読書メモのブログ記事

・『いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法』 デビッド・D.バーンズ

 鬱病に対する認知療法に関して述べられたやや厚めの邦訳一般書なのだが、原著は出版当時にベストセラーとなっただけでなく世界で長く読み継がれているある程度評価の定まった作品であるようだ。紹介される認知療法は先に私が入門書で読んだアドラーのやり方に酷似している感じがして、ネットで検索してみると、認知療法自体の源流には正統的にアドラー派がある旨の記述があり、そのことは今回初めて知った。そうでなくともバーンズはアドラーの名を先達として文中に出してもおり、私としては、アドラーを軽く見ていた面があったとやや反省しないでもなかった。少なくとも重度でない鬱病に対しては、認知療法は薬物による治療よりも効果的であることがほぼ実証されている。
 認知療法は鬱病者に特徴的に共通する思考や認識のゆがみを矯正することによって症状をなくそうとするわけだが、バーンズが挙げるゆがみとは具体的には例えば以下のようなものだ。

(1)全か無か思考[all-or-nothing thinking]
(2)一般化のしすぎ[overgeneralization]
(3)心のフィルター[mental filter]
(4)マイナス化思考[disqualifying the positive]
(5)結論の飛躍[jumping to conclusions]
 ①心の読みすぎ[mind reading]
 ②先読みの誤り[the fortune teller error]
(6)拡大解釈と過小評価[magnification and minimization]
(7)感情的決めつけ[emotional reasoning]
(8)すべき思考[should statement]
(9)レッテル貼り[labeling and mislabeling]
(10)個人化[personalization]
 あまり内容紹介に腐心するつもりはないが、要はこれらのゆがみ(ちょっと和訳が微妙だが)を是正することが治療の近い目的となる。ゆがみの「(1)全か無か思考」はそれ以外の項目の基底をなしてもいると思うのだが、これはつまり対象関係論におけるsplittingのことであり、対象関係論の知見からそう容易には直らない場合が多々あるのではないかと思われるのだが。中庸やほどほどということが彼らにとっては心底からの苦痛でしかないのだから。それ以外本書全般に言えることだが、カラム法などにより治療が成功した例しか紹介されていないので、都合の良いところだけ並べたような不自然さが残る。
 また鬱病の原因面については鬱病者が持つ「暗黙の仮定」を因子として幾つか挙げている。

