読書メモのブログ記事

CIMG3463.jpg 偽りの自己をめぐってスターンの名前が出てきたので、以前から気になっていたこともあり、京都市図書館にあるものを借りて読んでいた。『乳児の対人世界<理論編・臨床編>』『母親になるということ』。読んでいる最中はあれこれ思うこともあったのだが、今日3冊めを読み終えて本は返却してきて、読後感が複雑すぎて軽率になにか言いたくないという感じが強い。
 批判対象とする人物の主張をスターンが誤解している面があるのではないかという危惧が終始あった。対象関係論が乳児の自他の未分状態を強調していて実際の観察された乳児に想定される自己感の兆候と矛盾すると言うが、対象関係論は完全に自他不分明な錯乱状態を乳児に想定しているわけではない。いわば自己の前駆体のようなものを、スターンのようには自己の中に含めないだけで、対象関係論者が、誰でも見ればわかる乳児の自己の兆候をすべて無視しているとすることは想定しづらい。ウィニコットが、乳児が自分の全能感を支え演出していたのが実は母親だったのだと気づく(脱錯覚)段階に注目するように、乳児に自己感があったとしてもそれは同時に自他の不分明さをいまだ含んでいる非現実的な自己なのである。したがって、現実には自己感と不分明さは必ずしも対立しておらず、むしろそれら自体が混じりあいながら併存していると思われる。
 ただ、スターン自体の印象が悪いわけでは全然ない。乳児の不分明さよりも自己(感)を主軸に発達の歴史を追ったほうが説明の仕方としてうまく整理がつく面があることは明らかで、伝統的な理論の中にそういう意味でのやや大きめの間隙が埋め込まれていたことは否めない。伝統的な理論は乳児ならではの不分明さに主軸を置くような傾向が確かにあり、そのことは発達論的な分析や観察のハードルを徒に上げた。スターンの思想は、分からないことより分かることから積み上げていくようなやり方で、実際主義的な清潔さがある。
 偽りの自己論に戻るが、ウィニコットは『本当の自己は、個人の精神機構がありさえすればあらわれてくるものであり、感覚運動系の活動の総和以上の意味はないのである。』(「情緒発達の精神分析理論」 p182)と述べている。スターンが述べる本当の自己は、否定された自己のことであり、感覚機構による私的自己とも分けて考えており、両人はほとんど根底から違うことを言っていると言っていいと私には思われた。
 あと、必ずしも外傷の時期にこだわらないスターンと現代的なトラウマ派との近親性も感じた。


追記(2021/10/14):
 なんと書名を誤記していたので訂正しました。「対人関係」→「対人世界」。私のIMEで「対人」と打つと「対人関係」と予測変換されて、そのまま決定して気付かなかったための事故でした。あしからず。

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 信頼すべき(?)Pete Walkerが著書内で勧めていたElan Golomb「Trapped in the Mirror」を今月23日に購入し少しずつ読み始めたのだが、個人的に非常に興味があるテーマ(自己愛)であるにもかかわらず、私の英語力とElan Golombのやや癖のある文体と他に日本語の書籍を読みたかったせいでのろのろとしか進めていない。
 「病的な」自己愛がいったいどこから生じるのかは重要な論点なのだが(自己愛そのものは誰にでもある)、Elan Golombは冒頭付近で親も病的なナルシシストでその非共感的な育児法が原因だと主張していて、彼女は後天的な意味での世代間転移を強く見ている論者なのかもしれない、と私はいまのところ思っている。今後の展開次第と言うか、まだ進捗が10%程度なのでどうとも言えない。
 コフートも非共感的な母親を出していたような気がする。怪我をした男の子の血が衣服に付着した兄/弟(無傷)の方だけを病院に連れて行った母親の事例を記述していたと思う。見捨てられた方が歪んだ形で誇大自己を発展させる。
 病的なナルシシストといえば、ウィニコットの「偽りの自己」論というのがあるのだが、それとの関係も気になる。最近邦訳(原書は2013年出版)で読んだスーザン・フォワードは「偽りの自己」論は時代遅れとして、脳血流のスキャン画像で説明しようとしていた。

 表面的に正気と狂気の境目を判断するだけなら、自己愛に限らず、現実検討能力の概念を援用するのがもっとも実用的な気がする。DSMなど専門家向けの様々な診断基準には一般人は深入りしないほうがいいかもしれない。あれは全体を知らないと対象領域そのものの位置づけができない。多分。

