読書メモのブログ記事

『児童虐待―現場からの提言』 川崎 二三彦

 よくある「しつけと虐待の境界線は何か?」という問いが、本書においてまたしても提示されているわけだが、問い自体の有効性または有用性に疑問を持たざるをえない。むろん著者が言うように、しつけと虐待の境界が問題になるのは、ひとつにはしつけの手段にある程度の暴力が含まれる習俗が存在しているからなのであって、もし仮に、しつけからその種の暴力的要素を一切取り除いてしまえるなら、境界は苦もなくかなりはっきりしたものにできるのかもしれない。暴力が僅かでもあれば虐待。しかしながら、世上にこびりつく通念を覆して、しつけから一切の暴力的要素を排除することが当然で十全に正しいことだと、誰が「証明」しうるだろう。
 子供へのしつけに含まれることのある体罰が、時に常軌を逸した暴力に発展してしまうことの原因を、しつけと虐待の区別が普遍的に確定されていないことに求めるのは合理的ではない。確かに客観的で厳密な区別の方法がどこかにあってそれが社会内に充分に広まっていれば、ある種の安全弁のように作用することが期待できるかもしれない。しかし、これは現にあるいは将来においても決して確定され得ないものであるに違いないのだ。例えるなら、「男は何歳からおじさんか?」「女は何歳からおばさんか?」という類の妥当性を巡る問いの非確定性と同種のものである。厳密で限定された答えなどあるわけがない。
 法的な観点からは、民法822条第一項の親権者による懲戒権がどういう幅を持つのかという問題になるが、本書にも触れられている。基本的な前提として過去の衆議院の特別委員会での法務省民事局長の答弁が紹介されていて、掻い摘んで挙げれば、1)民法上の親権者による懲戒には(場合によっては)体罰が含まれること、2)懲戒権の限界は社会常識によって決められるべきであること、3)懲戒権自体の存在は正当なしつけのために必要であること、が行政により公式に是認されている。かなり大枠的で非限定的な答弁である。実際に裁判所にゆだねられる虐待事件では、すでに重大な結果を招いていて刑法犯として扱われるケースがほとんどであるらしく、従って、判例に当たっても細かい具体的な区別方法が提示されているなどはまず期待できないわけだが、仮に提示されるとしても、その事件にのみ通用する判断にしかなりえないのではないかと思う。
 まず子供達を助け出すことが重要であるのは当然であり関連諸制度も主にそこに力点を置くのだが、それと同時に親(加害者)の側に対する治療や教育の重要性を著者が訴えていて、強く共感せざるを得なかった。つまり、児童虐待問題の本質は(社会の大状況等は横に置くとして)、極端で異常な認識や判断に妥当性を感じてしまっている加害者側の、病的な現実検討能力の低下あるいは元からの低水準にこそあるはずなのだ。
 先日NHKで、トイレット・トレーニング期以前への退行だと思われる「ためし行動」の反復にとまどい逆上して、わが子を重篤な状態に陥れてしまった母親のケースが紹介されていた。施設からの帰還後部屋の中で自由に排便してしまう子供への理解は、母親が「ためし行動」がどういうものであるかという知識を多少なりとも持ちえていたならば、ずいぶん違ったものになったかもしれない。いくつも問題を抱える人物だとしても、知識によって母親がさほどの暴力を行使しなかった可能性が大いにありうる。上記リンクのカーンバーグの定義では必ずしも強調しないが、現実を理解するための知識もまた、現実検討能力の一部であるだろう。
 しつけによく似た行動として家庭教育がある。以前に民放のニュース番組で夫の隠し撮りとして紹介されていた、それが何かも理解できていない幼女に数学の因数分解の問題を解かせて解けないと(解けるわけがないのだが)激しい懲罰を加える母親は、虐待をしているという自覚を持っていない。客観的にはただ攻撃を加え続けるための大義名分として出来るはずのない因数分解をさせているに過ぎないのだとしても、彼女の主観としては早期教育をその子の将来のためにむしろ母親としての使命感によって行っているという自己認識なのである。ここには、因数分解の妥当な習得年齢や、現実のわが子の発達状況、適切な懲罰の質や程度、等々に関して、現実検討能力の病的な低下が認められるものと思う。対話によって母親の認識のディテールを細かく吟味してゆけば、必ずいくつもの異常や矛盾点を指摘しうるだろう。
 同様に、しつけと虐待の厳密な区別は演繹的な措定としては不可能でも、個別事例において、常識や論理的整合性等を梃子として帰納的に逸脱や背理を見いだしてゆくことはできるだろう。つまり、加害者に何らかの自己矛盾が生じているはずなのである。
 児童虐待が起こるとき、加害者が先立って異常な状態にあるということこそが、もっと顧みられなければならない。しつけと信じて過剰な攻撃を繰り返す人々は、少なくともしつけと虐待の「個人的」区別に関してまともな妥当感覚を失う程度には、すでに異常な状態に陥っていると捉えられるべきだ。むろん児童虐待の内的起源はしつけと虐待の無分別化以外にもいくつもあるとしても、それらそれぞれが何らかの形で同様の妥当感覚の異状(=現実検討能力の低下)を来たしているものと断じていい。この普通でない状態にある加害者達をもし実行前に治療的に救済できるならば、虐待が発生しないで済む確率が飛躍的に高まることは疑いがないだろう。主に虐待の行為面に対処しようとするだけの現在の行政の姿勢よりも、直接原因に働きかけるという意味において、これははるかに本質的で有効な方法論であると私は思う。予備群を自発的に育児トレーニングやカウンセリング等に向かわせることに加え、少なくとも一度でも虐待を行ったと判断された親等には、一般の精神疾患者が受けているような、医師による本格的な治療プログラムを受ける義務を強制的に課すべきなのだ。(今も一応は児童虐待防止法第11条の「児童虐待を行った保護者に対する指導等」に指導を受ける義務が明記されてはいるのだが、指導を受けるかどうかは実質的には本人の意思しだいである。拒絶した場合に知事から勧告が行くことになっているのだが、知事勧告を拒否しても特に罰則はないし、現に実効性がないので勧告が発行された実績がこれまでほとんどないらしい。また「指導」の名が示すとおり内容としても加害者の病巣に深く立ち入ろうとするものではなく、あくまで虐待行動を表面的に矯正するトレーニングでしかないようだ。)

