思いつくままのブログ記事

・Marc Tonkin, Ph.D., and Harold J. Fine, Ph.D. (1985) Narcissism and Borderline States: Kernberg, Kohut, and Psychotherapy 〔PSYCHOANALYTIC PSYCHOLOGY, 1985, 2 (3) 221-239〕
https://www.sakkyndig.com/psykologi/artvit/tonkin1985.pdf

 著者は、今の読者には唐突な感じで、トマス・クーンのパラダイム理論を紹介して(当時流行っていたのだ)前半の紙幅を費やすのだが、クーンの理論によれば、成熟した科学は説明をシンプルなものにするがクライシスの中にある科学はノイズや複雑さに満たされる、という。著者は、シンプルな理論としてコフートを、複雑な理論としてカーンバーグを紹介するが、カーンバーグに対してコフートの理論が同一線上でより成熟しているということではなく、伝統的なフロイト理論の限界域で格闘するカーンバーグと、新しい概念で理論を構築するコフートの間に、ある種の断絶があるということのようだ。

(p.229) Narcissism develops gradually throughout infancy and early childhood along two separate but parallel tracks of development that correspond to two precursors of later images of the self and the other person. The first track concerns an image of the self called the grandiose self, and the second track concerns a self object called the idealized parent imago. The development of narcissism moves gradually from an archaic state of fusion of the self and the other to the differentiation of the self from the other. The grandiose self and the idealized parent imago represent the first distinct differentiation and form of the foundation upon which further differentiation of the self is built.
(p.230) As the child experiences frustrations (e.g., hunger) in this state, he develops an ability to reconstruct the euphoria of the nonfrustrated autoerotic state by forming a grandiose and exhibitionistic image of himself (the grandiose self) and a perfect, omnipotent selfobject (the idealized parent imago).
 上2つは、コフート理論の、乳幼児の原初的な融合状態から誇大自己と理想化イマーゴに分かれる場面を説明した箇所からの抜粋だが、コフートは(カーンバーグと違い)誇大自己をもともと健康なものとして捉えている。空腹などのちょっとした苦痛が母親と自分が別の存在であることを予感させ、全体としては肯定感を保ったまま、自己と母親(イメージ)への分離が進む。別言すれば、これは誇大感の分担のようなものだ。この分担は現実を受容するに付随して差異化を繰り返しながらどんどん進行し、健康な大人になる頃には誇大感はほとんど世界全体へと雲散霧消してしまう運命にあると思われる。ナルシシストの異常性は、この文脈では、原初の分担の失敗が尾を引く誇大感の抱え込みにあると思われる。
 本稿によると、カーンバーグ理論による健康な発達では誇大自己や理想化イマーゴは生じないとしている(それらはスプリッティングの反映のように捉えられる)。そういうことなら、コフートは幼少期のある程度の欠損は当たり前のものと前提しているように見えるかもしれないが、一方でカーンバーグは病的な側面にのみ注目している感じもするのでもともとの視座が異なるのかもしれない。
 いわゆる「投影性同一視」は赤ちゃんの原始的防衛機制を表す場合と、BPDやNPD等の患者が示す病的な(原始的)防衛機制を表す場合に分けられるが、後者に関して本論文中に端的な要約があったので訳してみた。たぶんWikipediaよりもかなりまし。
(p.235) The term projective identification refers to the patient's tendency to defend against a dangerous object, which he has created projectively, by identifying with that very same aggressive object and "empathically" becoming aggressive himself toward the object. This is expressed by the patient attacking the object before it attacks him.
(私訳)「投影性同一視」とは、患者の投影的に創造する危険な対象への防衛傾向を意味しているが、患者がその攻撃的な対象に同一化し、その対象に向かって『共感的』に攻撃的になることによる。これは、対象が攻撃してくる前に患者がそれを攻撃することで表現される。
(p.236) Kernberg and Kohut differ in three major ways: They focus on diagnostically different patient groups, they have different etiological theories to explain the pathology with which they deal, and they use different therapeutic techniques.
1.カーンバーグは転移を起こさない分析不可能な患者を診たが、コフートは自己愛転移によって分析可能な患者を診た。
2.カーンバーグの考えるボーダーラインの原因は発達の病的な成り行きにあるが、コフートが考える原因は正常な発達のある時期における停止にある。
3.カーンバーグの治療は闘争的なトーンで行われ抵抗を利用し解釈を与えて患者の自我を強くしようとするが、コフートの治療は静かな雰囲気の中で自己愛転移を利用して患者の失われている構造を控えめな形で供給する。
 私はカーンバーグとコフートのどちらが正しいとも確信しないが、乳幼児が(不満や苦痛や恐怖などの)負の感情から誇大感を生み出すという機序について、改めて反芻せざるを得なかった。鍵要素となるomnipotenceは日本語では万能感とも全能感とも訳されるが、おそらく万能感というものは多幸感に近い。それに比べて、全能感はそれ自体なにか常軌を逸した異様なものだ。北山修も著書のどこかで両者を区別していた気がするが、私の語感と一致するかどうかわからない(多分しない)。説明を試みれば、満たされた乳幼児は万能感を持つが、全能感を持つのはむしろ満たされない乳幼児なのだ。外部を忘却するのが万能感、外部を妄想によって上書きしようとするのが全能感。(薬物によるような場合は別にして)前者は健全であり、後者は病的ということになるだろうか。
 空腹になってもいつもは泣けばすぐにお乳にありつけたのに、何らかの事情で今回はどれだけ激しく泣いても救済者(母親)が現れないという場合に、乳児は欲望の成就を阻止するこの世界を滅ぼすべき邪悪なものとして妄想しだすかもしれない。正義は我にあるわけだ。なんだかカルト宗教にありそうな理路だけど、そこでは、超越的な力が間違ったこの世界を正すことになるはずなのである。
 コフート的な誇大自己と理想化イマーゴへの分裂は、自然な万能感を破綻はさせず小さく揺るがす程度の危機によって生み出されると思える。しかし、この万能感の維持が致命的に失敗した場合、乳幼児は世界への復讐のための全能感(妄想)を生み出し、ひいてはそれが病的なナルシシズムとなっていく。

