下理由。
・説明省略の不自然な濃淡
・直接に関係する修飾語と被修飾語の距離を短くしようとする作文上の基本的な配慮が希薄
・複数の文に分けた方が分かりやすいのに一文につなげて無駄に長くする
・冗語の非常識な多さ
・時に読点を多用しすぎて文意が不明になる
・全体に漂うやっつけ仕事的な雰囲気

『現代の法学入門』 山上 賢一
 まったくの入門書ということで、上の本よりはまだ読みやすかったが、最後の二章くらいに破綻した文章が多いと思ったら、山上賢一氏自身の担当章だった。

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『自明性の喪失―分裂病の現象学』 W.ブランケンブルク

「だれでも、どうふるまうか知っているはずです。だれもが道筋を、考え方をもっています。動作とか人間らしさとか対人関係とか、そこにはすべてルールがあって、だれもがそれを守っているのです。でも私にはそのルールがまだはっきりとわからないのです。私には基本が欠けていたのです。だからうまくいかなかったのです。ものごとはひとつひとつ積み重ねていくものなのですから。」(P131)

 精神分裂病(現在の呼び名は統合失調症)と聞けば、わが国でのニューアカデミズムブームの時に浅田彰がベイトソンのダブルバインド仮説を大々的に取り上げていたのを思い出す人がいるかもしれない。私はそれより世代が少し後なのだが、ダブルバインド仮説に触れたのは浅田氏の何らかの著書がほぼ初めてということだったと思う。しかし、あんまり説得されなかった。その後ご本尊と言うべきかベイトソンの『精神の生態学』も読んだが、アルコール中毒患者や国によるジェスチャーの違いなどの話は面白かったけれど、ダブルバインド仮説についてはやはり説得されなかった。むしろこの仮説には精神分裂病に対する何か本質的な説明が欠けているように思われた。その後たまたま古本屋で見つけた『精神分裂病と家族』という古典を二束三文で買い、似たものとして"Pseudomutuality"仮説の存在も知ったが、これまたピンとこない感じだった。いずれにせよ当時既存の心因説は、私としてはよく分からないままに、今日どれも時代遅れになってしまっているようだ。
 この何日か、ブランケンブルクの『自明性の喪失』を読んでいて、この本は大学時代に大学図書館で一度は手に取ったということを思い出した。同時に当時本の内容が殆ど理解できず投げ出したことも思い出した。ブランケンブルクの精神医学者としての理論的立場が難解と言われる現存在分析にあったことが大きく影響していたと思う。自分として何がましになったのか不明だが今回は何とかかんとか読み果せた。
 敢えて症状の乏しい寡症状性分裂病を研究することによって、むしろ精神分裂病の本質としての「基礎障碍」の領域に迫ろうとすることに著者のエネルギーは割かれている。症例としてはアンネ・ラウのケース一つだけが引かれている。現象学における世界存在に対するエポケー手法の援用によって、精神分裂病者の「この世界に根を下ろしていない感じ」に迫ろうという試みが、本書全体において梃子のような役割を果たしている。
 ところで私は読みながら、現存在分析的手法というものにかなりの違和感を覚えた。まず超越論的自我というものが非常に怪しい。無論方法的懐疑のように、真実に迫るために敢えて採用された方便ではあるとしても、そのような方法を採ること自体の是非が十分問われていないように思う。だから倒錯としての超越論的自我ということを思わないでもなかった。幾ら「方法」であることを強調しても、「この世界の外部」を想定することに付きまとうかもしれない幼時に失われた全能感を機軸とする観察者自身の未熟性の包含というものが疑われる。「この世界」に外部があるかどうかは未定である。従って、エポケーは、そう思えば勝手に出来るとしても、それを方法として固定化してしまうことは不当な特権を自己に与える行為かもしれないのだ。世界に対する判断を留保するという行為が人間の「恣意の聖域」に属するように思い過ごしがちであることから来る自己欺瞞であるように思う。実際は聖域などなくそれも予め「世界」の一部であるはずだ。
 現象学そのものを敵に回すつもりはないし私の不勉強によるところも多々あろうが、現在哲学そのものの終焉が叫ばれる理由として、この種の長年の澱みたいな哲学側の欺瞞が暴露されたということもあるのではないだろうか。しかし、このことをここで深追いしても仕方がない。
 本書では遺伝子的要因と環境要因を巡る諸説が示唆されてはいるが、必ずしも分裂病の原因面に対し深く焦点が当てられてはいない。私は読み進めながらベイトソンのダブルバインド仮説がなぜ駄目なのかを自分なりに言語化しようとあれこれ考えていた。思い付いたのは例えば以下のようなことだ。