 昨今マスコミが児童虐待のニュースをよく流すみたいだが、虐待が増えているのか、マスコミのさじ加減が変わったのか、どうにも計りかねる。正確な数字を知りたければ、厚労省による統計発表を待つべきなのかもしれないが(1)。他にも、10歳に満たない児童の自殺に関してマスコミはまず報道しないと思うのだが(実際には少数だが大体毎年起きているはずだ。厚生官吏が専門雑誌で細かい数字を出していたのを読んだ記憶がある。)、こないだ何かのTVニュースでこの種の自殺を報道していたので、かなり珍しい感じがした。社会福祉の範疇になる印象的なニュースを恣意的に多く流して、マスコミが左派民主党政権に助力しようとしている(orさせられてる)のではないか、という空想を持たなくもない。

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『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』ジル ドゥルーズ,フェリックス ガタリ

 古典『アンチ・オイディプス』において、その共同の執筆者であるドゥルーズ&ガタリは、既存の社会的価値を解体する資本主義の営為というものに対して、個人の思考を滅裂化する分裂症の病態をオーバーラップさせるモチーフを執拗に繰り返しているのだが、邦訳で(副題にもschizophrénieの訳語として)使われているこの「分裂症」という言葉が何を意味しているのかは多少曖昧である。通常schizophrénieというと現在の日本では「統合失調症」のことを指すはずだ。しばらく前まではブロイラー論文に対する訳語の「精神分裂病」で表していて(本書邦訳の出版年はこの時代に該当する)、更に昔、最初に疾病単位として確立したクレペリンへの訳語としての「早発性痴呆症」という呼び名もあるが、これはほとんど使用されないのではないかと思う。ちなみに、日本で何年か前に精神分裂病から統合失調症に呼称が変わったわけだが、これは主に多重人格等の解離性障害との混同を避けるためであった。いずれにせよ、いわゆる統合失調症を指す用語としては「分裂症」という呼び名はさほど聞かない。
 訳者がこのようなやや耳慣れない表現を訳語として使っているのはなぜなのか、訳者あとがきを読んでも書いてないわけだが、本来の統合失調症(邦訳出版当時は精神分裂病)とは敢えて意味のニュアンスを違えたかったからではないかとも思うのだが。というのも、本書内で「分裂症」と表現されているものは、おそらくは、主に破瓜型統合失調症のことであろうと思う。それに対するものとして提出されている「パラノイア」とはだいたい妄想性障害周辺を指しているものではないかと憶測される。しかし本来、統合失調症に厳しく対立する概念としてパラノイアがあるわけではないのだ。妄想性障害のみを指す場合もあるとは思うが、統合失調症に含まれる代表的なサブカテゴリに妄想型統合失調症があるのであって、より不完全なものは妄想性障害や妄想性人格障害として、それら異常で体系化された妄想を持つ疾病群をひとくくりとして「パラノイア」と呼ぶことは普通にある(1)。したがって、最初からパラノイア(の一部)を含んでいるはずの精神分裂病をパラノイアと対立させてしまうと当然矛盾が生じてしまうので、あえてずらした「分裂症」という表現を使って暗に破瓜型方面だけに意味を制限しようとしているのではないかと思うのだが。
 仏語原文の表現がどうなっているのかも気になるが、少なくともschizophrénieは、専門でない辞書的な意味として(つまり日常語的な使用法として)は、確かに破瓜型的な意味だけを担う場合があるようだ。しかしこれはかなり俗な使い方であり、厳密な議論には向かないはずだ。共同執筆者のガタリは精神科医なのにこのような使い方を許すものだろうか?それと別の視点としては、ややマイナーなのだけれど、既存の統合失調症のサブカテゴリの幾つかが不適切なもので、それらは本来別々に独立した疾病単位として扱われるべきものだと主張する学者が一応いるにはいたとは思う。その点でガタリの立場を調べる必要があるかもしれないわけだが、しかしいずれにせよクレペリンの3類型(破瓜・緊張・妄想)から始まって、現在に至り、DSMでもICDでもおおっぴらな基準においてそのような立場はとられていない。ガタリは現に妄想型は統合失調症に含まない別個の疾病だとする立場なのだろうか?
 ただ、いわゆるこの「スキゾ-パラノ」の通俗的な対立図式をよりすっきり「破瓜型-妄想型」と言い換えたとしても、なお私には違和感が残る。極端に脆弱化した自我というものが、破瓜型のように無抵抗にバラバラに散乱・壊滅してしまっているか、妄想型のように異常な妄想を発展させることによって辛うじてつなぎとめられた状態であるか、は、ある程度表層的な差異でしかないと思っているからだ。単純な対立概念として扱えるものかどうかはなはだ疑問なのだ。
 更には、人間の社会集団の歴史上でのダイナミズムを説明するのに、個人にまつわる精神疾患を持ち出すことが適切な行為であるのかどうか。