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・Co-Narcissism: How We Accommodate to Narcissistic Parents (2005 ) Alan Rappoport, Ph.D.
https://alanrappoport.com/wp-content/uploads/2021/09/Co-Narcissism-Article.pdf

 偶然見つけたDr. Alan Rappoportの論文なのだが、Jürg Williの補足的ナルシシスト、あるいはGlen O. Gabbardの過剰警戒型ナルシシスト、あるいはPaul WinkのCovertなナルシシストに大体オーバーラップするような概念としてCo-Narcissismを提示している(2005年)。補助的ナルシシズムと訳すと意味が通りやすいが、接頭辞のCo-は「共同」的な意味合いの方が強いので、むしろ原語は一瞥だけで意味を把握しづらいかもしれない。ネット検索しても、(残念ながら)あまり流行っていない。
 参考文献にはElan Golombが載っていたりしてひどく懐かしいが、アカデミックな価値がある論文というより、Rappoportのカウンセリング経験から形成された概念的見通しを綴った小品と言っていいと思う。だが、それとして印象深かった。
 通常ナルシシストは、まず治療に来ないとか、普通の意味での転移が起きないとかいって、治療困難の烙印を押されがちだが、本稿ではそのような弱音はなく、intrinsic valueの確信や、他者愛の発見によって治るというような、拍子抜けするほど希望的な筋立てになっている。intrinsic valueとは何か?