(1)誰かに非難されると、自分がどこか間違っているような気がして惨めに感じる。
(2)本当に完璧な人であれば愛されるはずである。もしひとりぼっちだったとしたら、寂しく惨めになる覚悟を決めなくては。
(3)人間としての価値は、自分の成し遂げてきたことに比例する。
(4)もし完全に行わなかったら、感じなかったら、あるいは振る舞わなかったら、私は失敗したことになる。
 バーンズはこれら鬱病者に特徴的な暗黙の仮定を非論理的なものだとして強く退ける。例えば、誰にも愛されていなくても幸福と言えないわけではないとか、仕事の実績は人間の価値とはまったく関係ないとか主張する。このような主張は一般常識あるいは通念に対する偏頗なアンチテーゼの提出であり、以前私が別の認知療法に関する本を読んだ時に「何だか詭弁に近い」と思った所以でもあるのだが、微妙なところだと改めて思わないではいられなかった。例えば、詐欺会社で働く社員がどれだけ「有能」だとしても人としての価値は高くないだろうということを理由に(バーンズ自身はヒトラーを例示しているが)、どのような仕事の実績も人間の価値とは直接には関係がないと結論付けるのはほぼ詭弁であるように私には思える。社会に寄与する一般的な仕事上で何かすばらしい業績を挙げることは、常識的な意味において、共通して尊敬されるべきことであり万人が求める状態であるに変わりはないはずだ。また他人から愛情や好意を受けることが殆ど普遍的な価値であるということが、一人でアイスクリームを食べたりすることの卑近な幸福感を引き合いに出すことにより、同次元で相対化されるものではないはずだ。同じく愛情関係に付随するしがらみの面倒を過度に強調することも作為的だ。もし自分の主張に反対するならそれらが絶対に価値であり幸福であることを厳密に証明せよ、とバーンズは言うが、これは悪魔の証明の要請に近い。
 まあ、それら普遍的だと信じられている価値や幸福を「絶対視して」追わないような生き方に何とか軟着陸させるために、敢えて詭弁・強弁を弄していると好意的に解釈すればそう出来るかもしれない。バーンズ自身の表現も揺れている部分があると思う。
 私は色々疑念を持ちながらも、同時に幾つか別のことを考えていた。そのうちの一つは「自我の芯」とでも言うべき観念についてのものだ。社会において普遍的な価値観だとしても、それらを過剰にも「絶対視」「完全視」すれば、自らががんじがらめになってしまうのは必然だ。あるいはそれらを失った時に「この世のすべて」を失ったように思い過ごしてしまうのは必然だ。自我の芯は、どのような社会的条件にも支配されないで、生命本来のエネルギーを諸活動にそのまま供給し続け得る基礎領域だ。善悪の彼岸にあって、常に単独者としての最低限の活動を保障する。
 私は世俗的な価値観の普遍性を安易に否定すべきではないと思う。全体主義のような価値の押しつけが社会の側からあるとしたら行き過ぎだと思うが、それがある程度普遍的な価値であるというのは群盲による何かの思い違いではない。科学的に証明し得ないとしても経験的・歴史的に知られた普遍的テーゼなのだ。問題はそれとの共存の仕方にこそあるはずだ。世俗的な価値によって侵されざる領域、自我の芯を持つことだ。
 もう一つ書いておこうと思うのは、ネット上で散見される「鬱=甘え」論の正体に関してだ。もちろんこれは鬱がそのまま甘えという意味ではないだろう。鬱とは気分が落ち込むことなのだから。おおよそ鬱の原因が甘えだという主張なのだろうと思う。
 例えば、似たような悲劇が諸個人に降りかかって、しばらくしたならその悲しみから立ち直る人物と、落ち込んだ状態を不必要にぐずぐず長引かせる人物がいるとする。前者を健全かつ自立的で、後者を当人には過分な幻想に固執する甘えた人物だと短絡する観察者がありうる。だが、外形的に後者に似ているかもしれない鬱病者は、先述のように人生の早期から体に染みこんだ全か無か思考(=splitting)によって世界を把握しているために、元々常に気が晴れることがないのであり、同じ理由で特定の悲劇に対するリアクションも抑鬱や無気力が過剰に重くなりその期間も長引くことにもなっているのだ。また少なくともメランコリー親和型の場合、自分だけで苦悩を処理しようとする傾向が共通してあるはずで他人に頼ろうとすることなど普通よりむしろ少ないはずだ。仮に気分が憂鬱だと周囲に表明したとしても、殆どは単に自分の現状を説明しているだけであり、当人としては特に弱音を吐いているわけでも助けを求めているわけでもないと考えられる。ただし、内的に危急の状態にあるか、他の人格障害に伴う抑鬱が鬱病にまで発展したような場合、投薬によって不安定になっているような場合、自己に積極的にストレスを与える攻撃者が存在するような場合には、他者に対して単なる説明ではない何らかの意思表示がなされる場合があるかもしれない。憂鬱だと言われれば周囲は心配してみせるのが日本社会の建前であって、往々にして、表明は真剣さを欠いたまたは過分なSOS(=甘え)として映り誤解と反感を買うことがあるかもしれない。
 鬱病者は、元々の認知の仕方や感受性のあり方が普通と違うわけで、それにより妥当なリアクションが出来ないことが病の本質なのである。従って、鬱病でない人は鬱病者の苦悩に原理的に共感し得ず、不適切か不自然な苦悩にしか映らない。あるいは苦悩そのものがあるのかどうかも甚だ疑わしい(演技ではないか等)ということになりかねない。
 この、自分と基本的な素地が異なったタイプが世の中にいるということが想定できないタイプがまた別にある。自分の無知や有限性を認められないタイプと言い換えても良いが、自己愛人格などがそうである。加えてネガティヴな対象を積極的に排除したがる傾向もあると思うので、自己愛人格は鬱病者に吸い寄せられるようにして攻撃することになるだろう。