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 この一箇月位でデリダばかり10冊近く読んだりしていたのだが、ブログに書くことも特にはまとまらない。途中ちらと、デリダの個人史を引き合いに「音声中心主義批判」批判をしてみようかとも思ったのだが、軽率な感じがしてそれ以上の気乗りがしなかった。
 今はデリダシリーズが立ち消えて、3月末のシュレーバーつながりで岸田秀訳『魂の殺害者』を読んでいるのだが、これがまた遅々として進まない。少し読んでは立ち止まり、また少し読んでは立ち止まり。出版の時代がやや古いわけだし、原著者がレイン派ぽいのも微妙。しかし書物自体に地力みたいなものがあり、確かに何かを探り当ててはいるのだ。

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 有名な『シュレーバー回想録』を図書館で借りてざっとだけれど読んでみた。フロイトと同時代に生きたパラノイア患者シュレーバー自身による回想録である。幻聴(小破裂音)や幻覚(身体部位の変容感覚)、言語新作(神による根源言語)、観念奔逸(思念の洪水)、考想吹入(神との交信)など症状の表出と思われる生々しい述懐が延々続くのだが、全体のプロットとしては神と自分との特別な関係性の告白という体なのだろう。パラノイアの症状としてなお全般に受身というか、いわゆる被影響体験の傾向が強いタイプだと感じた。発病前のシュレーバーが知識階層に属していたことが構築された妄想体系の複雑化の昂進に一定の寄与をしていると思われる...。
 この狂気の回想録に関して、私はここで要約する気はないし分析や論評もしないので、本の内容に興味のある方は自分で読むなり解説等をネット検索してもらった方がいい。やや離れて、少し副次的な雑感のようなものを書いておきたい。
 私はネットの個人放送とかがわりと好きで、サイトの閲覧などしながらBGM代わりにそれらを垂れ流していることが多い。日常では出会えない色んなキャラクターというかパーソナリティーの人がいて面白いからなのだが、どちらかと言うとより偏りの強い人物に興味が行く嫌いがあった。放送者の意図に沿った楽しみ方をしていることはあまりなく、主にその(やや偏った)人物像や個性の淵源についてあれこれ考えながら聞いたり見たりしていた。一部のブログの閲覧やRSS取得に関してもそれと似たところがある。
 だが、今回目の当たりにした「シュレーバー症例」の困難さと複雑さのインパクトによって、そういった私のこれまでの志向性が変わりそうな気配。シュレーバーのような「本格的」な病人に比べれば、単に表象として過度の陰謀論者だったり熱烈なオカルト好きだったりなど、まったくもって取るに足らない。放送者やブロガーの中には精神科の通院者もいるだろうが、フロイトやラカンですらシュレーバーに立ち向かって(分析的な意味においては)確たる成果を挙げられないのだから、素人でしかもより断片的な情報しかない状況下では、単に際限ない解釈の堂々巡りに陥らざるを得ない。
 人物観察を遊び気分ですべきではないと気付いたと言うべきか、もはや私自身が遊びに収まる次元に飽き足らなくなってきたとも言えるかもしれない。

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 乱世には自己存在に立ち返れ、というわけでもないのだが、昨今私的にプチ実存主義ブームであり、このところ幾冊かそれらしいものを読んでいた。それで覚え書き程度のことなのだが、「実存」の定義がハイデッガーとサルトルではまるで違うらしいので、ここにその旨書籍から書き写しておく。

ハイデッガーの場合、実存とは「存在の光のなかに立ちいでる」こと、人間が主体性の枠を破って存在そのものの光の中に帰りたつことであるのにたいし、サルトルの場合、実存とは、みずからの存在をみずからが選択する主体性の意味である。同じ言葉であるけれども、この相違はあらかじめはっきりしておくことが必要であろう。

(人文書院 『実存主義とは何か』 J-P・サルトル p157訳注より)