 本質と関係ないことだが、Elan Golombが引用している有名なマリー・アントワネットの「ケーキを食べればいいじゃない」はWikipediaによると当人の発言ではないようだ。


追記1(2021/03/01):
 うろ覚えだった箇所を訂正。
 コフートの事例は「自己の修復」内のM氏です。確かめると兄か弟かは不明だったので訂正。この出来事だけが原因なのではなく、母親の非共感性を象徴しているという扱いだと思います。


追記2(2021/03/05):
CIMG3345.jpg 自己愛関連の参考書のひとつとして読んだ、岡野憲一郎「自己愛的(ナル)な人たち」内で紹介されていた田房永子(漫画家)のプチ・ブームが私の中で始まっている。和書の多くを図書館に頼っているのだが、AMAZONの田房氏の著作に対するレビューも面白い。本来の読書の軸はあくまでElan Golombなのだけど、これのため速度は更に落ちている。
 私はNPDっぽい人を、便宜上、外弁慶型と内弁慶型に分けたりすることがあるのだが、田房氏の(著作内で描かれている)母親(像)は外弁慶的な面が比較的残っている人のような感じで、ある意味屈折の度合いが弱く、子供を破壊するような統制に発展しない分まだ救いがあるような印象も持った。社会的な挫折が運命づけられているとも言えるほぼすべてのナルシシストたちは、少なからず内弁慶的な面を持つようになると思うが、そちらのほうがより毒性が強いかもしれない。
 田房永子は、自分の母娘関係を描いたものが主要作品となり、漫画家としてそれ以外の分野への展開が可能かどうかわからない。商業的に厳しいかもしれない。
 自己愛的な母親に育てられるというのはCPTSDの典型的な成り立ちのひとつなのだが、やや他罰的な田房氏はPete WalkerのCPTSD4分類(Fight-Flight-Freeze-Fawn)でいうとFight型になるのだろうか?しかし今のところそこまで深刻な感じはしていない。図書館で予約している「キレる私をやめたい」を読んでから判断したい。


追記3(2021/03/16):
CIMG3351.jpg 図書館での予約の順番が回ってきて、田房永子の「キレる私をやめたい」を読んだが、彼女にはある程度の他罰傾向はあるのかもしれないが、ゲシュタルト・セラピーなるもので短期かつ劇的に改善したらしく、ある意味その程度だとも言えるのかもしれない。作中で紹介されているゲシュタルト・セラピーのコア概念である「今ここにいる」はまさにマインドフルネスそのもので(別に禅や森田療法から入っても似たようなことで)、特筆すべき何かという感じはしなかった。CPTSDとして捉えた場合、フラッシュバックがどこで起きるかみたいなことに注目したいわけだが、トリガーをめぐる過去や内面に関する詮索はあまりなく行動化の描写が優先される(漫画の性質上仕方ないのかも)感じでいまいちよくわからなかった。作中に登場する岡田法悦氏の「心-状況」の対立図式的な説明は、よくある共感性をめぐる議論とほとんど相似である。
 過干渉が親の中での何かに対する怯えから来ているのではないかとの田房氏の主張が印象に残った。何かとは、他者性みたいなことだろうか。


追記4(2021/03/23):
 上記いまいち感について自分なりに解説。
 Pete Walkerのやり方だと、フラッシュバックからの詮索で過去のトラウマ的状況を特定してそれにGrieving(嘆きや怒り)を付与しインナーチャイルドを再生するみたいな流れで、フラッシュバックがあるとむしろ問題となる過去をたぐり寄せるチャンスだくらいの捉え方だと思う。フロイトっぽく言えばそこから徹底操作が始まるわけだが、田房氏の自己否定的なストレスからの暴発の描写で物足りなく感じたのは、要はその手順が始まらなかったからだと思われる。しかし、他の著作を含み合わせれば、彼女は詮索以降の作業をすでに別の機会にやっていたかもしれない。個人の体験を一般化するときは警戒が必要だ。
 自己愛的な母親が子に自己否定を強いるのはよくあるけれど、Pete Walkerはその種のストレスに対する防衛のタイプとして4Fs(Fight-Flight-Freeze-Fawn)を設定している。この分類は微妙な面があり、4つが単なる同次元のバリエーションというわけではなく、Freeze型が他より重い症状のように叙述されていたりした。Fight型は自己愛的な表れとされるので、母親も自己愛的な場合、(病的)自己愛の転移が世代間で成就した恐れがある。


追記5(2021/04/09):

If a person treats his child as an extension of himself, the child does not feel like a person and the narcissistic problem passes on to the next generation.