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 岩波文庫でカントの『実践理性批判』を読んでいたらあまりにも何を言っているのか分からない箇所があったので、ネット上にある英訳テキストと比較した。本来原語のドイツ語で比較するのがいいに決まってるのだが、私はドイツ語が得意でないので、次善の策として英訳で。一例として、以下に波多野・宮本・篠田訳による岩波文庫『実践理性批判』第一部第一篇第三章の冒頭付近の一文(p152)を挙げる。

「もし意志規定が、道徳法則に適っていても、それが感情を介してだけ――その感情がどのようなものであるにせよ、――行われるならば、従って〔道徳的〕法則のために行われるのではないとすれば、その行為はなるほど適法性(Legalität)をもちはするだろうが、しかし道徳性(Moralität)をもちはしないだろう、――尤も道徳法則が、意志を〔客観的に〕規定する十分な根拠となるためには、やはり媒介者としての感情が前提されなければならないのである。」(岩波文庫)
 これを初めて読んで何を言わんとしているのか即座に分かる人はかなり変わった人だと思うのだが、グーテンベルク内の英訳E-textの当該部分がこれ。
"If the determination of the will takes place in conformity indeed to the moral law, but only by means of a feeling, no matter of what kind, which has to be presupposed in order that the law may be sufficient to determine the will, and therefore not for the sake of the law, then the action will possess legality, but not morality."(英訳文)
 で、この英文に基づく私の拙訳を以下に。
「もし意志の決定が道徳規範に実際に適合して起こるとしても、それがどんな種類であるかに拘わらず、感情によってのみなされ、つまりは規範が意志を決定するのに十分なものでありうるために感情が前提とされる必要があるなら(それゆえ規範のためのものではないなら)、その時は行動は合法性を持つが道徳性は持たないだろう。」(私訳)
 しかしこうしてしまうと、表現の分かり易さという次元を超えて、意味そのものが岩波文庫訳とは違ってきてしまう。端的に言えば、文庫訳ではより十全な道徳法則のために結局は感情が必要であるとなっているように思うが、英訳文を元に"If"から"then"の直前までを一体的な条件節とする私の訳の理解だと感情の寄与はない方がいいものとなる。岩波文庫版訳者の波多野精一は「西田幾多郎とならぶ京都学派の立役者」だそうで、こちらとしてはネットの英訳(と言ってもE-textの英訳者もそれなりに著名な学者であるようだが)を和訳してみただけでは未だ心許なく、どっちつかずのままで欲求不満が募った。で、今日の午前借りていた視聴覚資料を図書館に返すついでに、カント全集第七巻の坂部・伊古田訳の実践理性批判を閲覧し気になる当該部分の訳をメモしてきた。それが以下。
「意志決定がたとえ道徳法則に適ってなされるとしても、それがどのような種類のものにせよ感情を媒介としてのみなされ、道徳法則が意志の十分な決定根拠となるために感情が前提されなければならないとなると、意志決定が法則のためになされるのではないということになるが、この場合には、行為は適法性を含むとしても、道徳性を含むことにはならないだろう。」(カント全集)
 どうやら坂部・伊古田訳は私の理解とそんなに遠くない。とりわけ「感情」の取り扱いについてほぼ同じと言って良いように思う。ただ、無論、これでもやもやが完全に収まったわけではない。本来ドイツ語原文で読まねば最終的に腑に落ちようはずがないのだ。訳をあちこち見て回る必要もドイツ語が流暢に読めれば初めからないわけで、まあこれは不徳の致すところとしか言いようがない。しかしドイツ語と英語の親和性からいって(英語の片方の親はゲルマン祖語である)、独文英訳は和訳に比すと格段に簡単な作業であるはずなのであり(翻訳そのものの歴史も長い)、訳を読むしかないのなら英訳の方が信用がおけるかもしれない。
 あと、僭越ながら岩波文庫の功罪ということを思わないでもなかった。今回取り上げたことは、岩波文庫の一般的な読者にとって起こりうる夥しい同様事例の内のほんの一例に過ぎないと強く思われる。岩波文庫が長きに亘り古今東西の古典の和訳を日本の人々に安く提供してきたことは紛れもない功の部分ではあるのだが、誤訳(本件がまだ誤訳と判明したわけではないとしても、他のケースに関しての指摘は多々あるようだ)や不必要に晦渋な表現をまるで標準的なものとして広く流通せしめてきたことは罪の部分かもしれない。無論罪より功の比率の方が大きいに決まっているけれど、日本語として破綻しているだけの訳文を何か難解な真理が表現されているに違いないとして、無知なる読者から時間と労力を奪い続けてきたことはそれなりに忌むべきことかもしれない。