 上の引用は私としてはずっと不分明だったもやもや的なものに対する端的な解説になっている。
 実存主義が主体礼賛の哲学であるという先入観のままハイデッガーを読み通そうとすると、大抵どこかで混乱する。あるいは、そのままにサルトルの方を読んだとしても、今度は主体そのものの根拠について(昔ながらのデカルトのテーゼを神は捨象して後なぞるというだけで)特に新しい思索として深められているわけではないことに落胆する。デカルトは、対自の関係性によって主体を成立させるシステム(Cogito ergo sum.)それ自体が神によるものだと前提している。しかしサルトルは、なぜかそのような更なる外部(別に神でなくてもよいのだが)への予感を不自然に禁じ、対自の関係性だけで主体存在の証明は済んでいるに等しいと強弁する。それは根拠のない飛躍的な態度決定であり、まったく彼固有の狭隘な信仰であるに過ぎないと思える。
 サルトル自体、二歳で父親(≒超自我→神)を失い、少年期には祖父に匙を投げられる程に母の金をくすねる等の逸脱行動があったようで、その他状況証拠の上に憶測を何枚か重ねて書いてみるのだが、ちょっとある種の反社会性人格の成り立ちに似ている気もする。ある程度まで父性喪失者に共通する傾向とも言えるだろうけれど...。反社会性人格は自己の内部に良心を持たないので、決して勝てない外敵としての神(等)がいなくなってしまうと、倫理として自己の行動を規制するものが何もなくなってしまう。だからサルトルは神がいなくなった後の倫理のありかを最も重要な問題のひとつだとして殊更に心配するのだと憶測できるかもしれない。
 また、いわゆる「自由の刑」概念も反社会性人格が獲得しがちな人生訓に似ている。
 レジスタンス(!)としての実践的選択(の可能性)がもたらすとされるサルトル的な主体幻想は世俗的かつ偏頗にすぎて、本来哲学の主題にはなじまない。哲学が問題とすべき主体の自由とは、たとえばより根底的に、因果律に対峙すべき主体の自由のようなものであったはずだ。

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「知の欺瞞」X『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』 アラン・ソーカル , ジャン・ブリクモン

 単なるセンセーショナリズムを超えてもはや現代の古典という感じの本書なのだろうと思うが、手に取りページをめくってちゃんと読んだのは今回が初めて。要約したり分析したりするのに適さないというか、本気でそれをしようとすると大変なことになるといった感じだと思うので、そんなことはしないし、出来ない。感想を述べるにも、自然科学の専門的な領域に踏み込まないと全く迫力に欠けることになるわけだが、私の場合そうならざるを得ない。とは言え、読み終えて何となく感動するほどであった。「何となく」と留保せざるを得ないのは、無論、私にソーカルの分析的批判の正しさをきちんとした形で追認する能力がないからだが、それらが仮に正しいとして(著者はニューヨーク大学物理学教授であるし、出版から時間が経ってネット上に技術的な間違いを指摘する声はないようだ。めったなことはないだろう??)、やはり王様(達)は裸だと言明するソーカル達の勇気を讃えたいと思った。
 フランス現代思想の知的先導者達が実はかなり行儀の悪い人達であり、相当以上に俗悪な曲芸を見せては人々を騙していた面があったことが、ソーカルらによって白日の下に晒された、と言っていいだろうと思う。無論それで先導者達の全てが否定されるわけではないにしても、ソーカルらはかなりのダメージを彼らに与えたと言っていいだろう。形式化の過剰な徹底からその必然的帰結としての自壊と相対主義への傾斜というのが、構造主義からポスト構造主義へと続いた時代精神の意味内容であったと思うが、もはや、その一連の経過そのものが欧州哲学そのものの今際の際に咲いたあだ花だったかもしれない、とも思われる。
 ただ、特にラカンについては今なおその影響は強く残っているようで、勢力はむしろ増しているほどかもしれない。ラカンは元々輝かしい学術的業績というよりむしろフランス精神分析学会内の政治的闘争の勝者として頭角を現わした面があるらしいので、歴史を持つ派閥がフランスのみならず世界中に形成されて人的ネットワークとして盤石化してしまっているようだ。これを突き崩すのは容易ではないだろうが、(論理記号や科学の公式を濫りに弄ぶのでなく)現実の患者と対峙するような健全な方向に向かうなら、別に看板はどうでもいいと言えば言えるかもしれない。

 つまらないことだが、Wikipediaのソーカル事件のページに間違った記述を見付けたので書いておく。

批判と反応 [編集]
ソーカルに批判されたボードリヤールとクリステヴァは『知の欺瞞』に対し、「実際かなり愉快なものでしたね。昔はよく読んだものです。一度笑い転げてしまえば、それで十分でしたがね」[17]と述べた。 さらにクリステヴァは「偽情報」を提供したとしてソーカル等を批判しているが、その一方で「明らかに私は本物の数学者ではない」と認めている。[18]
 上の文章の、「実際かなり愉快なものでしたね。昔はよく読んだものです。一度笑い転げてしまえば、それで十分でしたがね」という発言の主体は、本書当該ページによると、ミシェル・セールである。ミシェル・セールが、ボードリヤールとクリステヴァに対してソーカルらと同種の批判を与えている、と紹介されているのである。