 分裂病者の壊滅的なまでに脆い自我というものが、おそらくは分離個体化から思春期の周辺で形作られるものだとするなら、子供の自我に恐怖するような親が悪意なく長い時間を掛けてその芽を摘み採り続ける異常な環境において成立するかもしれない。無論子供の側が遺伝子異常を含めた先天的な傾向によって自我の成熟を一方的に放棄するような場合も想定しうるわけだが、今は横に置き敢えて環境因に絞って考える。つまりベイトソンが間違ったのだとすれば、「親の側が表面では相手に自立を望みながら本心では強くそれを否認している」というような理解の仕方をしてしまったからではないか。おそらく実態としてそうではないのだ。最初から自我のみを破壊の標的とするなら、むしろそれ以外の事柄に関して相手を否定する理由は特にない。自我を持たずにはよく自立・成熟しえないと思うのは健康な心の持ち主であるが、彼らはそうではないのだ。あるいはその矛盾の辻褄を自分があわせる必要はないと考えているのかもしれない。いずれにせよ自我を持たずに満足して生きるわが子こそが望ましい、と。
 例えば人生上に激しい欲求不満を抱えるタイプの親が、子供に対する期待とは名ばかりに、子を媒質として世界全体を自分の中に取り込みたいと妄想するかもしれない。そのためには子は独自の自我を持たない操り人形のような存在でなければならない。あるいは、親子関係において闘争的だが弱い自我をしか持たない親が子が普通レベルの自我を持つことにも恐怖するということもあるかもしれない。また子を扶養することがあまりに重荷で、自分の殺意を子の自我に投影して見出すケースもあるかもしれない。子に自我があってもらっては困るケースは色々想像できる。
 確かにこれらによって必然的にダブルバインド状況は生まれるかもしれない。しかしながら、ある人間関係のうちにいびつな人間把握がもたらされれば同じくまったく容易にダブルバインド状況は発生しうる。これは私が最初にダブルバインド仮説に触れた時に抱いた疑念そのものでもあるが、「異なる次元間での矛盾するメッセージによる混乱」などというありふれた条件だけで人があそこまで荒廃するとは到底思えない。自我を破壊するプロセスを巡って幾つかの局面がダブルバインドに該当するように見えたとしても、そんなことは少しも本質的なことではない。本質的なことはこの種の親が一貫して明確に子の自我を破壊しようとしているということに他ならないと思う。
 ただしそれは親が自覚的な悪人であることを必ずしも意味しない。
 子の自我を破壊する方法とはどのようなものなのだろう。まず人は自他の区別が曖昧な時期からそれがはっきりして精神的に自立したと言えるまでの期間、少しずつ自我を補強しながら世界を自分にとっての世界として再構成してゆくものだと思う。それはある種地道な自と他を峻別するマーキング作業のようなものではないだろうか。その過程において本来「自」として区別されるべきものが悉く「他」とされた場合人はどのような成長を遂げるか、というのが統合失調症(旧称精神分裂病)のモチーフではないかと私は思うのだ。方法としては結局は何らかの脅迫によって「自」を「他」と信じ込まされるのだろうが、それが全く虚偽の認識であるかどうかというのは、主体のありかの問題として、確かに非常に微妙な面があるのだと思う。例えば、プラモデルを完成させるなど子供なりの達成を見てその経験の主体が子供本人にあるとするのがおそらくは普通だ。しかし生み育てプラモデルを選び買い与え作ることを許したのは親だ。もっと極端なことを言えば、「今は殺さずプラモデルを作らせている」と表現すれば分かりやすいだろう。家庭内で絶対的強者としての親は子をいつでもどうすることも出来る。その生殺与奪権が誰に帰属しているかという問いが絶え間なく前提とされ続けるとき、子は「自」とすべきことが皆無に近いことを感じ取るのだと思う。抜け殻のような自我に借り物の現実が対応したような子供が出来上がる。思春期以降に訪れる社会的な意味での自立の時期において、人は実際に自分の判断を行使して自分の人生を生き始めるだろう。しかしある青年はその時、他の青年達とは違って、自分には自分と呼べるものが何もないことに気付く。

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 フロアの閲覧席がかなり空いていたのが印象的だった。借りたのは中央図書館に無かった一冊のみ。
『自明性の喪失―分裂病の現象学』 W.ブランケンブルク

 2週間あるので、ゆっくり読みたい。
 大江健三郎が雑誌『世界』の6月号に書いている記事が読みたいのだけれど、図書館の雑誌コーナーに置いてあるやつは嫌だなあ。雑誌そのものというより、図書館側が装着させている使い回しのカバーの方こそが嫌な訳だけど、見るからに猛烈に不潔な感じなのであり基本的に手に触れたくない。読みたいのは大江氏の記事だけだというのに買ってしまうのももったいない。本屋で立ち読もうかな。