(p.2) Commonly, one parent was primarily narcissistic and the other parent primarily co-narcissistic, and so both orientations have been modeled for the child. Both conditions are rooted in low self-esteem. Both are ways of defending oneself from fears resulting from internalized criticisms and of coping with people who evoke these criticisms. Those who are primarily co-narcissistic may behave narcissistically when their self-esteem is threatened, or when their partners take the co-narcissistic role; people who primarily behave narcissistically may act co-narcissistically when they fear being held responsible and punished for another's experience.
 後半の症例のパートでは、上掲引用に対する具体例のような感じで、妻や子供には尊大に振る舞い自分の父親には卑屈な態度になる自己愛的な男性が出てくる。誇大さと卑屈さは、ひとりのナルシシストの中で、場合によって入れ替わり得る相補的な要素と言いたいわけである。確かにそうと言えるかもしれない。しかし私は、少なくともNPDには基本姿勢というべきものがあり、それは人との組み合わせによってたやすく変わる何かではないように捉えている。基本姿勢として、Overtは自らがどこまでも拡大したいのであり、Covertは自分を無くして全能者に包摂されたいのだ。身近な対人関係によって態度が振幅することがあるとしても、各々の欲望は別の方角を向いている。
(p.3) One of the critical aspects of the interpersonal situation when one person is either narcissistic or co-narcissistic is that it is not, in an important sense, a relationship. I define a relationship as an interpersonal interaction in which each person is able to consider and act on his or her own needs, experience, and point of view, as well as being able to consider and respond to the experience of the other person. Both people are important to each person. In a narcissistic encounter, there is, psychologically, only one person present. The co-narcissist disappears for both people, and only the narcissistic person's experience is important. Children raised by narcissistic parents come to believe that all other people are narcissistic to some extent. As a result, they orient themselves around the other person in their relationships, lose a clear sense of themselves, and cannot express themselves easily nor participate fully in their lives.
 なぜNPDとのコミュニケーションが成り立たないのかの端的な説明。NPDはこの世界に意思疎通可能な他者を発見できない。彼らは自己の派生イメージを相手にした自作自演のようなやり取りをすることしかできない。NPD親に育てられた補助的ナルシシストの子は、意識的・経験的にそれを克服していなければ、相手の自己愛を基軸として関わりを持とうとしてしまう。
(p.4) It is powerfully healing for the patient to experience a relationship that is not based on narcissism. Co-narcissistic people are therefore greatly helped by the therapist's embodiment of Carl Rogers' principles of accurate empathy, interpersonal warmth and positive regard, and personal genuineness.
(p.4) In addition to the beneficial effect of the relationship between therapist and patient, a major part of the therapy process involves understanding how events and experiences in patients' early lives resulted in their current fears, inhibitions, and orientation towards others.
 NPDが外的な評価に依存しているのは自我の根底的な脆弱性と裏腹であり、簡単に取り去ることはできない。しかし肯定的な外的評価の供給源(自己愛供給源)を演じながら、彼を自律的な自己肯定状態に誘導しようとするカウンセラーが十分な信頼を勝ち得た暁に、患者は外的評価への依存そのものを断ち切る飛躍を決行するかもしれない。古い松葉杖から別の補助器に取り替えたあと更にそれをも取り去るのに似て、果たしてその後、ひとりでどこまでまともにやっていけるかが際どい問題になる。intrinsic valueを確信させる幼少期の良好な親子関係に代わるものは、その後どこまでも現れないからである。
(p.7) It is often helpful in overcoming narcissistic anxieties to realize that the other person's behavior is a result of their own views and experience, is not a reflection on oneself, and one's self-esteem does not have to be affected by their behavior. For co-narcissistic people, who experience strong feelings of guilt and blame, recognizing that they are not responsible for another's experience is a great relief. It is important for people with either narcissistic or co-narcissistic problems to come to believe that they have intrinsic value, independent of their accomplishments or what others may think of them.
 言うまでもなく、他者の自分への評価がすべて相手の思い込みで自己完結的なものであるとするのは無理があるし、社会の中で生きてゆく以上、他者による評価が自分に何の影響も与えないとするのも無理がある。しかしながら、そのような前提はNPDが幻想を断ち切り本当の意味での他者を発見するための必要な手続きであるのかもしれない。また、ある種のメンタライゼーションでもあるかもしれない。けれども、おそらくはこの手続きの後の道行きが険しい。C-PTSDのPete Walkerが著書でいまだに自分の子供の健全な反応に当惑することがあるというようなことを書いていたと思うが、NPDのサシが深い場合、外的評価への過剰な指向性を引き剥がすと壊滅した自我だけが残るということになりかねない。

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  前回あまり気が進まずにWikipediaの"Narcissistic supply"(自己愛供給)のページを訳したら、目次の訳を間違えてアップしていた。さっき訂正したけど、目次から間違えるとは我ながらひどい。校正で本文は一回通して見直したが、その時なぜか目次部分をスルーしていた。