Elan Golomb. Trapped in the Mirror (p.165). William Morrow. Kindle 版.

 私訳:『我が子を自分の延長として扱えば、その子は一人の人間としての感覚を持てず、自己愛の問題が次の世代へと受け継がれる。』

 Elanは繰り返し親から子への病的自己愛の伝染を主張する。
 「Trapped in the Mirror」はやや重いというか暗い雰囲気の作品である。彼女の比較的単純な主張に沿って、紙幅を圧倒するように彼女自身の親族を含めた非常に多くのネガティヴな事例や出来事が提示されるのだが、(恣意的に)切り取られたそれらは何らかのさらなる背景があるに違いなく、またそれぞれ明快な解決に至るわけでもないので、読むに伴ってどうしても暗い澱のようなものを印象に残す。
 久しぶりの再会でElanが長く連絡を取らなかったといって頬を叩き、彼女が大学を卒業したときにもなぜか叩くおば(父親の姉妹で本人は教育機会に恵まれなかったらしい)が異様な印象を残す。作中頻出する父親も奇妙な自己愛的な人で、Elanが親族ネットワーク上の病的自己愛の伝播に固執する理由が伝わってくる。

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 Amazonで一年以上前に買ったPete Walkerの「Complex PTSD: From Surviving to Thriving: A GUIDE AND MAP FOR RECOVERING FROM CHILDHOOD TRAUMA 」だが、概説にあたる第一部(全体の前1/3まで)はすぐに読んでかなりいい本だとは思ったものの、構成的に第二部が同趣旨の掘り下げだということで、なんとなく訝って長いことうっちゃっていた。
 去年末から今年1月末あたりまでの読書の仏教ブームが頓挫したような感じになったため、それを補うような感じで本書の続きの第二部をそろそろと読み進め始めたのだが、思いのほかというか、読み始めると極めて面白く一日10ページ前後をほぼコンスタントに読み進めて昨日の20日には全335ページを読了してしまった。
 Pete Walkerも本文中に何度か言っていることだが、CPTSDと愛着障害は内容として双方がかなりオーバーラップしている。私としては、これに旧来の対象関係論の一部を加えて、それらは全てほぼ同じことを問題にしていると言っていいのではないかと思ったりした。
 いったい何にそんなに感銘を受けたのかは、個人的な事柄とつながるので詳述するつもりはないが、どこかの出版社がぜひ邦訳を出すべきだ。というか、本書は2013年の出版なのですでに邦訳が出ていないことがおかしい。
 ただ、ネックはいくつか予想はできる。日本でCPTSDの概念がこれまで全く広まっていなかったこと。Pete Walkerが医師ではないこと(彼は日本で言えば心理療法士にあたると思う)。もう一つは僅かではあるがキリスト教的な風情が漂っているということだ。例えば、

I want God's love, grace and blessing.
(p.314)
のような箇所での「神」は一般的な日本人が想定する多神教的な(あるいは自然信仰的な)神とは意味が違う。こういう箇所は訳しづらいか、直訳したとしても伝わらない。本書は大まかに心的断絶のためのテクニックを伝授している面があるので、内的な孤独に耐える決意をする個人と一神教による超越神という組み合わせは非常に相性がよくしっくり来る。例えばこの「神」を大黒様とかに読み替えると、たぶん意味をなさないだろう。
 しかしそれでも邦訳を出版すべきだと思う。Pete Walker自身がCPTSDであるとの前提で話が進んでおり、その上で彼が(心理療法士として)診ているクライエントの諸事例が交差する、CPTSDの生々しさが理解できるだろう。

 Pete Walkerの本を読み進めながら、この時間がずっと続けばいいと思うような感じがあった。しかし終わりは来てしまった。実社会の普通の人々はPete Walkerとはかけ離れた視座で行動し生きている。また、Pete Walker自体も本当は個別の読者のことなど知らないから、彼は読者各々にとっての理解者と言うより、一般論として問題を認識している人と表現したほうがいいかもしれない。無論、そういう人物がこの世界のどこかにいると思うだけで随分違うことだが、読書の魔法から醒めるとそこには荒涼とした現実が広がっている。