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『電波利権』 池田 信夫
 政官業の腐敗構造に鋭く迫るとまでは行かず、基本的な事柄をなぞったような内容でやや物足りなかった。所詮素人なので基本を論じてもらっても一向に構わないのではあるけれども、自分としては地上波マスコミに具わってきたと思われる「古い問題」の方にどちらかと言うと興味があった。なぜ、電波帯域の空いていた時代に新規参入も入れ替えも全く行われず、電波利用料はただ同然の安さで、放送免許の保有資格に基づくような行政罰が史上一度も発動されたことがないのか、またなぜにケーブルテレビが発達しなかったのか、等々を知りたかったのだ。あるいは政治権力や大手広告代理店による支配or相互支配について。おそらくこちらの方にこそより本質的で深い闇があると思うのだが本書では殆ど述べられていない。地デジや携帯電話との帯域確保争いの喧騒に押し流され、つまりは新時代の到来とともに、古き澱は人知れず罪を問われることもなくただ消え去って行くのだろうか。そうであってはいけないような気がするのだが。

『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』 有馬 哲夫
『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』 関岡 英之
 上記二冊はよくある陰謀論というほどには認識や論理が飛躍してもいないのだが、どちらもアメリカの日本支配について書かれた本であり、それ以上さほど強い印象もなかった。有馬氏の方は史料的性格が強いと思う。関岡氏の著書はなんか当たり前のことに対して殊更に驚いている感じが付きまとって、その点に関しては、かなり違和感があった。まるで日本が敗戦国だということを知らない人が書いたみたいだ。内政干渉はとんでもないと言うが、年次改革要望書なんぞより現日本国憲法がすでにアメリカによる内政干渉の最大の賜物の一ではないのか。日本が現在もアメリカの半属国であるという事実に大袈裟に驚いて見せることで日本国民に独立主権国家としての地位を回復させるよう促したいのかもしれないが、日本側にどれだけイニシアティヴがあるのか非常に疑わしく、誰かが声高に叫んだところでなるようにしかならない問題だと私は思う。

『良心をもたない人たち―25人に1人という恐怖』 マーサ スタウト
 「サイコパス、譫妄なき狂気」というわけだが、思いのほか面白かった。
 サイコパスにとって、良心というものはどこまでも彼らの奇妙なゲームの一環に於いて演じられる対象でしかなく、またすべての他人は「もの」でしかない。非常識なほどの犠牲を払ってでもゲームに「勝ちたい」人格なのだが、この「勝つ」という概念自体が普通の人とずれている。すなわちすぐばれる嘘でもその一時に於いて他人を出し抜けられれば絶対的な勝ちなのであり、自分の惨めさを訴え同情を引くことに成功するのもなぜか勝ちなのだ。もしかしたら他人を良心の重荷に括り付けることが彼らにとっての勝利なのかもしれない。
 ある種の麻痺者が痛点を持たないように、サイコパスは良心というものを感じ取る力がない。そのことが社会内である種の自由さと言うか逆説的な優越性として作用する場合があり、彼ら自身もその点において倒錯した自負心を抱いている。ただし本来、生産的な能力を背景とするような優越性ではないため、何か外的な刺激に身を晒すときにだけ現れる一瞬の火花のようなものである。そのためかサイコパスはいつでも自ら外的刺激を求める傾向を持つ。
 著者はどちらかと言うと遺伝子異常にこの障害の主たる原因があると思っているようだ。
 超自我と良心は必ずしもイコールではないが、やや広く観て超自我に類縁するものなのだとすれば、それが健全に機能しないのは、例えば分離個体化の周辺で母親が父親を根底的に否定していたからかもしれないと思う。そのためちゃんと父性的愛情を伴って「禁止」や「抑制」がもたらされたとしても、母親が遮断してしまい、内部に取り込めなかったのではないか。乳児期の子供に対してちぐはぐな対応しかしない母親への不信が基底的な人間不信に及んでいるような場合、あるいは父親が何らかの内的事情で父性的愛情を発揮できないケースに於いてもまた子は自らの内に正しい超自我を育めない様に思う。

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 今回は下記四冊。
『電波利権』 池田 信夫
『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』 有馬 哲夫
『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』 関岡 英之
『良心をもたない人たち―25人に1人という恐怖』 マーサ スタウト

 放送免許関連には(腐敗の温床として)前から興味があってネット上で調べたりしていたが、なかなか限界があるようなので、要点をまとめていそうな本を借りてみた。あとは独立国家のようなそうでないような戦後日本についての著書二冊と、サイコパス(≒反社会性人格障害)に関する本。ちょっと疑わしい人物がネット上にいて気なっていて、入門書となるような本を読んでみたかった。逆に疑いが晴れるということになるかもしれないが、反社会性人格障害と演技性人格障害はクラスタBの中で一対のものとなっているはずで、少なくともそのどちらかには該当するのではないかと考えている。言動のあまりの偏り方に『一体この人は何なのだろう』と思う人はいるものだが、これでもやもやが無くなればいい。

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