身辺雑記のブログ記事

 またいろいろなサイトのアカウントを整理している。定期。

 Twitterの留保リストをさっき1年ぶりくらいに開いたら、一人は非公開になっていたものの、あとの人は相変わらずすごい量のツイートをし続けていて(あまりに多すぎて正直邪魔なので「留保」リスト行きにしていたのだが)ちょっとびっくりした。「全然落ち着いていなかった」のだ。フォロワーは数百からせいぜい千くらいの層だが、累積が数十万のツイートをしている人もいるようだ。探せば更に上がいるのかもしれないけど。
 うむむ。

 かなり見なくなっているニコ生のお気に入りの整理も少ししたが、もうほとんど何も残っていない。次回の整理にはコミュニティはミラー100%になる恐れがあるかもしれない。
 個人放送視聴は最近ツイキャス方面かもしれない。
 あといつのまにかFC2に買われていた(!)ねとらじに回帰したりしている(作業とかしてる時ラジオのほうが楽)。しかし番組数が少なすぎるのが玉に瑕。
 ネットの個人放送で人気を得た人々が一体どういう場所に行き着くのか、一応まだ興味を持っているけど、大抵の場合いわゆる「芸人さん」になりそうな感じはしない。「みんなのおもちゃ」としてどこまでも行けるだろうか。

 お昼になって体調よくなってきた。午前があんまりだったが復活か?

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 なんか体調低下時に歯茎が腫れるので、歯磨きにシュミテクト(歯周病ケア)を使い出した。風邪とか以外でも、飲酒したりすると歯茎が腫れるようになっている。不調センサーとしてわかりやすいといえばわかりやすいが、これが「体質」として定着するとかなりいやだ。シュミテクトには殺菌作用があるようだけどどの程度効くのか。しかし世の中歯周病の原因菌がまったくゼロっていう人はかなり少数派で、要は体の抵抗力が落ちることでそういうのがのさばりだすらしい。
 今年の3月下旬から風邪ばっかりで微妙な体調が続いているのだけど、5月の健康診断の血液検査ではめずらしく複数チェックを付けられたりもした。生活習慣を改善しなければ。


 サビだらけだった北京鍋が復活していた。
 何週か前に、金属繊維のたわしみたいのでサビ落として洗って乾かして油塗って空焚きしといたのだが、その作業直後は「これだけやってこの風采ではもうダメではないか」という感じだったのだが、今日見たら使える感じになっていて実際普通に使えてしまった。塗っておいた油が馴染んだということなのか?
 しっかしあの北京鍋はまず使わない。気をつけていないと必ずまたああなるに違いない。


 最近どういうわけか『ラ・シルフィード』のラストシーンを思い出す。


 そろそろ、来週あたりからwindows10がくるけど、自作サイト確認のために(新ブラウザが問題)すぐに入れないといけないかもしれない。「予約」状態だと有無を言わせずインストールが始まるという説もあるが。それ以後に、できればisoからクリーンインストールしたい気もするから、小さめの増設HDDでも買おうかなぁ。


 京都は20日に梅雨明けしていたらしい。今日どしゃ降りだったけど。

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 殴り書いた下書きエントリーをさっきそのまま投稿してしまって、まいった。事後的に校正。こういうことは何度か(も)やっている。まだ加筆修正するかもしれません。わーい。

 ノートPCを完全Linux機にするかどうか迷っている。Windows機として工場出荷時に戻すためのバックアップはすでにとってある。

 明日はマーボナスを大量に作らなければ冷蔵庫にスペースが開かない。作ったら小分けして冷凍しとけばいい。つまり現在それっぽい材料で埋まっているのである。

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2015-05-18.PNG NHKラジオ『実践ビジネス英語』のKIndle版テキストの6月号を今朝買ったのだが、4・5月号からさらに低クオリティになった感じで、かなり萎えている。今号は英文中のアポストロフィー(シングルクオート)がすべてなぜか全角フォント表示されるようになっている。読みにくい。4月号からの変なレイアウトもそのまま。
 やはり紙媒体を買えということなのか?