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 私はたぶん仏教徒ではないと思うのだが、去年末からずっと仏教関係の本を断続的に読んでいる。
 きっかけはどの時点に取るかで難しいが、もともと英語圏の新し目のメンタルヘルス本に「マインドフルネス」という概念が頻出して、それが仏教あるいはヨガから来ていると知ったこと。その後、私的・岡田尊司ブームのときに森田療法が紹介されていてそのベースが禅であることを思い出させられたこと。自分の本棚を見ると岩波文庫のスッタニパータがあったのでふと読み返したこと、等が挙げられる。
 仏教は托鉢を経済的基礎としていて、このことが共同体により事後的に与えられる「無償の愛」の反復のようにも見えるが、これは様々な意味で微妙な側面を持つと思う。たいていの宗教組織が寄付により成り立っているとしても、現世を拒絶しながら自己の再構築を目指す仏教を支えているのが現世側だということは原初的な欺瞞のようにも思える。修行者個人の(対象関係の)傷は共同体の気まぐれな施しからは修復できないかもしれない。ブッダは王子なので、乞食姿で近所を通りかかられればなにか寄贈しなければならないと沿道の人は(ある種の恐怖心から)思うかもしれない。もしそうなら与えられた粥には身分差別による反動が含みこまれている。
 生後すぐに実母と死別したとされるブッダは、対象関係(or愛着スタイル)が壊れている可能性が低くない。


 仏教は親子の情愛を軽蔑している面があると思う。
「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かなものは悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
(ダンマパタ 第五章六十二 )


 他に修業によって恐怖が克服されるとも記述される。

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
(ダンマパタ 第十章一二九 )


 対象関係あるいは愛着スタイルの世代間転移を想起させる。

しかしこの世でその愛執を捨てて、移りかわる生存に対する愛執を離れたならば、その人はもはや輪廻しない。その人には愛執が存在しないからである。
(ウダーナヴァルガ 第三章十三 )


 かなりの極論である。

それ故に、愛するものをつくってはならぬ。愛するものであるということはわざわいである。愛するものも憎むものも存在しない人々には、わずらいの絆は存在しない。
(ウダーナヴァルガ 第五章八 )


追記(2021/02/21):
 その後、維摩経(およびその参考書)とか読んだりしていたのだが、大乗仏教あるいは日本仏教に対する懸念が湧いてきて、仏教ブームは先月末には一旦休み。
 そのうちまた興味が向くかもしれない。

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 今月初旬ころにダニエル・カーネマンの『ファースト&スロー』を読んでいたのだが、読後感が非常によろしくなかった。カーネマンの主張が説得的じゃないからなのだが、なにしろノーベル賞受賞者なので、権威と内容の曖昧さとの齟齬がストレスをいや増しにする。読み始めは、陳述記憶と非陳述記憶のメタファとして主張を展開しているのかな、とか思ったりもしていたのだが、なんか違う感じで、どんどん暴走的になってゆく感じだった。私は臨床心理学以外の心理学にはさらに詳しくないので、世界的な権威を背にして大著で真偽不明の暴論を押し込まれると、読者として情報の処理に困る。なにかおかしいと感じているのだが反論のための土台をもたないような状態にされるのだ。そのため、読み終えた後もフラッシュバックのようにムカムカ感に襲われ不愉快だった。
 しかしながら、ふと検索するとネットに、カーネマンの主張に対する専門的な批判は拍子抜けするほど容易に見つけることができた。すばらしいが、逆に言えば、ネットのない時代にこういう書物で権威的に暴論を押し込まれると一般人が抵抗するのは大変だったと思う。疑念に明瞭な形を与えるだけでも自分でかなりの勉強をしなければならないことになる。
 心理学の実験に高次の解釈を与えることは厳に慎むべきだと個人的に思うが、たいてい高名と言われる心理学者はその禁を犯している。例えば有名なセリグマンの犬の実験もあれが本当に何を意味しているのかについて、留保されるべきだ。あと、彼ら自身に「ある種の傾向」があるような気もしている。


追記(2020/12/31):
 うーん...。

(前略)経験という言葉は人間において最も十分なる意味を示しているものであると言えるのである。犬などが人から打たれて恐ろしいと思って逃げるのはそれは犬の経験であるが、こんな経験には反省が伴わないのである。したがって何の意味もない。人間の場合はこれに反して、もっともっと深広な意識の根底の上に立つ経験が可能になっているものである。
(鈴木大拙 「禅とは何か」 角川ソフィア文庫 p9 )