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『知識人の終焉』 ジャン・フランソワ リオタール
 妙な胸騒ぎがして、リオタールの『知識人の終焉』(1983)を読み返していた。80年代、情報産業の発達や分業の著しい進展また科学技術の持続的発展に伴う社会規範の流動化が、過去の停滞的な社会でのみ成立しえた普遍的主体としての「知識人」というものを葬り去った。これはフランスのみならず、日本を含めたその他先進国でも同じような時期に同じようなことが起こったと思う。誰も軽率に「知識人」という言葉を使わなくなり、自分のことを知識人だと呼称するなどほとんどあり得ないこととなった。「人間とは、」とか「人生とは、」とか「日本とは、」とかいった大きな主語を使用する独断は、誰にも分不相応なことであり、まじめな会話では殆ど全面的に忌避されるべき事柄となった。
 しかし、今や知識人というものの捉えられ方が、そこからもう一周してまた別の段階に入って来ているのではないか、と思えるような出来事があった。つまり、先日NHK教育テレビの番組で勝間和代という経済コメンテイターが(整形手術を施した感じの不自然な目頭のまま)喋っていて、それを漫然と眺めていたのだが、突如「私のような知識人が言うのではなく、現場の労働者が声を上げないと...」というようなことを口走ったのだ。リオタールを読み返そうと思ったのもこの番組が直接の原因だったのだが、最近10年くらいで、自分で自分のことを知識人と呼ぶ人物を見たのは西部邁以来2人目かもしれない。ただ西部の場合は爺さんなのであり元々頭が古い。それに、東大内の権力闘争に敗れて民間に放り出されたので、自らを差別化してみせないと商業的な意味で生きていけないということがあるだろうし、本人が旨とする偏狭な保守主義も(歪んだ)作用を及ぼしてもいるかもしれない。その意味で不純な面が多々ある。
 しかし勝間の場合、出版界により人寄せタレントとして過剰に祭り上げられてるような感じがあって「最近天狗になっている」と言えば言えるのかもしれないが、それ以上の特殊事情があるとも思えないし、やや差し引いて考えるにしても、この程度で知識人としての自覚を持つに至っていることは注目に値する。元より、40歳くらいの年齢であり、古い時代の知識人観に肩まで浸かっているような人物であるとは甚だ考えづらい。
 当人がどのような意味を込めているにせよ、彼女が自らに対して使った「知識人」という言葉には、社会内での普遍的主体であるといった、80年代以前のような意味合いは含有されない。それは聞く者に、単に「ある知的活動によって一定の世俗的成功を獲得した人」くらいを意味するだけなのであり、専門とする分野で幾らか優越していることの表現として受け取られるにすぎない。
 分からないが、何か頭脳労働を事とし且つその道をある程度優越的に究めた者なら、誰でも知識人として名乗りうる時代が来(ようとし)ているのかもしれない、というのが私の胸騒ぎの趣旨である。そうなら「知識人」は完全に死んでしまったのではない。もっと鼻持ちならない何かとして復活しようとしていることになる。

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・『いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法』 デビッド・D.バーンズ

 鬱病に対する認知療法に関して述べられたやや厚めの邦訳一般書なのだが、原著は出版当時にベストセラーとなっただけでなく世界で長く読み継がれているある程度評価の定まった作品であるようだ。紹介される認知療法は先に私が入門書で読んだアドラーのやり方に酷似している感じがして、ネットで検索してみると、認知療法自体の源流には正統的にアドラー派がある旨の記述があり、そのことは今回初めて知った。そうでなくともバーンズはアドラーの名を先達として文中に出してもおり、私としては、アドラーを軽く見ていた面があったとやや反省しないでもなかった。少なくとも重度でない鬱病に対しては、認知療法は薬物による治療よりも効果的であることがほぼ実証されている。
 認知療法は鬱病者に特徴的に共通する思考や認識のゆがみを矯正することによって症状をなくそうとするわけだが、バーンズが挙げるゆがみとは具体的には例えば以下のようなものだ。

(1)全か無か思考[all-or-nothing thinking]
(2)一般化のしすぎ[overgeneralization]
(3)心のフィルター[mental filter]
(4)マイナス化思考[disqualifying the positive]
(5)結論の飛躍[jumping to conclusions]
 ①心の読みすぎ[mind reading]
 ②先読みの誤り[the fortune teller error]
(6)拡大解釈と過小評価[magnification and minimization]
(7)感情的決めつけ[emotional reasoning]
(8)すべき思考[should statement]
(9)レッテル貼り[labeling and mislabeling]
(10)個人化[personalization]
 あまり内容紹介に腐心するつもりはないが、要はこれらのゆがみ(ちょっと和訳が微妙だが)を是正することが治療の近い目的となる。ゆがみの「(1)全か無か思考」はそれ以外の項目の基底をなしてもいると思うのだが、これはつまり対象関係論におけるsplittingのことであり、対象関係論の知見からそう容易には直らない場合が多々あるのではないかと思われるのだが。中庸やほどほどということが彼らにとっては心底からの苦痛でしかないのだから。それ以外本書全般に言えることだが、カラム法などにより治療が成功した例しか紹介されていないので、都合の良いところだけ並べたような不自然さが残る。
 また鬱病の原因面については鬱病者が持つ「暗黙の仮定」を因子として幾つか挙げている。