 私はもともとあんまり芸能が好きではないのだが、個別の芸能人が嫌いなわけではべつにない。芸能そのものになにか肌が合わないものがあるのである。近年テレビ番組の視聴率や音楽CDのセールスが落ち込んでいるという話はよくあるが、売れてるほうが多少なりとも不思議だった私としては今更ながらその疑問がふくらんで、元をたどるというかネット上の歴史的な動画を観ていた。

 特によさがわからない有名ベテラン歌手の方に例えば吉田拓郎があって(あるいは誰でもいいのだが)、どういう人だったんだろうと、多少我慢しながらもyoutube等で大昔の動画を視聴してみた。それで今もよく共感ポイントを探り出せないままなのだけど、なんとなく経緯は頭では理解できてきた気もする。要は社会派フォークと言って日米安保条約締結をめぐる社会運動等をテーマとして歌うのがフォーク歌手の一般的な姿だったのが、学生運動も終わり社会も多少は豊かになって個人の生活を充実させるような方向に人々が大きくかじを切ろうとしていた時期に、社会問題を歌わない若い彼がきわめてタイミングよく登場してきたということらしい。ただミリオンセラーのヒット曲がいくつもあるという人ではなく、観客動員力や先達者としての政治力によって地位を保っているような面もあるのかもしれない。
 歌詞の自己愛あるいはエゴのベクトルがちょっと志賀直哉風に見えなくもない気がしたが、その事自体は特別視するようなものでもない。誇大感は現実に対し敗北するようにできていて、それでもそれを捨てきれない場合フィクションの世界に逃げるかもしれない...。男らしさをギター抱えて「歌う」ことの女々しさ、あるいは不言実行をわざわざふれまわる自己矛盾、みたいなことになる。

 後続の矢沢永吉も身の上話の本が売れただけでそう大ヒット曲があるというわけではないようだから、芸人のプレステージ形成のパターンとしては更に極端な形かもしれない。ヒット曲のないスター。

 ガロのトンボメガネをかけている真ん中のなよっとした人(故人)は整形していたような気がする。老人になってからの画像がネット上にあるが眼が人工的で大きすぎる気がする。彼らは『マカロニほうれん荘』の主人公たちに似ているが時系列的にガロのほうが元ネタの側かもしれず、そのひどく眼のパッチリしたトンボメガネの人はきんどーさんに対応することになるのかもしれない。ジ・アルフィーも外見的な構成がガロに似ている気がするがガロの直接の後輩であるようなので意識的な模倣かもしれない。ガロの『学生街の喫茶店』はすぎやまこういちが作曲しているようで動画内に一瞬出てきて指揮をしながらカメラに向かってピースサインをしていて、うまく説明できないがどこか凶々しかった。
 鴨川つばめがガロに何を見たのか特に何も見なかったのか知らないが、あの格好は当時としても滑稽に思う人はいたのではないかと思う。ベルボトム&ロンドンブーツの元々のメタファはもしかすると戦勝国で先進国で旧宗主国に生まれた若者としてのある種のタナボタ的役得感みたいなものだったかもしれない。その意味でも多少豊かになてきていたとはいえ敗戦国民の日本人が主には脚が長く見えるからという理由で広く取り入れたとするとそこそこ状況は苛烈だ。

 昔の放送禁止歌みたいなものはあらかたなんでもない。

 フォーク系の歌手は発声がきわめて基本的なレベルで間違っている場合があるのではないかと、なぎら健壱を見ながら思った。泉谷しげるや南こうせつなども相当怪しい。彼らは歌詞の内容やメロディーとは全く関係なく単に音声として聴いて苦痛であると思う。

 キャンディーズの田中好子さん(故人)が36歳で癌を発症して、その後ずーっと闘病しながら芸能活動をされていたらしいことを知り驚きだった。徹子の部屋かなんかに出て笑っていた瞬間も、そうだったのだ。※
 韓国の最近の「人工的」な感じのモデルっぽいアイドルと、日本の伝統である土偶みたいなアイドルは好対照だが、私としては韓国のアイドルのほうがまだ耐えられる面がある。今更だが私は何か一般的な日本人と感覚がずれてる気がする。