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CIMG3227.jpg 岡田尊司の著作を集中的に読んでいる。
 アタッチメント(愛着)は対象関係論でもよく出てくる話題だが、より推し進めて、アタッチメントを正常化することで様々な疾患が治ると主張する作家の代表格が京都医療少年院で診ておられた岡田尊司氏。
 少年院での治療費用は子供たちが支払うわけではもちろんないわけで、間接的ながらも「無償の愛」としての代理安全基地がまだ成り立つ時期である。岡田氏はこの「愛着アプローチ」が成人患者にも効くと主張しているのだが、その点、やや留保的な印象を持った。
 患者の主観的世界を一方的に受容する態度はコフートのやり方に似ている感じがした。同時に彼の変容性内在化に到達させ得なかった症例が思い出される。
 あと、本格的な精神病などでこのやり方で間に合う感じがあんまりしなかった。
 しかしながら、仮に劇的に効かなくとも、(家族関係を起源とする)問題の本質を大づかみするという意味で、「愛着アプローチ」は知っておいて損はないかも。回避性人格障害や境界性人格障害、自己愛性人格障害等がたびたび言及される。
 アタッチメントはその人物の幼児的全能感の保管庫のようなものだと思う。真の実態が幻想なのだとしても(!)、その幻想がないと大抵の人は前に進めない。


追記(2020/07/23):
 調べるとネット上には岡田氏への批判があって、さもありなんという感じなのだが、一応擁護のようなことをしておくと、「反応性愛着障害」や「脱抑制型対人交流障害」のような公的な愛着障害の概念を独自に敷衍していることは、彼自身が著作の中である程度説明している(少なくともそういう箇所がある)。もちろんそのような拡大が正しい行為かどうかは是非があるのだろうが、私は読み始めに手持ちのDSM5と比較し明らかな個人の主張と認識していたので、当初よりそういう立場・思想の人なのだろうという受け止めである。
 愛着対象の代理としてカウンセラーを据えるやりかたは、誰が考えても依存を生む。一生責任を持つような心構えを岡田氏は披露していたが、治療は経済行為でもあるのだから見方によっては白々しく感じなくもない。
 あと、こじれた親子関係を仲裁・適正化することが、彼の著作上に繰り出す症例のようにうまくいくのか相当訝しい。
 ただ、私は、岡田氏を詐欺師のように表現することには(今のところ)賛同しない。愛着の形成や様式あるいはその発展の仕方が人間の精神に致命的な影響を与えるという主張には、大づかみの論理的一貫性があると思うからだ。


追記2(2020/08/03):
CIMG3232.jpg 愛着理論の確立者であるボウルビィを読んだほうが早いかも(ただし訳はあまり良くない)。


追記3(2020/08/22):
 追い岡田尊司をしているのだが、『ADHDの正体』(p45下段真ん中)の記述が意味不明で、もとの論文に当たると、おそらく不注意型のパーセンテージのことを岡田氏が誤解されているのだと思う。全文を見れば結果をまとめた表があり、51.7%なのは子供時代もADHDだった大人ADHDが不注意型である割合であり、54.1%の方は子供時代にはADHDでなかった大人ADHDの中での不注意型の割合であると思われる。


追記4(2020/09/20):
 岡田氏の著作を第二波的に読んでいて、今図書館で予約してる「死に至る病」で7月から数えて18冊目になるのだが、未だに岡田氏の印象は微妙なままである。しかし刺激を受けるという次元ではポジティヴな印象を持っている。


追記5(2020/09/26):
 なんだかいつもとトーンが違う。

 自己肯定感を持ちなさい、などと、いい年になった人たちに臆面もなく言う専門家がいる。が、それは、育ち盛りのときに栄養が足りずに大きくなれなかった人に、背を伸ばしなさいと言っているようなものだ。
岡田尊司『死に至る病』(p20)

 

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シャーンドル・フェレンツィ『臨床日記』(みすず書房)

 シャーンドル・フェレンツィは昨今のトラウマ派の草分け的存在で、外傷分析への傾倒を放棄したフロイトに反旗を翻したフロイトの直接の弟子。
 以下は抜粋で、※印は私の注釈。


p131
この容疑〔※分析をする側がその過程でサディスティックな満足を得ようとするのではないか〕を立証し実証するものとして、フロイトが、明らかに私の口の固さを計算に入れてのことだが、私の前でもらしたある発言を思い起こさねばならない。「患者どもはろくでなしだ」。患者のよいところは分析家を生かしてくれることだけで、分析家の研究材料だ。われわれ分析家が患者を助けることなどできない。治療へのニヒリズムと言うしかないが、それでもこのような疑念は口にせず患者に希望をもたせれば患者は網にかかるものだ。