以下参考としてグーテンベルクのドイツ語原文

"Geschieht die Willensbestimmung zwar gemäß dem moralischen Gesetze, aber nur vermittelst eines Gefühls, welcher Art es auch sei, das vorausgesetzt werden muß, damit jenes ein hinreichender Bestimmungsgrund des Willens werde, mithin nicht um des Gesetzes willen; so wird die Handlung zwar Legalität, aber nicht Moralität enthalten. "(原文)

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・『精神疾患は脳の病気か?―向精神薬の科学と虚構』 エリオット S.ヴァレンスタイン (著), 功刀 浩 (監修), 中塚 公子 (翻訳)

 本書は生化学的・薬学的な側面から見た現代精神医学の限界と問題点を述べた作品なのだが、原著は1998年に出版されており今となっては情報としてやや古くなっている部分もあるようだ。邦訳の出版年は2008年であり、故意に翻訳を遅らせているとは思いたくないが、ちょっと不自然なくらい時間が掛かっているような気もする。SSRIの副作用に関して『抗うつ薬の功罪―SSRI論争と訴訟』が有名だがこちらは2004年と2005年で一年程度しかタイムラグがない。
 鬱病におけるセロトニン仮説および統合失調症におけるドーパミン仮説の無根拠性、大手製薬会社と学会や学術誌や患者支援グループ等との癒着構造、その他について興味深い話が多く書かれている。この数十年に亘って躁鬱病に対し広く一般的に使われているリチウム剤(リーマス等)だが、これがなぜ効くのか科学的にはまだ分かってないらしい。
 以下、印象的だった箇所を少し引用。

「脳の活動に変化を与えうる化学物質は100以上あり、セロトニンはその一つにすぎないが、この物質がこれほど多くの特質の調整役であると考えるのが合理的なことか考えてみるべきであろう。それが正しいなら、脳の中に存在する他のすべての化学物質は何のためにあるのか。多くの人々がセロトニンのみが決定的な役割を担うという主張を確立したものと受け止めたいと願っているのは、複雑な問題に対して簡単な答えを人々が強く欲していることの証左である。」(p136)

「たとえば、統合失調症患者はドーパミン系の活性が過剰であるとか、うつ病患者はセロトニン濃度が低いといったたぐいの主張ならいくらでもある。このどちらの主張も、厳しい検証に耐えることができない。」(p290)

 やや専門的な内容だけれど十分に面白く、一定以上の予備知識のある人にはかなりお薦めという感じ。また、仮に予備知識が殆どなくても通読が困難というほどでもないかもしれない。