 他にも色々視聴したのだが、日本の芸能人の大半は要は凡人代表みたいなことなのだろうか?だとすれば今やネットが彼らを殺しているような気もする。彼らが(無理やり)代弁していた人々はもはや直接発言している。

 近年音楽CDの売上が世界的に落ち込んでいるというが、MP3等のダウンロード販売で相殺できているわけでは必ずしもないようだ。

・Music album sales in the United States from 2007 to 2014 (in million units)
http://www.statista.com/statistics/273308/music-album-sales-in-the-us/

・Digital music downloads set record but fail to make up for decline in CD sales(2009)
http://articles.latimes.com/print/2009/jan/01/business/fi-music1

・Digital-Music Sales Overtake CDs for First Time(2015)
http://www.foxbusiness.com/technology/2015/04/14/digital-music-sales-overtake-cds-for-first-time/print

 芸能ってなんなのだろう??


 新サーバの一年契約をして、自作サイトに付加機能をつけるなどしていたのだが、改めてなかなか険しい感じだ。あくまで無理のない範囲で、できることをしよう...。

 無限(感覚)の相対化についてわかりやすい別名があることに気がついた。「トカトントン」。


※追記:映画『黒い雨』は田中さんのがん発症前の制作でした。訂正。

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 連日の牛焼き肉(風邪に効く説があるらしい)のおかげか、なんとか風邪がなおってきたが、まだボケボケ。ダメだぁ。卵もいいらしいのでゆで卵がおやつ代わり。
 思いのほかの激しい不調は飲酒+パブロンも原因だったかもしれない。アルコールと風邪薬はよくない。先週何回かそんなことをした記憶でいろいろとタイミング的に符合している気がする。

 前回紹介した本に互除法から最小公倍数を出すやり方がちゃんと載っていた。互除法からページが飛んでいたが、まったくの見落とし。とほほ、エントリー修正...。
 ただ証明方法は授業で習ったのとちょっと違うような気がする?

 無限(感覚)の相対化を自分なりにもっと血肉化したい。「ネットが面白くない」とか寝ぼけた言ってるようではまだまだだ。面白いって感覚にも無限が包含されている。
 しかし否定ではなく、半歩下がること。
 つまらない、美しくない物事との和解...。

 まだボケボケ。

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CIMG1963.jpg 右の写真は、平安京の心臓部に当たる大極殿があった場所にある公園内の石碑と満開のソメイヨシノ。

 遠山啓の復刊本『数の不思議』(2014)を読んでいたのだが、ユークリッドの互除法が出てきてひどくなつかしかった。大学の一般教養で選択した数学の授業で、あっちに寄り道こっちに寄り道しながら半年をかけて、ユークリッドの互除法にまつわる証明をやった。途中でカントールの対角線論法まで出てきたのを覚えている。
 実は(!?)最大公約数が分かれば最小公倍数が計算で出せる。例えばふたつの数がもととなる場合、それらの最大公約数で自らを割った商をもう一方の数に掛ければいいだけなのである(ただしこれの証明がややこしい)。どちら側の数からやっても答えは同じで、それが双方の最小公倍数。こういうのは理系の親の家庭などではこっそり子供に教えているものなのかもしれない。
 普段からマントをはおりただでさえキャラが強いのに授業中はさらに必ず白手袋をする(チョークが手につくのが嫌だったのではないかと思う)ので、まるで魔界の執事かなんかみたいな先生だった。楽しかった。

 懐古。

 風邪が抜けず、機嫌もよろしくない。

 4月に入って今日(1日はさほどでもなかった)ネット広告がすさまじい落ち方である。半減?