(1)誰かに非難されると、自分がどこか間違っているような気がして惨めに感じる。
(2)本当に完璧な人であれば愛されるはずである。もしひとりぼっちだったとしたら、寂しく惨めになる覚悟を決めなくては。
(3)人間としての価値は、自分の成し遂げてきたことに比例する。
(4)もし完全に行わなかったら、感じなかったら、あるいは振る舞わなかったら、私は失敗したことになる。
 バーンズはこれら鬱病者に特徴的な暗黙の仮定を非論理的なものだとして強く退ける。例えば、誰にも愛されていなくても幸福と言えないわけではないとか、仕事の実績は人間の価値とはまったく関係ないとか主張する。このような主張は一般常識あるいは通念に対する偏頗なアンチテーゼの提出であり、以前私が別の認知療法に関する本を読んだ時に「何だか詭弁に近い」と思った所以でもあるのだが、微妙なところだと改めて思わないではいられなかった。例えば、詐欺会社で働く社員がどれだけ「有能」だとしても人としての価値は高くないだろうということを理由に(バーンズ自身はヒトラーを例示しているが)、どのような仕事の実績も人間の価値とは直接には関係がないと結論付けるのはほぼ詭弁であるように私には思える。社会に寄与する一般的な仕事上で何かすばらしい業績を挙げることは、常識的な意味において、共通して尊敬されるべきことであり万人が求める状態であるに変わりはないはずだ。また他人から愛情や好意を受けることが殆ど普遍的な価値であるということが、一人でアイスクリームを食べたりすることの卑近な幸福感を引き合いに出すことにより、同次元で相対化されるものではないはずだ。同じく愛情関係に付随するしがらみの面倒を過度に強調することも作為的だ。もし自分の主張に反対するならそれらが絶対に価値であり幸福であることを厳密に証明せよ、とバーンズは言うが、これは悪魔の証明の要請に近い。
 まあ、それら普遍的だと信じられている価値や幸福を「絶対視して」追わないような生き方に何とか軟着陸させるために、敢えて詭弁・強弁を弄していると好意的に解釈すればそう出来るかもしれない。バーンズ自身の表現も揺れている部分があると思う。
 私は色々疑念を持ちながらも、同時に幾つか別のことを考えていた。そのうちの一つは「自我の芯」とでも言うべき観念についてのものだ。社会において普遍的な価値観だとしても、それらを過剰にも「絶対視」「完全視」すれば、自らががんじがらめになってしまうのは必然だ。あるいはそれらを失った時に「この世のすべて」を失ったように思い過ごしてしまうのは必然だ。自我の芯は、どのような社会的条件にも支配されないで、生命本来のエネルギーを諸活動にそのまま供給し続け得る基礎領域だ。善悪の彼岸にあって、常に単独者としての最低限の活動を保障する。
 私は世俗的な価値観の普遍性を安易に否定すべきではないと思う。全体主義のような価値の押しつけが社会の側からあるとしたら行き過ぎだと思うが、それがある程度普遍的な価値であるというのは群盲による何かの思い違いではない。科学的に証明し得ないとしても経験的・歴史的に知られた普遍的テーゼなのだ。問題はそれとの共存の仕方にこそあるはずだ。世俗的な価値によって侵されざる領域、自我の芯を持つことだ。
 もう一つ書いておこうと思うのは、ネット上で散見される「鬱=甘え」論の正体に関してだ。もちろんこれは鬱がそのまま甘えという意味ではないだろう。鬱とは気分が落ち込むことなのだから。おおよそ鬱の原因が甘えだという主張なのだろうと思う。
 例えば、似たような悲劇が諸個人に降りかかって、しばらくしたならその悲しみから立ち直る人物と、落ち込んだ状態を不必要にぐずぐず長引かせる人物がいるとする。前者を健全かつ自立的で、後者を当人には過分な幻想に固執する甘えた人物だと短絡する観察者がありうる。だが、外形的に後者に似ているかもしれない鬱病者は、先述のように人生の早期から体に染みこんだ全か無か思考(=splitting)によって世界を把握しているために、元々常に気が晴れることがないのであり、同じ理由で特定の悲劇に対するリアクションも抑鬱や無気力が過剰に重くなりその期間も長引くことにもなっているのだ。また少なくともメランコリー親和型の場合、自分だけで苦悩を処理しようとする傾向が共通してあるはずで他人に頼ろうとすることなど普通よりむしろ少ないはずだ。仮に気分が憂鬱だと周囲に表明したとしても、殆どは単に自分の現状を説明しているだけであり、当人としては特に弱音を吐いているわけでも助けを求めているわけでもないと考えられる。ただし、内的に危急の状態にあるか、他の人格障害に伴う抑鬱が鬱病にまで発展したような場合、投薬によって不安定になっているような場合、自己に積極的にストレスを与える攻撃者が存在するような場合には、他者に対して単なる説明ではない何らかの意思表示がなされる場合があるかもしれない。憂鬱だと言われれば周囲は心配してみせるのが日本社会の建前であって、往々にして、表明は真剣さを欠いたまたは過分なSOS(=甘え)として映り誤解と反感を買うことがあるかもしれない。
 鬱病者は、元々の認知の仕方や感受性のあり方が普通と違うわけで、それにより妥当なリアクションが出来ないことが病の本質なのである。従って、鬱病でない人は鬱病者の苦悩に原理的に共感し得ず、不適切か不自然な苦悩にしか映らない。あるいは苦悩そのものがあるのかどうかも甚だ疑わしい(演技ではないか等)ということになりかねない。
 この、自分と基本的な素地が異なったタイプが世の中にいるということが想定できないタイプがまた別にある。自分の無知や有限性を認められないタイプと言い換えても良いが、自己愛人格などがそうである。加えてネガティヴな対象を積極的に排除したがる傾向もあると思うので、自己愛人格は鬱病者に吸い寄せられるようにして攻撃することになるだろう。