 監訳者の功刀浩氏のあとがきが巻末にあるのだが、菩薩や如来と監訳者が対話する小話が挿入されていてその内容にややぎょっとした。たとえば仏教の教義に関することとか教典の一部を引用とかではないのだ、この監訳者なる人物は創作とはいえ、菩薩や如来の名を借りて自己の医療態度の説明や原著への感想を語らせている(対話小話を書いているのは監訳者なのだから要はどちらもすべて当人の主張だ)。正直"Grandiose Self"という言葉も思い浮かばないではなく、非常に奇異だった。またこの監訳者は精神療法を殆どしないタイプの医師だと告白していて、このように生化学的な治療法の限界と問題点を縷々述べた書籍の後書きとしては唐突な感じがした。あるいは理論武装のために早くに「敵の主張」を取り入れようとしていただけなのではないかという疑念が、長すぎる翻訳のタイムラグのこともあり、湧いてこないでもなかった。いくつかの精神療法は医師の患者に対する真摯な共感を必要とする場合がある。日本の人格的に貧しい受験エリートの一部は、思春期以降の自他の区別の基盤を多様性の認識ではなく学歴等による差別意識によって発展させているケースが多くあることが想像され、精神療法患者への共感がその差別意識の浮上してくる地点で困難になることがあるかもしれない。その場合、その医師は精神療法をしないのではなくできないということになる。

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 『意志と表象としての世界』において、ショーペンハウアーは「(生きようとする)意志の否定」ということを自滅したキリストや禁欲・苦行を旨とする仏教あるいはインド哲学を賛美しながら主張している。外的な意志(=神の意志)と内的な意志(=自己の意志)の二項対立を隠然と維持しながら、彼は「確かにこれが自己の自由意志である」と言えるものを探しているように見える(*1)。自他の区別を取り払えなどの主張も、一切を外部としてひとまとめにして目覚めた自己のみを聖域化しようとする退行的意識でしかないだろう。身体を含めた外的な刺激の反応としてわき出てくる世俗的意欲を次々にそぎ落として行った末、最後に残る、自己にのみ帰属する純粋な意志が「意志否定の意志」だとしているのだと思う。この意志否定のプロセス(利他や禁欲や苦行のような)の極致において、外的な意志と純化された内的な意志が完全に一致し、神との合一感覚が得られるのだとされる。(だからよく言われるペシミズムの思想という評価とはかなり違う面があり、一般的な意味での自殺も明確に否定している)
 しかし私に言わせればそのような宗教的恍惚はまやかしである。外部と内的意志は予め一致しているというか地続きなのであり、それを認識するには特に何らの恍惚も事前手続きも信仰すら必要としない。無論、認識を持つことと証明を得ることは同義ではないが、恍惚となることで証明が達成されるわけでもまたない。証明を向こう岸とする先の海は誰にも渡り得ず、そこは単に「無知の知」のようなものだ。
 結局ショーペンハウアーのこのつまらない立論は、外的意志と内的意志が相互排除的な二項であるとする始点から演繹されたためにこうならざるを得なかったのだと思う。超越論的自我以外のものを不純物としてそぎ落とさなければ神と同質化しないため、こんな下らない作業が発生してしまうのだ。仏陀は愚かしい自己陶酔を避ける等のために苦行を否定しているのに、ショーペンハウアーはそこを全く理解していない。自己の意志を否定する意志が特別で純粋で神に近い「意志の聖域」だと思い込むからこそ、このような勘違いが出てくる。否定の意志など何ら特権的なものでも超越的なものでもない。

*1
「意志が自分の本質自体の認識に到達して、この認識の中からかの鎮静剤を獲得し、まさにそのことによってさまざまな動因の影響から脱却するようになったときにはじめて、意志の自由が出現するにいたるからである。」(第七十節より)
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『妄想はどのようにして立ち上がるか』 P. ガレティ (著), D. ヘムズレイ (著), 丹野 義彦 (翻訳)