p255
〔※『エディプスコンプレックスの見直し』というタイトル内〕両親への固着、つまり近親姦的固着が、自然な発達の結果とは思われず、外から心に植え付けられたもの、つまり超自我の産物である症例はけっしてまれでないが、本例もその一つだろう。


p269
息子が成長すれば父は死なねばならないという不安感が無意識内で非常に強くなっていたと考えれば、いずれかの息子を自立させることへの彼の不安を説明できる。それと同時に、かつてフロイト自身が息子として父親を殺したかったという事実も指し示している。これを認めるかわりに父殺しのエディプス理論を打ち立てたが、どう見ても、それを当てはめたのは他者だけで、自らに向けることはなかった。自らを分析されることに不安があったのはそのためであり、文明化された大人に今も原始的本能衝動が存在することはなく、エディプスの病は麻疹みたいな子供の病であると考えるにいたったのもそのためだろう。


p271
要するにFr〔※フロイトのこと〕が心的外傷理論に反対するのは、彼自身の弱さを洞察することへの防衛手段である。


p274
性的能力をもつ人である父親の去勢が、自ら経験した屈辱への反応として起こったことが一つの理論構成へ彼を導き、父親は息子を去勢し、それ以降は神として息子に崇拝されるということになった。彼の態度を見ると、Fr〔※フロイトのこと〕は去勢する神の役割を演じるだけで、自身の子供時代の去勢という外傷的瞬間について何も知ろうとしない。彼は分析を受ける必要のない唯一の人間というわけである。


p304
近親姦タブーの厳格さが近親姦への固着の原因か〔※というタイトル〕

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 『トニー谷、ざんす(村松 友視)』を読んだのだが、期待したものと違った。
 私は主にトニー谷の生い立ちに興味あったのだが、著者が眠たげな芸人論を長々展開して紙幅を浪費したりして、継父による虐待に関することなどほとんど何も分からなかった。その他においてもWikipediaのトニー谷のページのほうが詳しいくらいだ。こんなぼんやりした随想めいたものに対して、取材及び出版の機会が与えられたり原稿料が発生していた時代があったのだと、なんだか遠い別の星を観るような思いがした。奥さんへの取材の時などもっといろいろなことが聴けたはずではないのか。
 社会常識に優越する欲望の肯定とか散乱する興味のベクトルとかは、例えばある種の発達障害にありがちな特性かもしれないが、そういう視角においても有意義だと思われる踏み込んだ情報はなかった。ダンスのセンスはあるがスポーツの運動神経はなかったという奥さんの述懐が多少気にかかったくらい。

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img433.jpg 祭司ロドリゴが、転向した師のフェレイラと再会し日本語で会話するシーンで、小学生くらいの頃にやはり一度は「沈黙」を読んだことを思い出した。そのシーンで抱いた不自然さの感覚が蘇ってきた。しかしもちろん、ポルトガルからやってきて日本に潜入するロドリゴがたいした障壁もなく日本語(しかも長崎弁)を理解する「感じ」で最初から描かれており、かといって日本語のまれな熟達者という説明があるわけでもなく、さらに後半では幕府が彼のために用意する通訳が登場するのだが、錯綜しているように見える設定の辻褄は読者の想像のうちに合わせてくれということなのかもしれないけど、ここは多少なりとも忍耐を要求すると思う。

 ロドリゴが踏み絵を踏んだのは、おもには、彼への連帯責任のような形で拷問にあわされている信徒たちを祈りでは救えない(神は沈黙していて奇跡を起こさない)と断念したからであり、この断念が「奇跡の不存在」の確信を意味するわけでは全然ないとしても、彼の信仰からある一般的な無邪気さを切除するかもしれない。しかし、迫害と殉教者に満ちたキリスト教の長い歴史から見て、この断念はどの程度の「負い目」だろうか。

 眼の前の踏み絵が、(聖画として)異教徒が作ったまがいものであり、しかるにそれを踏んで信徒たちを救うことはキリスト教的な倫理にまったく整合し、ロドリゴの信仰における元々の立場にもなんらの異変が生じているわけではないとしても、現に「それ」を踏んでしまった事実の生々しさが彼の宗教的な純粋さをいやらしく腐食させ、戻れない孤独に陥れてゆく。
 一昨年のクリスマスにも書いたけど、キリスト教は偶像崇拝の否定について一定の欺瞞というべきか自己矛盾を抱えていると思う。そしてそれは、(キリスト教だけがどうとかいう問題ではなく)人間の抽象化能力の限界みたいなものと関係しているかもしれない。母子像やイコンやロザリオに本質的な意味があるわけではない、と宗教者がいくら説いたところで、人々はそれを求め愛着しようとする。そのぬぐいがたい物体性への希求みたいなものが、それを理論的に乗り越え得たように思い過ごしている誰かにおいてすら、逆流し、たとえば「踏んだ足」に心身症のような痛みを生じさせるかもしれない。