 PTSDはもととなるレアな悲劇がとっくに終息していても症状が持続する。生理学的にはたとえば海馬の萎縮などが言われるのかもしれないが、彼らのロジック的には平穏の不確実性(また起こるかもしれない,etc)と無限感覚(恐怖の基盤としての)のバリエーションだと思う。

 これは禁句だと思うのだが、ネットがつまらない。
 結局テクノロジーの進歩が与えた「状況の新しさ」が面白かっただけで、人間の方は何も新しくないし面白くもないし美しくもない。

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 調子がよろしくないわけだが、あんまのみたくないパブロンをのんで今は多少はましである。風邪自体はそんなひどいわけでもない感じなので体調不良に風邪が重なっている感じかもしれない。

 愛着のみならず、思考停止を促すような情動にたぶん「無限」は紛れ込んでいる。私は無限の感覚を否定したいわけではないのだが、それを相対化できれば様々な感情のくびきから幾分か自由になれるのではないかと思ったりしているのである。なんのこっちゃ。

 遠山啓によれば(数学的)無限は計数によっていくつも種類がありえて、計数自体も無限なのだそうだ。無限そのものの性質はいいんだけれど、私が知りたいのは無限の無根拠性みたいなことなのである。ゲーデルとかそっち方面なんだろうか。いずれにせよ、ハードルが高すぎる感。ブルーバックスのゲーデル不完全性定理の本ですでに無理めだったのであり、いつだかネットの何処かに不完全性定理証明の抜粋みたいのを見つけてまったくわからなかった記憶。もちろんこういうことが証明されています的な日常言語による説明を信じないわけではないんだけど、そういうのをただ教条として記憶するだけではあんまり広がりが得られない。
 自らの無力にいらだってもしょうがないなぁ。

 いわゆる龍樹の生成否定って少なくとも反無限なんだろうか?

 昨日おとといと、別ドメインの自作サイトのネット広告のあがりが500円/日超えて、やはり3月下旬はいいのかもしれない。通年での瞬間最大風速は700円台位だったと思うのでいちおう最近のが最高到達点というわけではない。コンスタントに1日千円超えたりするとモチベーションも俄然変わるんだけど、一年の内で最もあがりのいいとされる時期にこの程度では相当遠いかも。


追記:
 『無限と連続』は群論に入る辺りから難解になってど素人の私にはついていけなくなってしまったけど、奇数を1から順番に足してゆくとその値が足した数の個数の二乗になるという命題(証明されている)がちょっとおもしろかった。
 たとえば、
1+3=2^2=4
1+3+5=3^2=9
1+3+5+7=4^2=16
1+3+5+7+9=5^2=25
1+3+5+7+9+11=6^2=36
...
1+3+5+7+9+11+13+15+17+19+21+23+25+27+29+31=16^2=256
...
という具合。
 うーむ、知りませんでした。

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 NHK『実践ビジネス英語』のKindle版テキストが4月号からクラウドリーダーで読めなくなった感じで、Amazon.com側にのみ合わせていたKindle for PCをAmazon.co.jp側にも融通しなければならなくなり、両パスワードの再入力の煩雑さを避けるため、Kindle日米アカウントの統合を決意した。


※まだよくわかってないが、とりあえず今の時点で気付いたこと。

・日本側でもKindleコンテンツを購入していたためAmazon.co.jpのカスタマーサービスから統合を申し込まねばならなかったが、申し込んでから30分程度で処理完了のメールが来た。きわめて迅速な対応。

・統合後はアプリ系のリーダーの端末登録を一旦削除して再登録しなければならない。

・Amazon.comで購入した雑誌などの定期刊行物は統合後に利用できなくなることになっているが、1issue買いの場合は大丈夫っぽい。少なくとも私のAndroid端末ではすでにダウンロードしてある分は普通に読めている。

Amazon.com側のクラウドリーダーからでもAmazon.co.jpで買ったKindleコンテンツにアクセスできる。

・もっと早く統合しとけばよかった!

追記(2015/03/20):
現在Kindle for PCのバージョンが1.11.240666(デジタル署名では3月10日に発行されたようだ)になっていて、書籍によってメモが表示されない不具合が解消されたようだ。それは大変結構なんだけど、今度は(以前もあったと思うのだが)ウインドウの大きさを記憶しなかったり、他のプログラムのウインドウからフォーカス切り替えなどのためにKindleのタイトルバーをシングルクリックするとなぜか全画面表示になってしまう不具合が、復活している気がする。Kindle for PCの挙動不審については何度も書いている気がするけど、なんなのでしょう?