 全体に明晰でよくまとまっているとは思うのだが、何か微妙な読後感の著作である。
 妄想における正常と異常の境界は明確な形で存在し得るのか。本書導入部には、そのような素朴且つ本質的な問いが打ち出され検討されている。健常者も早とちりをするし錯覚や誤った思い込みをするときもあるがそれは「妄想」なのか。科学のパラダイムも時代とともに変化する。(例えば過去において癩病の感染力に関してそれが非常に強いものであると長らく誤解されていたように)後に否定された過去の科学的パラダイムは「妄想」だったか。また病的な妄想が、完全な否定はしえないという意味において必ずしも「誤った信念」とは言い切れない場合がある等と主張する。その他、ヤスパース、マレン、オルトマンス、等の歴史的定義を引用してそれぞれその不備を訴え、異常-正常の二者択一的思考を捨てよと方向付けている。主張自体は特に目新しくはないかもしれないが、これはこれで分かりやすくまとまっていた。
 途中、「確証バイアス」や「潜在抑止効果」および「ブロッキング効果」等の話もあるのだが、語彙の紹介にとどめておく。

ビ-ズ玉課題の2つの瓶
ビーズ玉課題における指標の平均値と決定までの採取数
 後半の山場というか本書全体の核心ともなっているのが、ベイズ統計学の応用としての「確率推論課題」である。と書くとしかつめらしいが、何のことはないビーズ玉を利用した簡易な実験のことなのだが(二つの瓶からビーズをそれぞれある順に取り出してゆき、どちらの瓶から取り出しているか当てさせる)、ここから興味深い結果が引き出されている。つまり、妄想を持つ統合失調症者は「結論への性急な飛躍(jumping to conclusion)」の特徴を示し、統合失調症とは別の疾病単位である妄想性障害者にも似たような形で「結論への性急な飛躍」の特徴が見られると言うのである。このことにより著者は症状としての妄想が「結論への性急な飛躍」と強い因果関係にあると述べている。統合失調症者でも妄想を持たないタイプについては、訳者らが過去に行った研究において極端な推論をしないことが明らかにされているようだ。
 また妄想を持つ群が反証効果によって易々と自己の確信を訂正することから、従来言われてきた「訂正不能性」を妄想の代表的特徴から棄却する。
 私は「結論への性急な飛躍」と妄想との強い相関は(妄想の定義の同義反復的な面すらあるわけで)、まったくその通りに違いないと納得したのだが、「訂正不能性」の否定または軽視についてはやや違和感を覚えた。妄想者は少なくとも自分が拘っている妄想の本質に関しては強く訂正を拒絶するはずでそのことは無視しようがない。この実験で否定されているのは、推論から生まれた信念に対する妄想者の一般的な訂正不能性であるにすぎない。統合失調症者の自我脆弱性からいって表層的な確信が易々と瓦解し得てしまうのはむしろ自然なことだ。
 ところで後書きによると、この本の原著は東京大学の大学院でテキストとして使用されていたらしく、その意味でやや珍しかった。

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 本作は発表の時期的に俳優・高島忠夫の第一子が家政婦によって殺害された事件(1964)に影響を受けているかもしれないと気がついて、特に作中の家政婦の人物造形の独創性に関して自分としてかなり留保的な感じに。ストーリー自体は無論事件とは全然違う。しかし、その他「愛情対象変更」のモチーフなど、あとなぞるような道具立てが眼につき始めると一挙に作品が陳腐に思えてくる。家政婦のあの異様な存在感が、本来相互に関連のない要素を無理に放り込んだために起きた創作上における技術的破綻のように思えてくる。
 小島信夫『抱擁家族』が発表されたのは1965年だが、どうだろう。