 いわゆる、日本に入ってくる様々な宗教が奇妙な「日本化」を遂げて変質してしまう、というテーマも伏流のようにして主張されるのだが、海にしつらえた杭にキリスト教徒たちを縛り付けて潮の満ち引きで衰弱死(水死?)させる処刑方法にもその意志が象徴されていると思う。
 自然が、人による超越的な措定をすべてかき消してしまう。
 言葉が自然を乗り越えない。
 たぶん、日本人の自然への畏怖は、自然に対する感謝と裏腹だ。だから単に自然に超越性を認めて怯えているのではなく、ある倫理性を帯びている。もっと言えば、そこからの自動的な恩恵がなくなった時日本人の精神性に根底的な変化が訪れうるのではないかと思うが、幸か不幸か日本の風土はかなり恵まれている。


「パードレ、お前らのためにな、お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。見い。血がまた流れよる。何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる」
『沈黙』(p211 新潮文庫)

遠藤周作


追記(2015/12/27):

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
JHON 1:1

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 私はモノアミン仮説(いわゆる鬱病のセロトニン仮説などを含む)を元来あんまり信じていない。理由は単純で、精神疾患によって神経伝達物質の多寡が仮に特徴的にあるのだとしても、それはある種の表象であり根本原因ではないのではないと思うからである。例えば、ここに汗をかいている人がいるとして、なぜ汗をかいているのかは極めて多様な原因が推測される。お腹が痛いというのでもまぁ同様である。それらは仮に病によるものだとしてもその「症状」でしかないだろう。
 統合失調症患者のドーパミンの分泌が特徴的に過剰であるとする説も、モノアミン仮説の一種なのだが、その程度のドーパミンは健常者でも普通に分泌される時があるのに、別に誰も統合失調症のようにはならないのであり、それでドーパミンを統合失調症の限定的な原因物質とするようなことを言われても、なんというかファナティックな情熱にでも頼らなければそんなものなかなか認めがたい。
 しかし日本でも、NHKや朝日新聞やタレント精神科医などがこのモノアミン仮説を盛んに広めてきた。私はどこかで嘘っぽいなぁと思いながらも、個人的にハードな反証があるわけでもないので、個別の事実としては話半分的に受け入れたりしながら、微妙な距離をとってきたと思う。以前このブログで懐疑論者の著作を紹介したこともあったが、私個人として否定論者として完成された認識を持っていたというわけでは必ずしもない。
 で、モノアミン仮説の斜陽というか、最近さすがにうるさく聞かなくなってきたなと感じていて、逆にどういう成り行きがその後生じていたのか知りたくなって、多少ネットで検索していた。それっぽいとされていたのが京都市図書館ネットワークにもあったので以下の2冊を借りて読んでみた。

・『クレイジー・ライク・アメリカ』イーサン・ウォッターズ
・『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』ロバート・ウィタカー

 『クレイジー・ライク・アメリカ』、要は精神医学の比較文化学(!)なのだが、それが人類にとってあまりにも未開な分野すぎて、何かにつけアメリカをモデル化したがる日本を含める後進国(アメリカの文化的ストーカー?)全般に対する気持ち悪さを素朴に表明してるだけのように、思えてくる感じ「も」あった。アフリカの呪術的な現象を短絡的に統合失調症として話を進めたり、拒食症に過剰な実体性を見ている感じがあったりと、なかなか微妙な面もある気がしたが、基本的に不真面目な本というわけではなく、香港やアフリカや日本の精神医療の実態の(アメリカへの)追尾性について縷々述べている。
 肝心のモノアミン仮説の虚構性については後半にちょろっと出てくるだけなのだが、それなりにまとまっている。該当箇所の一部を抜粋してアップしておく。(画像のp280冒頭に『モノアミンはセロトニンのサブグループ』という表現がありますが、本当はセロトニンが属するサブグループと言いたかったのではないかと思います。モノアミン類は、神経伝達物質の3つあるサブグループのうちのひとつで、セロトニンはさらにそのモノアミン類に属しています。原文にどう書いてあるのか不明だけど、あの訳文を読み流すと意味が通らないかも。)