 以前紹介したサム・ヴァクニンがこの"Narcissistic supply"の概念を推していて、その事自体はわりといいところを突いている気はするのだが、彼の著作を読んでいると、それ以前に彼のNPDであるという自認が怪しいものに思えてくる。その理由は主に、サム・ヴァクニンが刑事事件(証券詐欺)で有罪判決を受けているということと、彼がNPDとサイコパスの類縁性を異様に強調することにある。サイコパスがナルシシスティックであることは専門家の一致する所見だが、多少似たところがあるとしても両者は違うものだ。
 サム・ヴァクニンは、(医師資格もないのに)著書でDSMにおけるNPDの診断基準に独自の修正を加えているのだが、シンプルであるべき表現をくだくだしくしてるだけでなく、ややぎょっとする修正(引用イタリックの箇所)を行っている。彼は、NPDがもっと攻撃的な傾向を持っていると訴えたがっているのだ。

Constantly envious of others and seeks to hurt or destroy the objects of his envy or the sources of her frustration.

Vaknin, Sam. Malignant Self-love: Narcissism Revisited (FULL TEXT, 10th edition, 2015) (p.3). Narcissus Publications. Kindle 版.

 しかしDSMがNPDの攻撃性を強調しないのは、私は正しいと思う。攻撃性はNPDではなくサイコパスの特徴なのである。
 Wikipediaの彼のページの経歴によると、1985年頃にNPDの診断を受けたが当人が納得しなかったようで、その後、彼の起こした犯罪での仮釈放の条件がメンタルヘルス評価を受け入れることだったためNPDということになったようだ。しかし、もし仮にこれらが誤診だったとすると、彼の自認と客観基準のズレに関して説明がつくような気がするわけなのだ。
 詐欺師から心理学の教授になってしまうサム・ヴァクニンの知的パワーには敬服せざるをえないが、怪しさはつきまとう。過去には、Wikipediaの編集者も彼の取り扱いに苦慮したようで、議論になっているが、サム・ヴァクニン個人のページは今もWikipedia上に存在するし、他のページでも専門家のように記載されていたりする。

 Shahida Arabiはこの微妙なサム・ヴァクニンからかなり影響を受けているようで、彼女の微妙さを裏付けている気がする。


追記(2022/12/31):
 サム・ヴァクニンの怪しさが光るわけのわからない文章。ナルシシストである親がナルシシストである子供をどの程度発生させるかについての叙述。親から子へ連続するのは非常に少数派だと言いながらも、ナルシシストである子供から見て、その親や養育者のうち大抵一人以上はナルシシストだなどと述べている。子だくさんなカルチャーを前提にしているのだろうか?何を言いたいのかよくは分からないが、根拠や出典も不明。サム・ヴァクニンは万事この調子。しかしこの無責任さがまさにナルシシストの兆候ではあるのだが。

At the risk of over-simplification: narcissism does tend to breed narcissism, but only a small minority of the children of narcissistic parents become narcissists. This may be due to a genetic predisposition or to different life circumstances (like being the firstborn). Still, most narcissists have one or more narcissistic parents or caregivers.

Vaknin, Sam. Malignant Self-love: Narcissism Revisited (FULL TEXT, 10th edition, 2015) (p.616). Narcissus Publications DOOEL. Kindle 版.


追記2(2023/02/19):

Antisocial personality disorder and narcissistic personality disorder share the traits of exploitation, superficiality, and lack of empathy, but even at the more severe end of the spectrum, individuals with narcissistic personality disorder do not demonstrate the total breakdown of moral functioning and absence of any capacity for loyalty that typifies antisocial personality disorder, nor is narcissistic personality disorder typically associated with the history of childhood conduct disorder that is common in antisocial personality disorder.

"Narcissistic Personality Disorder: Diagnostic and Clinical Challenges" (p.5) Eve Caligor, M.D., Kenneth N. Levy, Ph.D., Frank E. Yeomans, M.D., Ph.D.

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 探していたカーンバーグの有名な論文がネット上にpdfであったので、リンクメモ。趣旨としては全体にカーンバーグがコフートを論難しているものなのだが、下に抜粋している箇所はその文脈とは直接は関係なく、今で言う心のレジリエンスの発生源に関するもので、個人的に印象に残ったため。

・Contrasting Viewpoints Regarding the Nature and Psychoanalytic Treatment of Narcissistic Personalities: A Preliminary Communication - Otto F. Kernberg, M.D.
http://www.sakkyndig.com/psykologi/artvit/kernberg1974.pdf

The normal reaction to loss, abandonment, and failure is the reactivation of internalized sources of love and self-esteem, which are intimately linked with internalized object relations and reflect the protective function of what has been called "good internal objects."