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 借りた本の表紙を拭いてないことに気づいたのだが、久しぶりに府立図書館に行ったこと自体が自分に対する『ためし行動』だったかもしれないなどと思いついた。カップ麺の異物混入事件からの流れで、汚れやすい図書館の本がそれと隠喩的につながっていたような気がした??
 いずれにせよ、強迫的な感じはすっかり薄らいでしまった。本の表紙は結局あとにアルコールで拭いたけれど。

 一昨年に出版されたDSM5でアスペルガー症候群が廃止されたことについて、『自閉症の脳を読み解く』のテンプル・グランディンが疑義を表明していて、賛意を表したい気持ちになった。色々事情があるのかもしれないが、現に判断基準を曖昧化したのだから、素人目にもある種の退行に見える。著者自身が自閉症で科学者である。

 『境界性パーソナリティ障害と離人症』はゴツゴツした生々しい現場の本という感じで、患者から夜な夜な掛かってくる自殺の脅迫電話や、なし崩しに外出許可や制限薬物を得ようとする執拗な要求、直接的な暴力など、精神科医という職業の大変さを推察させる。
 BPDと離人症は著者が言うほど強い結びつきを持たないような印象を私はこれを読んだあとも持っているが(離人症は極めて広範囲に起こる症状であんまり偏って考えないほうがいいのではないか)、著者自身が離人症の経験あるいは傾向を持っているらしく、情報が凝縮されかなり簡潔にかつわかりやすく要点がまとまっていてそこは貴重な感じだった。何年か前に私がえっちらおっちら読んでいた『Feeling Unreal』の内容とも大部分において整合する感じだった。
 親を責めたり自己評価が低くなりがちなBPDへの「あなたにとってあなたはかけがいのない自己であり、あなたにとってあなたの代わりは他にいません。それはすばらしい自分であり、自分が過去にしてきた行為や、他人の評価で代わるものではありません。もちろんこの考えをあなたは拒否する自由があります。」の対話パターンが印象深かった。ただ励ましているというだけではなく、特に最後の一文が重要であると思えた。彼らを低い自己評価に縛り付けているのは、そのような(自己肯定の拒絶をもたらす)感情を親と共有して手放さないところの、彼ら自身という部分があるのだと思う。そしてそれは手放すことを決断できる何かだと著者は言いたいのだ。

 『いじめの社会理論』は読み進めるほどにさらになんだかよくわからなくなっていって、壮大なる生煮えみたいな印象。
 社会心理学系の本は(本書もそうだと思うのだが)たいてい話が大きくなりすぎて非科学的になりがちな印象がある。臨床心理学系もある意味ではすでに非科学的なので、その上にあれもこれも高次の条件を加えてゆくような感じで輪を描いて独断的になりやすい。ただ、誰かがそういう次元を乗り越えられるわけでもないので、もともとある程度我慢して読むものであろうけども。
 著者が言うように、赤の他人であるのに、同質的であることや家族的であることが過剰に求められる面が日本社会にはあるのかもしれない。そして、そこからある種のアレルギーのようなものが発生する余地が生まれるとされるが、著者はネズミやハトの過密飼育を引き合いに出したりして(P33)、類例として多少違和感を持った。
 共同体というのは何であれ何か同質性があるから共同体なのだ。そこに強いストレスがかかれば排除の論理はたいていは発動する。日本的な排除と欧米的な排除の性質の違いに対する理解と、排除そのものの起源に対する理解がある程度混同されているような印象を持たないではない。いちおういじめは必ずしも日本特有のものではないと述べられてはいるのだが、やや錯綜している。
 自己愛憤怒は誰にでも起こる現象で、いじめの場面にのみ特定されるような何かではない。投影同一化も同様でもともと乳児期の分析に含まれる概念のはずで、いずれも著者の説明がぼんやりした印象を与える所以である。あとコフートの自己愛憤怒を紹介しながら、後半に突如わけもなくそれを「全能感憤怒」と独自に言い換えるのだが、不適切かつ無意味な言い換えだ。
 あと本書はいじめを主題としながら、行為障害(サイコパスの子供時代)を含める特異な要素に言及しておらず、いじめをのっぺらぼうの一般論としてひとまとめに捉えようとする傾向を持っているように感じた。たとえば加害者集団の牽引役がたまたまそのような子であった場合に、やすやすと倫理的障壁を取り除き、集団が暴徒化するきっかけを与える確率を高めると思う。人格障害の一部の概念でいじめのような複雑な心理現象を切り分けるのではなく、もっと発達論的な視点から見たほうが思春期周辺のいじめを比較的よく説明したのかもしれない。