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 岩波文庫でカントの『実践理性批判』を読んでいたらあまりにも何を言っているのか分からない箇所があったので、ネット上にある英訳テキストと比較した。本来原語のドイツ語で比較するのがいいに決まってるのだが、私はドイツ語が得意でないので、次善の策として英訳で。一例として、以下に波多野・宮本・篠田訳による岩波文庫『実践理性批判』第一部第一篇第三章の冒頭付近の一文(p152)を挙げる。

「もし意志規定が、道徳法則に適っていても、それが感情を介してだけ――その感情がどのようなものであるにせよ、――行われるならば、従って〔道徳的〕法則のために行われるのではないとすれば、その行為はなるほど適法性(Legalität)をもちはするだろうが、しかし道徳性(Moralität)をもちはしないだろう、――尤も道徳法則が、意志を〔客観的に〕規定する十分な根拠となるためには、やはり媒介者としての感情が前提されなければならないのである。」(岩波文庫)
 これを初めて読んで何を言わんとしているのか即座に分かる人はかなり変わった人だと思うのだが、グーテンベルク内の英訳E-textの当該部分がこれ。
"If the determination of the will takes place in conformity indeed to the moral law, but only by means of a feeling, no matter of what kind, which has to be presupposed in order that the law may be sufficient to determine the will, and therefore not for the sake of the law, then the action will possess legality, but not morality."(英訳文)
 で、この英文に基づく私の拙訳を以下に。
「もし意志の決定が道徳規範に実際に適合して起こるとしても、それがどんな種類であるかに拘わらず、感情によってのみなされ、つまりは規範が意志を決定するのに十分なものでありうるために感情が前提とされる必要があるなら(それゆえ規範のためのものではないなら)、その時は行動は合法性を持つが道徳性は持たないだろう。」(私訳)
 しかしこうしてしまうと、表現の分かり易さという次元を超えて、意味そのものが岩波文庫訳とは違ってきてしまう。端的に言えば、文庫訳ではより十全な道徳法則のために結局は感情が必要であるとなっているように思うが、英訳文を元に"If"から"then"の直前までを一体的な条件節とする私の訳の理解だと感情の寄与はない方がいいものとなる。岩波文庫版訳者の波多野精一は「西田幾多郎とならぶ京都学派の立役者」だそうで、こちらとしてはネットの英訳(と言ってもE-textの英訳者もそれなりに著名な学者であるようだが)を和訳してみただけでは未だ心許なく、どっちつかずのままで欲求不満が募った。で、今日の午前借りていた視聴覚資料を図書館に返すついでに、カント全集第七巻の坂部・伊古田訳の実践理性批判を閲覧し気になる当該部分の訳をメモしてきた。それが以下。
「意志決定がたとえ道徳法則に適ってなされるとしても、それがどのような種類のものにせよ感情を媒介としてのみなされ、道徳法則が意志の十分な決定根拠となるために感情が前提されなければならないとなると、意志決定が法則のためになされるのではないということになるが、この場合には、行為は適法性を含むとしても、道徳性を含むことにはならないだろう。」(カント全集)
 どうやら坂部・伊古田訳は私の理解とそんなに遠くない。とりわけ「感情」の取り扱いについてほぼ同じと言って良いように思う。ただ、無論、これでもやもやが完全に収まったわけではない。本来ドイツ語原文で読まねば最終的に腑に落ちようはずがないのだ。訳をあちこち見て回る必要もドイツ語が流暢に読めれば初めからないわけで、まあこれは不徳の致すところとしか言いようがない。しかしドイツ語と英語の親和性からいって(英語の片方の親はゲルマン祖語である)、独文英訳は和訳に比すと格段に簡単な作業であるはずなのであり(翻訳そのものの歴史も長い)、訳を読むしかないのなら英訳の方が信用がおけるかもしれない。
 あと、僭越ながら岩波文庫の功罪ということを思わないでもなかった。今回取り上げたことは、岩波文庫の一般的な読者にとって起こりうる夥しい同様事例の内のほんの一例に過ぎないと強く思われる。岩波文庫が長きに亘り古今東西の古典の和訳を日本の人々に安く提供してきたことは紛れもない功の部分ではあるのだが、誤訳(本件がまだ誤訳と判明したわけではないとしても、他のケースに関しての指摘は多々あるようだ)や不必要に晦渋な表現をまるで標準的なものとして広く流通せしめてきたことは罪の部分かもしれない。無論罪より功の比率の方が大きいに決まっているけれど、日本語として破綻しているだけの訳文を何か難解な真理が表現されているに違いないとして、無知なる読者から時間と労力を奪い続けてきたことはそれなりに忌むべきことかもしれない。