Contrasting Viewpoints Regarding the Nature and Psychoanalytic Treatment of Narcissistic Personalities: A Preliminary Communication - Otto F. Kernberg, M.D.
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 コフート関連の日本人の研究者のネット上にある論文等を読んだりしていた。
 Overt&CovertのNPDの話や、森田正馬が扱った対人恐怖症に対する自己愛の関連付けなど、微妙な話題が多かった。森田正馬が傑出した人物であることは間違いないが、全知全能なわけでもないので、間違うことはあるだろう。
 Overt&Covertは無自覚型と過剰警戒型と言い換えてもいいだろうが、私は傷の様相あるいは程度による違いから来ているのではないかと憶測したりする。両者とも心のコアの弱さは本質として似ているのだが、Overtはそれに一応わりとちゃんとした発達上のシールドが付いているので社交性は阻害されないが、Covertはそのシールドすらないので自己として社会から距離をとらざるをえない感じ、だと思うがどうだろう。

 コフートの、カルチャースクールか何かの先生になって誇大感を癒していた症例は、読んだ当時も全く訴求しなかったが、あれが代償行為による解決だったのかもしれない。代償はある行為に対する過剰で不自然な意味づけを前提とするため、危険性をはらんでいる。それにあれは治療上の変容性内在化の失敗のはてだったような。
 ほどよく恵まれた子供は適切な愛に包まれながら現実への健全な幻滅の過程をたどることができる。つまり幼稚な誇大感を無理なくスムーズに脱ぎ捨ててゆくことができる。誇大感を代償行為によってごまかそうとするのではなく、やはり、そのように誇大感そのものの縮小を目指すことが本筋であるはずだ。
 インナーチャイルドを操作するような場合も、いつかの自分に振り向けられた誤った育児法を否定して理想モデルとすげ替えるよりも、その時の喪失によって持ち越された誇大感を、健康な自己愛によって今からでも当たり前の幻滅へと導いてやることのほうが本質的だと思われる。

 代償行為による解決は危うい。たいていどこかに無理が出る。飛行機遊び(実際に操縦する)にのめり込んで子供も家庭も放置してしまう父親がエラン・ゴロムの書籍に出てきたっけ。

 人は自ら祝福しつつ幻滅することができるはずだ。

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 以前、私がウィニコットの偽りの自己がうまく理解できなかったのは、支配-被支配関係の逆説性(支配する側も実は支配されている)にこだわったからだと思うが、その後、偽りの自己を生み出す状況がまったく不作為にも起こりうることが納得できて、理解はややましになったかと思う。
 しかし今になって、病的自己愛の世代間連鎖をめぐって、これは親も子も偽りの自己で生きているということなので、一周したような格好で支配-被支配関係が重要な要素でないわけではないと再び思い出すようになってきた。彼らは相互的に持ちつ持たれつのファンタジーを生きているからだ。
 私の間違いは、偽りの自己の発生と維持とをある程度混同していたことと、権力関係を偽りの自己の必要条件として過大評価したこと、に原因があったように思う。
 ただ、親側に作為なく子が偽りの自己を形成して、親がそれを本当の子だと誤認しているようなケースも気にかかる。

 Elan Golombが古い方の著作の最後の方で「私が47歳の時に~」とか言い始めて驚愕していた(ということはこの時点でそれ以上の年齢)。博士号も持ったカウンセラーなのに、中年以上になっても病的自己愛の親からの影響に悩んでいることになるわけで、落胆せざるを得なかった。しかもそれから23年後の著作(当人70歳以上?)でも、結論部で『別の生き方は見つからなかった』という趣旨のことを仄めかしており、もはや三つ子の魂百までの再確認か。
 ネット検索してみるのだが彼女の正確な年齢はよくわからない。