 笠原嘉『境界例研究の50年』は2012年に書かれた最後のまとめのような一稿を除いて、境界例に関する1970~1980年代の古い論文ばかりが並べられている。
 今や時代遅れの概念であるとも思われる「境界例」は非典型症状の集積所だった。現在いくつかの人格障害に収斂されるものだけではない、名状しがたいような症例も多く含んでいた。あえて言えば不完全な精神病や分類不能の神経症の集まりだったのだろうが、本書は後世その何割かが回収される人格障害の各カテゴリにすら当てはまらないような事例を(おそらくはあえて)強調していて、そうだ境界例とはもっと得体のしれない概念だったのだ、と少し居住まいを正すような気持ちにさせられた。小器用なカテゴライズからこぼれ落ちるわけのわからない症例に光を当て直すような著者の姿勢が誠実に思えた。
 たとえば、1970年代の論文の中で、不安感、無力感、離人感、強迫症状を持ち、家庭内暴力にその他素行不良で、さらに容貌に対する劣等感から隆鼻整形したという「境界例」男性のケース。精神科入院によりきわめて顕著に諸症状が改善しはしたのだが、それがなぜなのか医師にも不可解なほどの変化。しかも改善は一時的なものではなく、まっとうな社会人としてその後何事も無くやって行っているという。笠原は自らの治療行為がどの程度寄与したのか疑い、当初の診断に問題があったかもしれない旨述べている。むろん、では明確になんだったのかについて言及するには至っていない。


 NHKの語学関連テキストのKindle版がKindle Cloud Readerでも利用できるんだけど、どのくらい周知されてるか。日本語一般書籍はまだダメみたいだけど、なぜか雑誌類は利用OKなのがかなりある。パソコンの大画面で見られて相当便利。

 ナルシシストはしょうもないことに過剰な自負心を抱いている場合が多いので、同質的な他者が自分と同様の満足を持ちあわせていないと土台が崩れて体面が汚されたように感ずる。他者の謙虚さがナルシシストの反感を買ってしまうメカニズムであるが、これも「自己愛憤怒」生成のバリエーション。気づきにくいってほどじゃないが。

 本を返却しに府立図書館に行ったらちょうど近場の疏水を浚渫していた。浚渫用のショベルカーが水面の中央に浸っていて不思議な感じだった。

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CIMG1912.jpg 12日に二年ぶりくらいに府立図書館に行って何冊か借りてきたのだが(係の人に住所が変わっていないか訊かれてしまった)、今日は18日なのにまだ一冊目の途中でのろのろしている。読書の時間そのものがあまり取れなかったのと、最初に読み始めた目当ての『いじめの社会理論』がかなり微妙な感じで詰まっているからなのだけど、面白くないわけではまったくない。コフートの名前および彼の「自己愛憤怒」概念が頻繁に出てきて、それを応用するような形で筆者独自のいじめ理論が展開されている。
 しかし、それが相当微妙。
 他の本はせっかく府立図書館に行ったのでなんか借りようとひっつかんだ棚の近場にあったやつで、パラパラめくってみた感じではそんなに時間がかからないとは思うのだが、とにかく返却日が27日なので頑張って読まねば。
 ちょっと今から力入れるつもり。

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