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『狂気の歴史』 ミシェル・フーコー
 まず、翻訳はあまりよくない。
 600ページの大部からなる古典だが、歴史書としての学術的な批判を試みるつもりは毛頭ない。
 フーコーは精神医学の素人として、狂気の歴史そのものを考察するのではなく、むしろその周囲をぐるぐる旋回している感じ。また、エポックを追いながら一貫して狂気概念の相対化に含みを残している。なんというか全体を通して『精神病は人為的に作られたのだ』と言いたげなのだ。同性愛者だったフーコーはどちらかというとマイノリティの側に立ってものを言う傾向があるだろうと思うが、この作品を著すに当たっての彼にも、太陽に憧れるようなその種の人々による暗い欲望を感じないでもなかった。
 或る精神的な病にある者の狂気を、そうでない者が、同じ病に罹ることなしに共感することはできない。それなのに、フーコーはその不可触の部分を想像力の敷衍で無理に補完しようとするため、どうしたってディテールにおいて的外れにならざるをえない。
 確かに、「理性-非理性」の対立を、古典主義時代の医学的「理性」による笑い話のようないい加減な治療法や解釈を見たあとでは、素直に想定しがたい面があることは否定しない。完全な理性を持ち得ない以上、「正常な」側の人間も決して真には正常などではないのだ。
 大多数と似たように欠けた人々が健常者と呼ばれ、より欠けた(orいびつに欠けた)人々が狂人と呼ばれるだけのことかもしれない。誰もが「欠けて」いることとして変わりはないと言えば言えるのかもしれない。

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 岩波の古い新書『日本の近代小説』中村光夫を読んでいてゾラの系譜からなる自然主義について小杉天外の印象的な言葉があったので引用。

「自然は自然である。善でも無い、悪でも無い、美でも無い、醜でも無い、たゞ或時代の、或国の、或人が自然の一角を捉へて、勝手に善悪美醜の名を付けるのだ。小説また想界の自然である。善悪美醜の孰(いずれ)に対しても、叙す可し、或は叙す可からずと羈絆(きはん)せらるゝ理窟はない。」 (明治三十五年「はやり唄」序)
 カントの物自体のような自然と創作の自然を並行的に、或いは通底するものとして捉えている。天外の素朴かつ原初的な思想的態度が窺えておもしろい。

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情緒発達の精神分析理論

 日本語になっていない部分が多々ある。第15刷なのになぜ手直ししないのか?恐らく英語で読んだ方が早いくらいだと思う。あまりにひどいので通読を諦める。

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現代アドラー心理学〈上〉
現代アドラー心理学〈下〉

 フロイトやユングのような仮説によるアクロバットを拒絶し、地に足のついた生活言語や社会常識を梃子として病を乗り越えさせようとするところにアドラー(派)の特色があるのだろう。パーソナリティーも重視されるが、それは必ずしも昨今流行の人格障害に対応するものではなく、あくまで一般的な意味での内省と対話の充実によってもたらされる人物把握のことでしかない。
 私製の用語をあれこれ弄して何か分析したつもりになっている他の心理学者に対して嫌悪や疑念を抱いていた人物だったのかもしれないが、しかしそれは微妙なところで、アドラー(派)の療法からある種の学術的「深み」を奪う原因にもなっているように感じた。もっと言えば人生指南やちょっとした性格矯正には向いても、精神病や重度の人格障害、また深刻な神経症の類に果たしてこのやり方で対処できるのかと疑問に思わざるを得なかった。実際、この本は上下合わせて600ページにもなるわけだが、本格的な精神病に関する叙述は殆どない。「証明された仮説は未だないのだ」とアドラー派が言うとき、そのように不十分な仮説であっても措定せざるを得ない困難な状況があることから眼を逸らしているように思えてならない。
 「共同体感覚」などアドラー(派)にもキーになる概念はあるのだが、いかにも心細い。確かに、自己の属する社会の中で平凡に暮らしていけるようになるのが大抵の治療の凡その「目標」であるとしても、そんな鋳型にはめるような単純なやり方が高次の狂気や抑鬱にどこまで通用するものなのか。心の中に押し隠されてあったわだかまりを吐露し治療者から世俗的で現実的な助言を得ながら自前の言葉で内省を進める。確かに常識的で穏当で、ある意味原初的な人生相談のようなやり方だ。しかしそこには自ずと限界があるはずだと思えてならなかった。

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