追記(2021/06/30):
 一般にNPD母は子に合わせることに何らかの支障がある。

 母親が自分とは非常に違った赤ん坊をもって見込みちがいをすることも本当におこる。赤ん坊が彼女よりもすばしっこかったりのろかったり、などである。このようにして、赤ん坊が求めているものと思ったことが実際はまちがっていたということがおこる。しかしながら、不健康や身のまわりからのストレスのために歪んでない限り、全体として母親は幼児の求めるものをかなりの確かさをもって知ろうとするし、さらに求められたものを好んで与えるのである。これが母親による育児のエッセンスである。
 "母親からうける育児"によって、幼児は独自の存在をもつことができ、存在の連続性とでも呼べるものを形成しはじめる。この存在の連続性を基礎にして、生得的な潜在力は次第におのおのの幼児のなかで芽を出しはじめる。育児が適切でないと存在の連続性を欠くために、幼児は真の意味での存在とはならない。その代わり、環境からの侵害に対する反応に根ざした人格をつくりあげるのである。
D・W・ウィニコット『情緒発達の精神分析理論』P54-55

 NPD母は基本的に侵入的でもある。

 母親は赤ん坊を彼女の個人的経験や感情に巻き込まない。彼女の赤ん坊は彼女が殺したくなるくらいまでに泣きわめくこともあるが、彼女はまったくいつもの配慮でもって赤ん坊を抱き上げ、復讐することはない―いや、したとしてもそれほどでもない。彼女は赤ん坊を彼女自身の衝動の犠牲者にすることを避けようとするのである。育児とは、治療することと同じで、個人の信頼度についての試練のようなものである。
北山修『錯覚と脱錯覚』P30引用 D・W・ウィニコット『子供と家族とまわりの世界』原書P87

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 愛着理論で言われる愛着形成の臨界期は生後半年から2歳位までらしいが、もっと広く見て、子供というものは、人間の精神や知性や認知などの基礎部分を築くためのかけがえのない時間を生きている存在だと言っていいだろうと思う。例えば母語の獲得などもそうで、先月だか寄り道的に読んだスティーブン・ピンカー『言語を生みだす本能』では、クレオールとピジンの比較をしながら、言語の習得の場合の臨界期について叙述していた。ピジンのように臨界期を過ぎてからの言語の習得は、相当な努力をしても、ぎこちないものにならざるを得ないようだった(あぁ、やっぱり...)。

 つまり、話は大雑把には単純なのだ。人間の神経系をつなぐシナプスは生後数ヶ月から猛烈に発達し始め、様々な情報を過剰に取り込んでゆくが、同時進行的に思春期の前くらいまで「刈り込み」のようなことも行われる。必要な情報と不必要な情報の取捨選択が並行して行われるわけだが、刈り込まれてシナプスの総量は思春期頃には落ち着き、低い第二のピークである25才頃を境に死ぬまで漸減してゆくことになる。そのように乳幼児期から思春期前期にかけて、意識的にか無意識的にか、試行錯誤しながら形成された神経系が、その人のその後の精神生活の基礎をなすと考えるのが普通だろうと思う。
 これは愛着パターンの愛着スタイルへの変化時期にも対応するだろう。神経系発達過程については愛着理論の岡田尊司も言及していた。
 必ずしも臨界期について述べているわけではないが、トラウマ派の著作として、数年前に邦訳で読んだ、ベッセル・ヴァン・デア・コーク の『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』も紹介しておく。
 よく大の大人の精神的な悩みを解くのに子供時代の話をするのはバカげていると主張する人がいるものだが、上記のように、もし傷が早期に形成されてしまえば基礎部分の不具合で後々までタタリがあるというわけなので、そのような作業が発生する場合があるのは別に異常ではない。さらに早期の傷が本人には自覚されていないケースも少なくないので、自分はまったく良好に育ったと思い込んでいても、詮索してみるとかなりの偏りが発見される場合もあるだろう。その上でのケースバイケースではあろう。
 以前のエントリーのPete Walkerが、「希望」としていた、成人後の心的努力による神経系の新生や上書き作用は、ピジン話者の生涯続くぎこちなさの中に、その儚さが象徴されているような気がする。過大な期待は持つべきではないかもしれない。ただ、根治ではなく、眼の前の社会や現実への適応のための細かい努力として捉えるなら意味があるのだろうか。