 『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』は、これでもかこれでもかという感じでモノアミン仮説(あるいは精神の化学的解釈全般)の否定につながる論文を紹介し続けるような本で、興味が無い人は相当きついとは思われるのだけど、私は約540ページを約2日で読み通しました。特に著者が「本気」だと思うのは、よく探したというか、列挙されてる研究のほとんどがちゃんとした素性のものであるということで、製薬会社の資金によらず、NIMH(アメリカ国立精神衛生研究所)などからの公的資金によって書かれた論文や、ハーバードのような名の通った大学で行われた研究を中心に、彼の論拠となるものを拾いだしている点にある。
 しかし、この辺り、著者に致命的な落ち度があるとすれば、モノアミン仮説「肯定」論者の論文や研究をほぼまったく紹介していないということがあると思われる。モノアミン仮説を否定している論文の信頼性を高めるだけでは、この戦いにおいては、必ずしも十分ではないかもしれない。
 まず鬱病者のセロトニン分泌が健常者よりも少ないという前提そのものを論拠を示して否定しているのだが、仮にセロトニンの再取り込みを遮断しても、受容体が鈍麻して生体反応(ホメオスタシス)として人体がバランスを取ろうとしてしまうのであり必ずしも目的の効果が得られない上に、投薬が長期化した場合に生体そのものが変化して離脱(薬をやめること)が極めて危険になる場合があると主張する。確かに筋の通った話で、SSRIに「適応」してしまった体からそれを奪うと、急に後ろからはしごを外すようなもので、当たり前の処理すら薬なしでできなくなっている体を地面に叩き落とすことになるだろう。また症状が良くなったとされる率もプラセボの場合とほとんど変わらないという主張も、従来から言われているが、典拠を示して繰り返している。
 ADHDの原因が先天異常であるというのは実は必ずしもはっきりしていないとの主張や、長期投薬者が短命であるとの主張も印象深い。精神薬の効果を疑問視させる様々な動きについて年表のようにまとめている箇所があるのでアップする
 こういう問題に膨大な労力と知力を傾ける著者の激しい情熱のありかがどこにあるのか不思議に感じるところもないではない。正義心とかジャーナリスト魂とかあるかもしれないが、正直この手の本における製薬会社陰謀論はもはやほとんど陳腐化しているモチーフでしかないと思う。それくらい有り触れているのだし、これだけの知力のあるジャーナリストがとらわれるにしては単純すぎる。この著者は言い尽くされている地平をさらに厳しく掘り下げるような努力をこの著作でしているのだ。
 ある統合失調症と診断された若い女性が、たまたま通い始めたキリスト教会のメンターのような男性と出会い(のちに結婚)離脱に成功する逸話が著者の内的な核心だったかもしれない。女性はその男性に「自分を統合失調症だと思ってはならない」と言われて雷に打たれる。そして医師の処方による薬のカクテルの摂取を一切やめる決意をする。離脱後ダイエットに成功した彼女の容姿を、著者がとても美しいと唐突に褒める箇所がある。比較的テクニカルな内容の本書で著者の感情的な部分が吐露されているこのような部分に本心が宿っていると捉えるのは深読みだろうか。キリスト教の自然主義的な側面というべきか、薬によって歪められないありのままこそが神に与えられた人間の本来の状態であり美でありうるということかもしれない。

 日本で反精神医学というと、精神医学の科学的な無根拠性をさかしらに指弾しているだけというようなイメージもなくはない(なにもないところに手探りの努力を積み重ねているだけだからそんなもんあるわけない)。しかし本場の反精神医学には、それとはまた次元を隔て、キリスト教の人間把握を精神医学が提供しようとするそれに対し優越させようとする原初的な情熱が働いている面があるような気がする。
 一般の人々は単純な答えを欲する。あるいは単純な答えがどこかにあると思い込みたい、そのほうが安心だから。しかし現実にはないのだ。製薬会社はそれらのことをよく知った上で倫理的に綱渡りのようなマーケティングを日々しているのだと思う。製薬会社のグラクソ・スミスクラインはパキシルの服用等による自殺率の上昇に関して以下のように述べている

抗うつ薬と自殺との因果関係をはっきりさせることは極めて困難な問題です。先に述べたとおり、若い年代の患者さんでは抗うつ薬での治療中に自殺行動が起こるリスクが高まる可能性が示されていますが、うつ病という病気そのものに重大な自殺の危険性がある上、他の考えられる多くの要因が存在するためです。
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