以下参考としてグーテンベルクのドイツ語原文

"Geschieht die Willensbestimmung zwar gemäß dem moralischen Gesetze, aber nur vermittelst eines Gefühls, welcher Art es auch sei, das vorausgesetzt werden muß, damit jenes ein hinreichender Bestimmungsgrund des Willens werde, mithin nicht um des Gesetzes willen; so wird die Handlung zwar Legalität, aber nicht Moralität enthalten. "(原文)

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・『精神疾患は脳の病気か?―向精神薬の科学と虚構』 エリオット S.ヴァレンスタイン (著), 功刀 浩 (監修), 中塚 公子 (翻訳)

 本書は生化学的・薬学的な側面から見た現代精神医学の限界と問題点を述べた作品なのだが、原著は1998年に出版されており今となっては情報としてやや古くなっている部分もあるようだ。邦訳の出版年は2008年であり、故意に翻訳を遅らせているとは思いたくないが、ちょっと不自然なくらい時間が掛かっているような気もする。SSRIの副作用に関して『抗うつ薬の功罪―SSRI論争と訴訟』が有名だがこちらは2004年と2005年で一年程度しかタイムラグがない。
 鬱病におけるセロトニン仮説および統合失調症におけるドーパミン仮説の無根拠性、大手製薬会社と学会や学術誌や患者支援グループ等との癒着構造、その他について興味深い話が多く書かれている。この数十年に亘って躁鬱病に対し広く一般的に使われているリチウム剤(リーマス等)だが、これがなぜ効くのか科学的にはまだ分かってないらしい。
 以下、印象的だった箇所を少し引用。

「脳の活動に変化を与えうる化学物質は100以上あり、セロトニンはその一つにすぎないが、この物質がこれほど多くの特質の調整役であると考えるのが合理的なことか考えてみるべきであろう。それが正しいなら、脳の中に存在する他のすべての化学物質は何のためにあるのか。多くの人々がセロトニンのみが決定的な役割を担うという主張を確立したものと受け止めたいと願っているのは、複雑な問題に対して簡単な答えを人々が強く欲していることの証左である。」(p136)

「たとえば、統合失調症患者はドーパミン系の活性が過剰であるとか、うつ病患者はセロトニン濃度が低いといったたぐいの主張ならいくらでもある。このどちらの主張も、厳しい検証に耐えることができない。」(p290)

 やや専門的な内容だけれど十分に面白く、一定以上の予備知識のある人にはかなりお薦めという感じ。また、仮に予備知識が殆どなくても通読が困難というほどでもないかもしれない。

 監訳者の功刀浩氏のあとがきが巻末にあるのだが、菩薩や如来と監訳者が対話する小話が挿入されていてその内容にややぎょっとした。たとえば仏教の教義に関することとか教典の一部を引用とかではないのだ、この監訳者なる人物は創作とはいえ、菩薩や如来の名を借りて自己の医療態度の説明や原著への感想を語らせている(対話小話を書いているのは監訳者なのだから要はどちらもすべて当人の主張だ)。正直"Grandiose Self"という言葉も思い浮かばないではなく、非常に奇異だった。またこの監訳者は精神療法を殆どしないタイプの医師だと告白していて、このように生化学的な治療法の限界と問題点を縷々述べた書籍の後書きとしては唐突な感じがした。あるいは理論武装のために早くに「敵の主張」を取り入れようとしていただけなのではないかという疑念が、長すぎる翻訳のタイムラグのこともあり、湧いてこないでもなかった。いくつかの精神療法は医師の患者に対する真摯な共感を必要とする場合がある。日本の人格的に貧しい受験エリートの一部は、思春期以降の自他の区別の基盤を多様性の認識ではなく学歴等による差別意識によって発展させているケースが多くあることが想像され、精神療法患者への共感がその差別意識の浮上してくる地点で困難になることがあるかもしれない。その場合、その医師は精神療法をしないのではなくできないということになる。

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