 Elan Golombの『Trapped in the Mirror』は現在終盤の17章あたりをノロノロ読んでいるのだが、これは1992年の出版で、アリス・ミラーの次の世代くらいのかなり昔の本であった。だから今から見て理論的に整理されてないと言うか、Elan個人の傾向も多少ある気がするが、あちこち話が飛んでノイジーに感じられるのだと思う。原因論についても理論的解釈についても治療論についてもほとんど踏み込んでいない。しかし内容が空疎なわけでは多分なく、多数のエピソードとその背後のElanによる意味付けに価値があるのだろうし、いずれにせよ手探り時代にはこういった冗漫さは避けられなかったと思う。それで最近、彼女の2015年出版の新しめの本を購入した。Elan Golomb『Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction』だが、乗りかかった船と言うか、Elanの考えがその後どうなったか知りたいと思う。双方出版に20年以上ものラグがあるが、彼女の著作は基本的にこの二冊だけのようだ。

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 多分(遠いor近い?)将来にはミラーニューロンとかの自然科学の話とつながってくるのだろうが、メンタライゼーションは、私の主たる興味であるNPDの非共感性(ただ当人は他者の内面を自分に都合のいい想像で埋めてしまうので共感性が欠如しているという自覚はないと思うが)と地続きの概念でありネット上にもそのものズバリなテクストがある。

・Affect regulation and mentalization in narcissistic personality disorder
https://www.researchgate.net/publication/283928025_Affect_regulation_and_mentalization_in_narcissistic_personality_disorder

・Mentalization-Based Treatment for Pathological Narcissism
https://www.researchgate.net/publication/340010181_Mentalization-Based_Treatment_for_Pathological_Narcissism

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 C-PTSD(複雑性外傷後ストレス障害)の概念は未だに米国のDSMには採用されていないが、国連のWHOの疾病分類では去年6月に発表された最新のICD-11から採用されている。
CIMG3058.jpg ジュディス・ルイス・ハーマンが『心的外傷と回復 』(1992)の中で初めて提案したC-PTSDのモチーフは社会生活に潜む継続的暴力によるものだが、それを押し進めた、彼女の影響を受けた英米カウンセラーによる、なんらかの人格障害の近親者からの被害としてのC-PTSDという最近のアイデアは、かなりドラスティックな衝撃を与える(じゃあ何でもありじゃないか的な意味においても)。
 C-PTSD概念の提唱者であるハーマンは女性であり、主張の中でも多く家庭内での(性)暴力の被害を念頭に置いているが、以前紹介したスティーヴン・ジョゼフの『トラウマ後成長と回復』でBPDとPTSDをつなげようとしていた勢力がフェミニズム方面の人々であったのも、元締めである彼女の影響が予想されるような気がする。ただ、日本語版Wikipediaではハーマン自体がラディカルフェミニストとして紹介されてはいるのだが、ソースはいまいちよくわからなかった。また記憶回復療法は(効果はともかく、また催眠術を利用せず対話によって引き出すものも含めれば)フロイトから今に至る一般的な方法のひとつであり、記憶の不正確性や事後的な改変が起こることも新しい知見ではまったくないので、日本語版Wikipediaでのこれらをひとからげに「ハーマン一派」に帰責する説明は誤っているか言葉足らずである(当時の訴訟の成り行きを根拠に過分なことまで否定しているように受け取れる)。
 最近のカウンセリング本が主張するようにC-PTSD概念を人格障害の二次被害のような領域にまで敷衍するということは、例えば、対象関係論(あるいはコフート)の原因論でよく出てくる「非共感的な母親」の振る舞い等もC-PTSDを構成するひとつのトラウマ足りうるということになるであろうが、私としては、所詮、対象関係論とトラウマ派で別のルートで同じ山を登っているだけという感じを併せ持たなくはない。ただトラウマ派が新しいのは、戦争とか刑事事件とか極端なDVの被害事例から遡行するような形で、既存の精神疾患のカテゴライズを破壊しつつ、むしろその本質により直接に到達しうる場合があるかのように思わせるところだ(本当にそうであるかどうかは留保する)。
 トラウマ派の好感を持てるところは、必ずしも「セオリー」を重視していないところかもしれない。フロイトのエディプスコンプレックスにしろ対象関係論の○×ポジションとかにしろ、精神分析の中核には必ず何らかの人間の精神発達に対する(大それた)理論化への意志があった。それらは当初かなりバカバカしい部分も多かったかもしれないが、一応時代を経てそれなりには穏当な概念に修正されてはいった。しかしそれら膨大な努力はどこまで行っても、あるいは今なお、仮説でありある種の申し合わせにしか過ぎない。トラウマ派は症状の向う側にある人間性の本質的「構造」を軽々に想定しようとしない。彼らは症状の実際的な現れ方により注目するからだ。
 振り返れば、カーディナーの頃はまだ巨人フロイトの影響が強すぎてトラウマ派がささやかにしか独自色を出せないでいた感じがする。今となっては、戦場の地獄を語るのにフロイトの概念を利用せざるを得なかったのはなんともちぐはぐな印象を与える。また、ハーマンの主張によると、フロイトは保守的な時代背景により患者の近親姦被害の訴えを嘘と決めつけたりして、PTSD的なものに深入りしないような学問的立場を選んだとされ、その意味でもフロイト理論は間尺に合わないということになるだろう。


追記(2019/11/18):
 まだ内容的にもやもや。
 記憶が部分的に失われることは解離でも抑圧でも起こる症状のはずで、医療はどうしたって何らかの対処をそれにするわけで、広義の記憶回復療法は滅亡しようがないと思われる。おそらくほとんどの精神療法は記憶回復的な要素を持っている。ハーマンが若い頃行っていたのは催眠による記憶回復でこれは催眠療法の一種と表現すべきものでもあろう。いずれにせよ、治療過程で「蘇った」記憶に裁判での高い証拠能力が認められないのは当たり前で特に驚くに値しない。ある記憶が患者にとって激烈な負の意味をもつ場合に、その記憶を意識の俎上に載せ、苦痛を取り除くことで当人が回復するということが治療にとって重大なことなのであって、記憶の真実性はもともとそんなに重要じゃない。当人がそう信じ込むなり、無意識に創造するなりして出来上がったフィクションだとしても、それを梃子に症状が治れば問題ない。
 また治療過程で不作為に醸成されたストーリーと、復讐や金銭目的等で意識的に捏造されたそれでは、さらに別の話であろう。

 フェミニズムの件はYoutubeにあったハーマンのインタビュー動画でかなりそれらしいことを言っていた。社会運動と専門分野の橋渡しを公言する彼女は、例えば、政治的意図のために患者の記憶を誘導したのではないかという疑いを持たれても仕方がなかったかもしれない。あるいはそのような不透明性が論敵に利用された面もあったかもしれない。
 精神科医たちが毎日人々の悲惨な体験を聞かされて社会的な発言をしたくなる気持ちはわからなくもないが、そのやり方はかなり注意を要するのかもしれない。


追記2(2019/11/25):
 日本語版Wikipediaのハーマンの項目がひどいのは、要は、彼女の最大の功績である『複雑性PTSD』の発見について何も述べていないところだと思う。このところ読んでいる岡野憲一郎の『新外傷性精神障害』の中でも、ハーマンは現代における拡張PTSD概念の端緒として叙述されている。しかも、後世の検証の進み具合によっては、力動精神医学から外傷精神医学への転換点としての、より大きな功績者として認識される可能性を持っていると思う。
 知識の入り口でWikipediaを見る人は多いのかもしれないが、最初にあの記事を読んでもし人物を納得してしまったとすると不運としか言いようがない。催眠療法によって引き出された記憶が裁判の証拠として不十分であることは当たり前かつ些末であり、それによって彼女の学問的価値が毀損されるものではない。

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 最近身近な対人関係で長年の謎が解けたと感じるようなことがあり、なんとも言えない変な感じ。仮に謎が解けても現状に本質的な変化が現れるわけではないが、解釈に迷うような時間がなくなった感じだけはある。
 分かってみればしょうもないとも言えるのだが、なにが気づきを遠ざけていたのかと反省すると、相手の自己イメージをとりあえず尊重しようとする(誰にでもある)基本的な心の動きがネックになっていたかなと思う。しかし本人が自分はこうだと述べているのに明確な根拠もなくそれを否定することは簡単ではない。もっと早く気づきたかったけれど。

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